Seicho no genkai o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
(1973)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
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68 ウィリアム・トンプソンウィリアム・I・トソプソン (Willam I. Thompson) 教授は、カナダのトロントにあるヨーク大学で人文科学を教えている。 一九三八年、イリノイ州シカゴで生まれた。カリフオルニア州のボモナ・カレジに学び、一九六六年、イサカ (ニユーヨーク州) のコーネル大学から博士号を取得した。コーネル大学、MITで教え、現在はヨーク大学に在籍している。その厳いMITモデル批判は、最近著『歴史の角に立ちて』At The Edge of History(Speculations on TheTransformation of Culture), 1971 の第三章 ("GettingBack to Things at M.I.T") に要約されている。最近では、「二ユーヨーク・タイムズ』や種々の雑誌に多数の記事を書いている (例えば「ハーパーズ」一九七二年九月号、「制度としての個人」) 。
あなたは、エリック・H・エリクソンGa naar eind〔註1〕に同意されますか。彼は, 人間はもはや、自分自身の「本性」にっいて、あるいは、人間という種のそれについて、あるいは、種という点でいえば、人間が自分の敵を称していう「擬似種」について、幻想を抱くというぜいたくは、許されないのだと言ってい衷すGa naar eind〔註2〕。
私の考えるには、地球の絶減の脅威はある応答を生み出していますが、トインビ ーGa naar eind〔註3〕が「挑戦と応答」と呼ぶものが、まさにそれにあたります。われわれが現実の本性について抱いている幻想は、産業・管理社会期の古いタイプのものの一部です。すなわちそれは、自然とは死んだものであり、人間がその意志を押しつけることのできるものであり、自然は空虚なものであって、それを開発して、駐車場にでもトーキョーにでも、その他何にでも変えることのできるものだという幻想です。しかし、これとは異なった文化の方向の中に入っ てゆくにつれて、われわれは、自然、精神、自我、社会などについ | |
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ての根本的に新しい概念を生み出しつつあります。これは、人間の進化における量子的飛躍の問題です。 例えば、産業社会が抱き続ける古い幻想の一つは、世界を自然-これは死んだ、惰性的な物質です-と意識とに分割することです。意識は主観的であり、非現実的であり、単なる感覚で満ちています。感覚は決して信用できないものでした。なぜなら、感覚は現実的ではないからです。感覚は、森は美しく保存されるべきだと告げるでしょうが、経済的現案は、そこに実現しうる利潤があることを示しました。それゆえ、人間は、産業社会においては、自分の感覚、自分の肉体、下層諸階級、貧困問題と いったたぐいのことば無視して、勇敢で男性的な道を歩み、可能なところならどこでも現実を開発するよう、訓練されたのです。しかし、今日では、現実が物質と意識とに分かれているという幻想は絶対的に誤っていることは明らかです。質量、エネルギー、そして意識コンティニユウムは、むしろ一つの連続体として存在しているのです。 この連統体の巾は自由に行ったり来たりできます。意識は、今や、質量に直接的な影響を及ぼしうるのです。われわれがこのことを発見したのは、人間がふつうにするやり方ででした。すなわち以前の考え方が否定されるという仕方で、発見したのでした。例えば、地球をとりあげてみましょう。明らかに、汚染という形で現われる負のフィードバックがあって、われわれが地球を破壊しつっあるのだということを告げてくれます。われわれは、自分たちが自然に対してある影響を及ぼしているのだ と知ることができます。なぜならば、われわれはそれを毒し破壊しつつあり、しかもそれがわれわれ自身を破壊する点まできているからです。それなのに、われわれはまだ、これこそが反対物が連続して存在する状況なのだということに気づかないでいます。それでも、意識から自然へのフィードバックの存在は知っています。これをわれわれは文化と呼んでいます。今や、より積極的なしかたで、われわれは新たな地球文化の出現をみつけ出すことができます。その文化は、心と自然との関係を完全 に方向転換させているのです。 ホビGa naar eind〔註4〕の古代文化では、念力を集中することによって、砂漠にトウモロコシを栽培することができました。ユーリー・ジェラーは、イスラエルから来た心霊術師ですが、現在はアメリカのいろいろなシンク・タンクや科学研究施設で働いており、例えば二ューヨークのファインパーグ研究所の生理学者が満足するような確かさで、 | |
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念力をもって金属の棒を振り.曲げ、折ることができることを示しました。その実演は、ケント州立大学の学長室でも行なわれましたし、ニューヨークでも行なわれました。現在、カリフォルニアでその研究が進められています。これはいったいどういうことでしょうか。それは、精神と自然との関係についての従来の観念とは根本から矛盾します。しかしながら、科学者たちは、五〇年ばかり前に、物理学の量子理論で、観察者が観察対象と交互作用すること、また、どのような科学においても、 自然に対する精神の関係を現実的なものとして考慮に入れなければならないということを示しました。ところが、産業家たちは、たえず科学を歪め、「それは嘘だ」と言ってきました。彼らにとっては、自然とは経済なのです。つまり、自然とはまったく死んだものに他なりません。すばらしい理論や量子力学は無視きさるべきだというのです。われわれの問題は、ヒューマニストたちが十分科学的でないということではなくて、権力のために科学を応用し利用する人々が、自然とはほとんど関係のな い一種の管理技術を創り出すために、科学を機し、科学自身の含意をまったく無視している、ということなのです。 人々が、科学を応用して、入間の文化の問題を解決することを語るとき、例えばスキナーGa naar eind〔註5〕あるいはデルサイコ・シピヲイズド・ソサイユテイーガー ドGa naar eind〔註6〕の「心理的に文明開化された社会」がそうですが、彼らは、科学のこの種の悪用を相変わらず続けているのです。産業・管理社会の構造の中に制度化されているような科学は、人間の文化に対する大きな脅威です。なぜなら、人類史上初めて、われわれは、エリート集団が人間の文化を管理・行動科学で置き代えようとしているのを見ているのですから。それは、産業社会の不可欠の構成部分なのです。例をあげてそのこと説明しましょう。 産業社会が、一八五一年の世界大博覧会によって、自分の力に初めて祝杯をあげたとき、ロンドンでは、ハイド・パークの木をどうするかという問題で大混乱がおこりました。彼らは結局、木を切り倒すことはせずに、木を被う、鉄とガラス容器を構築することに決めました。ここで、事実上、無意識のレベルで生じたことは、人間の文化が、初めて「文化で自然を囲もう」と言ったということなのです。
それはマクルーハンGa naar eind〔註7〕主義しょうか。
実はヘーゲルGa naar eind〔註8〕です。マクルーハンよりも前のことです。マクルーハンは決して、それがへーゲルの功績だ | |
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とはいおうとしませんでした。しかし抜け殻になった環境が、新たな環境のもとでは、芸術作品になるという弁証法は、ヘーゲルのものです。今、スタンフオード研究クウイシス・マホジメコノト所では、危機への対処と、未来を予想する方法について研究しています。文化を変遷させる力は何か、価値体系、動機づけ、人間の神秘的イメージなどが、人間の行動と人間同志の相互関係をどのように決定するのか、といったことが問題になっています。この研究の目的は、より大きな構造-「マネジ メント」と呼ばれる-を創造することです。この「マネジメント」科学を通じて、科学は、人間のイメージや文化の機能のしかたをより良く理解するようになり、そして、それに対するシステム分析的アブロ'チを取りうるようになり、「マネジメント」の構造の中に、これまではそれに無縁であったものをすべて取り人れることができるようになることでしょう。そのとき、文化は、行動科学の指示に従って機能することになるでしょう。
めなたは、スタンフオート大学のブラツトGa naar eind〔註9〕の仕事のことを語っておられるのでしょうか。
そうです。R・ブラットは、その完壁な例です。彼は善意の人です。これだけでは十分でないことは、善意の人々が幻想を持つことでもわかります。この幻想は、彼らが解決しようとしているものよりも大きな問題を生み出しうるのです。『われらがなすべきこと』におけるブラットのアプローチは、われわれは、一種の、地球の危機計画を持つべきだというものです。つまり、一種のマンハッタン計画です。問題を真に熟知しているあらゆる専門家を集めれば、彼らは、われわれに代わって地球の手 当てをしてくれるでしょうが、多くの場合、専門家は、われわれのかかえている問題を生み出した張本人なのです。これはちょうど、心臓移植によって人の体をいためつける医者のようなものです。この医者は、体がこれを拒絶すると、強力な薬剤を注射して、ひき続き体をいためつけ、遂には患者はほとんど死の瀬戸際まで追いやられるのです。この医者ば、いかなる時でも手を体あて、「人体ば調和のとれた有機的システムだ。私は実際には自分の治療行為によって、病気自体をしてこの体に敵対 せしめているのだ」とは、決して言わないのです。ブラットは、その古典的な実例です。彼は、古いパラダイとりこムの虜に他ならないのだと思います。「パラダイム」という言葉を用いるとき、もちろん私はトマス・クーンの | |
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『科学革命の構造』Ga naar eind〔註10〕を念頭においています。今や新たなバラダイムが出現しつつあるという明らかな証拠があります。このバラダイムにおいては、精神と自然との関係はまったく異なります。これを、別な面から説明してみましょう。 もし、自然だけから成り立っている、物質ばかりで精神のない宇宙があったとしたら、それは一種の、なめらかで中性的な、力学の法則に従って動くような宇宙でしょうが、いずれによ、これが大部分の人々の考える宇宙でもあります。地球上の精神というのは、宇宙のとるに足らない一隅にある、とるに足りない惑星の中で、塵から生まれた偶然の副産物にすぎないのです。もしこの物質的宇宙を前提し、そのシステムの中に、自然と自然の諸法則とを数学と科学によって意識するところの精神を 導入したとするならば、こうしてできた新しい宇宙は、もとの宇宙と同じものではありえないでしょう。なぜなら、今やそこには、それを意識する存在があるからであり、それは宇宙自体を完全に変えてしまうでしょう。それは完全に新しいシステムになるでしょう。心は自然に対してフィードバックを生じさせ、自然を変え始めるでしょう。われわれが自然に対する意識のフィードバックと呼ぶのが、文化なのです。この文化ですが、これは古いバラダイムにおいては、情動的なものであり、感覚で あり、あまり重要なものではありません。重要なのは文化の経済的・技術的・物質的基盤の方だというわけです。これがすベての社会科学とほとんどの自然科学に支配的な観念なのです。問題は、自然に対する文化のインバクトないしフィードバックは、非常に強力なものであって、それは実際に自然自体の構造をも変えられるのだ-例えば、核ェネルギーや核融合に示されるような程度まで-ということを、われわれが自覚しないか、あるいは環境危機によって、おそらく、ようやく自覚し始めたに すぎないということです。われわれは、その種のフィードパックを、地球全体の危機の中に見出しています。すなわち、われわれの文化が、今や汚染された大気の中に見えているのです。それは、以前には決して見えないものでした。われわれが、かつて文化を語る時には、それは、ある島とかある都市とかに帰属した文化のことでした。地球文化ということばは何の意味もなさないものでした。それゆえ、全地球的フィードハック-公害という負のフィードバック-によって、人々は文化が存在する こと、それは著しく強力なこと、そして、 | |
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もし十分注意しなければ文化は実際に自然を破壊しうることを、今、決定的に意識させられているのです。この意味で、人類の文化とは自覚の体系、数学と純粋記号の諸形態の体系、なのです。われわれは、いかなる物質的なものも物質自体の構造そのものに影響を及ぼしたり、それを変えたりはできないと考えています。しかし、それは現実の転倒です。宇宙の客体は宇宙の主体よりは重要でもなげれば強力でもないと言っても、ほとんど誤ることはないでしょう。なぜなら記号をあやつること によって、われわれは熱核融合により恒星を模し、有限な事物を変化させることができるようになったからです。もしそうだとすれば、われわれは製図板のところにたち戻って、こう自問すべきなのです。「よろしい、もし、精神の自然に対する関係がそれほど重要だということを認めるとして、どうしたら、この関係は最もよく理解できるのだろうか」と。ジョン・R・ブラットならいうでしょう。「われわれはあらゆる科学者を集める。なぜなら彼らは記号と数学の操作をよく理解しているからだ 」と。しかし、念力によって金属棒を曲げるイスラエルの心霊師のような、科学のパラダイムから外れた異常なものはどうするのでしょうか。テクノクラートや、経営者たちがこれらの異常を承認するとは私には考えられません。彼らニばは、それを拒んで、古いパラダイムは正しい、というでしょう。しかし、彼らは産業社会の虜なのです。彼らにできることといえば、ますます増大する政府援助をますます大きなシンク・タンクのために要求し、その結果、紙と複写機とが入り乱れる混乱がますま す増大し、データの無限の増幅が生じ、ついには情報の過熱で自らを焼きつくしてしまうことだけなのです。 環境を設計・管理 エGa naar margenoot+するというスキナーの理論はどうでしょうか。それでは問題は全然解決されないと思います。なぜなら、問題はもっと簡単で、もっと優雅なものなのですから。私は、文化が管理できるとは考えません。文化の設計・管理が行なわれるとぎには、文化の還元が行なわれているのです。われわれは、ある意味で常に、単なる社会構造について語っているにすぎないように思われます。文化は社会構造に還元できない何かをもアートっています。それは意識および技芸の諸形態なので す。いろいろな点で、質量・エネルギー・意識の間の関係を理解する、真に宇宙的な知覚は、例えば行動工学などのパラダイムには、あまり含まれていないのです。 私は最近、カルロス・カスタネダGa naar eind〔註11〕 The Teachings of Don Juan: A Yaqui Way of Knowledge, 1968. 邦訳『呪術/ドン・フアンの教え」真崎義博訳、二見書房 (一九七二年)。 A Separate Reality, 1971; Journey to Ixtlan, 1972. がある。これらの本は、人類学者カスタネダと、ファン・マトウスという、ソーラ (メキシコ) のヤキ・インディアソの神秘的な老人との会話を記している。 The Teachings は、現在 (一九七三年三月) アメリカだけで週一、六〇〇部売れている。また、「タイム・マがジン」一九七三年五月のカヴァー・ストーりーも参照。と話し合いまし | |
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たが、彼は、古代のヤキ 族Ga naar eind〔註12〕の思考方法、古代メキシコの魔術師の考え方についての、非常に良く知られた重要な本を三冊書いた人です。彼は、われわれを新しい地球文化-これまでは小文化の秘密の技術であったもの-に導入してくれるような、若干の秘教的思想家の一人です。現在、この地球文化に生じていることは、意識の転換のための古い、秘教的な技術-ホピ、インディアン、あるいは古代ブリトンさえも-が、皆、再び大衆に紹介されているという事態です。今後は、これま で極度に秘密にされていたことを、われわれが理解するようになるのです。カルロス・カスタネダの本についていえば、すでに五〇万の人々が、北部メキシコのひじょうに古いインディアンの秘蹟について読んだことになります。これはひじょうに意義深いことだと思います。この術師はドン・ファンと呼ばれていますが、このドン・ファンがわれわれに告げるには、問題は、われわれが死ぬとき、われわれは自分自分の全 体Ga naar margenoot+をもって死めところにあります。不幸にも、われわれは生きている時にも、自分自身の一部分、しかも小さな、とるに足りない一部分をもって生きているにすぎないのです。われわれは、自分の全体をもって生き、われわれの死の巨大さを生の巨大さと均衡させるすべを学ばなければならないでしょう。もし、これと同じことを、全地球的規模にまで膨らまして考えれば、次の五〇年間に (私はローマ・クラブの見解を引用しているのですが) 地球がそれ自身の全体をもって、死滅しつつある姿がみられることでしょう。アングロ=ダッチ石油やスタンダード石油のために、インドの村々や、その他至るところで人々が死んでいくことになるでしょう。なぜなら、空気が死ぬからです。ひとたび人類が衰亡しはじめれば、それは人類の全体をもって衰亡するりです。問題は今のところ、われわれは、われわれ自身の取るに足りない一部分をもって生きているにすぎないことです。われわれは今、少数のテクノクラートや経営者たちの、エリート 主義的な産業概念によって生きているのですが、これらのエリートたちは、全人類文化の広大なパノラマを、単一のヴィジョン、すなわち多国籍企業のビジョンで置き換えようと試みているのです。これは、文化の全体ではありません。皮肉にも、それは幻想なのです。それは、管理者のどジョンの延長です。多国籍企業は明らかに発展し続け、汚染し続け、そして産業のことばで思考し続けるでしょう。彼らはとどまることができません。自分の精神を変えることができませ | |
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ん。今登場しつつある若い科学者たちは、新たなパラダイムへと、あっさり信念を切り換えるでしょうし、まったく新たな科学革命をひきおこすことでしょう。若い大学院学生や科学者たちは、まさにこのことをなしとげつつあるのです。ウォルト・W・ロスト ウGa naar eind〔註13〕やハーマン・カーンGa naar eind〔註14〕といった、第二次大戦の兵士たちは, 経営的な趨勢を単純に外挿しているだけですが、若い科学研究者たちは、スーフィ 教Ga naar eind〔註15〕禅、ヨガ、心霊治癒術などに改宗しつつあるのです。これが、カルロス・カスタネダの本を読んでいる五〇万の人々なのです。これらの人々は、自然・文化・意識を、まったく新しい相互関係のもとにおこうとしています。この科学と神秘との新たな混合物には、デルガード、スキナー、ジョ・ブラットらの行動主義的アプローチよりもずっと、未来を約束するものがあります。問題は、これまで、われわれのように考えるものが科学において生得権を拒否され てきたということです。西洋世界においては、一七世紀以来の科学の伝統は真に宇宙的な意識をもった人々の、偉大な神秘の伝統です。私ばケプラーGa naar eind〔註16〕-彼は神秘家でした-、ニュートンGa naar eind〔註17〕-彼は、ダニエルGa naar eind〔註18〕の予言の計算や、エルサレムの寺院の測量に従事した神秘家でした-、バスカ ルGa naar eind〔註19〕、デカルトGa naar eind〔註20〕たちのことを考えているのです。これらの人々は、みな、今様に言うと「消されて」しまったのです。すなわち、これらのカリスマ的神秘家たちが、自分たちの生得権と遺産を残し、それを後継者がうけ継いだのですが、後者は前者のカリスマをルティーンと化し、凡庸な人々でも訓練しうるような諸制度を作り出したのです。この全過程を通じて、科学の偉大さは経営・管理的諸事象についてだけ発揮され、科学は宇宙的意識から経営・管理の発展や技術へと転化してしまったのです。このこと は当面はひじょうに有用でしたし、大英帝国を通じて科学の伝統を世界中に播き散らすには役立ちました。しかし今や、それが脅威となる点にまで到達したのです。われわれは、元の一七世紀-それをホワイトヘッドは天才の世紀と呼びました-の科学的伝統にまで回帰し、経営・管理的行動主義の他にも科学がしなければならないことがあるのだということを自覚しなければなりません。皮肉なことに、地球の危機の科学的解決のスポークスマンたちは、例えば、物理科学の基準でいえば、非常に悪い 科学者たちです。スキナーの哲学に含まれている科学理論をとりあげ、それを例えば自然哲学と対照してみれば、スキナーの諸前提は、信じら | |
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れないほど素朴で、きわめて一九世紀の機械論的で、例えば量子力学や、今日の最も進んだ科学思想とはほとんど何の関連もないことがわかるでしょう。最近でさえ、他によい表現のしかたを知らないのであえていえば、ひじように神秘主義的な方向をとっている偉大な学者が多数います。多くのヒッピ-の若者たちは、科学を、それが悪だという理由で拒絶しています。彼らが科学をながめるときには、産業科学を思いうかべ、スキナ-、デルガ-ド、ブラット、ハ-マン・カ-ンらをそこに見るのです。 これは悲劇です。彼らは、われわれの地球的問題への解決を、薬や何かのとりこになって、型にはまった放心状態に落ち込むことに求めているからです。もし彼らが消されてしまった神秘的・瞑想的科学の伝統について適切な教育を受けたならば、彼らにも人間の技芸および数学における最良の伝統同志の間には真の矛盾は存在しないことに気づくことでしょう。科学と神秘主義を、再び合一することを目標にすべきです。そのためには教育の形態を完全に変え、産業教育とは完全に手を切らなければ なりません。このゆえにこそ、私はMITをあれほど批判したのですGa naar eind〔註21〕。MITが責任を負わねばならない点があるとすれば、それに科学とは機械的で実証主義的なものだという幻想をもったことに対してであり、また、利潤のために科学の中の創造的なもの、想像的なもの、空想的なものを否定しようと試みたことに対してです。われわれは神秘主義、心霊治癒術、念力等にみられる異常なものを集め、人間の新しいイメ-ジ、および質量・エネルギー・意識の相互関係の新しい意味を確立しなければならないのです。これが現在進行していることです。それに、インドの地 球都市オ-ロヴィルで明白に進行していることです。北部スコットランドのフィンドホーン・コミュ二テイで進行していることでもあります。われわれは、それに不安を抱く必要はありません。つまり、文化を転換するための専門家の委員会が作れるだろうか、などと問う必要はないのです。文化は、自分で自分のめんどうを見るのです。
それは、ソレリGa naar eind〔註22〕がアリゾナで実験していることですね。
そのとおりです。ソレリ自身ば、人間の都市を改造するために何をなすべきかについて、全地球的・空想的観点をとろうと努めています。 | |
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さらにイリックGa naar eind〔註23〕は、教育の分野でこれを行なっています......。
イリックば、教育の変革を考えていますが、それを意識の変革とはとらえていません。学校を放棄したり、専門家をクエルナパカに呼び集めたりするだけでは不十分です。彼ら11あい変わらず同じタイプの教育家のままでいるでしょう。クエルナパカは、一つのシンク・タンクに転化してしまいました。どのシンク・タンクでも、ハーマン・カーンのシンク・タンクと同じことです。われわれは、意識の転換の特定の形態にっいて語らなければならないのです。この意識の転換によって、われわれは自 分は何者か、どこから来たのか、そして、どこに行こうとしているのかについて、再学習するのです。
そして、あなたは、酉洋がその諸目標を違成するに際して、東洋がひじょうに強い影響力をもつかもしれないと感じておられるわけですね。
われわれがインドにたち戻ってインド人になるということは、まったくできない相談です。だからこそ、われわれは自分の科学的伝統の中に神秘主義を求め、二ュ-卜ンが神秘主義者であったことを再発見しなければならないのです。もしわれわれが質量・エネルギ-・意識の相互関係を真に理解したならば、その関係の内に、一つの存在の三つの状態を見ることでしょう。大部分の人々にとっては、質量とは、彼の肉体のあり方、すなわち肉の塊のことです。その肉体は単なる器官の集合であって、意 識はありません。しかし、ある人々はヨガを通じて身体に対する尊敬を再び獲得し、肉体はエネルギ-と生命力の場であることを学びます。彼らは悟りのまったく新しいシステムを発見するのです。もし、この過程を継続して意識のますます微妙な諸形態を知るようになれば、個々人は、自然に対する意識のフィ-ドバックを発見するようになり、自然は意識により新たな方向を与えられるようになる、と私は考えています。これはバオロ・ソレリの仕事と非常に緊密に関連しています。彼は物質の精神化 について語っています。これはまた、ティヤ-ル・ド・シヤルダンGa naar eind〔註24〕の思想とも関連しています。地球上や宇宙には、自然・自我・社会に関するこの新しいパラダイムが出現しつつある場所があります。私自身は、インドのオーロヴィルに未来への大きな希望を見ています。それは単なるインドの都市ではないのです。あるフランス | |
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の建築家がそれを建設しています。そこには三〇〇人のアメリカ人の学生がいて肉体労働をしています。それは地球文化に献げられた地球都市です。私は、文化にとっての希望が、スタンフォード研究所や、ジョン・R・ブラットのマンハッタン計画などよりは、このオーロヴィルから来ると見ています。マンハッタン計画はテクノクラートたちのものですが、テクノクラートは、われわれのあらゆる問題を、人間の最終的な文化的容器-それは実は人間の墓なのですが-を設計することによって解決し ようとするのです。 |
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