Seicho no genkai o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
(1973)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd67 リチャード・フォークリチヤード・A・フオーク(Richard A. Falk) 教授は一九六一年以来、ニユージヤージー州ブリンストンのプリンストン大学における国際法および慣習のアルバート.G・ミルハ゛ンク記念講座教授である。 一九三〇年ニユーヨーク市に生まれ、べンシルバニア大学に学び、またイエール大学法学院およびハーバード大学法学院に学んだ。 現在は、ワールド・ロー・ファンド(World Law Fund) による世界秩序モデル計画の、北アメリカ部会の会長である。この計画は、今世紀末を目標に世界秩序の質の改善のために実行可能な方略を開発しようとするもので、学者たちの世界的な協力をえている。また、アメリカ国際法学会の副会長でもあり、平和のための基金および対外政策協会の理事金のメンバーでもある。 その近著『危機に瀕した地球』 (一九七一年) はアメリカおよび海外で広く一般読者の注目を集めた。その他の著書には次のようなものがある。『現代世界における法律、道徳、および戦争』、『世界秩序の戦略』 (全四巻) 、『暴力的世界における法秩序』、『ペトナム戦争と国際法』 (全二巻) 、『国際社会における法の役割り』
あなたは『危機に瀕した地球』Ga naar eind〔註1〕の第七行目ですでに限界をもうける必要について論及されています。『成長の限界』は、地球を組織する方向への第一歩だとお思いですか。
はい。あれは、二つの基本的な事実についての人々の認識を結晶させるための重要な努力であったと思います。基本的な事実というのは、第一に世界が有限であるという事実であり、第二に、われわれが地球を管理するのに現在やっているようなやり方は、これまで地球が何世紀にもわたっておかれてきたいくつかの有限な制約条件を危険におとし入れつつある、という事実です。私は『成長の限界』の成功は、ある程度、その結論に権威を | |
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与えることのできるコンピュータ技術に依存した結果だと思います。もちろん、この成功はまた、この研究の主要な弱点ともなっています。この研究は、依然として本質的には質的議論にとどまっている問題に対して、やや早計にこのような量的表現の形式を用いたからです。この地球の経済や政治秩序を再編成するための基礎として使用できるように、コンピュータを使って『成長の限界』を示すような議論を組み立うるほどのデ-タば、量的なデータとしては、まだ手に入れられません。
一七世紀オランダの法哲学者ーゴー・グロチウスは、国際的な統制組織をつくり実行する国際的機関のようなものを提案した最初の人物でした。その後四世紀たってしまいましたが、現状はどうでしょう。たしかに九十一力国がロンドンで今後石油を海にすてないという協定に調印しました。しかし、それとその約束を守ることとは、まったく別問題です。
国際社会の組織を問題にする場合に、私の立場は、法と秩序を要求するというものではありません。国内社会で法と秩序を強調するものが、国際問題ではもっとも反動的な勢力になる傾向がある、ということは奇妙な皮肉です。逆の矛盾もしばしば成立します。国内的にはもっとも進歩的な人達が、国際的なレペルでは秩序と強制の強カな構造を求めているように思われます。私自身の見解は、もっとも望ましい世界体制の型を考える場合に、分権制をひじょうに強力な内容とした秩序の形式をさが し求めなくてはならない、というものです。一つの政府による解決というのは、われわれが全地球的レペルで必要としているものではありません。われわれが必要としているのは、入間存在の主要な機能を、専門化されたしかも限定された諸機関の周辺に組織する方法です。世界の所得や資源のもっと正当な分配を保証する方法が必要です。国境という人為的な介在物とは独立に人間が関係しあえるようにする方法が、必要です。それらのことのためには新しい政治意識が必要のように思われます。よ り広い人間的同一性に向かってすすむことを本質的な特徴とするような、世界市民の思想と人間的連帯感とに結局のところもとづくことになるような、新しい人間の意識が必要のように思われます。
国際外交の手段としての国際連合は、中国が加盟することになれば真に人類を代表するものになるだろ | |
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う、と長いこといわれてきました。ところが北京が最初にしたことは、バングラデシュの加盟に反対することでしたGa naar eind〔註2〕。またまた列強によるパワー・ポリティクスが展開されたわけです。実際的なゲームのルールを確立するのには、どうすればよいでしょうか。
国際連合の基本的な実態は、それが国政術の拡張を意味しているのであってそれにかわるものではないということ、また、多くの政府がはたして彼らが代表していると称するところの国民を正真正銘代表しているかどうかという点でひじょうに疑問が多いということです。多くの場合、政府はまず第一に国内でみずからの権力を維持することに気をうばわれ、さらに国際的な政治経済上の影響力を行使しうるようできるだけ国際的に有利な立場を達成することに気をうばわれています。国家間のゲー ムは、それぞれの社会が自分達のカと富と威信を最大化しようとする競争ゲームです。世界の空間と資源の有限性を前提とすると、このことが必然的に意味するのは、各国がすべて同時に成長することができない以上、一つの国がまともに利益をうることができる唯一の方法は他の国を犠牲にすることだ、ということになります。成長のイヂオロギーは、国家体制の安定性と緊密に結びついています。なぜなら、成長がなければ、各国がそれぞれ世界における自国の立場を最大にしようとする絶対命令 を可能にさせる手段がないからです。世界体制のこのようなネオ・ダーウィニズム的な姿によって、各国政府は、それそれの努力がもしほどほどのものならば少なくとも可能性としては調和的でありうる、という幻想をはぎとられることになるでしょう。限界のない成長ということが果たす役割は、国家という制度がお互いの間の戦争を伴うとは限らずに全部が同時に発展することができる、という見方を維持させるところにあるのです。『成長の限界』は、この根本的な点で国家制度四のイデオロギ ー的基礎を母りくずしています。そしてこれこそ注目すべき革新的な貢献です。 生態学的課題を処理する見こみがもてるのは、同時に政治問題として、国家制度にとってかわるかそれを適度に制限するような国際社会の再偏成をどう実現するかを、考える限りにおいてです。国家をなくしてしまわなければならないということはないでしょうが、国家の権力と富を支える基本的な組織的関係を停止し、また人間の忠誠心を支配している国家の力をうすめあるいは超越 | |
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することが必要です。
しかし、人口増加や汚染やその他の問題を制御するのは、立法や政府による制御の問題であり続けるのではありませんか。われわれは、国家的レベルにせよ国際的レベルにせよ、つねに法律と無縁にはならないでしょう。
われわれが規範を必要とし、これらの社会的規範を明確にしつつその有効な実現を確保するためには法律が必要だ、ということばそのとおりです.しかし同時に私は、この地球に公平と均衡を確保するという問題に対処するには、人類全体を統治するある種の超政府を設立する以外にない、と考えることは危険だと思います。政府がはたして人間生活や資源を人間的なやり方で統制する力をもっているのかどうか、私にはまったく明らかではありません。われわれが直面しているさしせまった課題を解 決しようと努める過程で.フランケンシュタインのようなものがつくり出されてしまうかもしれないのです。南アフリカのような社会は、ひじょうに安定した平和の体制を達成してきました。そこには一般的に効果的な法律があります。その警察ぽ大量の暴力の発生を防止しています。しかしそれにもかかわらずその社会は、われわれが重要だと信ずる多くの価値あるものを基準にすると、おそらく現代の世界で最悪の社会の一つでしょう。
アイゼンハワ-大銃領Ga naar eind〔註3〕は、国際問題においては法律だけが力にかわりうるものだと主張しました。ところが、アイゼンハワーの申し子であるリチャード・ニクソンはカンボジアに進攻しました。それは合衆国憲法にてらすと事実上非合法な行動です。チェコスロバキアの例でも、カンボジアの例でも、法と秩序の提唱者が自分自身の目的に必要な場合には法律をふみにじってしまうようにみえます。
法と秩序ということが、警察力による統制のための、現状に不満をもつグループを抑圧する力の充実のための、合言葉になってしまうという意味では、リチャード・二クソンは、己れが支配する社会のために法と秩序を欲する指導者のもっとも模範的な例です。このような形での法と秩序の可能性が存在しない国際関係では、リチャード・ニクソンが望むことといえば、彼の主観によるアメリカの]的を実現するための最大限の行動の自由です。このような態度が自己抑制という規範を無視するこ | |
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とにつながるのは、たとえばカンボジアの事件、あるいは北ぺトナムに対する執拗な爆撃に、みられるとおりです。国際法の歴史の中でひじょうによく確立されている規範が、ワシントンで政務をとる一団にとっては、また明らかに世界の大部分の政府にとっては、何の意味ももっていないのです。私は、数週間前にハノイで、スウェーデン大使-ひじょうにりっばな人でジャン・クリストフ・オーベルグといいますが-と、興味ある会話をかわしました。彼は、爆撃の影響と、アメリカがインドシナ でやっていることをみながらヨーロッパが沈黙を守っていることの影響とについて論じていました。罪のない民衆の大量殺戮に対するこれら文明中心地の人々の無能力と無関心、アメリカが不当にも戦争を遂行し、かつ同時にいつもと同じビジネスをも行なおうとするのを傍観し放置したがっている態度を、彼はひじょうに重大視していましたが、もっともだと思いました。
国際法の観点からすると、アメリカの東南アジア侵略は正真正銘の戦争犯罪を構成します。これについてテルフォード・ティラーGa naar eind〔註4〕は、アメリカのアジアにおける戦争行為は人類史上自由な牡会によって犯された最悪の残虐行為だ、と感じているように思われますが。
テルフォード・ティラーの見解は、ペンタ.コン文書Ga naar eind〔註5〕の暴露によっていくぶん変化しました。なぜなら、インドシナにおける戦争犯罪の責任を政策形成者におわせることを彼がためらっていた一半の理由は、ニュルンベルグ裁判で提示されたようなドイツの押収された戦争計画文書に相当する書証が得られないという事実にあったからです。ペンタゴン文書の発表で、われわれは十分な判断材料をもつことになり、ティラーの観点からしても、こ の政策を計画した指導者は、あなたもいうように、自由な社会がこれまでに犯したもっとも重大な戦争犯罪に関して有罪である、ということができます。しかも、その戦争犯罪は、国家の存亡がかかるという深刻な弁明の余地があるわけでもなく、基本的な国家の権益が侵されるという弁明の余地さえないような状況の中で犯されたものです。それは理由なき犯行に相当します。エアコンのついた部屋で犯罪の計画をねった者たちは、彼らがやろうとすることが人間に及ぼす致命的な結果について知ら なかったし、また知ろうともしなかったのです。 | |
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リフトンGa naar eind〔註6〕教授は、戦争がいかに一種の押しボタン戦争にかわりつつあるかを、たとえは『サタデー・レビュー』などの記事で書いています。
われわれが手にしているような型の技術がもたらした一つのことは、もっともおそるべき行動様式を、もっとも冷静な、とらわれない、知性的な方法で実行にうつすことが可能にされているということです。また同時に、高度な技術の複合化は、一種のおそるべき弱点をもうみだしています。たとえばその一面は、最近のハイジャック事件でも示されています。犯人達はオークリッジの核施設を破壊して、広島の原爆によっておこされた放射性降下物のおよそ千倍に相当すると想定される、そこに貯 蔵されている放射性物質を飛散させる、と脅迫したのです。一九八〇年代末にはアメリカ全土でこのような施設が九百にのぼると予想されていますから、われわれは、一面では、人間的感情をもたないで技術的な性質だけをもつ政府のもとにあることになります。ということは、そこでは、人間的価値からの距離がますます大きくなり、またコンビュータがいわば人間の心、精神にとってかわるのです。その反面、絶望した人間が出現してきます。つまり, そのような人間は政治過程へのいかなる形での参加からもしめ出され、彼らの目的を正常な手段で達成する望みを失い、そこで、全システムを破壊しうるような法外な力をもとうとすることになるわけです。
今あなたがのべられたような同題を克服しようとすれば、権力主義的な規制の方向にむかっていくことになるのでしょうか。
ええ、そうだからこそ、今日の事態を懸念している人々はひじょうな切迫感をもっているのだと思います。人間の意識の基本的な方向転換が遅れれば遅れるだけ、われわれば、プログラミングを行なう者の意図のままに行動するよう人間を条件づける大量学習過程のようなものをつくり出し、それによって未来をプログラムしようというような、本質的に気ちがいじみた計画の実施を求めるようになる恐れがあります。それは、人間の脳が、人間と歴史、人間と自然との間の満足すべき関係を組織す る基礎をなんとか発見することができる、という一種の最終的な知的自負心の一形態です。現時点で絶対に必要とされている一つのことは、技術の可能性と限界の両面の認識です。また、全世界的な倫理革命を必死になって求め | |
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る必要もあります。科学的に、技術的に、そして物質的に発展することをわれわれが求めているかぎり、この新しい倫理革命は、社会的および政治的諸形態の結びつきをその基礎としてもたねばならず、また、人間が生きのびる諸条件の再解釈をその基礎としてもたねばなりません。したがってそれは、真の世界秩序に向かう運動によって支えられる必要があります。
その現実性はいかがですか。
その革命に、一種の生物学的基礎をもたねばなりません。それはまた、知識と行動の新しい総合、さらに知識と感情の新しい総合が必要だという事実 (私は、それが、ローマ・クラブや『成長の限界』の努力の基礎になっている事実、また既成の権力や富の構造の外におかれている多くの世界中のグルーブの努力の基礎となっている事実だと思います) を把握しておかねばなりません。知識と行動の総合および知識と感情の総合の両面で、運動が現在進行しつつあります。MITの『成長の限界』の努力は、総合化に向かう精神の中にみられる、知識と行動との関係を強調する創造的な反応の一つだと思います。このグルーブの人たちは、全体を理解するためにはどの一部分をとらえても不十分だということから、全体の相互関係をとらえる試みをしました。 もう一つの側面は、ウィリアム・アーウィン・トムブソ ンGa naar eind〔註7〕のような人が関係していると思いますが、思想と感情との全体的な関係のことであり、意識が現実に基礎をおくためには、人間の理性的能力を大いに超えたところをも考慮に入れるものでなければならないという考え方の二とです。この努力は意識の限界をさぐりあてようとするものであり、思想の神秘的伝統の妥当性の再発見や、より未開の社会がその環境にどのように関係していたかについての関心の復活などもこれに関係しています。これらのこと はすべて、いろいろな意味で、人間の条件を、単に生きのびうるというだけでなく、満足できるもの、あるいは慈悲深いものにするための、生物倫理学的基礎の発見の一部をなすものです。 人間に悪い行ないをしないようにブログラムするというスキナーGa naar eind〔註8〕流の見解以外にも、たくさんの未来像があります。スキナーのは、幼稚園的未来像です。全人類がスキナー幼稚園で共同生活にならされるというようなことを、だれが望むことができましょう。私自身、そんな世界に組みこまれたくありません。そのような世界ば、人 | |
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間の想像力や創造的精神をあまりに損なうものですから、それがすべてユートピアの名において行なわれるとしても、そのつもりでいながら、けっきょく、人間の運命を最悪の形で絶減に導くのに貢献することとなります。人間の個人としての創造性が働く余地は、まったく残されていません。そしてそういう状感では、魂は呼吸する空気がなくて死んでしまうのです。明らかにそれは、自殺することと生きのびることとのちがいが、かろうじて識別できるかできないかといった世界です。スキナ ーの未来像とは対照的に、生物倫理学的な革命の作業の中でのすばらしい協力の一例が、ワールド・ロー・フアンドによる「世界秩序モデル計画」です。これは、アフリカ、ラテン・アメリカ、インド、日本、ヨーロッパ、ソ連、そしてアメリカの学者グループが、それぞれに、今世紀末までに世界秩序のシステムをどのように改革するかについての別々のモデルを開発するという計画です。人類史上はじめて、理想的であるとともに変化の政治学にも気を配った世界秩序のための、それぞれの提案を 、上記のあらゆる部分の人たちが計画的に行なうという、自覚的な世界的規模でのくわだてが存在しているのです。われわれは、「世界秩序モデル計画」が、世界中の人々に未来への希望の基礎を築き、彼らの思想、感情、行動を向けるべき方向を、実際.人間精神の力強いエネルギーのすべてをそそぎこむべき焦点を、さし示しはしめていると信じます。こういうわけで、われわれは、新しい世界秩序の建設の第一段階は, 意識高揚の段階だとみています。第二段階は、行動のためにたちあがることであり、第三段階は、力と富を現在支配している昔ながらの諸制度の転換を行なうことです。
ローマ・クラブの努力は、この手おくれになりそうな段階で、地球の条件について人々の認織を増大させることを目的としています。通信衛星は、もし正しく利用されれば、地球全体にわたる人間の知識をおどろくほど増大させることになろでしょう。ソ連は、受け入れがたい情報を国境をこえてもたらすような衛星はうちおとす、と脅迫したことがあります。ここでまた、われわれはさらに、「思想の入国査証」の問題につきあたります。
今後十年かそこらに、できるだけ思想の自由移動が行なわれるようにするという基本的な目標は、世界の進歩勢力の目標だと思います。自由移動をおさえようとする | |
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ものば、何であれ、反動的な力です。しかし、自国の国民に対して敵対的関係にあるソビエト政府のような政府では、このような世界的な自由移動を容認することがでぎないということも、認識しておかなければなりません。ソ連の支配者の支配維持の努力の一環として閉鎖的な社会がうみだされているのです。そうでなければどうして、ソ連の指導者が必要と感じているほどの極端な思想、感情、および行動の一致の度合いを維持しようと勉めるのでしょうか。 したがって私の感覚では、『成長の限界』や新世界秩序といった考え方が意味をもつようになるための、未来の理想の実現に向かう前進は、それに先だって世界の主要国の内部社会で変化がおこることに依存しています。これらの社会こそ、世界秩序のための決定的な試練の場です。アメリカにせよ、ヨーロッパにせよ、ソ連にせよ、国の中で進歩的な社会変革が行なわれることこそ、肯定的な未来への最首の希望を与えるものです。進歩的勢力は、われわれの地球を運営する意思決定の中枢を新た に編成するために、力の行使を認められなければならないでしょう。今日の世界の中心的な権力構造を支配している退嬰的なエリートが、われわれの子どもや孫の住むにふさわしい世界をつくり出すための道徳的政治的リーダーシップをとってくれるだろうと考えることは、もっとも危険な性格をもった素朴な楽観論です。本質的には.今日のこれらの指導者達は、ますます貧しく、ますます弱く、さまざまなかたちで苦しめられている民衆に対しての、みずからの権力と特権の地位を維持することに、 気を奪われているのです。このような退嬰的な諸関係があるからこそ社会的、政治的硬直性が生じてくるのです。今後十年ほどの間に、世界の主要な社会の中で変化を志向する勢力を活発化するようわれわれが努力することは、そして, これらの勢力が自分たちの福祉を自国政府に考えさせるような道をきりひらくだけの力を獲得するように望むことは、ものすごく重量要です。 そういう事態にならない限り、われわれは、将来の見込みに関する不愉快な現実をしりごみせずに直視する心がまえを人々にさせるということしかできないと思います。ローマ・クラブが提示した分析に私は賛成ですが、そのような分析にもとついて予言されるような、根本的な性格をもった真の変化の達成を確実たらしめることは、現代世界の構造の中ではまったく希望がもてません。私は、変革のための戦術や戦略にっいて、また.人 | |
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間と地球の容量との間の新しい均衡にかんする政治学と倫理学について、ローマ・クラブが真剣に考えはじめてくれればいいと思います。 |
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