Seicho no genkai o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
(1973)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
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64 リンカーン・ゴードンリンカーン・ゴードン (Lincoln Gordon) 夫使は、現在、ワシントンのウッドロウ・ウィルソン国際研究者センターの研究員である。 リンカーン・ゴードンは、一九一三年ニューヨーク市に生まれた。ハーバード大学で学び、イギリスのオックスフォード大学で博士号を取得した。オックスフォード大学には、一九三三年から三六年にかけてローズ・スカラー (ローズ奨学金受領学生) として留学した。一九三六年から六一年にわたって、ハーバード大学の教授陣の一員であった。特に一九五五年から六一年には、ハーバード大学の国際経済関係論ウイリアム・ジーグラー記念講座の教授であった。 ゴードン大使は、ヨーロッバのマーシャル・ブヲンの作成のために国務省に協力した (一九四七~一九五二年) 。一九六一年、ジョン・F・ケネディ大統領は彼をブラジル大使に任命した。一九六六年にはこの地位を辞して、米州問題担当国務次官となった。一九六七年から七一年の間、メリーランド州、バルチモアの、ジョン・ホブキンズ大学の学長をつとめた。 著書には、『政府とアメリカ経済』 Government and the American Economy (1940, 1950),『ブヲジルにおける合衆国の製造業投資」 United States Manufacturing Investment in Brazil (1962) および『ラテン・アメリカのためのニユー・ディール』 A New Deal for Latin America (1963) などがある。 われわれのうちの幾人かは、ここウッドロウ・ウイルソン・センターで、われわれが「持統可能な成長の諸側面」と呼ぶものに関する長期的な研究ブロジェクトに従事しています。『成長の限界』ではなくて『持続可能な成長』という標題を選んだのは、まさに、われわれが、ローマ・クラブのフォレスターGa naar eind〔註1〕およびメドウ ズGa naar eind〔註2〕ブロジェクトの中心的な命題に疑いをもっているからに他なりません。私自身の関心は、持続可能な成長の諸問題 | |
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がもつ国際的な含意です。それはともかく、まず、持続可能な成長という表現の意味を、少し説明いたしましょう。われわれは、ロ一マ・クラブと同様、人口、資源、環境の保護、経済成長の率および方向、の間の相互関係に関心をもっています。しかしながら、フォレスターやメドウズと異なり、私は、二一世紀のある時点での全地球的な崩壊を避けるために、次の世代のうちに経済成長および人口増加を停止させなければならないという確信を分かち持ってはおりません。 メドウズの研究自身に関していえば、私がこれまでに見た批判的分析や、私自身が行なった若干の作業によって、私は、彼らの命題は確かに実証されていないし、おそらく全地球的規模で実現することはありそうもないという確信を抱いています。メドウズの研究は、更新不能な資源に関して不当に悲観的ですし、人口のコントロールの可能性に関して不当に悲観的であり、そして家族計画政策が、非常に貧しい国においてさえ人口の増加率を現実に低めるであろうという可能性に関して、不当に悲 観的です。
ハーマン・力ーン博士Ga naar eind〔註3〕は、この地球は、二〇〇億人の人間を一人当り所得二万トルで養うことができるだろうと推定しています。
私は、そのような見解には、とても組しえません。二〇〇億という地球人口は、実際上その二〇〇億人の大部分の人にとって非常に不快な生活条件や生活様式を意味するだろうと思います。なるほど私は、メドウズの結論に対しては、いま申し上げたような非常に厳しい批判をもってはいますが、他方では、経済成長に対する深刻な物理的な制約があり得る-将来生ずるかも知れず、ある程度までは現在すでに存在する-と考えているのです。この種の制約はすでにおこっている国々もあれば、一定の期 間にわたる一時的な制約が生じる見通しのある国々もあります。現在すでに深刻な制約が、資源の乏しい、そしてすでにひじまうな過剰人口をもつ国々で、はっきりと現われています。その実例としては、二つの異なった大陸にあるバングラデシュとハイチを挙げることができます。もし、エネルギーの分野での技術進歩が遅れれば、一時的な物理的制約が、他の国々にも、あるいはおそらく全地球的に、おこり得るでしょう。技術進歩のその種の遅れは、科学が十分に急速に発展しなかったり、環境 の | |
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制約ががあったり、あるいは間違った政策的決定がなされたりすれば生じうるでしょう。その場合には、窮極的な物理的可能性と社会が実際に成し遂げていることとの間に、不一致が見られるような時期がやってくるでしょう。 要するに、物理的制約と制度的および社会的な制約とが混り合っていて、それが、私の思うには、ハーマン・カーンの夢の実現を、単におこりそうに思えないことにするだけでなく、およそ不可能にするのです。しかし、単なる物理的制約の問題よりももっと興味深く思われる問題のほうに、話をうつしましょう。それは物理的制約と、個々人あるいは社会が望むこととの間の相互作用の問題です。例えばアメリカをとって見ましょう。環境問題は単に一時的な流行ではなくて、根深く、広くいき渡 った関心の対象となっています。そのことは特定の地域に関していえば明らかに真実ですし、またアメリカ社会全体にとってもおそらく真実でしょう。そこから、人々がひとり当りGNPの水準で測られる通常の意味での単なる経済成長を望むのかどうかという一般的な問題が生じます。現在のアメリカの成長率は、家族当りの所得が現在の約一万ドルから、七〇年後には現在の価格で計算して家族当り八万ドルに増大するようなものです。現在のような支出のパターンがその頃にも依然として望まれる、と いうことはおよそありそうにもないことであり、上の数字が達成されるずっと以前に大きな変化が生じるようになるでしょう。その変化の中には、余暇と労働の割合の変化が含まれ、現在の約四〇時間という週労働時間の短縮がおこるでしょう。その他の変化のなかには、労働条件に関連していて、労働による満足をえたい、労働時間をより満足なかたちで過したいという欲求が含まれます。新たに追加される余暇をどう有効に使うかという問題も生ずるでしょう。これらすべての変化は、通常の測り 方で測った経済成長を低下させる傾向があります。これが、富んだ国に関してわれわれが究明しようと務めている大きな問題領域の一つです。
貧しい国々についてはどうでしょうか。あなたは私を驚かせるようなことを、ひょいとおっしゃいました。つまり、「未来を眺めて、個々人および社会が望むであろうことを判断すれば」とおっしゃいました。あなたは、われわれが世界の限界を目の当りにするような日に近づいていると、また個々人が望むことは、社会が必要とすることに従属させられなけれはならな | |
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いようになると、信じておられまずか。
まず、富んだ国々について語らせて下さい。社会は個々人から成り立っています。明らかに個々人の消費の一部は個人的なものであり、一部は社会的なものです。集団的に消費されるようなものも多くあります。環境的なものは、一般に集団的に消費されます。実際-他の人ダツズも指摘しているように-集合的な財もあれば集合的なバウズ負財もあるのです。経済成長と消費に対する態度の変化の一つは、個人的消費に対立するものとしての集団的消費への関心の増大でしょう。それは部分的には 個人の選択を通じてなされる面もあるでしょうが、大体においては社会的政策決定を必要とするでしょう。すなわち、何らかの政治的過程が必要なのです。現在アメリカには、あるパラドクスがあります。一九七二年十一月の大統領選挙の結 果Ga naar eind〔註4〕は、一方では集団的消費の改善に対する強い関心がみられると同時に、他方ではわれわれの道具-集団的消費を提供する政府諸機関-が実際に満足のゆく結果を与えてくれるかどうかに関する深刻な疑念があることを示している、と私は解釈します。何らかの解決が発見されなければなりません。私は個人主義と社会主義との間の鋭い二者択一が必要だと思いません。現状では、ありとあらゆる種類の混合形態がみられます。政 治的意思決定を通じて集団的になされるところの意思決定の全体のうちに占める社会的要素は、ひき続き増大するでしょう。しかし、ひじょうに大きな領域が個人の選択に任されることを、私としては望みます。個人的および社会的選好について語る時には、私は、市場を通じて表現される個人的選好と、政治を通じて表現される社会的選好という意味で、その両者を使いわけています。
私は、あの大切な「自由」をスキナーGa naar eind〔註5〕的な意味で失うという事態のことを考えていたのですが、どうやらそういうことではなかったようですね。これで、発展途上国の話に移れるというものです。
そうですね。さっきは、いくつかの貧しい国々、特に東南アジアにおけるように最も貧しい国々のいくつかにおいて見られる、経済成長に対する態度のいくらかの重要な変化の、少なくとも端緒的な兆候と思われるもののことを、お話しようとしていたのです。中国についてもっと多くのことが知られていたらいいのですがね-中国は明らかに現在の世界では最もおもしろい国の一つですか | |
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ら。もし貧困が問題だとしたら、何らかの経済成長は不可欠です-不健康、栄養不良、その他貧困がもたらすありとあらゆる社会悪の引きおこす悲劇を減らすためには。
しかし中国人たちは、その国の全人民のことを考慮に入れるように、プログラムされてはいないでしょうか。他方、われわれは、全員がより高いレベルに達しようと務めて結局は運命をともにすることになっています。われわれは、全体としては必要としないことを望むのを、経済や財政にあまり過大な負担をかけたりしようとすることを、やめなければなりません。-ああどうも、あなたのお話をさえぎる気はなかったんですが。
どうしてどうして、非常にけっこうな中断です。とりあえず自動車の場合をとりあげて見ましょう。自動車はひじょうにいい例だと思いますので。ここでまた豊かな国の話にかえることになりますが、自動車は、個人的選択と社会的選択のあいだの関係に含まれる重大な問題の、いくつかの素晴らしい実例を与えてくれます。もし現在の趨勢に多少とも近いものがアメリカ、ヨーロッパ、日本、あるいはソ連でさえも今後も続くとしたら、個人的選好としては、各成人一人当り一台の自動車を望むよ うになることは、かなり明らかです。しかし、そうしたことがおこれは、結果は都市の窒息です。ある点までいくと、自動車の総数をより少なくするという集団的選好がでてきます-実際そうした兆候は現在見られます。ここで、市場が処理できないような奇妙な矛盾が生じます。私の友人の経済学者の多くは、環境問題ば、一般に、市場機構によって処理できると考えています。すなわち、いわゆる外部費用の内部化によって行なうというわけです。彼らのいうには、もし自動車や、紙や電力の工場 から汚染が生じるなら、汚染者がその費用を支払うようにしさえすればよいのです。汚染を防除するための費用、あるいは汚染の持続のために生ずる費用が、生産物の価格に加えられ、そうすれば経済機構は汚染を止めるか、あるいはそれを少なくとも我慢できる水準にまで引きさげるであろう、というのです。そのことは多くの場合について真実であろうと私は思いますが、内部化できないような外部的社会費用もあります。交通渋滞は、このタイブの古典的な例です。この種の問題を処理する唯一 の方法は、集団的・政治的決定によることです。特に、都市内に、すぐれた大量輸送システムを作るとか、個人の自 | |
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動車の乗入れが禁止されている地域を設けるとか, 都市間交通を改善するとかという決定です。これらすべては、ひじょうに大きな資本投下を必要とします。これを行なうような簡単な自己調整的市場機構にありません。技術がより複雑になるにつれ、そして、一国の内部での、ぉよび国際間の相互依存性がより復雑になるにつれ、集団的に決定されなければならないような重要な問題の割合はますます増えるものと私は確信しています。 中国および南アジアの物質的に貧しい国々に戻りましょう。ある意味で、中国型のモデルは、南アジアの思慮深い人々が、ある一点に関しては考慮しているものです。すなわち、私が工業化のふつうの道と呼ぶもの-すなわち資本集約的投資-によって工業化する代わりに、そもそもの始めから、所得の分配に重点をおき、大衆が必要とするものの生産の増大に焦点をあわせるという方法です。すべての人々に対して、食糧を、適当な栄養を、初等教育を、初歩的なものではあれある程度の健康管理を、 というものです。われわれの知る限り、中国は実殊にそれを実行しています。ひじょうに重要な問題は、このような重点のおぎ方は、普通の発展のタイプとはちがって、全社会を完全に権威主義的・洗脳的に組織することなしにば実現不可能なものではあるまいか、それともそうしないでも可能か、という問題です。私はこの問に対する答を知りません。知りたいと思います。私は、次の十年かそこいらに、あるいはたぶんそれよりも早く、より権威主義的でない社会システムのもとでこれを実施する ための、より輿味深い、より重要な実験がなされるものと信じています。私のみるところでは、スキナー〔註5〕教授は中国式のやり方を非常に歓迎するように思われますが、私自身はあまり歓迎いたしません。中国が発展するにつれて、ますます多くの思慮深い中国人が、やはりそれを歓迎しなくなっていくだろうと思います。
大部分の発展途上国で、ジェフアーソンGa naar eind〔註6〕流の民主主義のきまり文句を盲目的に模倣するだけでは、これらの国が権威主義的支配者の手から逃れる助けにはならなかったということは、証明済みではないでしょうか。
私は、一九六一年から一九六六年まで、ほとんどまる五年・間アメリカの駐ブラジル大使でしたし、また他のラテン・アメリカ諸国もよく知っています。私は、ジェフ | |
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アーソン流の、あるいはポスト-ジェフアーソン流の民主主義的制度がひじょうに贫しい々で十分にうまく機能するとは思いません。事実上それは、世界中でも、ただ北アメリヵ、北西ョロッバ、ォーストラリアおよびニユジランドといつたひと握りの国々で機能しているにすぎません。私が可能だと考えることは、より多くの権威これは政権の選出や排除に当ってより少ない 民主的参加しか見られないことを意味しますが 中闺がいま許しているように思われるよりは、ずっと開かれた社会と、より大きな個人的な自由および連択の保護とを組合わせることです。
ソ連に関しても同じですね。
勿論その通りです。ロシアでは、閉じた社会の緊張が叨瞭に読みとれます。ラテン丨アメリヵに长い間滞在していた時、私は、一方における効果的な民主的コントロ丨ルの問題と、地方における市民的自由、個人的権利の保護、知的自由、言論の自由などの妥当な程度の問題とを、明瞭に区別することができました。一九五八年以降のド畢ゴル体制下のフランスをとって見ましょう。彼はアルジュリアの災難を処理しなければなりませんでし た。その内部を見れば、成来は殆んど檷威主義的な体制にょって達成されたことがわかります。しかしこの体制は、個人の利益と、本質的には開いた性格のフランスの社会とを、守りました。もちろん、それは完全なものではありませんでした。なぜならラジオとテレビジヨンの全システムが政府のための宜伝機関にさせられたからです。しかし、言論の自由は維持されました。フランスの 知識人が迫害されることもありませんでした。
私は、ニクソン氏と彼の第|の補佐官キッシンジャの指導のもとにあるアメリカ政府は、議会を完全に無視しているのではないかといいたい気持をおさえることができません。九七ニ|七三年のメリカは、ド‘ゴールがフランスについてやったのと同じものに近づきつつあるよぅに見えます。
対外政策に関しては、私はあなたに反対ではありませ ん。
なにかおこっているのか誰も知りません。ホワィト‘ハウスだけが対外政策を決定するのです。
それは本当です。級会は除け者にされておりますし、 | |
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これば健全な状態だとは私は考えません。それはまた、あまり長続きする状態でもありません。急速に変化するでしょう。ぺトナム戦争は、巨大な全国的関心事となりましたし、また国民の幻滅の源泉でもありました。この戦争ば、あなたのご本が出版されるよりもずっと前に終結していることでしょう。私は、その終結は一月二十日以前に達成されると判断しています。なぜなら、ニクソン氏は、大統領の第二期目を務める前に、それを終らせたいと思っている、と確信しているからです。 しかし富んだ国と貧しい国との関係の問題に戻れば、私はロマンチックな過大な期待がなされることを特に心配しています。全地球的なアブローチにあっては、しばしば、地球政府が近い将来に成立するという期待が含まれています。しかし、地球政府ができ上るまでには、じように長い長い時間を必要とするでしょう。ヨーロッパ共同体の内部においてさえ、共通通貨を創出するために解決しなければならない、たいへんな問題があることを考えてみても、それはわかります。それには共通通貨が 意味する、あらゆる統合の問題が含まれるのです。だから、ましてや、世界が地球政府へそれよりもより早く到達すると仮定することには慎重でなければならないのです。その上、国から国へ、あるいは地域から地域への大規模の人ロ移動は、もはや不均衡の主な解決方法ではないと私は考えます。さらに私は、次の一世紀、あるいは次の二世紀の間に、世界の生活水準が完全に平均化するというようなことを期待してはいません。しかし、最も富んだ国においては、今では、成長自身の利点をそれ自 体として疑問視する傾向が強くなっています。成長は、今では、目的というよりも手段として考えられています。すなわち、なんのための成長か、より満足できる生活のための成長か、生活の質の向上のための成長か、という問題です。生活の質の向上は、労働よりもより多い余暇を意味するでしょう。もし同時に、富んだ国と貧しい国の間で友好的な相互関係が維持されるならば、両者の間のかの有名なギャップが縮まることを期待できるでしょう。このギャップを縮めるという目標は、もっと真剣 な努力を集中する価値のあるものだと私ば思います。私は、国連が、私の存命中はいうまでもなく、私の孫の時代においてさえも、地球政府に転化されることはないと思います。しかし、われわれは、機能的な国際機関を創りだし、それによって地域を一つ一つ検討し、特定の問題をとりだし、種々の利害の収れんの可能性を探り、次 | |
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いでこれらの収れんを現実のものにするために真剣に努力するようにすぺきだと思います。 |