Seicho no genkai o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
(1973)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
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61 フランク・ノートステイーンフラソク・W・ノートスティーン (Frank W. Notestein) は一九〇二年、ミシガソ州のアルマで生まれた。ウースタ・カレジに学び, 一九二七年コーネル大学から博士号を得た。
ノートスティーア教授は、二〇年以上にわたってブリンストソ大学で人口学を教えた。また一九三六年の創立以来、ブリンストン大学人口研究所所長でもある。一九四六年から四八年にかけて、国連の人ロ局を組織し、その最初の局長をつとめた。一九五九年にはニューヨークにある人口評議会の会長にもなつた。
『成長の限界』は地球の人口の増大について強い警告を発しました。それによると、紀元二〇〇〇年までに人口は約七〇億に達するということです。ハーマン・力ーンGa naar eind〔註1〕は私に、地球は二百億人の人ロを、一人当リニ万ドルの所得で容易に養えるだろうと語リました。エトワード・テラーGa naar eind〔註2〕は.パークレーで・彼の情報によると、地球は一千億人を養えると語りました。専門家でないものに は、実際の事態はどうなのかを決めることは困難です。
私は世界の人口が七〇億になるというのは、ありそうなことだと思います。今世紀の終りまでに、六五億までになり得るでしょう。地球がどれほどの人ロを養えるかということを問うのに無意味です。それは意味のある質問とはいえません。もし介在する政治的、社会的および経済的な摩擦がなければ、したがって人間が自分のでぎる最善をつくすことができれば、その時には、人口許容量は無限になるでしょう。しかし、もし摩擦がなければ、永久運動がおこることになるでしょう。絶対に到達で きないような遠い将来の人口の許容量がどのようなものであるかを問うのは無意味です。問題は、現在のわれわれがこのあと、どうなるのかということです。いろい | |
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ろな制約はどうなるのかということです。文明、合理性、同情そして苦痛の減少といったものを、どれだけ進歩させうるのか、いかにしてそれを達成すればよいのか。考えられるいろいろなコースのうちで、われわれがとりたいと思うコースはどれか、こういったことが問題なのです。問題をただ五百億だとか、二千億だとかという数字に関してだけ論じている人々は、たとえそれがどんなに有名な人であろうとも、まったくナンセンスを語っているのです。彼らは、社会的過程の問題にあまり注 意を払っていないと考えざるを言えません。
あなたは、ローマ・クラブのコンビュータによる研究が、社会的な相互作用を十分考慮に入れているとお考えですか。
いいえ。私はこの研究を真剣には受け取りませんでした。それにただ初めての多少とも学術的な試みであるというにすぎません。彼らの変数はあまりにも制限されています。彼らは、モデルの中に取り入れた変数に関してさえ、十分なデータを持っていません。どんな統計学者でも、過去の趨勢を無制限に変更なしで将来に投射すれば、ありうべからざる結果がえられることを知っています。私は、これを興味深い端緒だとは思いますが、それが実際的な意味をもつと考えるのはばかげています。私 は、現在の無知の状態で、信頼度の疑わしい数字を機械に入れることによって、問題に接近できるとは思いません。機械に入れたと正確に同じものしか機械からは出てこないのです。私は、それがまさにローマ・クラブのやったことだと思います。
それは危険なことだとお考えですか。
それを現実世界についての現実的な予測だと真面目に受け取るのは危険です。しかし、明らかに真面目な問題であるものを研究するための第一歩としては、興味深くもありまた重要です。私を誤解しないで下さい。私もまた、世界は人口増加という重大な問題をかかえている、と考えております。それは、われわれの子孫全体の福祉に関する非常に長期間にわたる数々の問題をふくんでいるのです。だからといって、決して到達されることのない極限状態に注意を集中してみたり、あるいは計算機械 に一定数の変数を入れて、そこから恐怖を (その恐怖は始めから機械に投入されていたものですが) 読み取った | |
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りしてみてもしかたがありません。この問題は、そのような方法で取り扱われてはならないのです。
あなたは一九七四年に計面されている第一回人口会議から、何か積極的な結果を期待しますか。
はい、状況はかってよりもずっとよくなっています。ずっと以前、私は国連の人口局を組織してその初代の局長になりました。その当時は、私どもの仕事に課せられている制約にはひじょうに強いものがありました。科学的な情報を出版し、また文献を穏当な形でまとめることはできました。しかし、人口政策やとるべき行動に関して論議を初めようとするやいなや、問題が生じました。一方には新マルサス主義者が、他方にはソ連人、ローマ・ヵトリック、回教徒たちがいて、われわれはほとんど 意見の一致を見ることができなかったのです。一致したことといえば、人々は健康で、裕福で、賢明であるべきだ。その上人間の数は可能な限り多い方がよい、といったことにすぎませんでした。その時以来、世界の主要なイデオロギー的および宗教的立場を代表している人口研究者たちの間の意見の不一致は、ひじょうに減少しました。いまでは、われわれは、真の問題を建設的に論じ合うことができるようになりましたが、これが一九七四年の国連人口会議でも実現することを望みます。ついでな がら、これは国連が主催した第一回のではなくて、第三回の世界人口会議です。
マクナマラ氏は一九七二年九月にひじうにおもしろい演説をしましたが、ハーバード大学のレベル教授は、マクナマラ氏は冗談をいっているのだと考えています。すなわちマクナマラ氏は、世界銀行が人口抑制のためにインドネシアに与えているお金のおかげで、インドネシアの人口は今から紀元二千年までに五千万人減ることになると君っているGa naar eind〔註3〕のです。
マクナマラ氏は、現在にくらべて人口が五千万人だけ少なくなるといっているのではありません。彼の言ったのは、今世紀末までに何もしなかった場合に比べて、インドネシアの人口が五千万人だけ少なくなるであろうという意味です。
勿論そうです。しかしそれ可能でしうか。
わかりません。しかし、おそらく可能性はあるでしょう。そのためには人口増加率をいまの半分以下に減らす | |
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必要があるでしょう。考えてもごらんなさい。もし二五年前に、来る二五年問にタイワンの出生率はほとんど半分近くに減ってしまうだろうと言ったら、大部分の人口学者は、そんなことは不可能だと考えたことでしょう。彼らは、祖先崇拝や家族中心的な社会にみられる高い出生率について、いろいろな論拠を並べたてて、反論したことでしょう。まったく同じことは、コーリアについても当てはまります。その場合にも、人口学者は推諭を誤ったことになるでしょう。出生率は、将来ほ教育の 進歩や家族計画の進歩によって、むしろこれまでよりもさらに早く低下しさえするでしょう。誰がそうならないと言えましょうか。二〇〇〇年までにはまだ一世代あります。あえて言わせていただくならGa naar eind〔註4〕インドネシアは特に難しいケースです。その人口問題は、部分的には、オランダの植民地制度が、社会的変化を伴わない経済発展の、ほとんど実験室的に純粋なケースだったという事実から生じたのです。オランダ入は、丘陵に段々畑を開き、熱帯の特殊な農産物を世界市場向けに標準化し、人々の健康を守る、という巨大な仕事を成しとげました-しかもそれらが、社会構造の最小限の変化しか伴わずに実現されました。オ ランダ人が近代的な部分を受持ち、インドネシア人は伝統的なままでいてよかったのです。また、インドネシアでは、基礎教育にはあまり注意をはらいませんでした。多少とも大規模な基礎教育は行なわれなかったのです。それらの結果、死亡率ば低下し人口が増加しました。高い出生率を支えていた社会構造に対しては、近代化の影響は最小限にとどまったのです。
マク夕ーナン・ケイヒン教授は、オランダ領東インド賭島では、一九四〇年に、七千万の総人口のうち、六三七人の青年男子が大学生だったと推定しましたGa naar eind〔註5〕 。
なるほど。それで女子学生鳳何人いたんでしょうか。 私は一九四八年にインドネシアを訪問しました。オランダ人が、かつての植民地で成しとげた技術的達成には、ただただ賛嘆するばかりです。彼らは土地の人口許容量を向上させ、死亡率を低下させ、そして高い出生率を支える社会構造には手を触れませんでした。彼らは与えられた進歩の課題を最大限に達成した、といってもよいでしょう。彼らは多くの近代的技術の吸収を促進しましたが、自主的管理を導入するためには解決しておかなければならないような種類の社会的諸矛盾は解決しませ | |
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んでした。その結果、今日、低い死亡率と高い人口密度、および高い出生率がみられるのです。
私は、あなたがおやりになっている人口評議会報告の中で、アメリカは、もし二人の子どもをもっ家族が平均的なものになれば、次の百年間に人口は一億五千万人になるであろうといっておられるのを拝見しました。他方、もし平均して三人の子どもをもてば、次の百年間には人口は十億人に逹するのだそうですね。人口学者として、あなたは、アメリカの家族が平均して二人の子どもをもっか、それとも三人の子どもをもつかということがきわめて重要だとお考えになりますか。ところで、『二 ュヨーク・タイムズ』は最近、アメリカはすでに人口増加率がマイナスになっていると述べています。
勿論平均して二人の子どもをもつか、三人もつかということは重要です。それは一・五倍の差ですが、一・五というのはきわめて大きな数です。それは何億という相違を生むのです。新聞などで、わが国の出生率がマイナスの人口増加をもたらすようなところまで下ったといっているのは、通り一遍のいい方にすぎず、あまり真実味の高い言明とはいえません。そのことは、次のように考えて見ればわかります。今年の妊娠率や死亡率は、今年の各年令グループのそれですが、これらの各グループ自 身が生まれてから死亡によって消滅するところまで動いてゆくわけです。したがって、.現在の同年令グループ自体が他の同年令グループによって置き変えられてゆくその率は、一九七二年に観察された妊娠・死亡率の示すところと等しくはありません。この点は、自動車の速度計に少し似ています。速度計が時速百キロを示しているということは、過去一時間に車が百キロメートル進んだということでもないし、また次の一時間には百キロメートル進んでいるであろうということでもありません。それ は、興味深い何ごとかを教えてはくれますが、その内容はきわめて仮定的なことにすぎません-すなわち、もし現在のスピードで一時間進んだとしたら、どこまで行けるかということを示すにすぎません。もし出生率と死亡率が一九七二年の水準を維持し続け、そして移民の純流出がなかったとしたら、およそ七〇年ののち、つまり妊娠可能年令および老令者の割合が現在の出生と死亡の比に合わせて変わったのちに、われわれの人口は徐々に減り始めるでしょう。要するに、われわれの状況というの は次 | |
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のようなものです。人口は、実際には毎年○・七%で増加していますが、出生率と死亡率とのバランスは、それが七五年間継続すれば、人口の減少をもたらすようなところにきているのです。われわれの人口増加率が実際にゼロ以下であるかどうかの判断は、あなたにお任せしましょう。それはともかく、あるひじょうに重要なことが現在おこってはいます。若い妊娠可能年令層が総人口中に占める割合のひじょうな増加にもかかわらず、出生率が急激に低下したのです。まったく興味深いことには 、このことは、家族計画に対する政府の強力な援助が、始めて人口のあらゆる部分に及んだのと時を同じくしているのです。いま初めて、家族計画は、貧乏人にも金持ちにも、真に可能なものとなり始めているのです。
もし貧富の差がこれ以上拡がらないとしたら、もしわれわれが限りのない自由を続けるとしたら、いったい何が生じるでしょうか。
やれやれ、世界の窮極的な問題の解決の話をしようと思えば、少なくとももう半時間は必要でしょうな。勿論、世界の所得格差は、ちじめる必要があります。しかし、私の思うには、富者から取上げることによってそれを実現するのではなく、貧者の生産性を上げることによってその解決をはかるべきです。部分的には、それは、彼らが望む場合には、子どもの数を減らすことを認めてやることによって、そしてその結果として健康の増進と教育の機会を促進することによって達成できます。経済成 長を止めるという話は、私にはまったくナンセンスに思われます。世界はまだその生産上の潜在力を利用し始めてさえいないのです-もっとも発達した地城においてさえそうです。そしてまた、富んだ国々は、より発達していない地域や人々が彼らに追いつくための援助を始めてもいません。まだ自由を享受し始めてすらいない時に、選択の自由を制限する話をするのはやめましょう。わが国も他のどの国も、これまでのところ、自由を享受してはいないのです。最近では、資源についてひじょうに多 くのことを聞かされるようになりましたが、次の点は心に銘記しておきたいものです。すなわち、唯一の窮極的資源は、空間と、そしておそらくは植物と動物の遺伝子のプールとを除けば、人間なのだということと、人間の健康、教育, 技術および組織なのだということがそれです。私は、われわれ、すなわち世界の中の富者が、世界中でこの資源の発展の促進に、きわめて大量の投資をす | |
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ることを決心するまでは、貧困の問題は解決されないと思います。資源の大きな浪費者は、富んだ政府や、富んだ会社や、あるいは富んだ人々でばありません-たとえ彼らの若干の活動が不幸なものであったとしても。世界の資源の浪費者は貧困なのです。 |