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‘Seicho no genkai’ o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen (1973)

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Titelpagina van ‘Seicho no genkai’ o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
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‘Seicho no genkai’ o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen

(1973)–Willem Oltmans–rechtenstatus Auteursrechtelijk beschermd

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59 アラン・コデイントン

コディントン (Allan Coddington) 教授ほ、ロソドン大学のクインメリー・カレッジで経済学を教えている。一九四一年、イングラソドのヨークシャーで生まれた。一九六三年、物理学の学位をとり、一九六六年には経済学の博士号をえた。

コディントン教授は、『マンチニスター・ガーディアン』紙の定期寄稿家である。その著書には、『交渉過程の諸理論』 (一九六八年) 、『生態系と経隣系-われわれの環境』 (一九七二年) 、 (P・A・ビクター博士と共著) などがある。

 

「万才屋」Ga naar eind〔註1〕というのはどういう意味ですか。

 

「万才屋」という言葉で私がいいたかったのは、汚染や天然資源の枯渇や人口成長の複合的影響によってもたらされる深刻な脅威などというものは存在しない、とわれわれを安心させることをすすんで商売にしてきた人たちのことです。特にそれは、ボール・エアリックGa naar eind〔註2〕やバリー・コモナ ーGa naar eind〔註3〕のような人たちの見解とか、『成長の限界』などの研究で示されたような懸念を、あざわらったりけなしたりしようとしてきた人達をふくんでいます。万才屋たちはそれをさまざまな形で試みてきました。ある場合には、長たらしい嘲笑を用いて (その場合には、世界の終末の地獄の火に関する説教と同じようなものだ、といういい方が、うんざりするほどきまりきってあらわれます) 、ある場合には、関連する多くの専門的な問題に関して自分たちの方がもっと高級な奥義に通じていると自称することによって、また時には実際的な議論を展開することによってです。しかし私が主張したいのは、これらの議論をめんみつに検討してみると単なる自然発生的楽天主義の主張にすぎないことが判明する、ということです。一種の地球規模の桃源郷の主張です。もちろん、「万才屋」の見解に統一性を与えているのは、基礎にある自然発生的な楽天主義の気分です。

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彼らの見解というのはどういうものですか。

 

もちろん、すべての「万才屋」が同じ見解をもつわけではありません、しかし、一般的な万才屋的文献から生まれてきたことがまったく明らかな一連の考え方があります。最も基本的なレベルでは、「万才屋」の仕事は、産業社会の適応能力に対する信頼を再確認することです。私はわざと「適応」というようなあいまいな言葉を用いました。それは、政治的、経済的、あるいは技術的領域の中で実現される調整をふくむものです。実際大部分の「万才屋一たちは、世界の経済システムの適応能力に 全幅の信頼をおいています。しかし彼らの考え方は決して経済過程にだけ限定されるのではありません。「万才屋」が産業社会の適応能力を信じているという意味は、彼らの思いえがいている運動の諸過程が、天然資源の枯渇や汚染問題や人口圧力によって生ずるかもしれないいかなる社会的混乱をもかわしてしまうだけ十分に敏感であり、かつ十分に強力だろうと彼らが信じているということです。

 

あなたは、「万才屋」の信仰が方向を誤っていると思われるのですね。

 

信仰が方向を誤っているかどうかは、私にはわかりません-私はたまたまその信仰に組してはいませんけれども。私がいいたいのは、われわれが彼らの立場をあるがままに-つまりそれは信仰というたいそうな行ないの生物であると-認めなければならないということであり、そして、冷静な分析の生物であるとか、高度な学問の蘊奥からでたものであるとか、あるいはもっともはなはだしいのは、論争の余地のない経済学的理論から不可避的に導びき出される結論であるとかいう形で示されるものを、そ のままうけとってはならないということです。多くの経済学者がこれらの問題について陽気な見方をしてきたというのは、確かにそのとおりです。しかし私は、それを経済学的推論の必然的な産物であるとみるよりも、職業的機能障害のようなものとみなければならないと思います。彼らが行なう基本的な主張は、天然資源の枯渇は問題とはならない、なぜなら、市場システムの自然発生的な働きによって、ますます稀少になる原料の価格が上昇するにつれて、新しい原料への代替や、新しい技術の発 展、そして再循環過程の導入などが行なわれるようになるからである、というものです。しかし、その速度や感度はきわめて不確定なものですから、それは

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必然的に憶測の対象になってしまいます。それ隊抽象的な経済理論モデルからは橋渡しのできない大きなへだたりをもっているのです。カルテル、政府の干渉、高度の技術、範囲のはっきりしない所有権、その他いろいろ問題のある世界で、いったいどれほど強力に適応が行なわれるか、だれにもわかりません。

今のべた評言は、「成長の限界」の研究に対する一般的な反応にもあてはまるものです。この反応とは、研究に用いられたモデルよりは現実の世界ははるかに複雑である、特にモデルが若干の種類の適応過程を除外していることは問題である、といったようなものです。そこから、このモデルにどうしょうもなく人を誤らせるものである、無価値でさえあるにちがいない、と結論されるのです。ところで、『成長の限界』のモデルにっいて興味深いのは、実際、新古典派経済学の焦点をなす適応過程 とはまさに対照的に、自己補強的な過程に大きな力点をおいているということです。この二種類の過程のうち、どちらが長期的にみてより強力であるかは、興味深い重要な問題です。それは、ただ自明の理とみなしておけばたりる、といったものではありません。特に、適応過程の存在をただ指摘するだけで『成長の限界』のいう自己補強的過程が研究に値しないものだと主張することなど、できるものではありません。もちろん世界は複雑です。もちろん『成長の限界』のモデルはおもいきった抽象 物です。もちろん適応過程が存在して事態を複雑化させることがあります。しかし、そういうことを並べたてて、でてくるものは何でしようか。単なる懐疑論だけが、とるべき態度ではありません。懐疑論は、偏見をもたない観察者からすると、「成長の限界』の研究の結論部分に対してのみあてはまるものです。実際、私は、その研究の緒論部分には懐疑的ですが、私の想像でに、デニス・メドウ ズGa naar eind〔註4〕もそうだと思います。しかし、私は、同じ問題にむけられたそれにかわる定式化からでてくる結論にも壊疑的です。特に、私に、明示的にのべられずに婉曲に表現されているような定式化には懐疑的です。

汚染問題になりますと、「万才屋」の信仰は、経済的領域から政治的領域に5っります。この場合には、彼らは、課徴金制度を確立するための政府の干渉が必要であり、それにょって汚染を生ずる活動は経済システムの作用の枠内にばめ込まれるようになると考えます。しかも、あらゆる汚染問題がこの形で解決されうる、と主張するのです。実際、有名なイギリスの万才屋ウィルフレ

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ツド・ぺツカーマン教授は、最近、次のように主張しました。「......汚染問題とは、資源配分上のささいな誤りを汚染課徴金という手段によって修正するという、単純な問題である」と。そしてさらに論じて、この種の対策に対する反論は、せいぜい大学二年生ていどの経済学の助けをかりればやっつけてしまうことができると、いいました。ですが、依然はっぎりしないままに残る問題は、この主張が、どちらかといえばその種の対策の論争の余地ない現実妥当性を反映しているのか、それとも、 この問題を分析するには大学二年生ていどの経済学でに不十分だということを反映しているのか.ということです。

たとえ汚染課徴金の賦課がもっともなやり方だと考えられるとしても、数多くの問題がただちに生じてきます。まず、各個人や各企業が発生させる汚染のタイプに応じてそれを記録し測定する方法が必要です。第二に、発生源に対して適当な課徴金の額を算定し、それにもとつく納付金を徴収する制度が必要です。そして第三に.この制度の網をくぐるものを摘発する方法と同時に、そのものたちに課する法的制裁が必要です。このことは、国内的、国際的な法律に関係してくる問題です。経済理論 がわれわれにおしえてくれるところは、理想化され丸条件のもとで薄染者が社会に加えたコストと課徴金とをどのように関係づけるか、ということだけです。実際、官僚制的発想によるたんなる目標ではなく、むしろ本当に有効に問題に反応するこの種の統制機構をつくることに、とうてい「単純な問題」に分類するというような気にはなれないほどの、高度の政治的意志、立法上の手腕、および行政的な能力を必翼とする問題です。

したがって、われわれは、この事例では、万才屋たちの藩本的な信仰は、政治システムの適応能力に関するものであり, 汚染課徴金を基礎とする統制策を作りだす政府の知恵と手腕に対する信仰だ、ということがわかります。ここでも、私は、この信仰には組みしません。しかし私は、それが方向を誤っているかどうかの決定は、他の人にまかせておきます。

 

これらのことがどのように経済成長に関連するのですか。

 

わが万才屋たちは心の底から経済成長を賛美しています。しかし、彼らは、資源の枯潟は問題とはならず.汚染は何か簡単な方法で処理できるものと考えているのですから、彼らが, 生産の増大を、それが財およびサービ

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スの供給に及ぼす影響以外の影響については何の懸念をもっこともなく、喜ぶべきことだとしているのは、まったく当然なのです。ところが、彼らは、経済成長との関連で、さらにそれ以上の議論を導入してきます。たとえば、彼らは、経済成長がある固定的な一組の財の、物理的な増加を意味するのではなくて、たえず内容のかわっていくものの価値の増加を意味するのだ、ということを強調します。このたえずかわつていくものが価値を増大させるのは、それがただより多くの素材を含むから 、というようなことではなく、その素材が人間の欲望や必要をみたすうえでより効果的になるように加工されているからだ、ともいいます。このように、一般に原料や資源の物理的側面ではなくて、価値的側面を強調することは、一方で何かを生産することと、他方で原料が枯渇し汚染が生ずることとの間には、ある確定的な関係がある、という主張を傷つけるのに明らかに役立ちます。それは、価値のフローの成長とその基礎にある物理量でみた素材のフローの成長との間には必然的な関係がない、 という主張を支持します。しかし、こういう考え方はまたまた理解をこんぐらからせるにすぎません。そして当然.楽観論にではなく懐疑論にいきつくことになります。生産や消費の技術が変化するように、物理的フローと価値のフローとの間の関係も変化します。そこで、問題は、未来の技術が現在の技術に比べて天然資源をより少なく浪費し、またより少ない汚染をもたらすものになるかどうか、ということになります。あるいはそのような技術が開発されうるものとして、問題は、それがわれわれ の制度の枠内で利用されうるものになるかどうか、そしてもしそうなりうるとすると、適当な政府の政策によってそれが実施に移されることになるかどうか、ということになります。ところが、まさしくこれらの問題についてば、万才屋たちは、安心しろというだけで、具体的には何も示さないのです。そこで、この問題は、それ以外のすべての問題と同じように、結局自然発生的な楽天主義の問題に帰着してしまうことが明らかになります。今の例では、それは技術に関する楽観論です。現在の機械 じかけの広範な利用は問題を生みだしているが、その問題を解決するのに、未来の機械じかけは卓抜なカをもっ、という信仰です。

万才屋たちが推進してきたもう一つの議論は、環境汚染の問題は経済成長の必要を強めこそすれ、それをしりぞけるというようなものではない、ということです。そ

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の理由は、環境を回復し、保護し、改善するには資源を必要とするから、その資源が利用可能にされなければならない、というのです。しかしこれば論理の転倒です。なぜなら、環境は、すでに行なわれた破壊の修復によってのみ維持される、というようなものではなく、破壊を生じさせる活動そのものを阻止することによっても維持されるものだからです。破壊を修復することの方が破壊を妨げることよりもつねによりよいことだと想定するのは、論理の転倒だというだけではありません。この 見解は、また、経済成長の望ましからざる影響は、実際に可逆的なものだということを前提しています。ところがそれは、実は、可逆的ではないのです。どんなに余分の資源を使っても、放射性廃棄物を、核分裂性の同位元素にまでもどしてしまうことはできません。肥料の流出、土壌の浸食、残留農薬の食物連鎖による濃縮、などの場合に、実行可能な逆行過程を考えるなどということは、途方もないことです。汚染というのは、本質的に事物がからまりあい、ごたまぜにされる過程ですから、その 逆転はどうしようもなく高くつくか、あるいはまったく不可能かのどちらかです。それは、まさしくエントロビ-増大の問題に他なりません。経済成長は、その望ましくな.い影響をもとどおりにするための資源をも利用可能にさせ、かつ余分な資源を残しておく、という議論は、ペテンです。なぜなら悪影響はもとどおりにはできないからです。こういう形でなされることといえば、せいぜい悪影響をとりつくろい, あるいはそれを先にのばすだけの厚化粧をほどこすことにすぎません。

 

口ーマ・クラブに対する批判者の一部は、アウレリオ・べッチェイGa naar eind〔註5〕とその友人たちをロビン・フッド症候の最新版だとみているようですが。

 

ええ、彼らは、実際上、環境重視論とか反成長感清とかは左翼 的Ga naar eind〔註6〕階級的意味あいをもっ、というひじょうに特別な議論をしているのです。これは、反成長感情を広めているものがすべて中産階級に属している、という事実にもとついています。万才屋たちによれば、だからわれわれは、この問題について彼らが公平な発言をする資格をもっているかどうか疑がってみるべきだ、というのです。しかし、こういう異論の効力はあてになりません。なぜなら万才屋たち自身もまたまごうことなき中産階級の信任状をえ ているからです。しかしながら、万才屋たちはこう主張します。比較的特権を与えられた裕福

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な人々が (万才屋自身を除いて) 豊かさがますます広がっていく結果、恍惚からさまされて、反成長感情を広めている-すなわち、快適さの質というのは快適さがより広く普及していくのにつれて一般に低下するものだから、豊かさがますます広がってゆく結果は、彼らが今まで享受している快適さの質をそこなう結果になるのだ、といらわけです。

しかし、この「中産階級の陰謀」説を説明するためには、とりあげる事例を極度に選択して、それを事実上、過密問題の例に限定しなければなりません。なぜなら、たとえば残留農薬とか放射能汚染を問題にすると、中産階級だけがなぜそれによって危険を被むるのかが、まったくあいまいになるからです。

 

ところであなた自身の立場はどうなのですか。

 

私がこれまでにとりあげてきた諸条件から考えると、私は、産業社会がみずから作りだした問題に直面した場合のその適応能力には、ひじょうに疑念をもっています。私は、特に、この適応過程での技術の役割については、懐疑的です。技術はこれまで社会的必要にあまり顕著に応えるものではありませんでした。よく知られているように、経済的必要にさえ必ずしも応えるものではありませんでした。技術がそれ自身の目標や論理に従って展開する、ということの重要な例として、コンコルド (超音速機) が思いうかびます。また私は、環境破壌的影響を及ぼす可能性をもつ活動を今後ますます規制していく必要性が、政治システムに負担を課すことになる点を特に懸念しています-特に地球規模での規制機関は決定的に貧弱だということが念頭にありますから。一国レベルにおいてさえ、政府がこれまで伝統的な経済目標を追求して成功してきたからといって、それと同時に天然資源の保護や汚染の減少にかんする目標達成する能力がある、という信頼は、私にはあまりもてません。高度技術の比較的自 律的な展開と、政治制度のどうしようもない不確定な機能とがいっしょになって、経済制度そのものとしては実現できるかもしれない好都合な適応の度合いを台無しにしてあまりあるような、歪曲された適応がうみだされるというようなことは、大いにありそうに思えます。その場合には、人は、一個の市民の負うべき世界的な責任というところまで投げかえされてしまいます。これは、すでに使い古され、しかもひじょうに効果の少なかったやり方です。いずれにしても、私に万才を

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叫ぼうというような気もちにしてくれるものは、何もありません。

eind〔註1〕
‘The Cheermongers Or How To Stop Worrying And Love Economic Growth,’by Allan Goddington, Article in Your Environment, Autumn, 1972.page 16, およひ、‘The Economics Of Ecology,’Article in New Sociely, by Allan Coddington, April 9, 1970を参照。
eind〔註2〕
対談13〈ポール・エアリック〉参照。
eind〔註3〕
対談26〈パリー・コモナー〉参照。
eind〔註4〕
MITプロジェクト・チームの主査をつとめた。
eind〔註5〕
対談70〈アウレリオ・ベッチエイ〉参照。
eind〔註6〕
原語はsinister.「邪悪な」という意味もあるー訳者。

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