Seicho no genkai o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
(1973)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
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54 レスター・ブラウンレスター・A・ブラウン (Lester A. Brown) ば、ワシソトンにある民間非営利団体、海外開発会議の幹部会員である。一九三四年、二ユージャージー州ブリッジトンで生まれ、ラトガーズ大学とハーバード大学で学んだ。以前には、国際農業開発機関の所長をつとめていたし、また、世界の食糧需要および海外農業開発に関する農務長官の政策願問をっとめた。 プラゥン氏は『人間、土地および食料』 (一九六三年) 、『緑の革命-国際農業問題と経済開発』 (一九七○年) の著者である。また、近著「国境のない世界」 (一九七二年) はアメリカおよび海外で広く注目を集めた。
海外開発会議とは、正確にいうとどんな機関ですか。
海外關発会議とは、非営利の研究・教育機関で、一九六九年に設立され、アメリカと貧しい国々との間の関係を改善するためのものです。ワシントンの漂準からすると小さい組織といってよく、およそ二十人ぐらいり人達からなり、その半分は専門家、残りの半分は補佐要員です。資金的にはフォード、ロックフェラー、クラークの三大財団によって、また約四十の多国籍企業によって維持されています。とくべつな業務契約を結ぶことはなく、完全に贈与の形で資金をうけています。 世界銀行に勧告をすることはありますか。
世界銀行とも、国際開発を基本業務とする他の機関とも、同じように共同作業をしています。国際開発庁、○ASGa naar eind〔註1〕米州開発銀行、その他の開発機関、国連諸機関などと協力しています。
『成長の限界』は、アメリカに紹介された当初からひじょうな論争をよんだ報告書でしたが、この論争の原因は何でしょうか。
『成長の限界』は、多くの入々にとって一種の脅威で | |
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す。それにたとえば経済学者にとっても脅威とたります。経済学者の道具箱には、主として成長を刺激し促進するために作られた道具が入っているからです。もし成長がもはや目標とはならないということになれば、これらの道具箱はいわば無用になってしまいます。この本はもっと一般の人々にとっても脅威です。なぜならそれは、これまでの生活様式をめぐるあらゆる問題に疑問をなげかけているからです。
あなたは最近の本Ga naar eind〔註2〕で、全人類にとっての新しい社会的倫理を発展させる必要性に言及しておられますが、この新しい倫理というのはどういう性質のものですか。
二十性紀の末にわれわれがおかれている状況からして共通の社会的倫理の形成とその終局的な採用が要請されているのです。この新しい倫理は、われわれが存在している有限の生態系にわれわれを適合させるという必要に応ずるものでなければなりません。この社会的倫理を構成しているものは、たとえば、世界人ロの安定化のためには子供を産むことへの態度の基本的な変化が必要とされることとか、アメリカのような現代の物質主義的産業社会の基礎にある計画的陳腐化という考え方を放棄しな ければならないこととか、また、地球の資源をこれまでとはちがったやり方でわけあう必要、すなわち石油埋蔵量や海洋蛋白や廃棄物収容能力などについては共通の源泉に依存しているという事実、を認めるべきことなどです。これらの資源の限界に近づくにつれて、われわれは、それをどうわかちあうかについて考えはじめなければなりません。興味深いことに、われわれがさまざまな資源の限界に近づき始めるにつれて.各国間の相互依存関係がひじょうに急速に増大するのがわかります。 一例をあげてみましょう。二年前フ回リダ州ではひどい干ばつにおそわれました。そのため農業が危機状態になり、また大沼沢地の野生生物にも危機が及びました。フロリダ州は、フロリダ半島に雨を降らせるために降雨会社と契約を結びました。結局雨はふりましたが、それは周囲の海面に (雨を奪うという形での) 迷惑をかけたわけたわけです。もしテキサス州がこのような契約を結んだならば、メキシコに迷惑を及ぼしたかもしれません。パキスタンがそのような契約を結んだならば、インドに迷惑を及ぼしたかもしれません。これは、稀少な資源の供給をふやそうとする場合に、諸国間の相互依存 | |
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関係がどんな具合に増大するかのほんの一例です。お金を払えば世界中のだれとでも降雨契約を結ぶ会社があり、その一部はここワシントンにも事務所をだしています。契約を結ぶのは農業団体のこともあり、州政府、諸国の政府、各国の防衛官庁のこともあります。しかし、自然条件へのこの種の干渉を無統制に行なわさせるわけには行きません。ちょうど国際通貨体制に影響を及ぼす各国政府の行動を国際通貨基金が規制しようとするのと同じように、各国政府の干渉や国際的な気象制度を規 制する超国家的機関を必要とするところまで、われわれはきているのです。
それこそまさにヨーロッパ共同市場のシッコ・マンスホルトが提唱しているところです。超国家的な機関が必要だということです。しかし、そうすると次の疑問がでてきます。いったい取締り自体はどうやって行なうのだろうかという疑問です。
実施の問題はむずかしい問題です。私自身の感じでは、もしわれわれが、ますます相互依存関係を深める世界で世界的問題の優先順位を転換させようとするならば、ただ目的だけでなく実行力をもった超国家的機関が必要です。たとえば、われわれは国連にもっと強力な平和維持力を与えることを考えなければなりません。別の例をあげれば、去年の世界の軍事支出は全体で二千四十億ドルに達しました。この金額は人類の貧しい方の半数の所得総額を上回ります。ますます相互依存関係が深まる世 界にあっては、そのような事態は世界的な諸問題間の優先順位の正当な設定を示すものとはいえない、と私はあえて主張します。各国が与えている優先順位を単に足しあわせても、世界的な優先願位の合理的な順序づけにはなりません。全人類の必要性を基礎において、世界的な優先順位の問題を考えはじめなければならない時がきました。
このように、世界的な関係を新たに組織し、橋をかけるということが問題になる場合、あなたは、世界的な基礎構造を建設するためにはフォレスターGa naar eind〔註3〕の法則のようなやり方は役に立つ用具だと思いますか。
『成長の限界』は、耕作可能な土地やきれいな水から廃棄物収容能力にいたる、少くともいくつかの重要資源の限界な強調しています。とりかえしのつかない変化がおこらないままで、少くともある領域で進みうる範囲には | |
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結局限界があるということが認識されはじめるにつれて、国際的レペルで問題を考える場合のひしょうに興味ある心理的転換が生じてきているようにみえます。地球上の経済的パイとでもいいましょうか、経済成長の基礎となるある種の資源の供給が、無限に拡大されうるものである限り、豊かなものは貧しいものにむかってこういうことができます。我慢してお待ち、いずれきみの番がやってくる、ものは増えているんだから、と。しかし、少くともある種の資源は有限であるという現実が人々 にわかりかけてくると、問題はひじょうに劇的な形でかわります。問題はもはやバイをどう大きくするかではなくて、それをどうわけるかになります。これがひしょうに重要な問題です。
あなたは『国境のない世界』の中で、近い将来、貧しい国の指導者が海洋蛋白食糧を自分達の食事の蛋白不足を補うために便うべきだと十分に主張しうるはずだと書いておられますGa naar eind〔註4〕そこでもちろん衝突がおこることになるでしょう。彼らも彼ら以外のものも、その種の主張をする権利はちょうど同しだけもっているのですから。
だれもがとろうとしてもとりきれないほどの魚が海にいた間は、漁獲量の分布がどうなっているかは問題ではありませんでした。しかし、現在すでに一部の重要な営業用の魚種にみられるように、われわれが、海洋蛋白獲得量の限界にまでせまるようになると、事情は変化しはじめます。近年みられた実情といえば、実際、ソ連、日本、アメリカなど、「北」の工業社会によって、巨額の投資が大漁業船団や、水産物加工船、それに魚群探知機のような高度の技術に対して行なわれ、世界中いたると ころで魚をさがしあて、とってしまうということでした。海洋蛋白をひじょうに必要としている貧しい国々は、このような条件では、とてもたちうちできません。彼らは資本をもっていませんし、技術ももっていません。対抗するための唯一の方法は、彼らが現在実際やろうとしているように, 領海を拡張することです。十四ばかりの国が、沿岸漁業海域を保護するために、その領海を、伝統的な十二マイルから、二百マイルにまで拡張しました。 一九七二年には中国本土がこれら貧しい国々の戦列に加わり、その領海二百マイル論を支持しました。中国本土は、世界の蛋白資源の自分達のわけ前をふやすなり守 | |
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るなりしょうとする貧しい国々のこの努力に連帯しようとする最初の核武装国であるという点で、このことは、ひじょうに重要です。 海洋生物学者は、現在、ある種の魚については世界の漁獲高の維持可能な最大限にひじょうに近接していると感じています。われわれは、各種類ごとに世界的な年間漁獲量の限界を定め、次にそれを国ごとに分割して各国への割り当て量を定めるという必要に迫られています、問題はそのやり方です。もちろん豊かな国は現在のバターンを凍結することを望みます。そうすれば世界の海洋蛋白獲得高の圧倒的なシエアを確保し続けることができますから。もし漁獲量を人口ー人当たりの基準でわける というようなことがあるとすれば、貧しい国々が三分の二をとり、豊かな国が三分の一になります。それは道理にあわない、ということはべつにいえません。しかし又、あなたがひきあいにだしましたように、別の可能性もあります。国民の間にひどい蛋白欠乏症をかかえこんでいる貧しい国々が、この世界の共通資源に対して優先権を行使しうるような方式を提案するかもしれません。いずれにしても、北アメリカやヨーロヲバにいるわれわれの多くはいわば食べすぎています。必要をはるかにこえ た蛋白を消費しているのです。
あるいは動物のえさにまでしているということですね。
まさにそのとおりです。たとえばとり肉というような形で間接的にも消費しているのです。本気でとりくまなければならない重要問題の一つが、地理の資源と富をどう分配するかということです。アメリカ人は人類の六バーセントをしめていますが、世界の資源の三分の一を消費しています。貧しい国に住む二十億の人々が北アメリカの生活様式をあこがれるわけに行かないのは、まさしくそれだけの石油や鉄鉱石や蛋白などがないからなのだ、ということは国際開発関係者の間では一般的に理解さ れてきました。
中国で七億の人間が、貧しい生活をしているというのはよくないことかもしれないが、七億の中国人がみんな豊かになった日には中国はたちまち崩壊してしまうということですね。
多分中国が崩壊するというだけにとどまりません。セ億の中国人がみんな車庫に二台づつ車をもっているとい | |
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うようなことになれば、いうまでもなく世界の石油資源に大変な圧迫が生します。石油にせよ、鉱物にせよ、なんにせよ、アメリカ人が原則として国内にある資源に依存することができた間は、どれだけ消費するかの問題はほぼ国内問題でした。しかし、われわれは、自分たちの消費する資源をますます他国に依存しなければならなくなるにつれて、なぜ人類の六パーセントが世界のかけがえのない資源の三分の一を消費することを許されているのか、という問題につきあたらざるをえません。ア メリカ人として、われわれは、その問題を自問し始めなくてはなりません。なぜなら他国の人々がその疑問をますます多くとなえはじめ.われわれにそれに答える用意をしておかなければならないからです。この何週間か講演をした際、聴衆に対して私は次のように申しました。もし興味深くかつやりがいのある課題にとりくんでみたければ、机にむかってノートをとりだし、なぜアメリカ人であるわれわれが世界の資源の三分の一を消費することを許されてよいのかを五百語で説明してみなさい、と。 これは簡単に扱える問題ではありません。しかし、アメリカが他国の石油や鉱物の鉱脈を採掘する際の条件を交渉する場合とか、共通資源の配分方式が考慮される場合とか、さまざまな場合に、われわれがこれからますます直面しなければならない問題ではあり重す。 |