Seicho no genkai o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
(1973)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
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55 ジョン・マイヤージョン・R・マイヤー (John R. Meyer) 教授は、ニューヨークにある全米経済調査会 (NBER) の会長であり、コネチカット州ニューヘブンのイエール大学経済学教授である。 一九二七年ワシントン州パスコで生まれた。パシフィック大学およびワシントン大学で学び、一九五五年ハーバード大学で博士号を得た。一九六二年には、アメリカ経済の諸問題に関する大統領主宰の協議会に参加し、また同年、非軍事技術に関するホワイトハウスの審議会に参加した。一九六四年には、大統領主宰の交通問題に関するタスクフォースの一員となった。一九七〇年から七二年まで、人ロ成長およびアメリカの未来に関する大統領諮問委員会の委員もつとめた。また、ワシソトンにあ る全米科学アカデミーのコンピュータ科学・工学委員会の委員でもある。
サミュエル・バトラーGa naar eind〔註1〕がすでにこういっています。すなわち、あらゆる進歩はどんな有機体もみずからの収入の限界を超えて生きようとする普遍的な欲望をもっている、ということに基づいて行なわれる、と。『成長の限界』は、地球がどの程度その富と限界をこえて生きようとしているか、の目録作りの努力です。
確かにあれは、われわれが自分たちの行動を修正しなければ生ずることになる若干の問題に、注意をひきつけるという点でひじょうに有益な努力でした。しかしその反面、議論の基礎になる前提がひじょうに硬直的すぎるということも大体明白です。『成長の限界』は、人間が状況の変化に適応できない。またはしようとしないと仮定しています。これと対照的に、経済学者はこういった問題を論ずる場合、その生まれながらの本能によって、つねに、人間の行動には自己修正的な傾向があると仮定 しようとします。しかし、そのためにごんどは、経済学者の方が楽天的にすぎることになるかもしれませ | |
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ん。『成長の限界』で共同作業した物理学者やその他の人々の提示している主張や警告には、もっともなものが多くあります。
ジョン・ケネス・ガルプレイスGa naar eind〔註2〕は、かつて、経済成長によって多くのことが時代遅れになるために、昔ながらの知恵はますます役にたたなくなるが、その一例が経済理論だ、といったことがあリます。経済学者達は、なぜMITのモデルにきわめて批判的だったのでしょうか。
一半の理由は、モデルにくみこまれた硬直的な前提が、基本的な経済学的訓練や経験的な事実および理論にまさに反するものだからです。モデルにおける基本的な前提の多くが、科学としての経済学にさからうものだからです。それにしても、経済学者がこれらの理由で『成長の限界』をしりぞけてしまうのは早計だったかもしれません。『成長の限界』の分析によって指摘されているいくつかの間題の重要性を、経済学者は多分過少評価しているのです。多くの人間行動にみられる自己均衡的、修 正的性格について、経済学者は多分簡単に楽天的になりすぎるのでしょう。真理はおそらく両者の中間あたりにあります。もしどちらにより傾いているかを強いていおうとすれば、『成長の限界』の分析の基礎にある固定的パラメーターとか、自己修正的性格をもたない行動の側にではなく、むしろ弾力的なパラメーターや適応的行動を条件として考える経済学者の側にである、ということでしょう。
それにしても、あなたがたの全米経済調査会では、経済調査や経営のコンピュータによる研究の基礎をきづいてこられたわけですね。いいかえれば、あなたはこの種の研究にコンピュータを利用するという方法を高くかわないというわけではないのですね。
私は、モデル作成の補助としても一般経済調査でもコンビュータのもつ力にまったく夢中になっています。そのことがまた『成長の限界』はある意味でもっとも不運なものかもしれないと私に感じられるもう一つの理由なのです。たとえば、この本の未成熟で不適当なやり方のために、かえってコンビュータを利用する大規摸な行動モデルの設計や構成や利用に対する信用がおちることになるのではないか、と心配なのです。『成長の限界』のモデルは、専門用語でいうとクローズド・ループの固定 パ | |
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ラメーター系を基礎にしています。そのやり方が気にいらないのです。このような性格を前提にして (技術や消費行動などについての固定的な前提で) どこまでも延長していけば、かならず何かまったくこまったことになりそうな限界を示す解を導きだすことができるものです。けれども、基本的な点は、固定パラメーター、固定フィードバック、非適応的行動というこれらの仮定がおそらく正しくないということです。
このようなモデルに正しい前提をもちこむようにするためにも、システム工学者と経済学者との緊密な協力をすすめることは有用ではありま亡んか。
MITのチームは経済学を十分利用しませんでした。MITはわが国で、いや世界でも超一流に位する経済学部をもっています。MITの内部での交流にどんな問題があるのか私は知りません。私の推測では、これに関係した工学者や自然科学者の一部が、もちろん全部ではありませんが、参加してくれる経済学者をみつけだすほど社交的ではなかったのかもしれません。本当に私はMITの経済学者がよその経済学者とそれほどちがうとは思っていません。彼らはこれらの問題についての議論に喜こんで応ずるだけでなく 、むしろ進んで参加するでしょう。マサチューセッツ州のケンブリッジ地域には経済学の専門知識が存在していることは確かですし、それにどんな形でにせよローマ・クラブのチームにとって利用可能だったはずです。ですから、こんな疑問がでてこざるを得ません。彼らは本当にそういった情報をうけ入れたいと望んだのか、と。いうまでもなくフォレスタ -Ga naar eind〔註3〕の仕事が『成長の限界』の基礎になっていますが、彼のそれ以前のインダストリアル・ダイナミクスやアーバン・ダイナミクスも、実際岡じ弱点を特徴としているのです。フオレスターは、彼がモデル化しようとしている分野の基本的な業績を読まず、また、関連する現象について長らく研究してきたものの意見を求めないことで悦にいっているようにみえます。単純化には多分それなりの理由があるでしょうが、無知に度をこすこともありうるのです。そ して単純化が、あらゆるこれまでの調査や研究にまさに反するような経験的一般化を体現するところまでくると、懐疑的にならざるを得ません。
世界は、あなたがいう多元的世界管理、全地球的地球管理にむかって進みつつありましょうか。 | |
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イェスかノーかで答えろといわれるとそれは難かしい、と思います。しかし、私は、『成長の限界』で本当に的を射ている主張は、多分、われわれがこれまでに比べていっそう高い計画化の水準により一層の注意を払わなければならないという点だと、確かに思います。そのことが全世界的規模で行なわれるか、国や州、地域あるいは地区といったレペルで行なわれるかは、実際的な適用の問題であり、問題の種類に依存します。たとえば、アメリカで、広域的な計画を行なう地域がもっとふえて行 き、ある都市中心部といったものを超えて視野を拡げるようになり、土地利用や交流や一般的な都市計画問題をもっと大きい地理的関係でとらえられるようになれればよいと思います。他面では、明らかに重要な国際的なからまりあいをもった問題があることも確かです。たとえば超音速旅客機が環境に及ぼす影響は、飛行機を開発したイギリスとかフランスだけに関係する問題にとどまりません。
あなたは、労働者と『成長の隈界』を主張する生態学者との間に、衝突がおこるかもしれないと思いますか。
私は労働者をそのように性格づけたくはありません。持たざるものと持てるものとの間にさまざまな形の衝突がありうるでしょう。とくに国際的にはそうです。私はたとえばこんなうわさを耳にしました。ブラジル政府は、慢性的低水準の雇用と低所得が現在存在している停滞地域で雇用を増大させるものであれば、「きたない汚染産業」でも歓迎するというのです。もちろん、長期的にみれば、それによって新たな一連の問題が生ずるでしょう。世界の停滞地域で所得が上昇したあと、人々はなぜ われわれがこのような汚染産業をかかえこまなければならないのかという疑問を発するでしょう。そこでこれらの生態学上ないし環境よの問題に引きつづいて、新しい循環が少しばかりちがった形でおこることになるでしょう。ひじょうに雑多で多様な社会をもち、特殊な少数民族問題や貧困問題をもつアメリカ合衆国では、すでにこのような環境問題をめぐって、実際上の対立が生じてきているように思われます。多分その一部は根拠のないもので、高度の政治的行動や折衝によって修正されるでし ょう。しかしあるものは妥協がひじょうにむずかしいかもしれません。なぜなら、それらは、公共予算をどう便うかについてわれわれが設定しなければならない根本的な選択ないし優先順位の問題に、基本的には帰着する | |
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からです。
ハーマン・カーンGa naar eind〔註4〕は、この地球上に一人あたリ二千ドルの所得で二百億の人が住むことができる、と計算しました。このような未来学者の考え方については、あなたは経済学者としてどう思われますか。
第一に、私はその計算をひじょうにていねいに検討してみたいと思います。第二に、かりにその計算があたっているとしても、私はそのような世界には住みたくないと思います。それだけの人ロになれば、多くの好ましくない現象が派生的に生ずるでしょうから、私はもっとずっと少ない人口の世界に住みたいと思ます。まあ、あまりたしかとはいえませんが、ハーマン・カーンだってそう考えなかったわけではなくて、多分そのような考慮をしたからこそ、彼は計算をしてみる気になったのでしょ う。 |