Seicho no genkai o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
(1973)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
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52 エドウィン・マーチンエドウィン・M・マーチン (Edwin M. Martin) 大使は、バリのOECD(経済協力開発機構) の開発援助委員会 (DAC) の議長である。 一九〇八年、オハイオ州で生まれ、イリノイ州のノースウエスタン大学で学んだ。一九四五年には、アメリカ圏務省の国務次官官房における極東経済問題顕問となった。 一九四六年には鰻済保障政策局局長代理となり、一九四八年には国際貿易政策局局長代理、さらに、一九四九年にはヨーロッバ地域間題局の局長となった。一九五二年には、国務長官の特別補佐官に任命された。一九六四年リソドン・B・ジョンソソ大統領は彼な駐アルゼンチン・アメリカ大使に任命した。
『成長の限界』によって提起された問題を検討し、行動の方向を選択するためには若干の仮定の上にたつ必要がある。以下に私が自分自身の立場をあらかじめのべておくのは、まさにそれと同じ事屑のためである。まったく付随的な二~三の点を例外とすれば、それらは、論理的推論や事実による証明を簡単に与えうる種類のものではない。以下にのべる私の立場も、また同じ意味での仮定だといわれるかもしれない。まさにそのとおりである。しかしそれらは私自身のおく仮定なのである。 私は次のような信念をもっている。 (1) この地球およびその大気圏の外の資源をも利用するという前提をおいて予測をすることは不確定要因が大きすぎる。 (2) 人間はこの地球の資源を自分たちの福祉のために利用することに絶対的な優先度を与える。 (3) 何が人間の福祉であるかについては、人間の数と同じだけ多くの解釈がありうるが、私は各人がこの地球上に「生存」している期間内の福祉だけを考える。 (4) 各世代は、地球が未来の世代の福祉にも役立ちうるようにしておく責任をもっ。しかし、この要請にどのて | |
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いど高い優先度を与えるか、また、どの程度先の未来まで考えるか、は個人の政治的選択によるものであり、客観的規定は不可能である。 (5) 全人類はこの世で満足すべき生活をおくる平等の「権利」をもって生まれている。不平等は、過去および現在の入間の行動の結果であり、したがって人間によって変えることができる。 (6) 現在不満足な生活をおくっている者は、およそ次のような変化因子のためにそうなっているのである。すなわち.どの国で、どのような地域社会や家族のもとで、また、どのような遺伝子をもって、生まれてくるかにょってきまる変化因子のためである。 (7) したがって、幸運に生まれ育ってきたものには、他人の福祉水準を改善する重い責任がある。時にキリスト教的愛、あるいは博愛とよばれることのある態度はそれを意味する。 (8) 何が生活のよりよい水準を構成するのかは、文化によって、またしばしば個人によって、かっ同じ文化や個人でも時間の経過とともに、大きく変わるものである。この時間的な変化はここ数十年の間にますます早くなってきているようにみえる。 以上八つの点を基礎にして、私は『成長の限界』に関する次のような結論を導きだす。 1現在のような生活様式を続けていこうとすると、汚染、資源の枯渇、人口過剰といった深刻な問題が予想されうる。しかしその時期は、予想しがたい技術進歩の度合に依存し、また、われわれが社会や政治をきりまわすたくみさに依存する。 2消費の構成要素のなかにエネルギーやものが高い平均比率を占める現在のような生活様式が、永続すると想定する理由はない。むしろ逆のこともありそうにみえる。その点の如何によって、科学がよりよい解決を導きだすのに与えられている時間的余裕の幅は大きく変わってくる。 3それにしても、現在、人類の大多数は、福祉ないし生活維持のまさに最低限のまともな水準を可能にさせるだけの物質的財を、私的にせよ、公的にせよ、欠いている。したがって、ものの生産、エネルギーの消費、汚染の増大は、人ロのゼロ成長が逹成されるかどうかにかかわりなく、相当大はばに増大することが要請されるであろう。予見されうるかぎりの近い将来に必要とされる主たる調整は、生産に関するものではなく、消費の配分に関 | |
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ずるものである。楽なくらしをしている人にとって、スローガンは「ゼロ成長」ではなくて「ゼロ消費成長」でなければならない。豊かな国の内部での再分配問題とは別に、豊かな国から貧しい国へ生産および消費財を移動させる大きな新しい径路が見出されなければならない。 4 人口増加を遅らせるために克服されなければならない困燵や、生産物を世界的に再配分する場合の政治的障害などを考慮すると、世界の生産を拡大させる必要性は、なお何十年も続かなければならないから, 新しいェネルギー源や原料を見出し、それを効率的に利用および再利用し、また、その汚染上の影響を減少させる大きな継続的努力が払われなければならない。これらのことが、科学技術関係者にとっての大きな課題となるであろう。すでに一部では見られるように、物質的なものへの関心の低下が、多くの社会で進み、そのことがきわめて有能な人々の間での、科学技術の研究や開発に一生とりくんでいこうとする関心の低下をともなう、というようなことがないことが肝心である。 5 このように資源への圧力が継続することは、人類の一部が他の部分に対して守りを固めるための兵器生産にょって代表されるような、希少資源の浪費をできるだけ急速に減少させなければならないということへの追加的な理由になる。こういった脅威が継続すれば、未来の世代の生活を大いに混乱させる可能性がある。この点は、われわれの物質的・非物質的福祉が、現在および予見可能なかぎりでの近い将来においては、われわれの政治的熟練に大いに依存していることの重要な例ではあるが、ほん の一例にすぎない。したがって、政治的熟練を涵養することも、未来の世代にとって必要である。6 資源保護の重要性の承認は、未来の世代の生活経験を豊かにすることに貢献するものだ、とわれわれは信ずる-知ることはできない-が、このような配慮をしたからといって、現在生きながらほとんど生存水準を維持するだけがやっとのような人々の生活を改善する努力をあまり妨げるようなことになってはならない。これには現在の動植物の自然な分布に対する関心も含まれる。多様な種の存在が守られるということは確かにごく一部の人たちの生活を豊かにはするが、しかし、自然そのものが少なく とも何千という種を陶太してきている、という事実を忘れるべきではない。
『成長の限界』に閥して開発援助委員会Ga naar eind〔註1〕の一九七 | |
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二年報告にかかれたあなたの言葉からすると、あなたは『成長の限界』をやや悲観的すぎると考えているという印象がえられます。あなたは、成長率や未来の災害規模は、人間によって大幅に修正できる、と考えられるのですね。あなたがそのように人間の理性に信をおかれる理由は何ですか。
あなたが今引用なさったように、私は大幅に修正できると書いたつもりです。これは、修正されるだろうと確信している、ということではありません。軍事支出を一例とするような浪費の減少、問題にとりくむ科学技術的研究に対する適切な資金援助や高度の計画化、最高の頭脳をもつ人々がこれらの問題にとりくむ意欲、といったことを含めて、この問題を処理する政治的意識と政治的組織を見出することができるならば、そのあかつきには追加的資源を見出し、新しいエネルギー源を見出し、生 産にともなう汚染の影響を減少させる可能性が現実のものとなりうる、と私は確信しています。開発途上国の状況を考えると、われわれは生産を増大し続ける方法を見出さなければならないのだと私には感じられる、ということを強調しておきたいと思います。問題なのは、近い将来の生産を制限するということではなくて、現在生存維持の最低限で生活している、世界人口の過半数をしめる多くの人々が、少しでも人並の生活をおくることができるように消費を再分配することです。たとえそのため に、全体としての消費を適当な限度内におさえなければならなくなり、現在二台の車やモーター・ヨットをもって生活している人々は、ずっと低い水準でやっていかなければならないようなことになるとしても、です。このことは、世界で重要なのは何なのかについての信念を人間が変えることによっても実現できる、と思いますし、また、比較的豊かな国々では、物質的なことがらにあまり興味をもたず、人間の幸福に対するきめ手が個人の富であるとあまり信じない世代が実際に生まれつつある、 と思います。こういうことによって、消費の型がかえられ、したがって、生産に必要なものも、危機の到来を先にのばすように変えられるでしょう。
カール・G・ユンヴGa naar eind〔註2〕はかつて、「第一流の自然科学上の業績は、これまでに人開の精神によって達成された最高度の知的確実性を表わす」Ga naar eind〔註3〕といいました。あなたは, 自然科学者が必要な役割を果たし、必 | |
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要な決定を下せるようにすることができる、と思いますか。
それは多分私の世代の科学者のことをいっておられるんでしょうね。しかし私は、自然科学者が社会や政治の分野で活動して、社会の生活がどのように行なわれたらよいかに重要な影響を及ぼすようなことをどれだけできるか、については結局のところ悲観的です。概して自然科学者は確実なことを求めたがる人たちですし、絶対的なものを扱うのになれた人たちです。したがって、それぞれに異なった能力や願望や野心をもつおびただしい個人の間で必要とされる妥協といったこと、これこそまさ にあらゆる政治活動の核心といえるものですが、そういうものを取扱うのには困難を感じる人たちです。自然科学者が行なう発見は、社会的、政治的、経済的生活にひじょうに重要な衝撃を与えることがあるかもしれません。しかし、各個人としての彼らの関与は、全体としては、純真な、洗練されない、そして必ずしも役にたたないものだった、と思います。
しかし自然科学者によってまとめられた『成長の限界』のショック効果は、世論に健全な影響を与えたのではありませんか。
そのとおりです。あの本に、いろいろ欠点があるにもかかわらず、有益な形で問題に注意を集中させる役割を果たしました。それが自然科学者によって行なわれたといえるものかどうかは、多少疑わしく思います。それはシステム分析の手法によってなされたものですが、システム分析はどちらかといえば社会科学から派生してくるもので、物理学なり自然科学とはむしろはっきり区別されなければなりません。 |