Seicho no genkai o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
(1973)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
[pagina 447]
| |
51 ハリスン・ブラウンハリスン・ブラウソ (Harrion Brown ) 博士は、カリフォルニア工科大学の地球化学の教授であり、また科学および政治の教授でもある。また、ワシントンの全米科学アカデミーの海外部長でもある。
一九一七年ワイオミング州のシェリダンに生まれた。カリフォルニア大学で化学を学び、一九四一年ジョンズ。ボブキソズ大学で博士号をえた。
一九四二年から四三年にかけて、シカゴ大学ブルトニウム計画の研究員をつとめ、また一九四三年から四六年まではテネシー州オークリッジのプルトニウム計画に従事、一九四八年から五一年まではシカゴ大学原子核研究所の準教授であった。
多数の書物を出版しているが、その中には次のようなものがある。『破壊はわれわれの宿命か」 (一九四六年) 、『人間の未来の挑戦」 (一九五四年) 「百年後の性界」 (一九五七年).『戦争のない世界」 (一九六一年) 。
あなたは世界で最大のコンサルテイング協会だと考えられているワシントンの全米科学アカデミーの海外部長でいらっしゃいますね。七〇年代の国際的な学界の動向をどうごらんになっていますか。
全米科学アカデミーの私の部署の基本的な仕事は、他の国の同僚たちとの緊密な協力関係を維持し発展させることです。その国がどこにあろうが、政府間の政治的差異はどんなものであろうが、それとば無関係です。社会主義諸国ともひじょうに友好的な関係を維持しています。また、第三世界の諸国とも、ヨーロッパやオーストラリアやその他の国にあるわれわれの姉妹アカデミーとも、ひじょうに友好的な関係を維持しています。
中国はどうですか。
ちょうど中国との関係を発展させはじめたところで | |
[pagina 448]
| |
す。これまでに中国の団体を二つうけ入れました。最初の団体に医学団体で、アメリカで二週間すごしました。第二の団体は自然科学者の団体です。物理学者、生物学者、化学者がふくまれており、ちょうどその人達は今われわれの招待客としてアメリカを旅行しているところです。ここでもう一度いっておかなければなりませんが、両国政府間には極めて重要な政治的差異がありますが、われおれば科学者としてきわめてうまく協力しあっています。
ざっとみたところ、世界中で約七十五万人の科学者が活動しています。われわれはお互いに連絡しあうことができ、お互いに話しあうことができるのです。もちろんそれぞれ分野がちがっているという事実からくるギャップはあります。生物学者は、物理学者と諸しあう時に若干の困難を感ずることがあるかもしれません。しかしわれわれ科学者ば、非科学者に比べて、異文化の接触にさいしては、はるかに効果的な意志疎通ができると思います。科学界を構成する世界中の人々が、世界の問題を同 じような仕方でとらえる傾向がいかに強いかは、おどろくほどです。われわれは、まさに何が、解決を真に必要としている主要な問題であるか、ということについておよそ同じようなとらえ方をしています。
国連大学の構想が決まりましたが。
科学の世界の「国際連合」は科学者団体国際協議会 (International Council of Scientific Unions) とよばれています。それは国単位ではなく、科学者の組織を単位として構成されています。われわれは、あらゆる科学者団体が科学者団体国際協議会の活動に参加する権利をもつにずだと思っています。ですから、メンバーの中には、西ドイツのある大きな科学者団体や、東ベルリンの科学アカデミー、北べトナムと南ベトナムそれぞれの科学アカデミー、北朝鮮と南朝鮮それぞれの科学アカデミー、などが加わっているのです。
あなたの『人問の未来の挑戦』Ga naar eind〔註1〕の中で、とりわけアメーバの指数的成長にっいて論じている箇所は、フオレスターの法則やローマ・クラブのことを思いださせます。あなたは、この先駆的な仕事がアメリカで、あるいは世界の学会の中で、どのようにとらえられているとお考えですか。
『成長の限界』の研究が人々に熱烈な賛否両論をよびお | |
[pagina 449]
| |
こしたことは、まったく明らかです。私の見方は次のようなものです。われわれが未来をみとおす努力をすることは絶対に不可欠です。もしわれわれがそうしなければ、人類にもはや脱出できない苦境にみずからを追いこんでしまうことになるのはほとんど確実です。未来を見とおすわれわれの能力は、あまり優秀ではありません。われわれは予測の仕方についてひじょうに多くのことを学びつつあります。しかし、われわれの現在の能力があまり大きなものでないという事実があるにもかかわら ず、われわれの技術を改善するように努力しつづけることは重要です。たとえば、人ロ成長と技術的変化の相互関係、技術的変化と天然資源との間の相互関係、技術的変化と人間環境との間の相互関係を理解することは, ひじょうに重要です。技術的変化を社会的変化との関連でとらえることは、ひじょうに重要です。新しい技術は、人々の生活様式をどのようにかえつつあるでしょうか。人類史を全体としてとらえる場合、われわれは、社会の大きな変化が、比較的単純な技術の採用の結果生じていることを理解します。基本的な一例をあげれば、食物採集技術から農業技術への転換は、恐らく人類の全歴史の中で唯一最大の社会的文化的変化をうみだしたといえましょう。
あなたの四っの未来Ga naar eind〔註2〕という考え方を説明していただけますか。
もし私が仮に宇宙の賭博師で、世界をずっと遠くからそこに何がおこりつつあるか吟味しながら眺めているとすれば、私は、地球の未来に関しておこりそうなことは、確率の大きいもの順にいえば、次のようなことだというでしょり。基本的にもっともおこりそうなことは、不安定性があまりにも大きく、またナショナリズムがわれわれの生活に影響を及ぼす度合いがひじょうに大きくなるため、だれかが爆弾をおとすようになるのはまったく時間の問題だ、ということだと思います。とすると、も ちろん大きな破局がおとずれるわけです。私はそのような破局であっても、それが全人類を滅ぼすとは思いません。しかし、新しい文明が古い文明の廃墟の上に生まれてくるのが極めて困難だとはたしかに思います。そのようなことが中世におこったのを、われわれは知っています。当時ローマのすぽらしい文明は姿を消し、あとに続いた世代が古い文明を食いあらしたのです。何か新しいものが創造されうるまでに数世紀を要しました。今日、われ | |
[pagina 450]
| |
われは、かって文明を築きはじめたばかりの時には手に入れることができたような良質の資源を、もはや利用できない時代に住んでいるのだ、ということに留意していなければなりません。年を経るごとに、われわれの資源的基礎はますます低下していきます。だからといって、もうどうしようもなくなったというわけではありません。何とかやっていけることは確かです。問題は、ただ、必要な技術を開発することであり、また、エネルギーを確保することです。必要とあらば、われわれは、最 低の共通基盤ないし資源であるただの岩を用いても、ひじょうに高度の文明の水準を維持することができるでしょう。しかしそのような文明が破壊されたとすればどうなるでしょうか。道具ももたない原始的集団は、ただの岩の上で暮していくことはできません。
その次におこりそうな未来というのは、われわれがどうにかこうにか「爆弾」の破局だけは避けるという場合です。もし事態が現在進んでいるのと同じように進み続けるならば、明らかに人類はごつのまったく異なった文化に分割されたままでいることでしょう。すなわち、富んだものの文化と貧しいものの文化です。どんな指標でみるにせよ、つまり一人当たり国民所得とか、一人当たりエネルギー消費とか、一人当たり鉄鋼消費とか、そのどれについてみても、それらは富んだ国でも貧しい国で もともに増大していきます。同じ率でふえていきます。その意味するところは、富んだ国は一人当たり貧しい国の二十倍の豊かさを維持し続けるということです。富んだ国の人達は、一人当たり、貧しい国の二十倍のエネルギーを消費し続けます。ところで、貧しい国はそのエネルギー消費を増大させますが、同時に人ロ密度も増大してゆきます。その結果、少数者の富と、ますますふえる多数者の貧困の永続化が予見されます。二つのグループの間の紛争の発生と、生活様式からみた両者の完全な分 離の継続とを思い描くことができます。
第三の可能性は次のようなものです。高度工業文明の分裂のしゃすさからみて、また開発途上国における民主的な制度のもとでの低成長率と、強力な全体主義的制度のもとでの高成長率という点からみて、豊かな人々の文化も貧しい入々の文化も、両方とも、強力な全体主義的統制の方向にますますひきつけられていくことになると考えられます。この点についての例は、ラテンァメリカでみることができます。また今日の中国でみることができます。中国では、多くの私の中国人の友達が、まった | |
[pagina 451]
| |
くざっくばらんに、中国は多分民主主義のもとでは発展できないだろうといいます。ラテンアメリカの私の友人は、アルゼンチンは民主主義のもとでは発展できないといっています。ブラジルも民主主義のもとでは発展できないといいます。
インドネシアもそうですか。
インドネシアもその例に入ります。このことと、西側でおこりつつある状況とを、つきあわせてごらんなさい。西側世界でもわれわれはますます多くの紛争を目にしていますが、その紛争は、社会を崩壊させることがひじょうに容易であるという事実から生まれているのです。ハイジャックや一斉停電やストライキの影響があります。たった一個の爆弾を一東部都市の電力システムにうまく命中させれば、東部海岸全体を混乱させることができます。政府が、こういう事態に対応すべく、統制のいっ そうの強化を主張することになるのは、まったく当然です。全体主義的な世界の成立を想像することはむずかしくあり玄せん。 私がこれらの三つの未来の世界のうちのどれかを唱道しているのだ、ということでは決してありません。これら三つはまったく身の毛もよだつ予想です。最後の第四の未来も達成可能だと私は信じます。それ鳳もっとも確率の小さい未来でもあります。人間は、世界中のあらゆる人々にとって自由で豊かな、そして創造的でさえある生活を、おくれるような世界を創造しうるだけの、力を備えていると、私は確信しています。われわれはそれだけの力をもっています。われわれが本当にその力を発揮 し、そのカを利用することになりうるかどうか、という問題が残るだけです。その力ということでいえば何といっても、われわれはすばらしい力をもっています。われわれが限りないエネルギーをもち、すばらしい技山術をもっている、という事実によってわれわれに与えられている力です。今日の世界にある飢餓は絶対に許しがたいものです。貧困、疫病、そういった人類の伝統的な災厄は許しがたいものです。 われわれがこのようなカを発揮することを妨げている一つの敵をさし示す必要があるというのなら、私はナショナリズムをあげます。われわれは一三〇の独立国がある世界に住んでいます。歴史上このようなことが一定の意味をもった時代がありました。つまり、当時世界は大きかったのです。今日、世界は大変小さくなっていま | |
[pagina 452]
| |
す。今日のわれわれは、一三〇の独立国というこの虚構を永続させようという思想ほど危険な思想を、他に抱くことはできません。これらの国が何らかの形で共通の法律の支配のもとに集まり、全人類のための共通の政府のもとに集まる、ということはきわめて重要なことです。わが国の歴史をふり返ってみましょう。わが国の発展のひじょうに初期の段階では、わが国は、一三の分離した独立国になりおわる、重大な危険におかれていました。幸いなことにそうはなりませんでした。それはまさ にきら星のごとく並んだ抜群の知性と能力をもつ人物たちがいたからです。たとえばトーマス・ジェフアーソン〔Ga naar eind註3〕べンジャミン・フランクリンGa naar eind〔註4〕、アレグザンダー・ハミルトンGa naar eind〔註5〕といった人達がそれです。ハミルトンはかつて、一つの問題をたて、みずから問うてみました。一体なぜ政府なるものが作られることになったのかと。「それに人間の情熱は、制限されない限り、理性と正義の命ずるところにー致しようとしないからである」というのが彼の答でした。彼は連邦法による支配が個人にまで適用されることを支持する論陣をはったのでした。アメリカでは事態は結局そういうことになったのです。これまでのところ、それはかなりよく機能してきました。世界が本当 に今日の窮状からぬけ出そうとするならば、われわれは世界法の支配が個人に適用されることを期待せねばならないと、私は感じています。われわれは、ナショナリズムが時代錯誤であることを認めなければなりません。われわれは、長期的にはーつの世界にならねばならないということを、認めなければなりません。さもなければすべてが無に帰します。 |