Seicho no genkai o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
(1973)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
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47 ジャン・フランソワ・レベルフラソスの作家、ジャーナサスト、哲学者「ジャン・フランソワ・レぺル (Jean Fanncois Revel ) は一九二四年マルセイユで生まれた。バリのソルポソヌ大学で学び、哲学博士の学位をえた。メキシコシティーのフランス学院 (一九五〇~一九五二年) や、イタリーのフロレンスのフラン入学院 (一九五二|一九五六年) で教鞭をとり、またリールとパリの各大学で教授の職についた。 一九六三年には学界をしりぞき、専業の文筆家およびジャーナリストとなった。ポール・A・サムエルソンが『ニューズ・ウィーク」のために書いているのと同じように、レベルは、フランスの週刊誌『レクスプレス』でコラム担当している。 その著書『マルクスもキリストもなしに-新アメリカ革命は始まっている』は、アメリカで多くの注目をあつめた。現在に『西洋哲学史』の蓍作にとりくんでいるが、このうち二巻はすでに完結し, 一九七四年にアメリカのダプルディ社から出版される予定である。
あなたの本Ga naar eind〔註1〕の冒頭に、現代の、今世紀の革命はアメリカでおこるという予想がなされてい蜜すね。この場合、革命とはどういう意味でずか。
革命とは変化のことです。革命という場合に考慮に入れなければならないのは、通常の革命的現象学の類のものではありません。そういう意味でこの言葉が使われることはよくありますが、考慮に入れなければならないのはまさしく変化の実質です。例をあげてみましょう。フランスでは一八四八年の革命ということをいいます。私の意見では、三カ月しか続かなかったものを革命というわけにはいきません。その後第二共和制がしかれて約二年間続き、さらに引き観いてナポレオン三世のもとでの 二十年間の独裁制がやってきます。革命を論ずる場合、社会のいちばんの奥底にまで及ぶ結果に注目しなければなりません.今日のアメリカは、私には、ある程度世界 | |
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の革命のるつぼのように思われます。
あなたの本の一八三ぺージに, あなたがなぜアメリカこそこの種の革命の原型をなす国だと考えるか、が述べられています。経済的繁栄の継続とか、成長率とか、個人の自由の是認とか、という理由をまとめておられるわけですね。世界がものすごくアメリカナイズされていること、アメリカで現在おこりつつあることに対比してみると、日本はどうでしょう。日本は、その増大する影響力と経済成長をもって、アメリカが西側世界でやったことを東側世界で達成することができるとお思いですか。
はい、私は日本がアジアに、特に中国に大きな影響を及ぼすと思います。ただし、日本が、今日までに実現してきたものは発展なしの成長というやつです。
それはどういう意味ですか。
それが問題のキーポイントだと思いますから、あとで成長の限界について論ずるさいにもう一度その点に言及テ一クオフすることにしましょう。日本は経済的離陸を実現はしましたが、文化的革命を実現してはいません。私の本の中に、真の革命の五つの構成要素があげてあります。その中の一つ、たった一つにすぎない要素が、経済成長です。十八世紀末頃のイギリスの大革命 (といっても、十七世紀の第一次産業革命を問題にしているのではありません。あれは純粋に政治的な、古典的な型のもので、ギリシャでもおこりえたかもしれないようなものですから、今の問題には関係ありません。私がいっているのは、十八世紀末のアメリカ、イギリス、フランス、オランダを含む世界革命、大西洋革命のことです) は、イギリスでおこった最初の経済的離陸によって可能にされました。日本は経済的離陸を実現してきました。しかし、新しい型の文化や行動様式を世界のためにっくりだしてはいません。たとえばアメリカでみられるような、ウーマン・リブとか、ボップアートやボッブミユージック、それに対抗文 化Ga naar margenoot+とかコンミューン、すべてのそういったたぐいのもの-われわれの感じ方、世界のとらえかたにおこっているわくわくするような大転換、そういったものを、日本はなんらつくり出していないのです。 ジャン・ジャック・ルソーGa naar eind〔註2〕によってなされた世界認識の完全な逆転は、フランス革命にとって、たとえばモンテスキューGa naar eind〔註3〕の政治思想におとらず重要でした。 | |
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ルソーは古典的な見方を逆転させました。ルソーは、一種の感情的衝動を、自然についての、教育に対する、新しい態度を生み出しました。注意してみれば、多面的な革命が行なわれる時にはいつでも、教育の大変革がおこっています。十八世紀ではジャン・ジャック・ルソー、今日ではアイヴァン・イリッ クGa naar eind〔註4〕です。数年前ヨーロッパに伝わった新しい教育学の考え方は、すべて一九六〇年代のはじめにアメリカで形成されたものです。それは新しい文化-新しい文明のための新しい種類の実験室になるのです。
あなた、『成長の限界』と同じ考え方をしておられますね。世界的な思考でもってこの地球に挑戦しようというわけで、これこそ世界的革命の考え方ですね。
ローマ・クラブは重要な問題を提起しました。あれは有益でした。一九六五年か六六年頃に、カリフォルニア州のコンミューンのマリファナ愛用者たち、豊かな社会のなかば発狂した寄生虫とみなされていた連中、そんな人々がしていた考え方がいまや現代世界の大テクノクラートがたが思いをめぐらす中心課題になったとは、いやはやゆかいなことです。最近、ハーマン・力ー ンGa naar eind〔註5〕といっしょに昼飯をくいましたら、カーンは、ガンタル文化というやつはもうほろんだというんですな。私はいってやった、ガンタル文化はほろんでなんかいやしない-そもそもぎみがぼくに話していることはぜんぶ、五年前にガンタル文化が生みだした考え方そのものじゃないか、とね。もっとも効果的な革命とは、その敵によって受け入れられ、知らぬまに浸透するような革命なんです。 専門家のなかには、『成長の限界』は〔コンピュータに〕ガラクタを入れてガラクタを出した傾向が若干ある、という人もいます。おそらくこの報告の最大の貢献は、われわれが環境問題、エネルギー資源の枯渇の可能性、それからもちろん第三世界の問題を、前にもまして強く意識するようになる、ということでしょう。
しかし、成長と発展とは区別しなければなりません。成長とは純粋に量的な概念で、成長だったらいつだってしているんです。ハイチとかタンザニアにさえ、成長はみられます。ロシアの成長率もたいへんなものです。しかし生活の質は悪く、平均的ロシア市民の日常生活は一種の低開発国のそれで、昨年みられたように饑餓線上にまでくることさえ時にはあります。発展とは、それとは別のものです。発展は、政治構造や文化の変化を伴うもの | |
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です。十八世紀末のイギリスやフランスにおける工業的離陸のさいにみられたのは、単なる経済成長だけではありませんでした。それと同時に、文明の変化、政治的変化、道徳的変化、芸術的変化、哲学的変化、家族構造の変化、あらゆるものの変化が進行したのです。 第三世界のひじょうに多くの諸国が、なぜ自力で発展し貧困を克服しないのかという理由は、グソナー・ミュルダールが正しく指摘しているように、われわれ先進世界の専門家が経済的側面だけしか考慮に入れてこなかったことにあります。お金を送ってやりさえすればよい、そうすれば人間の態度や下部構造を変えなくとも、新しい政府や新しい経営方法がなくとも、経済的離睦を生じさせうる、と思ったのです。たとえばラテンアメリカでは、出産増加の抑制は文化的道徳的要因のために不可能 です。ラテンアメリ力の人は子どもをほしがります。もしわれわれがメキシコ・イソディアソの婦人に避妊用の錠剤を与えると、彼女の夫は彼女をこらしめます。なぜなら彼は彼女が錠剤をのむことを好まないからです。彼は、彼女が男の子をたくさん産むことを望んでいるのです。成長とは、純粋に経済学的概念です。発展とは、経済的蓄積とあらゆる領域での革新とが収束する点に存在するものです。それが私の答です。私見によれば、純粋な経済的意味での『成長の限界』の問題は、技術的な問 題です。経営の問題です。私があれやこれやの用途に石炭や石油を使うのを減らそうと決心したという事実は、純粋に技術的問題です。その意味で、私は『成長の限界』は認めますが、発展の限界を認めることはできません。
マルセル・ブルーストGa naar eind〔註6〕が、かつて、病気こそ患者に従順を強要することのできる唯一の医者である、といったことがあります。あなたは、現在地球が当面している問題が非常事態宣言に相当するものだ、と思いますかGa naar eind〔註7〕。
そう思います。しかしながら、次のようにつけ加えたいと思います。私は、世界的規模での解決ということを別にすれば、もはや解決はないと思います。残念ながらもはや手おくれだというだけです。政治的にみて、もはや手遅れなのです。世界の特定の地域に技術が集中しすぎていて、世界の他の地域では技術が不足していると思います。しかも、われわれが世界の開発途上地域に、富ないし資金をっぎこむのと同じように、技術をつぎこも | |
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うとすれば、それは、これらの地域を管理するある種の世界政府が存在することを意味するでしはう。私は、どうしたって豊かな西側世界から、まずアミン将軍Ga naar eind〔註8〕に成長を制限するよう求めることができるとは思いません、なぜなら、まず第一にウガンダには成長らしいものはまったく、あるいは少なくとも十分にはありませんから。また第二に、たとえアミン将軍が経済的離陸を実現しえたとしても、彼が生みだそうとしているたぐいの文明はいわばひじょうに嫌悪すべきもので、そんなものをつくりあげることにはおよそ意味がないからです。大問題なのは、一方で先進世界の指数的成長ということであり他方でいわゆる発展途上国の非発展、つまりこれ らの国々はまったく発展してない、ということです。これは世界の問題であって、私たちは、民族国家の虚構を、ドゴール流の哲学を、完全にすてさらなければなりません。
シャルル・ドゴールは、民族を問題にしたことはまったくなく、国家を問題にしただけです。
そうですね。だから、私は、ポルトガル政府がモザンビークやアンゴラでしてきたことを、当然の権利があってそうしているのだと感ずることは、誤りだと思うのです。民族というものは歴史の偶然によって生じたものです。誤解しないでください。私はもちろん文化的多様性は尊重しているのです。
あなたは本の中で双務協定には反対だと述べておられましたね。双務脇定は疫病を避けるように避けねばならない、と書いておられましたねGa naar eind〔註9〕 。アメリカとロシアとが SALTGa naar eind〔註10〕協定を案現しましたが、あれはヨアヒム・フオン・リベントロープGa naar eind〔註11〕とビアチェスラフ・M・モロトフ〔註12〕スターリンの外務大臣。の間に結ばれた一九三九年の条約のことを思い出させます。核戦力条約をどうしたら世界的なものにすることができるでしょうか。どうしたら世界を安全にすることができるでしょうか。
ひじょうに特殊な間題-安全保障問題にふれてきましたね。二つの大核戦力国といくっかの小核戦力国とがあるのは事実です。SALT交渉は必然的に双務的なものになります。その分野で大きな戦力をもった国は二つしかありませんから。
しかし、その条約は世界の安全を少しも高めはしないでしよう。 | |
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いや、安全にしていますとも。ある程度は。なぜなら、それは完全に排他的な双務協定でもありませんから。たとえぱ、アメリカ側からヨーロッバ諸国にある程度の打診が行なわれています。もちろんそれは十分ではありません。しかし何もないよりはましです。多角的協定に向かうものとしてば、私はたとえば徐々に進展しつつあるヨーロッバ統合とか、あるいは汚染と環境に関するストックホルム会議のような現象を念頭においています。
独裁者にしても、民主的に選ばれた政治家にしても、政治家たちはみんな、民衆の意識からはるかに遅れているようにみえます。
そうです。そして革命がおこるのは決定的な問題での開きが五年とか十年くらいの場合です。開きが五十年にもなうたら万事休すです。しかし、人々はますます国際的な精神をもつようになっていますから、その圧力で政治家たちがもっと早くそのことを理解するようになれば、国内問題と外国問題とをわける壁はけっきょく崩壊するでしょう。
あなたは本の中では.それ以上のことをいっておられるようですね。外国同題というものがなくなると。
なくならなければならないのです。外国の問題だとされている限り、それらの問題は人類に害を及ぼすことになると恐います。なぜ外国の問題だといわれるのでしょう。みんなわれわれの問題なのです。われわれはもちろん、マクルハー ンGa naar eind〔註13〕がいうような地球村をめざしているのではありません。多分、都会を問題にしなければならないでしょう。しかし、それはブリッツ・ラングの表現主義映画のような意味でではなく.ギリシャ都市の意味でです。
多分マクルーハンは、彼独特のユーモ7感覚で村という言葉を使ったのです。ともかく、あなたは、シェルとか7イリップスといった大会社のようなやり方で、地球の経営を飴めようという『成長の限界』の考え方に、賛成なのだと思いますが。
そうです。しかしそのためには、まず民主主義を規制しなければなりません。第三世界ではそうはできないでしょう。第三世界の人々はまだその種の大衆操作を実行 | |
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するだけの文化水準に到逹していません。彼らの変化はひじょうに級慢です。それが悲劇なのです。
それは政治問題ですか。
そうです。政治的な、また文化的な問題です。
ノーム・チョムスキーGa naar eind〔註14〕が私に、知識人のプロレタリア化について語ってくれました。あなたは、心ある人々が革命化し、一団となって、政治家がしなければならない仕事をほんとうにするように、十分な圧力をかけることができるとお考えですか。
現在の政治体制は、完全に古風なものです。個人が権力の地位に達するしかたがそうなのです。私は、世界の大部分が独裁制にょって統治されているという事実だけを問題にしているのではありません。いわゆる民主的な三分の一の国も、ひじょうに古風なのです。人は広告によって票を獲得します。
マクギネスの『大統領の売りこみ』Ga naar eind〔註15〕ですね。
マクギネスはその一例です。ロバート・レッドフォードが出演した「マッケイに一票を」という映画なみましたか。私は、現在の政治指導者を駅馬車にのった御者と思いくらペます。現代社会は、ジャンボ・ジェット機です。ところが、そのパイロットの代わりに、一八八〇年代のアメリカの西部の荒野から、御者が鞭をもち、拍車をつけ、テキサス・ハットをかぶって現われます。そして彼は、かって十九世紀の末に駅馬車を駆ったのと同じょうに、ジャンボ・ジェットを飛行させることができる と思っているのでず。そして、争点になるのはいつでも、もっと民主化をという問題です。結局のところいつだってそれが解決になってきました。人類の歴史において、それ以外の形で、つまり単にもっと民主的に、もっと多くの参加を、文化的な参加を、ということ以外の方法で、解決されてきた問題は一つとしてありません。問題を理解することができる人が多くなればなるだけ、それだけ民主主義が進みます。アメリカでは、そして、アメリカほどではないにしても、西ヨーロッパでも一世紀前 の五パーセントに対して今では人口の三分の二が、何がおこりつつあるかをほんとうに理解することができるようになった、といえましょう。世界は実質的な民主主義に近づきつつあります。 現代の革命-新しい種類の革命は、新しいものだと | |
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いうことを忘れてはなりません。それは今までにもみられたようなことではないのです。真の革命というものは、過去のどんな革命の形態とも比較されうるものではありません。比較されうるようなものなら、それは革命ではないからです。ますます多くの人が教育を受けるようになっていきます。一九九九年にはアメリカの若者の九十パーセントが大学教育を受けることになるでしょう。しかし、われわれは、世界的計画なしには、『成長の限界』に要約されているような人類の大問題を解決す ることはできないのです。同時に、人間ばますます多くの個人的自由を要求します。ここに完全な矛盾が生じます。したがって、計画化は、個々人のさまざまな選択が収束してくる結果として、行なわれなければならないのです。これこそ、民主主義の眼目です。
われわれは、集中的計画と僧人的創造性との間に、大きな協力がおこらなければならない点に到達すると思います。「私は汚染には反対だ」といいながら、同時に「私は勝手にやりたいことをやるのだ」というわけにはいきまぜん。「私は自由な人間なのだから、千リットルの油を海にすてるのだ」というわけにはいきません。それはまったく気ちがいざたです。毎日耳にしているこれら二つの考え方の両方を支持することはできないのです。われわれは、ソルボンヌ大学の壁の落書きにあるように 、「禁ずることを禁ず (II est interdit d'interdire) 」というわけにはいかないのです。一方では成長を実現しなければならない。他方では成長を止めなければならない。個人の自由を制限せずにどうして成長を止められましょう。これが世界の政治問題であり、現代の道徳的文化的問題です。
これが問題の核心です。問題の解決をもたらすためには、新しい型の社会契約、世界的社会契約がただひとつ必要とされるだけでしょう。 |
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