Seicho no genkai o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
(1973)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
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46 ハーマン・カーンハーマン・カーン (Herman Kahn) 博士は、二ユーヨークのクロトン・オソ・ハドソンにあるハドソン研究所の所長である。 一九二二年、ニュージャージー州パイョンで生まれた。ロサンゼルスの南カリフォルニア大学に学び、ノーベル賞受賞者のライナス・ポーリソグ博士Ga naar eind〔註1〕に師事した。 一九四五年にダグラス航空会社に入社。一九四七年にカリフオルニア州サンタモニカのラソド・コーポレーションに移り、一九四八年から一九六一年まで軍情報本部に勤務した。一九六一年にシンク・タンク、ハドソン研究所を創設。 その著作の中で重要なものには、『組織戦争論』"OnThermo Nuclear War"(1960) 『考えられないことを考える』 ‘Thinking about the Unthinkable’ (1952) 『紀元二〇〇〇年』The Year 2000 ‘(1967), 「われわれはベトナム戦争に勝てるか』 ‘Can We Win in Vietnam?’ (1968), 『弾導弾迎撃ミサイルはなぜ必要か』 ‘Why Anti Ballistic Missiles?’ (1969) がめる。一九七二年には歴史学者B・ブルース=ブリッグスとの共薪『世界はこう変わる』 ‘Thingsto Come,’ Thinking aboat the 70s and 80s が出版された。 ヴィクトル。ユーゴGa naar eind〔註2〕 はかつて、時宜に適した7イデアほど強いものはないと言ったが、「成長の限界」はその種のアイデアだと思うかい。 そうだと思うね。それも二つのまったく別々の理由でね。その一つは、こういうことだ。今日では、地球環境に与える人間の影響力が非常に大きくなったので、すぐにも次のようなことを自問してみることが、大変重要になっている。つまり、孫や曾孫たちのために、いま何をしておいてやろうか、という問いがそれだ。現在の政治・経済過程には、この連中の意見はある意味でまったく代表されていないんだからね。たとえば、価格機構の中には一〇年か二〇年以上先のことを評価にいれるための 割引機能はなにもない。政治は、口ではどういおうと五 | |
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年以上にわたる将米計画なんか立てていやしない。個人の中には、その家族について二〇年、三〇年先までの計画を立てているひともいるかもしれない。だが、一般的にいって、孫や會孫のことまで心配している人間はまずいない。第二の理由は、われわれが地球を全体として管理せねばならなくなったということだ。ここで二ーチェを引用しておこう。概していえば、これは根本問題にふれたことばだがね。 『不可避的に、ためらいがちに、運命のごとき恐ろしさもて、かの大いなる課題、大いなる問題は近づく。されば、地球は全体としていかに管理さるべきや、人類ーーもにや国民や人種にはあらずしてーはいかなる目的のもとに産み育てるべきや』 中立的な見方をすれば、この間いは正確でない。二ーチェのいいたいことを汲み取って考えれば、まったくの間違いをいっていることになる。私の考えでは、この種の問いに対する答えは、山の頂上にいたる道はたくさんある、というものだ。これは、あらゆるアジアの宗教や習慣のなかにある考え方だがね。つまり、いわゆるモザイク文化を作ることが、この問いに対する答えになる。モザイクでに完全に中立的な答えにはならんだろうが。つまり.世界のほとんどの部分は、この五〇~一〇〇年以 内に、脱産業型文化をもつようになる。たとえばOECDの諸国では、今世紀末までにそうなる。
どんな文化だって?
脱産渠型文化さ。この脱産業型文化の特質は、豊窟な原材料と汚染制御の十分なゆとりとをもち、万人に非常に高い生活水準を与えるという問題は取るに足らぬものとなっているところにある。これはローマ・クラブと正反対のものだ。いいかい。正反対なんだよ。くどいようだが一〇〇パーセント反対なんだ。ところで、まず最初にぼくがローマ・クラブの立場に同意するいくっかの点を強調しておこうか。 第一に、われわれは孫や曾孫のことに目を向けるべきであり、そして彼らのためには何が大切かを自問してみるべきだということ。この種の計算には不確実性がつきものであり、したがって子孫のさほど大きくもない利益のために現在大きな犠牲を払う気にはなれないことに理解しなくちゃならない.この点の適切な証明は、犠牲的行為をとるときの人のしかたを見てみるだけで十分だろう。しかし、犠牲的行為をとるつもりになっているかぎ | |
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りでは、右の問いを出してみることは非常に適切だ。第二の適切な問題はこれだ。つまり、自然界には指数的成長曲線というようなものは存在せず、ほとんどすべての曲線はS字型のロジスティック曲線と呼ばれる型のものだということだ。それらの曲線は上昇し、やがて次第に頭打ちになる。議論が分かれるのは、いつ、また何故に、それらが頭打ちになるかという点をめぐってだ。ローマ・クラブによれば、それは飢餓と汚染のためだというのだが、ぼくの方はむしろ繁栄のためだと信じている 。つまり、人々が、欲する以上のものを持つことになるからだ。それは、世界総生産の大きさでいって、ローマ・クラブが示唆した水準の約一〇〇倍のレベルに到達する時だ。約一〇〇倍だよ。われわれは、この点の研究には五〇人/隼を投入しなければならないと考えている。今のところそのうちたった一年分をすませたにすぎないがね。
ハドソン研究所でかい?
そら。つまり、ハドソン研究所は、やりたいと思っていることの約ニバーセントほどを完了したということだ。この二バーセントをやっている間に、われわれの気持は非常に大きく変わっていった。そのような変化がもう一度生ずるとは考えられない。いいかえれば残りの四九年ぶんのうちには、最初のニパーセントをこなした間に生じたような気持の変化はまず起こるまいと思っているんだ。じゃあどんなふうに気持が変わっていったのかということを次にお話しよう。最初の研究のころは、高レ ベルでの経営能力と非常に大きな技術進歩がなければどうにもなるまいとわれわれは考えていた。それがえられるという信念を持たねばならないと思っていた。ところがいまでは、既存の技術でも十分やっていけるという結論に達したんだ。つまり、より高度なものとなるだろう未来の技術をもってすれば、問題はずっと容易に解決できるということだ。そのためには、どの程度の経営能力が必要とされるか、それはまだわかっていない。しかし、ほぼ中程度のレベルの経営力で十分やっていけるだろ うと考えている。ね、ずいぶん立場がちがってきたものだろう。 ローマ・クラブの主張が正しいのではないかと思われる点は他にもあるが、ぼくは彼らが誤っていると思う。だって問題があるんだから。一九五五年の六月にさかのぼるが、J・フォン・ノイマンという男が『フォーチュン』誌にひとつの論文を書いた。これは、この種の問題 | |
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についてこれまでに書かれたもののうちでは、一番光っている。ばくは、ハドソン研究所で、人類の将来とかあるいはそれに類したテーマで研究会をするときには、いつでもこの論文のコピーをみんなにくばったものだ。この論文は、世界にはもうわれわれの便える空間がなくなりかかっていることを指摘している。西歴二千年には、ぼくのいわゆる土地区画法がどうしても必要になってくるだろう。土地区画法は、汚染や過密化、土地利用、海洋利用等々といったたぐいのものを規制するための ものだ。ここ一〇年ないし二〇年のうちに、人類のかかえている諸問題は大変な危機的状況を見せるようになるだろうとぼくたちは信じている。周知のエネルギー危機からはじまって、核融合、遺伝子の制御や新種の薬品などにどう対処するかといったことにいたる多くの問題に直面させられるだろう。
クローニング (単性生殖) なんかもそうだね
そう、クローニングもそうだ。それらすべてがいっべんに起こってくる。それが五〇年ないし一〇〇年も先の話だとは思わない。むしろ西歴二千年までには、それらの問題の根本が解決されてしまっているのではないかと見ている。しかし、われわれ人間は、常に問題を抱えていることだろうよ。問題がないような状況なんて決してありはしないんだな。むしろ問題に幾何級数的に悪化していくだろう。西歴二千年から先は、今日抱えている諸問題はほとんど解決されているだろうが、そのかわりに べつのまったく新しい問題が発生しているだろう。
均衡の形の問題かい
そういうことだ。今から五〇年ないし一〇〇年先のことを考えているローマ・クラブは、ある意味で非常に楽観的なんだな。実はここ一〇年ないし二〇年の間の問題が致命的に重要なんだからね。他方、別の意味ではローマ・クラブはひどく悲観的だともいえる。われわれの前途は壁にふさがれていて、しかもそれを迂回する道はないといっているんだからね。こいつはまったくの闇違いだ!そいつはまたどういうわけだと訊きたいかね。よろしい。説明しよう。もっともこいつはかなり慎重にしな くちゃならん。まずローマ・クラブ自身はどういっているだろう。資源は使い尽されようとしている。生産に伴う汚染やその他の荒廃をもたらす要因はほとんど制御しうる範囲を越えている。国の内外を通じて貧富の差は | |
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どうしようもないほどますます拡がりつつある。中央政府の政策がその困難に輪をかけている。おそらく悲惨なまでに。工業化や技術や豊かさといったものは、すべて罠だ。これがローマ・クラブの立場だ。 ぼくらの立場はちがう。ほとんど万人が豊かになりつっある-一部の人々は他よりも急速に......。
ちょっと口をはさまさせてくれないか。食糧問題に関するニクソン大統領の諮問委員会はこういっているGa naar eind〔註3〕 Ga naar margenoot+ 。七億の貧しい中国人は問題である。しかし、七億の豊かな中国人は、中国を瞬時にして破滅させてしまうだろう、とね。ぼくたちはいま自分達の側の世界だけについて話しているんじやあるまいか。
とんでもない。ほとんど万人が豊かになりつつある-一部の人々は他よりもより急速に。他よりもより急速に豊かになりつつある人々の中には、中国人も含まれているだろう。豊かになるのが最も遅いのは、おそらくインド人とそれからひょっとするとアフリカの一部, あるいは回教国の一部ではあるまいかとぼくは見ている。ぼくは、中国人がごく急速に豊かになっていくほうに賭けてもいいな。
中国の各家庭の車庫に車が二台ずつおいてあるところなんて想像できるかい。
できるとも。でもそれが彼らの選ぶ道ではないと思うね。そんなことをすれば大変な交通混雑が発生するだろう。
この地球には、中国で必要とされる数の車を造るに足る自然資源があるだろうか。
あるある。それを今日君のために見つけてあげようじゃないか。その場合、特に何らかの技術進歩を仮定する必要さえない。それと、全体のデザインも変える必要がある-単に新しい方法というだけじゃなしに。たとえば、今までよりもずっと多くのアルミニュウムや鉄を消費する。しかしある種の金属の使用は今までよりもずっと減らすというふうに。将来には、その種の金属をもっと発見するようになるだろうが、目下のところは既知の、あるいはほとんど既知の資源に依存しなくちゃならんとし たら、代替は必要だ。多方面での代替を押し進めねばなるまい。管理さえうまくすれば、資源そのものは十分ある-汚染物資を追いつめて吸収してしまうこと | |
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も含めて。ところで、この種の命題を証明するには二つの方法がある。その一つは、ぼくらが使用拡大モデルと呼んでいるものだ。その場合基本的には、適切なモデルとなる資源は一定の大きさのボールとかパイの切れのようなものではなく、むしろ変化の幅が非常に大きく、ちょうど筋肉や技能のように使えぼ使うだけ出てくるひとつの過程だとみなすのだ。ほくがきみから取り上げながら使うものを、きみはぼくから取り上げながら使うとい った具合に。つまりわれわれは資源の使用をめぐって争う必要はないわけだ。もしも資源の総量一定説が正しいとすると、この上なく不幸な結果になるだろう。世界の平和は不可能になる。世界の基本的構成は、豊かな国が資源をがっちりにぎってはなさず、貧しい国を抑えつける、という形のものにならざるをえないね。実際上考えうる構成はそれ以外にない、とぼくばいいたい。
それは一国の内部構成にっいてもいえるだろうか。
一国の内部構成についても、そういえるだろうね。つまり、成長とか上層への移動は、止らざるをえないことになる。パイ全体の大きさが成長している時には富の再分配は容易だが、パイ自体の大きさが縮少している時にに再分配なんてありえないからね。
キューバはどうだい。カストロは、まっとうにやってきた連中を犠牲にして再分配を実行したが。
そう、しかしまた労働者を犠牲にした面もあった。この点キューバは非常に面白い。カストロばキューバのためになったかならなかったか、ぼくにはわからんな。それは歴史が判断するところだろう。しかし、キューバの経済成長のためには、カストロはまずいことをした。キューバの国民総生産は、パティスタ政権のころとほとんど変わっていないんだから。
だが、きみの著書によると、バティスタ当時に比べると最貧困階層の生活は改善され、政府のサーヒスも増えているそうじゅないかGa naar eind〔註4〕。
たしかにそのとおりだ。どの小村にもミシンがあり、学校がある。しかもより豊かな生活に向かって進んでいる。キューバでは、ぼくの知るかぎり、以前とはちがって体制から完全に疎外されていると思っている人間は一人としていないだろう。しかし, キューバの労働者は、前よりもずっと低い賃金でずっときつく働かされてい | |
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る。彼らは怒っている。農園で働かなくちゃならないんだもの。
しかし、全地球的なスケールでいえば、豊かな国はキューバの富硲階級と同様に下に降リ、貧しい国-ラテンアメり力やアフリ力やアジア-は豊かな国の負担によつて引き上げられねばならないんじゃなかろうか。 われわれはそのことで腹をたてるだろう。実際、富のより平等な分配を実現しようとすれば、われわれ自身の富は減ることになるのだろうからね。
貧しい国々を豊かにする道が、今きみのいった方法以外にないものとすれば、ぼくは喜んでそれに伴う問題を甘受するつもりだ。ぼくの月給が、ゼロになるのは困るが相当大幅に引き下げられたってかまやしない。平等主義的なシステムを想像してみることはできるし、ぼく自身自分の知るだれよりもこのようなシステムを喜んで実現させたいと思っている。ただ、ぼくの確信する所では、豊かな国が貧しい国を助けて引き上げてやるために、自発的に下に降りるつもりになるなんて、実際問題とし てにとうてい考えられない。豊かな国は強く、貧しい国は弱い。この条件は今後三〇~四〇年は変わりそうもないな。
現状維持が続くということかね。
そうじゃない。多くの貧しい国は、非常に豊かになり、また強力にもなっていくだろう。現状維持は続かないだろう。しかし、それは貧しい国が豊かになるためであって、豊かな国が貧しくなるからでにない。わかるね。この二つは、非常に意味が違う。
万人が豊かになるというわけだね。
究極的にはね。どうにもならない極く一部の貧しい国を別にすれば。二〇~三〇年でそれを達成してみせる国もあるだろうし、五〇~六〇年かかる国もあれば一〇〇~一五〇年かかる国もあるだろう。これは予言ではなくて、外挿あるいは予測だ。シナリオといってもいい。それも、かなり高い妥当性をもうたシナリ才だ-とりわけ世界がまったくでたらめに行動しないものとすれば。さて、ここでぼくら自身の行った研究の話をしよう。たいへんショッキングな結果がえられたがね。 ぼくらはまずこう自問してみた。豊かになることを阻んでいる深刻な問題が本当にあるものならば、探せばそ | |
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れがみっかりはしないか、とね。そこで探してみた。ところが見つからなかった。これは大変なショックだった。そこで現在では、ぼくらは大雑把にいえば事態は次のようなものではないかと思うようになっている。すなわち、ありとあらゆる種類の問題がこれから出てくるだろうと思っている。これはたしかに言いすぎだ。その点はすぐ後にもっとはっきりさせなくちゃならん。それはともかく、これは確かに言いすぎだ。しかし、しばらくの間この言いすぎをそのままにしておこう。あとで訂 正することにして。さて、この君いすぎの発言をもう一度くりかえそう。すなわち、ぼくらは次のように仮定する-今後は違った種類の問題が出てくるようになるだろう、と。過去に経験したところによれば、この種の大きなシステム・モデルを扱う場ムロには、重要な相互作用の上に注意を集中することがきわめて大切なのだ。従来のモデルでは、個々の相互作用が同じような強さで扱われている。しかし、モデルが大きい場合には、そんな扱いは手にあまる。そんなことをしたら、モデルからおよそ 情報が引きだせなくなるだろう。 つまり、こういうことなんだ。まず問題そのものを見つけだすかまたは非常に重要だと思われるいくつかの相互作用を見つけだそうとつとめる。次に、問題の解決に役立ちそうな技術が考え出せるか、それとも現在すでに生じつっある変化はないかと探してみる。ここで新マルサス派の連中が揚げている問題の一覧表を見てみよう。単純素朴な例をまずあげると、われわれは極く単純素朴なやり方で資源を使い尽してしまうだろうというのがある。なぜ単純素朴なのか。資源の枯渇に伴って燃すべき 石炭がもはやなくなったという。残されている石炭には高いイオウ分が含まれているという。そのようなイオウ含有度の高い石炭を燃料として用いたくにないという。だが、これは資源枯渇問題なんかじゃない、これは汚染問題なんだ。 資源問題には単純なものなんかありやしない。全然ないんだ。あるというのならひとつ見せてもらいたいものだ。そうすればたちどころに、適当な代替によってそれが解決しうることを示してやれるだろうよ。そりゃあ、多くの場合完全にとはいえないとしても、十分な程度までは解決がつくんだ。第二の問題は汚染間題、環境を荒廃させる副産物の問題だ。ここになると問題はとても複雑になる。汚染問題のすべてがわかっているというわけにはとうていいかない。毎日のように新しい種類の汚染 | |
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問題が発生するだろうからね。しかし、きれいな水やきれいな空気、そのほか人々が今日真剣に気にしているもろもろの問題について見るならば、経済が成長するかぎり適切な技術によって解決が可能なようだ。それに必要な資源は十分あるのだから。では、どうしようもないほど拡大していく所得格差の問題はどうか。ぼくらの感じでに、この問題はまったくのねつ造とはいわないまでも、ほとんどの場合問題とはいえないものだ。ラテン・アメリカやアフリカやアジアの農民や労働者, もしくは実業家にきいてみるといい。彼らは、格差が拡がるか狭まるかには、ほとんど関心を持っていないことがわかるだろう。豊かになりたいだけであって、それがすべてなんだ。そして、豊かになるための最短コースが格差の拡大にあるならば、それはそれでよい-逆に格差の縮小にあるとしても、それはまたそれでよい。つまり、格差の拡大が豊かになるためのもっとも容易な近道だとしたら、彼らはそれを望むわけだ。格差を気にすることは豊かな人間のすることであって、貧しい人間のする ことじゃないんだな。このような状況によって、政策決定がますます困難に、おそらくどうしよ5もないほどに、なっていくだろう。ぼくの判断では、政策決定が質の面で低下し、二〇年前には扱うことができた問題も現在では扱えなくなっている。この点は疑問の余地がない。いまの政策決定は昔よりも悪くなっている。それがさらにいっそう悪くなれば悲惨な結果を生むことになると思われる。政策決定のこの悪化を助長しているものがいま一般に拡がっているこれらのばかげた考え方にほかならな いのだ。 こういったばかげた考え方ときっぱり手を切ることができれば、政策決定はもっと適切なものになるだろう。あれはほんとに馬鹿げた考え方なんだから。以上がぼくのとる基本的な立場です。
経済学者はなぜあれほどまでにローマ・クラブを批判していると思うかね。
一つには、彼らはこの種の問題の専門家であって、真にそれを理解しているからだ。いまひとつには、彼ら固有の教養がじゃまをして、価格機構の調整力がいつでも働いていると考えるからだ。そのためここで問題になっているような状況に閥して若干の新しい要素が出てきていることを理解しないんだね。
彼らの理解力は偏狹であり、いささか時代遅れになっていることもありうるというわけかね。 | |
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こういおう。ぼくは経済学者のとる典型的な立場の八〇から九〇バーセントに同意するだろう。ただしぼくは、彼らが擬似指数的成長のインパクトを十分には理解していないと思う。まるきりわかっていないのも沢山いるがね。
子孫のことを考え、今から五〇年後の世界を住みよいものにするために、コンピュータの助けを借リて未来を研究しようとする動きがみられるわけだが、この分野では、経験や人材や知識の蓄積は始まっているのだろうか。
ぼくを一番かっかとさせる言葉を使ったな。「コンビュータの助けを借りて」というやつだ。一九四〇年代の終わりから一九五〇年代の始めにかけ、米国にはたった八台しかコンピュータがない時代があった。ぼくがその全部を使っていたんだ。ぼくはいままでにずいぶん多くのコンピュータ問題を手がけた。コンピュータを楽しんだものだ。ところがいまだに、コンビュータ化された分析が非常に有効なような種類の問題にはお目にかかったことがない。分析を非常に注意深くコンピュータ化しよ うとしている連中白身がこの点を一番理解していない。ぼくにはとても面白いことだが、ハドソン研究所では図上演習用以外にコンピュータを使ったためしがない。マーケッティング・システムやシステム分析等の問題についても、コンピュータは必要だろう。ぼくらは永いこと、ギゴ (gigo) をやっているといって悪ロをいわれたものだ。つまり、コンピュータに屑を投入しては骨を取り出している (garbage in, garbage out) というわけだ。ところが今ほかの連中がやっていることはどうだ。ぼくらにいわせればやっぱりギゴ (gigo) だ。屑を投入しては福音を取りだしている (garbage in, gospel out) という意味でね。この問題のもっとも興味深い側面ば、世界中の人々が雑な問題を解くのにコンピュータを使うことに不信の念をもっていたということだ。ところがまったく突然、自分たちの気に入るような答えがコンビュータから出てきたことに気がついた。今や彼らは、コンピュータはいいものだ、と口をそろえていっている。彼らは答え自体が気に入ったのだ。もし答えが気に入らないものだったら、「だれがそれを信じるものか、コンピュータの出した答えしゃないか」といったことだろうよ 。 そうはいうけれど、二〇年のうちに世界は破滅する危険がある、というような答えをだれが好むものか。 | |
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中流の上層が好むのさ-どこでも、世界中どこでも。こいつが一〇〇パーセント階級利益にかかわる問題だというのはそのためなんだ。ぼくば五〇歳にしてマルクス主義者になった。そして自分自身に要求している。階級利益を見落とすな、階級的な態度を見ぬけ、とね。犯罪についてのフランスのことわざは知っているだろうね。女を捜せ、得をした人間を捜せ、というやつ。よろしい。成長によってもっとも傷っくのはだれか、いかなる階級か。
労働者階級さ。
いやいや。労働者階級は成長がある方がいい。非常にいいんだ。
むちゃくちゃな成長にならない限リはね。
労働者階級は成長によって損害をこうむることが一番少ない階級だ。成長のなかで人々が一番先にいやがるようになる要素は、過密、多すぎる自動車、都市化といったものだが、労働者階級はそれが好きなんだよ。
しかし、失業の増加や労働不安はどうだね。
しかし、成長ば失業増加の原因にはならないよ。成長の増大が失業の増加をもたらしたような国などただの一っでもあるかね。あったら挙げてくれたまえ。世界の大規摸失業は低開発諸国にはみられるが、先進世界にはみられないよ。
ヨーロツパでは目下......
そうだ。不況だ。不況はいつだってくる。けっこう。現代のダイナミックな経済には不況という状態がっきものだといいたいのなら、まったくおっしゃるとおりだ。景気の循環があるわけだよね。労働者はそれを理解し、受けいれるだろう-それが上向きのトレンドをもっかぎりにおいては。しかし、世界の大規模の失業は低開発世界にしかみられない。この点を忘れてはならないんだ。
きみの見方からすれば、ストックホルム会羲でのマクナマラの発言-第三世界が貧困と戦うのを助けるためには経済成長を必要とする-は正しかったことになるね。
まったくだ。ところで彼がほんとにそんなことをいっ | |
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たのか ねGa naar eind〔註5〕。いやそりやすごいなあ。人民大衆が貧しければこそ経済成長が必要なんだ。ハドソン研究所のぼくらのプログラムでは平和と繁栄について論じあっているが、繁栄とは、万人にできるだけ早く一人当たり一〇〇〇ドル以上の所得を得させることをいうんだ。自由もそうだ。個人の自由や生活の質のための自由ではなくて文化のための自由国家のための自由が必要だ。いたる ところに見られる似而非中産階級の標準に合わせた生活の質のための自由なんかじゃないんだ。人民はそんなものは好まない。それから正義もだが、正義は多すぎてはいけない。とてもそんな余裕はないんだから。
どういう意味かね。
アラブ入にとっての正義ばイスラエル人の死だ。イスラエル人にとっての正義はアラブ人の死だ。正義はこの世でもっとも高価な商品だ-それは血を意味するからね。できるかぎり多くの正義をというのは人類のいだく最も高貴な理想だ。しかし同時にそれは最も高価な理想でもある。われわれが一番欲するものは金であって正義ではない。友情であって正義ではない。愛であって正義ではないんだ。ぼく自身は正義を信じている。正義はばくの人生で非常に大きな役割を演じている。しかしぼくに正 義の狂信者でもなければ、偏執狂でもない。ぼくは、不正な状況を眼にするたびに、いつでも非常に不愉快になる。だが、正義はとっても高くつく。アメリカ・インディアンに対する正義ということで、アメリカ白人の所得から二億ドルが掻集められている。逆もまた同様だ。この例では、白人にとっての正義ということが、インディアンにとっての正義がある程度実現される多少の理由になっている。正義は非常に高価な商品だ。それを求めていきすぎてはならない。なるほどぼくは、ある面でに正 義に愛よりも重要だと思う。ぼくはキリスト教徒ではない。ある意味で非常にユダヤ教徒的なんだが、ユダヤ教では正義は非常に重視され、ときには愛よりも重視される。しかし人間自身以上に重要というわけではない。
さっききみは、貧富の格差の存在は人生の不可避的な事実だといったよね。
貧しい者をもっと早急に富ませたいというのなら、いちばん手っ取り早いやり方は貧富の格差を増大させることだ。貧しい者を豊かにさせる上で、これまでにわかっ | |
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ているもっとも効果的な方法は、多数の非常に豊かな人間をまわりに置いてやることだ。しかし、現代のイデオロギーはたまたまその逆の考え方のようだ。現代のイデオロギーは、そんなことは起こりっこないという。そうだろうか。南アフリカを見るがいい。ちょうど南アフリカの例がそれだから。あそこには白人が二〇〇万人、黒人が一〇〇〇万人いる。これら二〇〇万の白人は一〇〇〇万の黒人を貧しいままに置いておこうとしている。だが、それはできないことだ。自人が豊かになるにつ れて、あらゆるものが黒人に浸透していく。黒人の賃金は上昇しているし、俸給や訓練や教育などあらゆるものが上昇している。しかし、白人と黒人の地位が逆転することになく、白人自身もまた同時に豊かになっていく。この世の中でもっとも明白なのは、富が下層に浸透していくということだ。富んだ人間は国や階級のために何をなすだろうか。まず第一に、資本を供給する。技術を、サービスを、供給する。そこにはきわめて大きな市場ができる。二〇世紀においては、中国文化を特に非効率的 にするものは何もない。中国文化は年率一〇バーセントで成長している。なぜか。それは、中国人が自分ではできないことを近代技術が可能にしてくれるからだ。近代市場が可能にしてくれるからだ。日本、韓国、台湾、香港等々が成長しえたのもそのためだ。今日のブラジルはそれこそ気ちがいじみた成長ぶりを示している。なぜか。近代技術や近代市場のおかげなのだ。人々がこの点を理解しないとすれば、それはその人々の問題なのであって世界の問題ではないんだ。
それにしても、この有限な地球で生活水準の上昇要求を満たすような無隈の資源が発見される、といまだに信じているのかね。
限界はあるはずだと思っている。しかし、その限界がどこにあるかは知らない。むしろ、それらの限界は技術進歩とともに時間的に変わるに違いないと思っている。いますぐに最終的な意志決定をしようとは思わないんだ。現在の技術をもってしても、二〇〇億人の世界人口を一人当たり二万ドルの所得水準で一〇〇〇年間養っていくことは可能だ。しかもそれを適当な生活水準とともに実現できる。中産階級の上とまではいかないが、通常の中産階級の水準に合つた適度な出山活の質を達成できる 。中産階級が快適な生活を送るためには、中流の上の階級は自分たちがもっとも大切にしていた生活水準の多 | |
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くの部分をあきらめなければならないが、それが必要とされる犠牲のすべてだ。こうなった世界は、たとえば郊外の生活環境に匹敵する。いたるところがだよ。未来の姿はまずこんなところだと思ってもらいたい。 二〇世紀になって世界は都市化した。一八世紀までは、都市人口一人当たり二〇人の人間が農村に生活していた。都市化の進展によって、郊外も都市と同じになった。人間もまた都市化した。二一世紀には、物事が順調に進めば、世界は郊外化するだろう。これは決してそれほど悪いことじゃない。世界は、約一億五〇〇〇万平方キロあるが、そのうち可住面積はわずか六〇〇〇万平方キロ。残りの九〇〇〇万平方キロは、リクリエーションその他適当な目的のためにとっておける。これはずいぶん 広い。使用できる六〇〇〇万平方キ回のうち二〇〇〇万平方キロは居住地にまわそう。また、商業、工業、サービス活動のために一〇〇〇万平方キロを使うことにしょう。これで半分だ。残る半分は、農業、娯楽、レジヤ-用にあてよう。ともかく基本的にはそれらの土地はすべて利用され、公園の面積もぐんと増えるかもしれない。だが、世界中どこへ行こらと郊外を見ることになるだろう。
ほんとにそうできると思っているのかね。
郊外化が好まれるなら、望みはあるさ。ぼく自身は郊外化は嫌いだよ。ぼくはひとつの悲劇の話をしているんだ。中流の上の階級は貧しい人間のための郊外化を好まない。それを嫌っているんだ。はっきりいおう。君が貧しい国の中流の上の階級の人間だと思いたまえ。そうすれば、地位も名声も持ち、人生に恐いものなしということになれる。良い召使も雇える。シャムビロのいうところでは、ひとりの良い召使は家いっぱいの家事用機械のねうちがある。貧しい国ではいい女の子だって買える。 貧しい国では、人は豊かではない。豊かな人間ば悪いことのしようがない。いいかえれば万人が豊かになるとき、中流の上の階級があれほど大切にしていた他のすべての物が消滅してしまうのだ。『成長の限界』があんなに大きな反響を呼んだ理由の一部は、それがもつ擬似正当性にあるが、さらに大きな理由は、それを非常に受け入れやすい政治的・感情的な風土の中へそれが提示されたことにあるのだ。 |
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