Seicho no genkai o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
(1973)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
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45 エドワード・テラーエドワード・テラー (Edward Teller) 教授は一九〇八年、ハンガリーのブダペストで生まれた。ライブツィッヒで物理学を学び、一九三〇年に博士号を取得し、イェール大学、ロソドン大掌およびコロンビア大学で教えた、 一九四二~四三年には、ロス・アラモス・サイエソス・ラボラトリーで、原子爆弾の研究にたずさわり、広島と長崎の破壞を準偏した。それについて彼は、今ふり返ってみると「誤りであったかも知れない」と著者に語っている。そののちには、原子兵器および水素爆弾の利用計画と予測に従事した。一九五二年以降は、バークレイ (カリフォルニア州) のリバーモア放射線研究室に所属している。 その著書には、なかんずく、「新しい核の時代』 (Our Nuc-lear Future)(1952) 『核爆発物の建設的利用』 (The Const-ructive Use of Nuclear Explosives) (1969) および『広島の遺産』 (The Legacy of Hirosives )(1962) などがある。
科学者および人文単者のあいだには、人類の未来についての深い関心が広く見られます。スキナーGa naar eind〔註1〕はこれを存続の同題とよんでいます。口ーマ・クラブは、地球を管理する方法の問題を検討することによって先鞭をつけ哀した。
私もたまたま、存続の問題がひじょうに重要な問題だと考える者です。人々は常にこのことを問題にしてきましたし、また常に、問題にするだけの理由をもっていました。紀元一〇〇〇年以前には、キリスト教世界では (おそらく皆がというわけではないでしょうが、多くの人が) 世界は紀元一〇〇〇年に終わりになるだろうと考えていました。 これと同じ見解を、今日でも多くの人々が分かちもっています。多くの人々が、世界の終末を予言したがる傾向をもっているように思われます。紀元一〇〇〇年に世界が終わると考えるのは、一〇〇〇という数がひじょう | |
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にきりのよいすてきな数だからです。二〇〇〇年がそうだと考えるのは汚染、核爆発、および人口爆発といった理由によるのです。今日行なわれている議論が、紀元一○○○年がくる以前に人気を博した議論よりも、高い妥当性をもっているとに決していえないと私は信じます。 中世には、都市の過密化がみられましたし、今日よりもずっと不潔な運輸方式がとられていました。その結果、疫病が広汎に発生しました。実際、しばらくの間、あたかも人類は黒死病のために抹殺されるかのように思われたことがありました。事実それは、今日われわれが直面しているいかなる脅威にも比肩しうるような深刻なものでした。もっとも今日では、心配することに完全に正当な理由があるとみてよい心配ごとがいろいろとありはしますが。 現在の状況を懸念すべきものとみるぺき理由の中には、新しいものは何もない、と私は主張します。しかし、それに対する解決策の中には、いくつか新しいものがあります。何らかの科学的な方法で未来を予測する、未来を計算することができると信じている多くの人々がいます。また、世界中の至るところからわれわれはニュースを受けているわけですが、こんなに多くの情報が利用可能なのなら、今や世界を管理する可能性もある、という考えを人々は抱き始めています。私は、これらの人々は 世界に影響を与えるという自分の能力をひじょうに過大評価しているのであり、将来の基本的問題が何であるかという予見の能力についてさえも、過大評価していると考えることにしています。 さまざまな問題に対処する方法は、一つずつ取り組んでいくことだと思います。まず小さい問題を取り上げ、それから大きな問題を取り上げ、そして、ほとんどのオペレーショナルな問題の分析者たちに比ペてほんの少しだけより謙虚になることです。あるいは、ほとんどの科学者に比べてももう少し鎌虚になることです。 とても昔のお話をくり返してしてみたいと思います。それは宗教の話です。キリスト教の話ではなくて、仏陀との会話の伝説です。弟子の一人が仏陀に、女たちに対してはどう振舞ったらよいかとたずねると、仏陀は答えました。「彼らを見るな」と。弟子は答えました。「しかし師よ、私はすでに見てしまいました。」すると仏陀ば言われました。「では彼らに話しかけるな。」「だが師よ、私はすでに話しかけてしまいました。」そこで仏陀はさらに言われました。「若者よ、その場合には、最 小限の常 | |
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識を保つよちにつとめよ。」これがオベレーショナル・システムの分析者たちに対する私の忠告です。それは仏陀が若者に与えた忠告と同じです。「どうか最小限の常識を保って下さい。」
人類の未来の管理を助ける点において、コンビュータの未来をどのようにご覧になリますか。
私は過去数十年のあらゆる素晴しい発明のうちで、高速電子計算機が、実際上、最も素晴しいものだと思います。それはきわめて重要なものです。なぜならそれは、どのような知的な機能をも遂行できるからです。ただし、たった一つ制限があります。すなわち、どんな知的な機能を果たすべきかを真に厳密に記述しておいてやることが必要なのです。プログラムが与えられて、ひとたびコンビユータが仕事をし始めれば、それは、どのような人間よりももうと急速に、もっと信頼のおけるように動 きます。そのことはもちろん、われわれの知的活動が廃れることを意味するかも知れません。なぜなら機櫨の方がより良くできるのですから。しかしながら、一つの小さな制約があります。これは今ちょっと述べたことですが、ひじょうに重要なものです。 この小さな制約というのは、ある知的機能を完全に厳密に記述できなければならないという制約です。例えば、私は友人の顔を見わける能力があります。しかし、どのようにしてそれをしているかを、いくらかでも詳細に紀述する力は、私にはまったくありません。したがって、コンビ"ータに自分の友だち (もしあるとしても) の顔を見わけるよう教え込むことはできないのです。なぜなら、認知という一見単純な過程は、実際にはそれほど単純でになく、まだぎちんと記述されたことがないのです。 一般的にいえば、われわれが厳密に紀記述できるのは、われわれの仕事のうちの退屈な部分なのです。コンビュータはこの退屈な仕事をわれわれに代わってするために利用することができるのです。ここから、〔人とコンビュータの〕共生という考え方がでてきます。というのは人と機械を一緒にすると、人だけの場合よりずっと効率的だからです。 人間がこの自分の基本的な寄与を忘れて、あまりにも多くを機械に任せる時に危険が生じます。たとえば、あまり十分考え抜かなかった仮定をいくつか与え、機械に結果を吐き出させます。これらの結果はもとの仮定より | |
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も少しもよくはならないでしょう。 コンピュータのために入間が陳腐化しようとしているとは思いません。ジャーナリストのあなたが、人間の同胞よりも機械とインタビューしたいと思うようになるには、まだしばらく時間がかかるでしょう。
フリーマン・ダイソンGa naar eind〔註2〕は、私に自己再生機械、つまり「自分自身を再生産できるほど高級な機械」の襲作に関するフォン・ノイマンGa naar eind〔註3〕の最初の覚え書について語ってくれました。コンピュータと同様、これらの機械も顔を赤くすることはできないと思いますが、このような発展は人類の存続の可能性にどのような影響をもたらすのでしょうか。
どのような影響もないでしょう。人類は生存しつづけるでしょう。われわれがより良くなるかより悪くなるかは、この新しい道具を良く使うか悪くつかうかにかかっているでしょう。 しかし、機械に与えることのできるもう一つの課題について一言しておきましょう。顔を赤くしてみうなんていうよりは簡単な課題です。われわれは、五行戯 詩Ga naar margenoot+のための規則なら、かなり明示的に書き出すことができます。つまり、五行戯詩の書ける機械がつくれるというわけです。人間がつくった五行戯詩と機械がつくった五行戯詩とを混ぜた詩の本を出版することができるようになり、読者にはどっちがどっちかわからないということになれば、その時には、われわれは「ユーモア」という奇妙な言葉の意味するものを理解する上で進歩をとげたことになるでしょう。
ホセ・デルガードGa naar eind〔註4〕は実際、人間-機械は、人間の頭脳の中にすでに存在するものの活性化にもとづくだけで、将来には可能になるだろうと信じていますGa naar eind〔註5〕サイバネティクスと現代の心理学の研究において、明らかに科学者たちは、コンピュータによって、人間の感情を人間同士の問で伝達することに成功しました。
そのことのためなら、機械はほとんどいらないでしょう。それはどんな結婚においても行なわれます。コンピュータの最も大きな危険は、バカ者がそれを使うとき、連中は自分が科学者になった気になり、またそういい出すということです。もっと悪いことには、それを信じこむ人々がでてくるのです。 コンピュータが与える大きな希望は、それが人間の想 | |
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像力により大きな広がりを与え、より厳密にそれを制御することを可能にすることです。もちろん、われわれの想像力は限られています。しかし長い目で見れば、想像力は多分勝つのです。
ぬる心理学者たちは、われわれが脳の機能についてより多くを知れば知るほど、例えば広島の場合に見られたような形で技術を利用する危険を犯すことは、より少なくなると考えています。
私は、腹を立てて原爆を落とす前に、その威力をまず誇示してみせる方がずっとよかったと信じています。私は、自分は正しいと確信しているような幸福な人間の一人ではありません。あの戦争は流血なしに、科学の助けによって終わらせられるべきであったと強く感じています。そうすれば、科学にとっては何物にもかえがたいほどよかったと思いますし、また人類もより幸福だったと思います。 しかし私は、そのように痛感してはいますが、自分が正しいという確信はありません。どちらの側に立った議論も可能なのです。このような複雑な間題に断を下すだけの明快さも単純さも私には欠けています。最も想像力に富み、かつ最も批判的な人々と語れば語るほど、私の疑念はより深まるばかりなのです-それでも私の気持そのものは変わりませんが。機械が機能する上では、ひじょうに特別な種類の明快さと単純さが必要とされます。この種の決定を下すにあたって機械の手を借りることは 、直接的なしかたであれ間接的なしかたであれ、実際に可能だとしてもひじょうに遠い将来のことになるでしょう。自分で自分のことを正しいと考え、科学あるいは機械がわれわれを誤りから救う助けになると信じている人人は、ひじょうに単純な心の持主です。このような人々をファナティックと呼んでも誤りではないでしょう。 科学のファナティックは宗教のファナティックに劣らず危険なものです。実際、科学は現代の宗教であり、その意味で、われわれは他のいかなる種類のファナティックよりも科学のファナティックに注意しなければならないのですGa naar eind〔註6〕。
最近あなたはアジアに旅行されました。その印象はどのようなものでしたでしょうか。技術は、どの程度アジアの貧困や悲惨を緩和することができるのでしょうか。 | |
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私が訪問したのは極東の平和な諸地域でした。ほとんどすべての国で悲惨を見ましたが、また同時に発展へのはっきりした意志も見ましたし、その意志が行動に移されているのも見ました。インドネシア人たちは、人間にふさわしい生活様式を得ようと思えば、技術が絶対に必要だということを明瞭に知っています。 私はまたこれらの国のすべてで、事実上同じ形の政治を目撃しました。それらは比較的緩い形の独裁制で、いくらか制限された言論の自由と、大きな救いになっている次のような二つの特徴とをもっています。すなわち、どの国も独裁制を誇りにしてはおりませんし、またどの国もこのあまり民主的でない権力を進歩の促進のために使っているのです。このことは旧中国の体制下にある台湾にも当てはまれば、また若い中国人-もっとも才知と教養のあるリイ・クァン・ユー首相-の下にあるシンガボー ルにも当てはまります (リイは社会主義者ですが、だからといって、彼の行なう強力な諸措置はリべラルの新聞からも批判されてはおりません) 。同じことは、スハルト将軍にも当てはまります。彼はインドネシアがより悪い独裁制にすべりこんでゆくのを救ったのであり、また彼はいまだに最も切実に必要とされているような実際的進歩を開始させたので すGa naar eind〔註7〕。 これらの国々では、アメリカの力と繁栄の基礎が築かれっつあった数十年間 (これはもう遠い過去のように見えますが) にアメリカでそうであったと同じほどの尊敬を、技術は獲得しています。 旅の終わりにおける日本への訪問は、驚くほど対照的なものでした。日本人の技術と民主主義は、高度に発展していました。日本人は、何ごとも誰よりも早くできる才があるように見うけられます。彼らは、他のどの国よりも技術を急速に完成させ、そして息をのむような早さで独裁制から民主制への切り換えをすませました。今では、日本の社会は、技術に対する幻滅、したがってまたおそらく民主主義に対する幻滅、の方向に向かってかなり進んでいるように思います。 私のもっとも強い印象は、次のような簡単な言葉で言い表わすことができます。すなわち、西であれ東であれ、人間は人間だということです。彼らは技術を必要としますが、どのようにして技術と共に生きるかという問題をまだ本当には解決していないのです。 私は、この問題に対する答えを見出すことは、ローマ・クラブが与えたような答えよりも千倍も複雑なのでは | |
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あるまいかと痛感しています。 あなた御自身の分野に関する質問をお許し下さい。核融合エネルギーが重要なエネルギー源となりうるには、二一世紀までまたなければならない、と最近まで考えられていました。原子力委員会によれば、プリンストン大学の核融合反能炉を操作している科学者たちは、これまで報告されたうちで最も高い密度と温度を得ました。われわれの理解するところでは、問題は、薄い水素プラズマのガスをもとにして、それをどのようにしてとほうもない高温にして核融合をおこさせ、反応をおこさせる のに必要とされるエネルギーよりもより多くのエネルギーを生みださせるかということです。あなたは世界的なエネルギーの危機のもとで、水素爆弾の力の利用の面で何らかの突破口が早急にひらかれるようになるとお考えですか。
早いとこよい結果が得られてくれればいいがと思っています。しかしそのような結果が出たとしてもそれは、単なるデモンストレーション-科学者の玩具-に過ぎないものになるでしょう。たとえその玩具が大きくて高価であったとしても、それはエネルギー危機を解決しはしないでしょう。 そのためにはエンジニアリング (工業化) が必要です。今世紀中は、核融合は、経済的にみて利用可能なエネルギーをひじょうに大量に供給できるようにはならないでしょう。コントロールされた反応よりも、コントロールされない反応をつくり出すことの方が常に容易であり、特にもし低コストでそうしようと思えばなおさらそうです。核融合エネルギーば、現在の危機の際に助けとなるでしよう。 エネルギー危機は、破滅の予言者たちがつくり出した自己誘発的な崩壊の、特に良い実例です。彼らは汚染の危険を誇張しています。部分的にはその通りなのですが、彼らは今では核反応炉の建設そのものに反対するに至っています-あらゆるエネルギーの中で最もきれいなエネルギーがえられるというのに。彼らは熱汚染を心配し、必要なエネルギーを奪われた人々よりも、温度が三度ほど上昇した水の中を泳がなければならない魚のことをより心配しているようです。彼らは放射線の増加につい て苦情を言いますが、それは、われわれがそもそもの初めから曝されている自然の放射線のレベルよりもずっと少ないのです。実際われわれの四ッ足の祖先たち | |
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は、今日「最大許容量」と呼ばれているレベルの放射線に曝され続けてきました。生物が海から陸に上がった時以来ずっとそうなのです。当時、魚の中の環境主義者たちは、乾いた土の上で生物が出会うであろう不自然な条件について警告を発してしかるべきでした。しかし魚たちは黙して語りませんでした。それは幸運であったともいえましょうし、あるいは災厄であったともいえましょう-人のそれぞれの立場によります。 もし核反応炉が現在の技術の状態にふさわしいような速度で建設されうるならば、そしてもしこの発展が、世界の終末が近づくのを見た人々の誇張された恐怖によって妨げられないならば、より多くのエネルギーに対する需要は、反応炉によってかなりよく満たすことが可能でしょう。 エネルギー問題に対処するには、まだほかにいくつかの方法があります。私の専門分野の範囲内でいえば、その一つとしては「鋤の刃」Ga naar margenoot+計画、すなわち、核爆弾の建設的利用があります。それによって、小さな吸収孔をもつ岩石に含まれ、通常の方法では取り出すことのできないような埋蔵ガス分を吐き出させることが可能になるのです。油母 頁Ga naar margenoot+岩を低廉な価格で利用することもできるでしょうし、また、ロシア人が今やっているように、枯渇した油田の残滓を利用することもできるでしょう。 言論の自由は素晴しいものであって、それを失ってはなりません。また、いくらか批判も含んだ自由な言論にも耳を傾けなければなりません。さもなければ、たとえばロシアのように言論の自由が抑圧されている国々が、技術競争に勝つことになるでしょう。実際、ロシアではローマ・クラブはほとんど影響力をもっていません。これはロシア人にとっての利点です。しかし私は、一つの (共産党) 政治局よりも千のローマ・クラブの方をとります。 ひじょうに強調しておかなければならない点が一つあります。エネルギー危機は、アメリカにおけるエネルギーの浪費の結果ではありません (そう主張しているアメリカ人も多いようですが) 。それは主としてアメリカ以外の国々がアメリカの水準に追いつこうとした結果です。西ヨーロッパと日本においては、この過程は最高潮に達しつつあります。発展途上国では、それは今始まったばかりであり、しかもきわめて遅々として進んでいるにすぎません。人々はよりよい生活をめざす権利があります。新しい研究成果が必要な技術を生みだして、汚染と戦い | |
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ながら同時に各自に豊富なエネルギーを供給するようになることも不可能ではないでしょう。 以上、エネルギー不足に対処する方法をほんの二、三述べてみました。このほかにももっとたくさんの方法があります。それらすべては、研究と技術を利用するものです。それらの多くは間違いなく成功します。
あなたは、未来に大きな困難を見る人々に対して同意しないといわれました。あなた自身の予測はどのようなものでしょうか。
私の信ずるところでは、紀元二〇〇〇年の世界は現在の状態とにひじょうに異なっているでしょう。現在の状態は不安定であり、長続きするとは思われません。生活はずっと良くなっているか、ずっと悪くなっているかのどちらかでしょう。 このどちらが生ずるかは、われわれすべてにかかっています。疑いもなく、未来に関する討論は誤った断定に満ちています (このことは私自身の答えにも当てはまることを私は喜んで認めます) 。しかし、これらの誤りにもかかわらず、この種の討論は必要です。それは強力な影響力を及ぼすでしょうし、それが未来を形づくるでしょう。 |
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