Seicho no genkai o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
(1973)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
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44 マイケル・ハリントンマイケル・ハリソトン (Mixhael Harrington) の著書『もう一つのアメリカ』 (The Other america) は、アメリカの国民を突き動かして、地上の最も豊かな国家の中にある広汎な貧困にたち向かうようにさせた。ハリントγは、長年にわたって社会党全国執行委員会の委員をつとめ、一九六六年には党の議長になった。一九七二年には社会党ーー民主社会党同盟の共同議長を辞職したが、これはアメリカ民主党の大統領候補ジョージ・マクガ.ハン上院議員に対する批判に抗議したものであった。 マイケル・ハリントンは一九二八年ミズーリ州のセント・ルイスで生まれた。イェール大学のホーリイ・クロス、およびシカゴ大学で学んだ。一九五一~五三年に彼は「カソリック・ワーカー」の編集者をした。一九五三年、社会党に入党した。 一九六六年、ハリントンば、もう一冊のペストセヲー『偶発革命の世紀』 (The Accidental cenury) を幽版した。 あなたは、ヴォルテールGa naar eind〔註1〕を引用しながら、大衆が自分自身を破減させるのを防ぐためには、社会をどのように作りなおすべきかと自問しておられますね.
私自身の観点、というのは民主社会主義的観点ということですが、それからすれば基本的な問題は経済的および社会的権力を民主化することだと思います。アメリヵでは、これは会社の櫓力を民主化するということです。 会社は現在の状況のもとでは、アメリカの将来のための主要な計画機関として機能しています。すなわち私的な制度が、政府の決定に参与しており、それがアメリカの生活の質を根本的に変えているのです。共産主義諸国においても、状況は根本的に違うにせよ、墓本的な問題は同じだと思います。そこでもまた.問題は民主化だと思うのです。このことは一九六八年にチェコスロバキア人が論じたところですし、あるいは一九五六年にホーラン | |
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ド人とハンガリア人が、あるいはたぶん一九七〇年と七一年のストライキの中でボ-ランド入が再び、論じたりもしたことなのです。そこには全体主義的な官僚制があり、それが計画機関となっていますが、しかしそれはある意味で会社と同じほど私的であり、また多くの意味で会社と同じほど反社会的です。ですから、根本的な問題は民主化の問題だと思います。この点に関する大きな限界の一っ、大きな困難の一つは、もし口-マ・クラブの予測が本当だとすると、社会主義が不可能になると いうことです。社会主義は、少なくともその最も崇高な、そしてもっとも高邁な大望の中では.社会主義によって人類の心理を変えることができると考えたのでした。特に社会主義者は次のように論じましたし、また私は過去のその種の分析に完全に同意します。すなわちそれは、経済的な稀少性こそが、競争性、攻撃性、いろいろな形の支配と抑圧の主要な物質的墓盤なのだとみなしたのです。さらにまた、もし豊かな技術とその技術を制御する民主的運動をもつ社会がくれば、そのような状況のもと では人々はずっと競争的ではなくなり、ずっと協調的になり、ずっと少なく攻撃的になり、その代わりに兄弟、姉妹、等々のような人間関係をもつようになると考えました。私の考えるには、『成長の限界』の仮説の問題点は、もしそれが真理だとすれば、人間の根源的な感情の非常に多くがそれに根ざしているところの、基本的な稀少性を廃絶するという可能性が、永久に失われるという点にあります。それゆえ私は、そのすべての資源を配給制にするよう強制された宇宙船地球号が社会主義的地球 であろうと論じようと努めた人々は、誤っていると思います。たしかにそれは従順な地球であり、管理された地球であるでしょう。しかし私にいわせれば、それは心理学的に、文化的に、そして言葉のもっとも広い意味において人間的に、社会主義的な解放の観念とは深く異なるものなのです。なにしろ、人々は十分なものをもてないでしょうし、それゆえ人々は自分の隣人たちを肩越しにうかがい見て、彼らが自分たちよりも、ちょっとばかり余分にものを得ているのではないかと疑ったりするでし ょう。希望は民主化です。しかし、もし各人がまともな生活をするに十分な資源をもたないとしたら、それには深刻な限界が存在することになります。その時には (社会主義はおろか, 単に) 良い社会でさえもつことができなくなると思います。 | |
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富者と貧者の差が縮まる代わりに広がっていくからですか。
その通りです。例えその差を固定化し、あるいは多少せばめてみたところで、依然として広範な稀少性が存在するというだけの理由で、例えばやみ市楳性が働きだすでしょう。人々はどのようにして配給制を出し抜くか、どうしたら自分のためにより多くのものを得られるかを考えることに、多くの時間を費やすでしょう。このことは、二〇世紀に配給制度がしかれるたびごとに歴史的に生じたことでした。配給制はやみ市を伴い、また著しい腐敗、堕落を生みました。私がいおうとしているのは、 『成長の限界』のテーゼば深く反ユートピア的であり、深く悲観的であるように思われるということなのです。
それが現実的なテーゼだという点は?
どうでしょうか。私はそれが現実的でないような多くの分野を知っています。私は『成長の限界』は一種の新マルサス主義を仮定しているという、ひじょうに多くの人々によってなされた批判に組します。新マルサス主義だという理由は、資源の需要は指数的に増大するのに、その需要をみたすための技術的能力は、ただ算術的にのみ増加するといっているからなのです。
しかしこれは第一歩です。地球全体の力タログを作る第一歩です。私はイェール大学に行ってノードハウスGa naar eind〔註2〕教授-彼は地球のモデルを (経済学者として) 作ったのですが-に会い、フォレスターGa naar eind〔註3〕と協力して互いの知恵を結びつけて下さいと頼みました。ところがノードハウスは、われわれはシステム・ダイナミクスのエンジニアたちとは関係をもたない、と答えました。彼らは、ちょうどチョムスキーGa naar eind〔註4〕とスキナーのように、互いに避け合うのです。
それはたしかに多くの問題を含んでいます。私は、スキナーの著作は奇妙なものだと思います。彼は、自分を自由と尊厳の敵としてえがこうとつとめているように思います。実際、彼は近著『自由と尊厳を越えて』で、基本的には次のように論しています。人間は意識的な干渉によって自分の行動に影響を与えるところの環境を変えることができ, またマルクスのいったように、教育者を教育することができる、と。このように、スキナーは、実行主義 | |
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者Ga naar margenoot+的な立場をとっているのです。スキナーと『成長の限界』とを結びつげて考えれば、もしスキナー的な条件が永久不変のものであり、これに加えて世界経済の稀少性が存在するならば、人間同志を互いに真に慎み深くするための干渉という提案は、スキナーのものであれ他の誰のものであれ、うまく機能しないことになるでしょう。 『成長の限界』にみられる非現実的な第二の側面は、それが基本的には経済が成長しないような安定した経済というモデルをもってきた点にあります。それは、そのような安定が可能かどうかという政治的な問を出してはいけません。すなわちそれは、第三世界に住む人々が、先進資本主義国および社会主義経済の諸国に住む人々に対して、永久に劣った状態におかれ続けることを、がまんするかどうかという問にはふれていないのです。第三世界の人々は、このような状態を受け入れようとはしな いでしょう。また、この報告書は、発達した資本主義および共産主義経済の人々が、その成長を停止し、ある一定の発展レベルでの安定化を受け入れるであろうかという問も出してはいません。これまた、受け入れられはしないでしょう。 ロッテルダムのティンペルヘンGa naar eind〔註6〕教授は、いま新しいモデルをつくっています。日本の人々もいくつかのモデルをつくっています。
私は長い間、必要なのは世界経済の計画化であると考えてきました。現在必要なのは世界経済のモデルをつくってみることです。この意味で、経済データを数量化し、システムとしての地球の経済的趨勢を分析しようとつとめているローマ・クラブの仕事は、正しい方向への一歩だと思います。『成長の限界』は、われわれの多くの思考を支配している国家的限界を越えていると思います。 私は長い間、国連で開発されてきたような世界経済モデルのいくつかは、もっともっと注目されるべきだと考えてきました。例えば、世界経済の発展に関する真に良いモデルがもしあったとしたら、これまで特にアメリカの場合、アジア、アフリカ、およびラテンアメリカの人々の利益に逆らってなされていた貿易援助政策の内容に、大きな変更を加えることが可能になるからです。
あなたはまた「もし人間が自分自身の頭脳の産物を制御できるならば、神秘主義者であれその他誰であれ | |
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隠れ場所がなくなるであろう」 (『偶発革命の世紀』一九六六年、二七六ページ) という問題にふれておられます。 生物的フィードパックの発展、脳の研究、行動制御の研究、これら現在至るところで大量に行なわれている努力は、人間の存統を促進するでしょぅか。
生物学における画期的な出来事、すなわち行動制御や試験管ペビー-これはイギリスでいま研究されており、DNAで有名なワトソンは、容易に実験可能なものだと述ぺています-あるいは、アメリカの科学者たちが両親ば子どもの性を決定することができると述べている事実や、クローン人、すなわちある個体とまったく同一の複製をもとの個体の一部からつくり出す可能性、これらすべての出来事を私はヨリ広い文脈の中で解釈しています。 私の考えでは、一世紀以上にわたる西洋の資本主義社会の根本的な問題は、技術革命が、それに対応する政治的および社会的革命なしに生じたことでした。われわれは、社会に、経済に、環境の中に、その結果がどうなるかを問うことなしに内燃機関をもちこんでいます。きわめて深い社会的影響を及ぼすような技術もありますが、その使用に関しては、われわれは依然としてまったく自由放任的な態度をとっています。私的な権力中枢がこの種の技術に関する公共的な選択を下すのを許しています 。われわれはいまや、もっとも極端なところまで、すなわち自然淘汰というダーウィン的な仮定を科学的に逆転することができるようなところまで、きています。自然淘汰にあっては、個体および遺伝子の流れが環境に適応してゆく冷酷で容赦のない過程が進行し、またそこでに自然は、人間の運命の、きわめて無情なまた悪意ある仲介者となっています。ところが、いまやわれわれは、人間による淘汰の時代の入ロにごようとしているか、あるいばおそらくそこに足を踏み入れてしまったのです。人 間による淘汰の時代というのは、自然に代わって人間がみずから選択できる時代、遺伝子工学が可能となる時代、人間の遺伝子の構成を現実に変えようと試みることによってある種の遺伝性の疾患をおそらくは治療できるような時代のことなのです。もしわれわれが、自動車の世界に迷い込んだ時と同じような形でこの世界にも迷い込んだとしたら、もうお手上げです。それは、もしいったん誤りをしでかしたら、その誤りが以後干年間くらい | |
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は乗数効果を発揮し続けるような性質の領域なのですから。私に一方では、多くの疾病がおそらく制御可能となることに喜びを感じますが、他方では、この能力が政治的および社会的に利用されはしないかと恐れるのです。 だからこそ私は「神秘主義者の隠れ場所がなくなる」と述べたのです。この問題に対して、中には、そのような研究を阻止すべきだとか、この領域の実驗を法の保護外におくべきだという形の反応を示した人もいました。例えば試験管ベピーの実験を法の保護外におけという提案がありました。しかしそれは単に問題を先に延ばすだけのことだと思います。この技術を法の保護外におくことなんかできはしません。それはもうやってきつつあるのです。それが可能であるというその事実が、まさに、 それがやがて存在するようになるだろうということを意味しているのです。私は未来がもっこのような要素に非常に心を乱されております。
全体主羲といえどもジャズを締め出すことはできないことをソ連が発見した、とあなたは書いておられます。いいかえれば、あなたは必ずしも世界のなかでわれわれが住んでいる部分だけ、すなわち資本主羲世界だけの二とを語つているわけではないんですね。つまり、社会主羲諸国をも含めて語っておられるわけですね。あなたは未来に関してどの程度希望をもっておられるのでしょうか。『成長の限界』のモデルのような未来が実現するのでしょうか、それとも違いますか。
私は、ある理由から楽天的になりがちです。私の感じでは、未来が良いものになるのか悪いものになるのか知ることは実は不可能です。それが非常に悪いものになるということは、まったくありえます。しかしこの間に、はっきりした答が出ていないかぎりは、また、先に見たような技術進歩が良い方向に用いられ、それによって、人間的な節度をもった新しい時代が開始されるという、まじめな可能性も十分残っているかぎりは、われわれは楽観的になる道徳的な義務を負っていると思います。つ まり、良い可能性が実現するように戦い、そのために心するという道徳的義務があると思います。善がひろまるかそれとも悪がはびこるかを決定する要因の一つは、そしてまた今日のような非常に暖昧な状況から何が出てくるかを決定する要因の一っは、善が悪を抑えるようにするために戦う価値があるかどうかを個々人が決意するこ | |
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とでありましょう。だからこの意味で、私は、未来の予測をすることを拒むのです。予測の一部をなすのは、われわれがその予測の内容を実現したいと思うかどうかということです。そして私は、それを実現するよう努力する必要があることを強調したい。そうすれば、それが現実の事態の経過を変える力になるでしょう。 |