Seicho no genkai o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
(1973)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
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43 ケネス・クラークケネス・B・クラーク (Kenneth B. Clark) 教授は、ニューヨーク市のメトロポリタン・アブライド・リサーチ・センターの所長であり、ニューヨーク市立大学のシティ・カレジで心理学を教えている。一九一四年に、パナマの運河地帯で黒人の両親から生まれた。コロンビア大学で心理学の博士号を取得した。クイーンズ・カレジで教えていたが、その後一九四二年にニユーヨーク市立大学にうつった。コロソビア大学、バークレーのカリフオルニア大学、およびハーバード大学の客員教授もつとめた。 一九七〇~七一年には、クラーク教授ばアメリカ心理学会の会長であった。また, NAACP(有色人種向上のための国民協会) の社会科学コソサルタントであり、この協会からスビンガーン・メグルを授与された。一九五五年には、『偏見とあなたがたの子供』 (Prejudice and Your child) を、一九六五年には『ダーク・ゲットー』 (Dark Ghetto: Dilemmas of Social Power) を出版した。 心理学者口口・メイは近箸『権力と無知』 (Power and Innocence, 1972) の最初のところで、あなたが一九七一年九月四日に、ワシントンで開かれたアメリ力心理学会で行なった演説について論じています。この演説は論争をひきおこすもとになりましたね。あなたは、ツレジネフ、ニクソンおよび毛沢東に「平和藁」Ga naar margenoot+を与えたらどうかと提案なさったんでしたね。
「ピース・ピル」ということばは新聞の発明でして、私のいったことを誤り伝えたものです。新聞が、複雑な観念を一般大衆がただちに把握できるような表現に圧縮する必要は理解できます。それは複雑な観念を取り扱う者なら、だれでも犯さなければならないような種類の危険です。ところで、私が論じた二とば、人類史のこの時点において、心理学は私のいわゆる系統的なサイコ・テクノロジー (心理工学) の方向に向かって進まなければならないということです。すなわち、人間の原始的で野蛮 | |
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で破壊的な性格を制御し、その積極的な性質を助畏するための研究を発展させなければならないのです。どうしてもそれが必要です。核時代の開始ば、人間を、いまだかつて経験したことがないばかりか、それに対する準備すらできていないような歴史時代に投げ入れたのですから。人聞の過去の発展-過去の観念と概念-は、現在の核による破減の危険に対処するに十分な能力を与えてくれてはいないのです。
ニクソンやプレジネ7は、結局のところ一九三〇年代にプログラム〔人格形成〕された人達なわけですね。
そうです。一九四五年に物理科学者たちがしたことは、過去をもはや未来の要求にとって適切なものではなくしたということです。私の考えは次のような仮定に基づいています。すなわち、物理的科学が技術面で運成した偉業ほ、人間を核時代に投げ入れる結果をもたらし、そのため、人間の本性に関する、また社会的・道徳的な発展の面で人間から期待しうるものに関する過去の仮定を、まったく抹殺してしまったのです。それは人間を、自分と他の同胞との関係を見いだすのに試行錯誤の技術を 利用することがもはや不可能なような時代に投げ入れたのです。今緊急になすべきことは、心理諸科学が入間の本性に関する研究を加速し、人間がもつ否定的で野蛮な棚面を制御するという当面の目標の達成をめざすことです。人間がもつこれらの側面は、非核時代には、望ましくはなかったが、少なくとも耐えられるものでありました。しかし現在は核時代であって、人間自身の破壊性は、おそらく人間の直面する最大の危険でしょう。これに対する唯一の可能数防禦は、私の見るところでは、困難 で議論の余地のあるものであるが、それにもかかわらずさしせまった挑戦を、うけ入れることです。その挑戦とは、人間がこれまでうけた条件づけのほとんどすべてに逆らうものではあれ、人間の中にある原始的で否定的なものを制御してみようというものなのです。 スキナ-Ga naar eind〔註1〕は、この同じ問題に、私とは異なった方法をもってアブローチしています-環境や社会や条件づけのしかたの方を操作しようと提案しているのです。私は、有機的なシステムとしての人間の内的な生化学的諸システムの方を操作しようと提案しています。それこそが結局のところ人間の心を決定するものだと信ずるからです。論争をひきおこした私のもう一つの堤案は、まず第一に権力者たちを操作の対象とすべきだ、というも | |
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のです-犯罪者や、低階層の人々ではなしに。その種の人々は、人類の存続にとってさしせまった危険をおよぼしたりはしていないからです。さしせまった危険をおよぼしているのは、巨大な権力-人類の歴史においていまだかつてなかったような巨大な権力-をもった比較的少数の人々なのです。これらの人々が問題にされなければならないと私は主張します。これらの人々こそ、その人格的および精神的な健全度-これを私は愛、同情、感情移入、感受性といった肯定的な性質が支配的となることと定 義しますが-を最大にするよう制御されなければならない人々であるといわなければなりません。これらの人々を心理学的に制御することが可能だというのが私の立論でず。それば「ビース・ビル」なんかではありません。ひじょうにまじめな目標のための、まじめな研究なのです。
あなたは、否定的な性向に対する生化学的干渉から肯定的な結果が得られたような実験をなさったことがありますか。
いいえ、私個人ば実験を行なったことはありません。 じゃあ始めなくちゃ。
もう始まっていますよ。デルガードGa naar eind〔註2〕のやったすごい研究を無視することはできません。デルガードは、脳にはそれぞれ特定の感情を支配するべつべつの部分があるということを、疑問の余地なく証明してみせました。否定的な感情を制御している部分もあれば、肯定的な感情を制御している部分もあるわけです。これが、人間の感覚や感情や動機の生化学的な基礎なのです。
あなたは権力の座にある人々について語られましたね。大学の教授や会社の取締役になる人はだれでも-わが現代社会において重要な地位を占める人はだれでも-基本的な教育を受け、試験に通リ、選別されていなければならないはずですね。それなのに今日の政治システムにあっては、最も大ボラ吹きでもっとも公衆を欺く人間が政治の要職に就きます。われわれは政治家を〃遇ぶ〃ためにー六世紀的な方法をもちいていますGa naar eind〔註3〕。
そうです。二五年前、アメリカ精神分析学会のために論文をひとつ書きましたが、その中で私は、指導者たち | |
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を選別する方法に注意を向ける必要があるという問題を提起しました。その当時までに、私は、民主主義社会での政治指導者の地位をめざす競争における成功は、一定の競争的資質を個人がどの程度もっているかに依存しているらしいという事実に注目するようになっていました。その競争的資質というのは、私の感じでは、人間の発展史のこの時点に、とりわけよく適合しているともいえないにもかかわらず、依然として用いられ続けていたものでした。原子力時代に突入して以来、私は、一般 に指導者にとって必要だと考えられている諸特性-攻撃性、タフな神経、および現実主義と呼ばれているところのある種の不感受性-は再点検する必要があるという確信を、ますまま深めるにいたりました。もっとも、この種の特性を他の特性でおきかえるべぎだといった強力な主張を現時点で私がしようものなら、あいつは非現実的なやつだといわれかねませんがね。それはともかく、より具体的にいえば、われわれはこれらの資質を、感受性、感情移入、親切、およびそれらを政策や行動に変換する能 力、などの資質によっておきかえなければならないと私は思っています。現在必要とされている指導者の資質は、そういうものなのです。だのにわれわれは、依然として人間を選別するために、あるいは、指導者の地位をめざす競争に勝つために、旧来の資質を用い続けています。私は、批判者たちが私の意見をどんなに非現実的なものとみなすかを理解できます。なぜなら実のところ私が求めているのはある意味で......
ユートビア-
私はこれまで、一種のセソチメンタリスト、理想主義的ユートヒ゛アンだといって非難されてぎました。しかし私にいわせれば、それはただ現在および未来に対する適応的現実主義であるにすぎません。それはナイーヴに見えます。人間の存続に不可欠な資質を定義しなおすことを求めているからです。核時代にはダーウィン流の存続概念はかえって存続の害になります。ダーウィンの概念の逆転こそが今期待されているのです。
あなたは、資本主羲とかマルクス主義とかいった概念は、今では古くなった現実に基礎をおくものにすぎないとお考えなんですね。未来を計圓するためには、新しい概念構成が必要じやないでしょうか。
まったくそのとおりです。私は、スキナーと私の唯一 | |
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の貢献は、われわれが招いたあらゆる批難攻撃にもかかわらず、新しい概念構成のために必要な対話を開始させたことだと思います。まだ時間の余裕が残っていてほしいものです。
それはまさにMITのコンピュータと『成長の限界』すなわち地球全体の研究が狙っていることです。しかしわれわれは、つねに地球のわれわれの側についてのみ語る傾向があるようです。中国、インド、アフリ力、アジア、ラテンアメリカについてはどうでしょうか。
あなたの質問を二つの部分に分けてお答えしたい。第一に、私はアイデアや計画や設計のコンピュータ化には、特に感銘を受けてはおりません。それが科学のいくつかの分野で現在流行になっていることは知っています。私の感じでは、コンビュータは、それに投入されたもの以上のものは出してくれません。自分の欲しいアウトプットを得るためにコンピュータになにを投入するかは、つまるところ入間の責任なのです。世界モデルのコンピュータ化に関するいかなる議論にもこれ以上立ち入るの はやめておきます。私に関心があるのは人間個々人、個人と個人あるいは個人とグループとの関係といったことがらです。人間の否定的な行動を制御する方法を完全に理解するためには、ひじょうに複雑な数々の問題や、互いに結びっけなければならない多数の変数があります。私は、この方面で努力している哲学者たちを歓迎します。また、経験科学者たちも歓迎します。これこそが人間の知性によって、何らかの解決の方向を見出すべき決定的な問題であることを認識している、あらゆる人間のグ ループを歓迎します。 第二に、私は、これは孤立した努力ではあり得ないという点であなたに同意します。なされるべき理論化や研究、不可避的に犯されるであろうもろもろの誤り、は国家という人為的な境界に限定することはできません。また、私の批判者たちのなかには、他の諸大国が過去の視野にしばられて活動しているその時に、どれか一つの大国だけがこのような新しい視野をもつとしたら、惨害をまねくだけだといっている人々もいますが、それには賛成します。私は、私が現代の人間社会の重要問題だと規 定したこの問題に関する研究は、国際的なものであるべぎだと信じています。それは、原子力研究のように、国家主義的あるいは秘密主義的であってはならないと思います。この問題には人類の存続がかかっており、あら | |
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ゆる国の最良の知性がその研究にたずさわるべきです。まさにそのことが.組み込まれた安全弁としての効果をもたらすでしょう。それが国連の縄全たる科学研究プロジェクトになってくれるといいのですが。たぶん国連が人類の未来に貢献し得る最大のことは、この問題の研究に取り組み、どの特定の大国もそれを支配することのないようにすることだと思います。
したがって、バステルナークGa naar eind〔註4〕のいったように、われわれの「生活を作リ直す」ことが必要なのですね。しかし、どのようにして意識と具体的な現実との間の関係を改善できるのでしょうか。生物化学を通じてでしょうか。
私の教えている大学院生の一人が最近ある発言をしましたが、それは二の考えが具体的に人の口から発せられたのを聞いた最初です。あなたはそれにかなり近づいていますよ。彼は次のようにいいました。「スキナ-と先生の論文を読んでいて気がついたのですが、先生方がサイコ・テクノロジー (心理工学) が必要だとおっしゃるときにそのような考えの基礎にある現実というもののとらえ方は、他の人々の現実観とはちがって、どうも気になります。」「何がいいたいんだ」とたずねましたら、さらにこんな答が帰ってきました。「先生方の批判者たちの大部分は.人間存在の現実というものを、過去に生じたあらゆることとの関連で定義しているんです」たとえば、ベトナムを爆撃して抹殺するということが、現実の定義だとしてうけ入れられています。同様にまた、中世にあっては、現実とは疫病がは びこっていることだ、と定義できたでしょう。
アメリ力の爆撃機は疫病-
私はその着者のいうことを聞き、そうだ、君のいうことは正しい、と答えました。サイコ・テクノロジーに関する私の論文の最初の部分は、実際、現案の脆弱さという問題をとりあっかっていたのです。それは入間の意識の、実のところ人間存在の、内在的脆弱性を問題にしていたのです。問題がここまでくると、人間存在、その意識的および知的存在-その思考と行動-は、人間の循環系や脳の細胞膜がその一体性を保っている程度によって完全に決定され.またそれに依存している、といってよくなり ます。だからよくよく見てみれば、われわれの存在の全現実は、生命をもつ物質のはなはだ脆弱な存在形 | |
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態である、基礎的諸細胞なるものによって、決定されているのです。この現実の本性は外部からの干渉によって、これらの細胞がそのもとで機能している、内的な生化学的条件を変えることによって変形させることができるのです。実際われわれは、麻薬によってそれが可能となることを知っています。アルコールによって可能だということも知っています。 この点で、私は、論理実証主義者や絶対主義者と袂を分かちます。私の論文では人間のパトスについて言及しましたが、それは私の考えでは、絶対的な存在になろうと努力する人間の絶望的なあがきのことです。入間は、自分自身の脆弱性を受け人れることができないために、また自分の質量の有限性を受け入れることができないために、自分に多くの害を与え得るのです。人間が何か絶対的なものであろうとしてあがく結果、愚かでおそろしく滑稽な残虐さを他人に及ぼすことがあり得るのです。 これは馬鹿げていますし滑稽でもあります。なぜなら力をもつ個人は、この力を破壊的に用いようとしても決してうまくいかないのです。というのは彼もまた破壊されるからです。これが私の現実観です。現実とは、あなた自身であり、あなたの脳がなしうることであり、それ以上のなにものでもないのです。それらのものは時間的に制限されており、相対的であり、奇妙な具合に予測不可能なものでもあります。
デルガード教授は、「オリジナル・マン (源人) 」をどのようにして守るかという問題に夢中になって取リ組んでいます。彼の信ずるところでは、人間のイデオロギー的および感情的構成はオリジナルであり、スキナーのいわゆる人間の尊厳と自由を守るためには、この「オリジナル・マン」が保存され助長されなければならないというのです。
私はオリジナル・マンとは何かを本当にはわかっていないということをあらかじめ申し上げた上で、以下のお答えをします。オリジナル・マンはブリミティヴ・マンとも定義できるかも知れません。私がデルガード教授に賛成なのは、どのような形であれサイコ・テクノロジー的な干渉が人間の有機体の中に諸特性を生みだすことはできないという点です。人間の有機体のポテンシャルはこの人類という種の進化から生してきた無数の決定因子によって制限されているのです。しかも基本的には、わ れわれが取扱おうとしているものはーーそして私のアイデ | |
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アもまさにそれに基づいているのですが - 有機体に内在するこのボテンシャルなのであり、特に有機体の支配システムである神経系にあるボテンシャルなのです。しかし人間の破壊的で非適応的な諸特性は、肯定的なものとなる潜在力をもっている諸特性よりも、強いように見えます。フロイトが〃イド〃について語ったことは正しいと思います。〃イド〃は、人間が無意識にもつ性質であって、それは過去においては積極的な適応機能を果たしていたように思われます。すなわちそれが、競争的な構造の中で人間が生きのびるのを可能にして いたのです。これらの機能-もはや適応的ではなくなっているのですが-は人間にとってより本源的であるがために、より強力なものでもあります。私は、次のことは生物学における一般的な原理だと思います。すなわち、あブリミテイブる構造や機能は、有機体の中でそれがより原始的なものであればあるほど、その力はより強く、またその抵抗力ばより大きいということです。しかしながら、肯定的なボテンシャル、愛および親切へのボテンシャルは、人間という有機体の進化の過程においてはより 最近に生じたものであり、明らかにより高次の神経系の支配に依存しているものなのです。しかもそれらは、潜在的にそこにあるにすぎません。私が今示唆していることは、その発展を促進すべきだということであり、手をこまねいて待つベきではないということです。なぜなら、正常な進化の過程を通じて、それらの機能が大脳旧皮質の支配する機能に対する優越性を獲得するまで待っているわけにはいかないからです。私の示唆しているのは、それらの機能をどうしたらより強くより支配的にでき るかを明らかにしようではないかということであり、そして一たび明らかにされれば、その知識を応用しよらではないかということなのです。これが医学のやっていることに他ならないのです。人間にとっての大きな危険は、今でに、医学上の無知ではありません。有機体および心理学に関する無知なのです。それこそが、人類を破減に導くかも知れない心理学的な疫病を阻止するために、われわれが問題にしなければならないことなのです。
C・G・ユングGa naar eind〔註5〕はかつて、広島の破壊は技術による惨害ではなくて心理学 (傍点は引用者)Ga naar eind〔註6〕による惨害であったといいました。
そうです。私はそれに完全に同意します。私にとって印象深いのは、私の心理学の同僚のあまりにも多くの者 | |
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が、この当然ながら困難な現実に立ち向かうのを拒否していることです。べトナムの惨害は、一六世紀に医学がたちおくれていたのと同じように、二〇世紀俊半における心理学的後進性の結果なのです。われわれにはもはやそのようなぜいたくば許されません。
あなたは、ファウスト的になった人間が、自分自身のつくリ出した機械と超技術とによって、自分を悪魔の手に引き渡したりはしないということについて、どの程度の希望をおもちですか。
過去の桎梏-たとえば人間の支配欲、したがってまた技術進歩への執着といった-が人間によって克服されるかどうか私は知りません。それが非常に強力な桎梏だということは知っています。それは心の桎梏です。私の所に来る手紙をお見せしたいくらいです。最も毒のある手紙のいくつかは、聖職者たちから来ます。それらに私に対する鞭打ち刑をほのめかしていると読めるほどです。私はそれらの手紙を読みますが、それを私への個人攻撃だとは受け取りません。私はただ、われわれの立ち向かわな ければならない問題の本性や、現在の現実が過去の現実によって決定されているという事実の新たな証拠として、それらの手紙を受け取るだけです。自分自身および社会についての、残虐性および野蛮性についての、人々のいだく知覚の内容は、いまだに特定の利害や特定の申し立てや過去の合理化によって決まっているのです。もしその点にのみ注意を集中すれば、どんな努力もむなしいといわざるをえないでしょう。
過去四、五年の面に、それは事実上一九六五年以来のベトナムにおける戦争行為の拡大と量なる期間ですが、アメリカでは恐るべき事態の展開が見られたということに同意されますか。
ええ、これは心理学的惨害のもう一つの例です。アメリカが北べトナム人-われわれの都市に報復を加えることもできず、工業化されてもいない人々のグルーブ-に対して爆撃をしかけ、空前の破壊をもたらした時、それに対してわれわれが得たものは、われわれの心に対する爆撃でした。われわれは、基本的なモラルおよび人間の諸問題を理解する能力を、荒廃させたのでした。わが国が北べトナム人に与える惨害という持続的な犯罪行為に直面して、アメリカの大多数の人々の間にはきわめて広汎で 、また私にいわせればきわめて危険な無気Ga naar margenoot+力状 | |
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態が見られるにいたっていますが、その理由は、上にのべたような事情によってのみ説明できるでしょう。
それはまた、一九七二年の大統領選挙戦が、私のアメリカにおける二五年間のジャーナリズム生活において、最も気のめいる出来事となった理由なのでしょう。人々が感じていたのは、どちらの候補に投票してみたところで何もなりはしない、いずれにしても両方が嘘をつきあっているのだから、ということだったと思います。一九四〇年代にみられたアメリカへの信頼感はどこへいってしまったのでしょうか。
アメリカへの信頼感は、奇妙な形の無気力なブラグマティズムに変形されてしまったように思われます。これは政治的現実主義と銘うって売り込まれていますが、私の考えるには、それは私が心への爆撃と呼ぶもののもうーつの徴候なのです。それは、ドイツで、ナチズムの到来ともに生じたことです。それがあらわにしているものは、人間のバトス、愚かさ、悲劇だと思います。なぜならばそれは、私の思うに一種の自己継続的な悲劇とのみ規定されうるような種類の力だからです。それは、過去 の力の行使という悲劇を正当化するための力の行使なのです。つまり一種の循環におちいってしまうわけですが、それは、私の見るところでは、単なる力の拡張ではなくて、一種の心理学的荒廃、心理学的荒涼、あたかも不道徳と道徳の間に差異がないかのようにしてなされる不道徳の受容なのです。ご承知のように、力は単にひとを堕落させるものであるだけでなく、全人類を破滅させるようなものなのです。そのような種類の力は、私にいわせれば、あらゆる未来の生命力の可能性を取り除いてし まうのです。 |
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