Seicho no genkai o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
(1973)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
[pagina 326]
| |
38 ホセ・デルガードホセ・マヌエル・ロドリゲス・デルガ「Jose M.R. Delgado) 教授は、一九一五年スペイソのロンダで生まれた。マドリード大学で医学を学び、現在そこで教えている。また、一九六五年には、コネチカット州ユーヘブンのイエール大学精神医学部の心理学教授にも任命された。 デルガード教授は、脳に永久移植するための電極を開発した。さらに、脳の電波刺激の問題の研究や、猿の群体の社会的行動の研究も行なった。脳の直接の操作による精神の物理的制郷は、人類史上まったく新しいできごとである。その著書『精神の物理的制御-精神面で文明開化した社会のために」は、一九七一年に出版された。なお「タイム」誌の巻頭記事 (一九七一年四月十九日号 二十九~三十四頁○「精神-記憶用錠剤からセックスをこえる電子快楽まで」は、デルガード教授桝の業績に大きな注意を払っている。 微生物学者のアルパート・セント=ジェルジは、人間が恐竜の運命をたどることになりそうだと感じていますGa naar eind〔註1〕。あなたは、どこかで、人間は恐竜と同じくらいおろかだ、といっておられましたね。
ひじょうに幸いなことに、恐竜と人間の間には違いがあります。その違いは、われわれがわれわれ自身の存在についての意識をもっている、ということです。その上、われわれは、意識や性格や、したがってまたわれわれ自身の将来の行動のメカニズムを、研究する技術を開発しつつあります。恐竜は技術をもっていませんでしたし、われわれが現在っくり出そうとしているようなフィードバックを確立する知能ももち合わせていませんでした。フィードバックといったのは、人間の運命に関する知 能のフィードバックという意味です。ごく最近までこのことは、不可能でした。なぜなら、人間の行動に関する大脳内 | |
[pagina 327]
| |
のメカニズムを探求する方法を知らなかったからです。 人間は、これまでつねに、自分のことを政治的、経済的、また哲学的な基礎にたって考えてきました。しかし、じつは、人間は事実上アウトサイダーだったのです。過去においてわれわれができたことといえば、お互いを外からながめるだけでした。あらゆる人間のあいだのもっとも本質的なつながりをなす、思考する脳の内部過程は、まったく手のとどかないところにありました。この点こそ、技術がわれわれに開いてくれた新しい扉なのです。人類についての一般的情報に加えて、現在では大脳 内部のメカニズムがどのように働くかの知識を得ることができます。これまでに可能だったのは、人間に情報を与えて何らかの反応をよぴおこすことを期待することだけでした。教育とは、徹頭徹尾、そういうことだったのです。われわれは、知覚上のインプットと行動上のアウトプットの間の関係をつける脳の機能については何も知りませんでしたから、結果としての行動に現われてくる大脳内部の情報過程がもつ可能性や制約を、把握することができませんでした。
脳にある百億もの神経細胞はあらかじめプログラムされており、したがってそれに影響を与える二とはきわめてむずかしい、ということはほんとうですか。
そんなことはありません。他の動物と同様に、われわれも、あらかじめプログラムされた本能と、ひじょうに基本的な運動能とをもっています。しかし、人間についてもっとも本質的なものは、彼の基本的な事前プログラムなのではなく、外からくる刺激への依存ということです。これは脳の構造がどうなっているかについての最近の研究成果の一つです。
外部環境というのはどういう意味ですか。
ウォディソト ソGa naar eind〔註2〕が、ずっと前に次のようにいいました。われわれは二重の遺産をうけついでいる。遺伝的なもの、プラス文化的なものだ、と。人間と他の動物との間の重要な差異の一つは、動物の行動のレパートリーの大部分は既定のものだ、ということです。猫は生まれた時から歩き方を知っています。ねずみは生まれた時から食べ方を知っています。これらの動物は、すでにできあがった多くのプログラムをもっているため、学習する必要がありません。人間ははる かに未熟な脳のままで生 | |
[pagina 328]
| |
まれてぎます。今日のわれわれには、この脳の化学的構造が-それは幼児期に発育し形成されてくるものですが-脳の受容する感覚的インプットの量と質にかなりの程度依存している、ということがわかっています。視覚的インプットが欠如した場合には、脳の視覚の回路は適切には発育しません。聴覚的インプットが欠けた場合には聴覚野は正常になりません。ですから、われわれの経験というものはその物質的な対応物をもっているのです。そして、外部世界からの通信は、脳の内部に、多分、化 学式という情報コードの形で貯えられます。何らかの形で外部からの情報が、脳の内部で、そのシンボル的物質に変換されるのです。これらのことが今日われわれの知っている事実です。 われわれは、人間であることのもっとも重要な要素が何であるかを、たずねなければなりません。当然のことですが、何をもって「人間的」というかは定義の問題です。ここでの議論のために、ひじょうに簡単な会話とか言業のようなものを例にとってみましょう。人間はあらかじめプログラムされた言語のメカニズムをもっています。しかし、言語を利用した意思疎通の経験をもたなければ、彼は決して話すことをおぼえないでしょう。チンパンジーの喉の解剖学的構造は人間とは違っています。 チンパンジーには、われわれがだしているような音声に声の調子をあわせることに不可能でしょう。多分、.チンバンジーの場合は、側頭葉のプログラムのされ方もちがっているために、この動物に教えることがむずかしいのです。
それゃ、われわれが猿の子孫だというのはナンセンスなのですか。
いいえ、ナンセンスではありません。それは、われわれが何を論じようとしているかの理解のしかたによるのです。われわれの血管の中にある血は、成分がチンバンジーの血と似ているだけでなく、その他の哺乳類、そればかりか爬虫類の血とも似ています。したがって、問題をもっと精密に規定しなければなりません。われわれは長い生物的進化の末裔ではありますが、漠然とした一般論をしてもだめなので、項目ごとに論ずる必要があります。たとえば塩化ナトリウムは海水の主要成分ですが、 現在でもなおわれわれの血液の中にはそれがあり、大昔世界の海で泳いでいた遠い祖先からわれわれが進化したものであることの証拠になっています。 他方、人間性について語る時には、われわれはまった | |
[pagina 329]
| |
く別のことを問題にしているのです。チンパンジーは、話をすることができるような-つまりわれわれがやっているように複雑なやり方で言葉をつらねていくことができるような-メカニズムを、その脳の中にあらかじめプログラムされてはいません。したがってあなたのご質問に関連していえば.人間の行動の中にあらかじめプログラムされているものもありますが、しかし、それは行動の可能性を意味するだけで、実際の行動を説明するものではないのです。これらの潜在能力を発現させるためには- たとえば話をするためには-それを教えこまれる必要があります。もし人が英語とか中国語にふれることがなければ、これらの言葉を話すことは決してありません。それにしても、脳の中には言葉を学習する能力はあるわけです。したがって、解剖学的構造とか本能の事前プログラミングとかは、人間の発育の可能性に広い変化の幅があるということとは区別されなければなりません。人間的でありたいと思うなら、話をしたいと思うなら、学習する必要があります。人間的でありたいと思い、倫理的な 価値観をもちたいと思えば、倫理を身につけることはできます。ただしそれは遺伝されるものでになく、学習されなければならないのです。人間のもっとも基本的な資質ほ、外部からくるわけです。 人間の潜在能力を理解するためには、人間の内部にはいりこまなければなりません。人間行動の独特な資質は、思考する脳の中にその起源をもっています。われわれは、新しい技術によって、脳のニューロンの働きを解明することができるようになりました。動物と人間とのたいへんな違いは、人間が自分自身の行動を探求し左右しようとする意識と技術をもっている、ということです。われわれはすでに驚くべき機械力や原子力を手に入れ、それによって自然を変形することができます。われわれ は、現在、都市の人工的な風土の中に生活しています。これが人類の現在の条件です。文明人は、ジャングルの中に住んで、せいぜい二十五歳ぐらいまで生き、多分三十歳までは生きられない、というような生活を現在営んではいませんし、これからも決してそういう生活にもどることはありません。まさにそのようなことは快適ではありません。実際的ではありませんし「人間的」でもありません。したがってわれわれは、拡大する都会の現代的環境の中で生活し続けるでしょう。唯一の選択は、都 市を形づくるに当たって、人間の知能をらまく利用するか、それとも誤用するか、ということです。もしわれわれが知能的 | |
[pagina 330]
| |
でなければ、われわれの都市は機能的でなくなります。そうなれば、われわれの環境は、健康で楽しい生活を送るのを助げるかわりに、まさにその障害にとってかわります。汚染や過密やそれに付帯するさまざまな問題が生じてきます。そんな誤ちをおかす余裕はわれわれにはありません。環境を適切に組織し、また自然をわれわれの利便のために変形する方法を学ばなければなりません。それと同様に、人間の社会的関係の細心な計画化も絶対に不可欠です。
あなたは地球全体の計画化が必要だと感じておられますか。あなたはなんらかの準拠基準にのっとって, 社会的方法での地球の計画化を行なうことも間題にしていらっしゃるのですか。
そういうのは十九世紀の準拠基準です。そのようなことは今日の社会では不適切です。新しい要素が進化しつつあるからです。古い政治的イデオロギーは、マルクシズムにせよ、資本主義にせよ、うまくいきません。それらは十九世紀には実在性をもっていた諸条件の崖物なのです。しかし.今日われわれは、新しい準拠基準を必要としており、それはまもなく発見されるにちがいありません。ともかく私はそう思いこんでいます。私の意見はこうなんです。つまり、新しい前提にたった人間の生物学 的理解が必要なのです。新しい前提というのは、われわれの課題が「私はだれなのか」とか「人間とば何か」といった問に答えることではない, ということです。そのような問は古典的なもので、人間を静態的にとらえるものでした。今必要なのは、人間の神経生理学的潜在能力を知ることです。「人間的であること」を担当している主要な機関は何か。それは脳です。脳がなしうることを、知らなければなりません。そうすれば、生物学的現実にもとついて、われわれが今後育てていきたい型の人間を、計画することができます。それが、限りない想像力を必要とし、また、重大な危険をはらむものであることばもちろんです。しかし他に道が ありません。なぜなら、今日われわれが都市を建設しているのとちょうど同じょうに、よかれあしかれわれわれは子どもを産み続けるからです。子どもたちはすっかり配線をすまされて生まれてくるのではありません (だからこそあなたの最初の質閻が重要なのです) 。子どもたちの行動の準拠基準が与えられなければなりません。唯一の問題は、だれがそれを選ぶことになるのかということです。それならわれ | |
[pagina 331]
| |
われに決めることができるのです。未来の世代の知性が偶然によって形づくられるままに放置しておいてよいでしょうか。そのようにすれば、人間が自動機械にはならないという一種の安全操置を施したことにはなるかもしれません。しかし、でたらめな刺激は、型にはまった刺激と同じように、思考過程に影響を与えはしないでしょうか。今日われわれが経験しているような自動化を増大させていくと、人々をプログラムすることができるようになります。認識しなければならないのは、現在、 われわれの大部分はわれわれの文化によって、われわれの文明によって、われわれの都市の機械化によって、九十九パーセントまでプログラムされているということです。われわれはテレビによって、本によって、外部から受けとる情報によって、プログラムされています。自分自身で考え、外からくるなだれのような情報を整理するだけ強靭な人は、ほんのわずかしかいません。したがって、われわれの行動の大部分は、マスメディアによって計画された活動を粟行に移す、ということを意味してい ます。行動は、遺伝子によってではなく、われわれが生ぎている環境にょって規定されるのです。 そこで、このような行動プログラミングを拡大させ、人間の発育を効果的に統制することができるような強力な制度や中央機関を設立してはどうか、という選択が生じかねません。
たとえば大学のようなもの......
大学でも政府でも何だってそうです。私にとってはそのようなやり方はがまんならないのです。こんなことにならないことを望みたいのです。
オーウェルGa naar eind〔註3〕流の悪夢が今日生きているというのですか。
まさにそのとおりです。これこそ、まだみんなが気がついていない点です。みんなは、今日支配されているといらことに気がつかないで、将来支配されるようになるんじゃないかといって心配しているのです。われわれの大部分は特定の文化システムの産物です。ところがビッグ・ブラザー、つまり指導権力ならば、そうしょうと思えばそれとはちがったこと、私がそうあってほしいと願うこと、を実現できます。教育において入間の尊厳と個人の自由という要素を強調する、とい5ことがそれです。 私からみれば、人間であることのもっとも尊い側面 | |
[pagina 332]
| |
は、自分自身の思想的、感情的枠組を、何か独創的なことをするために利用する機会があるということです。しかし独創性でさえも、外から繰り返し教えこまれ、育まれ、励まされなければならないものです。われわれは独創的に生まれついているわけではないんですよ。われわれはみんな独特の個人ですけれども、かならずしも独特の貢献をするようになるとは限りません。われわれはみんな違っています。しかし独創的な人はわずかです。もし独創的な、独立心のある人間をつくり出したいの なら、それらの資質を子どもの時に育てあげる必要があります。私は、われわれみんなにしかけられている一つのトリックについて人々に教えてやることを、強く勧めたいと思います。それは、われわれが選択も防御もできない生まれたばかりの時に型にはめられてしまった、ということです。われわれは、自分自身の心の働きの枠組を選択はしませんでした。それぞれの両親が、彼らの属する特定の文化的環境の代弁者として、恣意的に、また独裁者的なやり方で、彼らの考えをわれわれにおしつけ たのです。子どもの脳の選択のメカニズムが発育する前に、子どもは指導されなければなりません。われわれは小さな赤ん坊に準拠基準を与えてやる必要があるのです。幼児期の後半になると、彼らの脳はもっと成熟し、情報をあっめて決定を下すことができるようになりますが、その時われわれは、彼らに、自分の準拠基準を評価し、自分に与えられる感覚的インプットを疑ってみることをすすめることによって、新しい種類の人間の発育を助けることができます。その時われわれは、彼らに、自分 がそれまで接してきたきまりきった価値体系について慎重になることをもとめ、厳格さではなく柔軟性をほめてやることがでぎます。このようにしてわれわれは、子どもたちがつねにわれわれの与えた文化用具を用いて行動するようになることに留意しつつ、彼ら自身の個性を表現するよう奨励してやることができるのです。このような建築素材を彼らに与えてやったうえで、われわれは、子どもたちに独創的であれともとめることができるのです。ただ単に自分を確立せよというのでなく、異なった 種類の自分を確立せよといってやるのでなければなりません。何らかの目的をもって生き、そこで自分が何か特別の貢献を行ないうるようなそういう未来に向かって進むようにつとめさせなければなりません。子どもたちがそのように育つ条件を両親が与えてやらなければなりません。その最初の選択は彼ら両親のものであり、責任は社会のものです。われわれが | |
[pagina 333]
| |
計画したいのは、新しい種類の人間、私が精神開化した (psycho-civilized) とよぶ人間の創造です。精神開化した人間は、彼自身の行動の決定因子についてずっとよく認識しており、彼自身の心の可能性と限界にもとづく彼の潜在能力について深い知識をもつことになるでしょう。彼は、自分たちが (私が教えこまれたように) 個別の独立した人間ではなく、社会的、文化的交流に全面的に依存した被造物であることを、認識しているでしょう。自分が環境とのがれがたくかかわりあっているということを銘記している人は、彼の環境の質が個人としての発育を決定するうえで基本的な重要性をもっていることを理解するでしょう。そこで、もっと自由な「自分自身」になるために、人は自分の環境を改善することが必要になるかもしれません。人間がいかにあるべきかということについてのこの新しい概念には、深い社会的な 意味があります。われわれは環境から隔絶されて生きることはできません。だからこそ、それを改善する必要があるのです。また、われわれ自身が環境の一部を形成しているのですから、われわれ自身のことも改善しようではありませんか。そしてわれわれの回りにいる人たちもそうなるように手助けしょうではありませんか。
それは毛沢東が中国で実践していることではありませんか。
かならずしもそうではありません。なぜなら、中国では、他の大部分の国と同様に、教育や教化が人間の脳の働きについての深い理解なしに、既定の目的をもって経験的に実行されているからです。盲目的に教理をうけいれるよりも-それが政治的色彩のものでも、神学的色彩のものでもちがいはありません-、意識性と個性という価値ある人間の資質を実現するようにつとめるべきです。指導者は、尊敬されるのはいいですが、偶像化されてはいけません。偉大な人物の言葉や願望がつねに正しいとは 限りません。指導者は、かならずしもあらゆる科学的、精神的価値の裁決者であろうとしなくとも、人々に霊感をふきこむことはできるのです。各人は、自分自身の知能を利用して教理や準拠基準を受け入れ-あるいは拒否し-、できる限り独創的な思想を発展させるようにつとめるべきです。
トインビーGa naar eind〔註4〕は慈悲深い独裁制といったものを予想しています。スキナーGa naar eind〔註5〕は強制的強化を提唱して | |
[pagina 334]
| |
います。
私の見解はまったく反対です。なぜなら、私が期待したいものは慈悲深い独裁性というようなものではなく、その反対だからです。もし人が、自分自身を個人として育ててゆく励ましと可能性を与えられるならば、彼は独裁者というようなものに対して、それがどんなに慈悲深いものであっても、かなり批判的な見方をするだろうからです。私が思い描く社会は、個人を圧迫したり一独裁者の流儀や道徳をおしつけたりするものではなく、逆に人が、過去からのものにせよ現代のものにせよ、与えら れた準拠基準を盲目的に受け入れたりすることのないように奨励するものです。あらゆる人が、与えられた情報をそれ以外の文化的傾向のものと比較する機会をもつのでなければなりません。したがって、私が未来にみるのは、もっと独立心があり、自制心がある人間なのであって、慈悲深い独裁者によって支配される人間の社会ではありません。精神開化した人間は、自由かつ独立です。なぜなら、彼は彼自身の行動を支配しようとする独裁者の策略や執政者の宣伝を知ってしまいますから。そのよ うな知識を備えていれば、盲目的教化に抵抗することができるのですから。
しかし.遺伝的徴候と環境との間の相互作用によってきまる特性をかえることは不可能なのではありませんか。
いや、特性をかえようといっているのではありません、もし特性ということで遺伝的継承物をあなたが意昧しているのであれば。われわれができることは、またやろうとすべきことは、人間に対して彼の発育にもっと好都合な別の種類の環境を与えよう、ということです。
あなたは、すでに存在する特性がもっとよく発展するようにしよう、木のよにもっとたくさん枝をはやそう、といわれるのですね。
まさにそのとおりです。
プルーストGa naar eind〔註6〕は過去を再びとらえようという有名な努力をしました。知能をそのように行使するという二との中で、記憶はどの程度重要ですか。
記憶とは、われわれの準拠基準のすべてが貯えられる銀行です。記憶はわれわれの人格の基底をなすもので | |
[pagina 335]
| |
す。
人間の脳は一生の間に一京 (10-15) ビツトもの情報を集積するGa naar eind〔註7〕というのはほんとうですか。
どれほどの量の情報があつめられるかについては、私ははっぎり知りません。しかし、通常重要なことは、お金をいくらもっているかということではなく、それをどう使うかということです。
コンピュータはいずれ、人間の記憶を助けるとか、代替することができるようになるでしょうか。
コンピュータの役割りは、記憶に対する付属品というところだと思います。われわれは、今日、情報を貯えるためにコンピュータを利用しています。これはすばらしいことです。しかしそれ以外にも多くの応用分野が開発されることになるでしょう。たとえば私たちが最近発表した研究の一つですが、脳からコンピュータへ、そしてまた脳への直接的通信をはじめて実現しました。私たちはこの実験を、電極をうえこまれたチンパンジーと、脳の深部構造の一つである扁桃核からの情報をコンピュー タへおくるテレメーター装置とを使って行ないました。コンビュータは、扁桃核からくる自生的な電気的活動の記録の中に、特殊な紡錘型の波があるのを検出しました。そこで, その波が現われるたびごとに、コンピュータは、チンパンジーの脳の他の部分にある罰の系への電波刺激を活発化させる矩型の波を発生させました。チンバンジーはまもなく、扁桃核の紡錘波を発生させないことを「学習」しました。それを発生させるたびごとに、チンパンジーは不愉快な刺激をうけたからです。この実験で私たちは、脳の一部が、コンピュータを介して他の部分に影響を与えうることを示しました。 私たちの実験はこみいっていますが、それでも、かなり単純なものです。おそらく、この技術は人間に応用されるようになるでしょう。これは推測で、まちがっているかもしれませんが、多分、コンピュータはたとえばてんかんの発作のきっかけになるようなものを明瞭に探知し、そこで、発作を抑制するような脳の刺激を勝発させることができるようになると思います。われわれは、この胸おどる新天地にたった今はいりこんだばかりです。なぜなら、この種の応用は過去三年間で開発されたもの ですから。進歩が技術と結びついていることはもちろんです。動物の脳に皮膚透過刺激を送る私たちの新しい装置 | |
[pagina 336]
| |
をお目にかけることができます。それはまもなく患者の治療に利用されるようになるでしょう。今や私たちは、無傷の皮膚を通して刺激を与えるというかたちで脳の深部に達することができます。外部ソケットを必要としないごく小さなユニットを完全に植えこんでしまうことによってです。この装置は、私たちの実験動物には日常的に用いられていますが、それによって伝染病の可能性を除き、また動物をいつでも電波刺激の実験に利用できるようにしてあります。 もっと最近、私たちは脳の深部からの信号を皮膚を透過させて記録するための姉妹装置を開発してきました。そこで、それが超小型化されれば、私たち腺完全にうえこまれたユニヅトを媒介にして、じっさいに働いている脳と二方向通信ができることになります。もうちょっと推測を進めてみましょう。将来、われわれはこの情報の「送受信」をコンピュータと連結させることができるようになるでしょう。人間と機械の結合「サイボーグ」が現実のものとなります。しかしこの技術のことであまり 感激しすぎないでください。それは限界ももっています。この夢のような実験の中でわれわれができることといえば、すでに脳の中にあるものを活発化させるということだけなのです。この刺激だけで思想を伝えたり言葉を教えたりすることは決してできません。そのためには、通常の感覚的なインプットが必要です。新聞や一般大衆がしばしば誤解してきましたが、脳の電気刺激、すなわちESBには、このような限界があるのです。竃極をうえこんでみんなを支配することができるようになる、独裁者は 大衆を自在にあやつるためにボタンを押すようになる、と想定されてきましたが、それは誤りです。
ほんとうはESBGa naar eind〔註8〕によって、すでにそこに存在する行動バターンをひきおこすことができるにすぎない、というわけですね。
そのとおりです。それは幸運な制約です。脳の一点に刺激を与えると腕の運動をおこさせることができ、しかもその動きはひじょうにたくみであるかもしれません。もしその腕がそれまでにその動きをたくみに行なう訓練を受けていればの話ですが。中側頭回に刺激を与えると患者に話をさせることができます。しかし、もちろん、患者は彼が過去に学習した言葉を用いるのです。脳の刺激は新しい個人をつくり出すことはできません。人格を変えることはできません。 | |
[pagina 337]
| |
脳研究に対するコンピュータの応用の一つの可能性として、一つの脳のある情動の状態を別の脳にコンピュータによって伝えるということが-高度に純理論的にですが-考えられます。多分、コンピュータにプログラムして、特定の興奮の状態、たとえば「幸福」の状態に一致する大脳内部の電気的バターンを感知し、別の人に同様の情動状態をひきおこすような通信を伝送するようにさせることができるでしょう。このようなことはESBによって可能ですが、命令を与えるとか、ロボットのような行動を とらせるとかいうことは、可能ではありません。
われわれは、どうすれば意識と具体的現奥との弁証法的関係を発展させることができますか。
多分、この現実に対する意識的な理解を得ることによって、またそれに関連する神経学的メカニズムを、空想によって誤らせられることなく分析することによって、だと思います。
子どもたちにサンタクロースの話をして、ゆリかご時代から現実に反するようにプロケラムしてしまう、というようなことはしないというわけですか。
そのとおりです。だからこそ私に.精神発生学-それ鳳創造性、魂の発生を意味するのですが-の確立を提唱しているのです。われわれが現在やっているような、まちがった、矛盾にみちたやり方でプログラミングする代わりに、もっと知的な方法をためしてみようではありませんか。あなたは「ビッグ・ブラザーによってですか」ときくかもしれません。私は「多分そうです」と答えます。ただし若干ちがったしかたでですが。つまり.さけがたい生物学的現実を基礎として、どのような型の人間をうみだ したいのか、ということをはっきり意識してそれをするのです。アメリカのミユージカル「南太平洋』で歌われているように、「憎むことは教わらなければできない......」というわけです。攻撃的行動パターンは、幼少時代に効果的に教、えこむことができることがしられています。若干の国では.子どもたちは、敵を銃剣でつくことや、超愛国主義や、他の民族や人種に対する憎悪を、正規の国民学校教育の一貫として教えれています。攻撃や偏見の諸形態が全世界で学習されています。かならずしも 正規の教育によってでなくとも、路 | |
[pagina 338]
| |
上でや生存競争の中で。他方、小さい子どもは、同じ年頃までに同じように簡単に、柔道やピアノのひき方や三力国語の会話を学習することもできるのです。それぞれの新しい世代に与えられる情報の実体や性質は、社会が決定しているのです。子どもたちは、歩くことだって、話すことだって、教えこまれなければなりません。彼らは、その他広い範囲のさまざまな行動形式を、よかれあしかれ学習することになります。そこで、われわれとしては、個人の幸福や世界の平和を促進することにつ ながるようなパターンを推進するようにつとめたいものです。
だれが方向を決めることになるのですか。日本人、中国人、インド人、それともそれ以外の人ですか。
われわれみんながこれらのことを現在決めようとしているのです。中国人はアメリカ人と違ったやり方でするでしょう。この惑星の土地にともに住む共通の運命によって結びつけられている人類にとって、共通の目標が欠けていることが、ある程度、現在の紛争の原因になっています。国際的合意に到達しようとする試みが、しばしば自分自身の神経学的意思決定メカニズムに対する人間の無知にょって、また制御されていない情動性の知性による歪曲によって、妨げられています。人間存在は、統 計だけで、生産性で測るだけで処理されうるものではありません。敏感に反応する脳の存在のことも、考慮に入れておかなければならないのです。
世界モデルをつくるとすれば、教育は、どういう形でそれに含まれるでしょうか。
われわれは、公衆衛生や旅行、それから国際法といった部面では、世界的な規範をすでにもっています。原子やガン細胞に関する科学的研究は、異なった国々で同様の機関や類似した目的のもとに、行なわれております。宇宙船の月着陸は世界中に放映され、全人類がかかわる偉大な冒険に対する熱狂をよびおこしました。これらのことは、われわれが技術をもち、すでに世界的な教育を開始したことを意味しています。まだ見つかっていないものは、人類の共通の目標に関する意思の一致であり、 国際協力は利己的な経済的搾取よりも有益だという認識であり、われわれが地球の表面を町や道路で変えているのとちょうど同じように、われわれはまた知識や行動の刷りこみにょって人間の脳を変えつつあるのだ、という認識です。人間の未来の運命は、もはや自然の偶然に依 | |
[pagina 339]
| |
存しているのではありません。それはわれわれの計画や知性-あるいはその欠如-によって決定されるのです。われわれは知性の神経学的メカニズムに、脳の最大限の潜在能力の開発に、注意と努力を集中しなければなりません。そのさい、われわれは、科学的な好奇心にょって詮索されている電気的、化学的、解剖学的な諸現象とのたえざる交流の中で、考え、感じ、行動するというフィードバックの中にいるのだということを、忘れてはなりません。人間は造物主の最終的な産物ではなく、自分自 身の進化の方向づけを習得しつつある、進化しつっある生物なのです。人間は未来の人間を発明しつつあるのです。 |
|