Seicho no genkai o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
(1973)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
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39 エリザベート・マン=ボルゲーゼエリザペート・マン=ルケーゼ(Elisabeth Mann. Borgese) は、カリフオルア州サソタハ゛ーハ゛ラにある民主制度研究セソターの上級研究員である。 有名なドイツの作家トーマス・マンの娘としてミユンヘンで生まれ、チューリッヒとシカゴで学んだ。アメリカ国際法学会およびアメリカ人文自然科学会の会員である。 その何冊かの著書の中には「女性の栄達-担当者御中」「言葉の障壁」『海洋統治』などがある。彼女は、イタリア人の文学教授の未亡人である。
あなたは主として世界機構、国際機構の聞題にとリくんでおられますね。『成長の限界』は地球規模のモデルを設計する第一歩とみられますが、これは重要な努力だという印象をあなたに与えましたか。
さあ、そういうふうに質問されますと、否定的なお答えをしなくちゃならなくなってしまいますわ。この本がそのままで、いわば世界秩序の始まりにたるだろう、などとに思わないの。私自身は、あなたが今後ひき続いて対談しようとしていらっしゃる開発途上国や社会主義諸国の七十人の人たちの側に入っています。それがともかく私の立場だと思ってます。だからといってこの書物の重要性が減ることにはならないわね。その前提の多くに私が賛成じゃないとしても、この本はとても重要だと思 うわ。資源を地球的規模で管理することの必要性を指摘しているんですもの。百パーセント賛成よ。その必要性を強力に示しているというところが、この本のすばらしいねうちだと思うわけ。
それでは、この報告書のどの点が不足だというのですか。
私の意見では、幾つかの欠陥があります。たとえば、計算の中で絶対に重要な幾つかの変数を除外している、 | |
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というところがまず問題ね。つまり、問題の社会的次元を度外視した経済的命題なんておよそ現実ばなれしていると思うわ。この点でに、私はお友だちのグンナー・ミュルダー ルGa naar eind〔註1〕さんがなすっている批判に賛成です。もう一つは、この種の方法にはもちろんほとんど不可避で、ほとんど内在的な欠点といってもいいくらいなんだけど、予測が現在の傾向、現在の技術にもとついているという点です。この世の中で何が確かだといって、いまの傾向とか技術がすごく劇的に変わるだろうっていうことくらい確かなことってありませんもの。ですからね、たとえばいますぐ成長の限界がくるということじゃないにしても資源の隈界がある っていうとすれば、その予測は多分そこでまちがってしまうだろうと思います。だっていま開発中の技術は-たとえばエネルギー生産の分野での技術をとってもいいけど-変化しつつあるんですもの.私はきっと、これから五十年のうちにこの問題はまったく様相を変えてしまうといいたいわ。
太陽エネルギーを利用し、核融合の開発をさらに進めうという二とですか。
特に核融合エネルギーね。これまで人類が開発してきたどんなエネルギーよりも、確実にもっと安いエネルギー源がきっと得られるようになるわ。海の中の重水素って熊限でしょう。だから、無限のエネルギー源がえられるだろうってわけ。そうなれば、エネルギー源に関する限り地政学的限界から解放されます。それが.エネルギー革命とよんでもいいものになると思うわ。だってそうでしょう。もし人類が無限のエネルギーをもつ可能性がある-私はきっとそうなると思うーとすれば、私の同僚のロ ジャー・レベルGa naar eind〔註2〕教授の言葉を借りていうと、無限のエネルギーとは理論的には無限の資源を意味するということになるのよ。
食糧はどうなのでずか。
食糧もそうね。石油から生産できる蛋白質の量は、理論的には、いまの二倍以上の世界人ロを養うにたりるでしょう。私は、実際にもそんな具合にうまくいくだろう、といっているんじゃないのよ。私たちが飢餓と危機と災禍に向かって進んでなんかいやしない、といっているわけでもないわーいまはむしろそっちのほうにむかって動いていると思っているくらいなの。私がいいたいのは、メドウズGa naar eind〔註3〕さんの予測と同じ程度に現実ばなれ | |
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のした、そして同じ程度に正しいべつの予測だって可能だ、ということだけです。
しかし、地球を組織化するためには、ローマ・クラブが推進しようと践みたような、手はじめの在庫しらべが必要ではないでしょうか。
まさにそのとおりね。在庫の調査と査定は不可欠の前提です。何をするにしたって、それを基にしてするしかありませんもの。私は、一つの方法論としてなら、MITの研究はとても重要で、相当の影響を与え続けるだろうと思ってます。でも、それはあくまで一つの予測にすぎませんわ。興味ある予測ではあるけれど、唯一妥当のものとして私がそれを受け入れる必要はないわけ。「成長の限界」だけを強調するというのは、あまりにも一面的ね。開発途上国にいらっしゃればわかると思いますけど、と うてい受け入れられるものじゃないと思うわ。経済の拡大・発展を実現していかなければならない人たちの間では、とても受け入れられません。そうだとすると、あそこでいっているのは、そんな国々の開発をとめることがねらいなのじゃなくて、資源の再配分、富の再分配のことを考えているんだってことを納得してもらわなくちゃならないわね。私たちがまじめにそう思っているということに得心がいけば、開発途上国の人々だって考えを変えてくれるかもしれません。いいかえれば、「成長の限 界」とは、私にとっては、社会主義の別名なんです。もし私たちが世界的な社会主義を受け人れる心がまえがあるのならば、「成長の限界」を受け入れることもできるでしょうね。そうじゃないとすれば、とうていそんなこと受け入れられません。
いいかえればあなたはロバート・F・マクナマラがストック末ルム会議Ga naar eind〔註4〕で行なった演説にかなり賛成なさるんですね。
ええ、そうよ。私は、彼がストックホルムで、またその前にもカナダで、ひじょうに重要な発言をしたと思ってます。
一九七二年九月の世界銀行でのマクナマラの演説はごらんになりましたか。彼は、たとえば、世界銀行がインドネシアの産児制限計画に対して融資しようとしていることに、言及しています。それによってインドネシアの人口は一九七二年から二〇〇〇年までに五千 | |
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万人減らされるというのです。
あら、それ冗談におっしゃっているみたいなお話ね。 どうしてですか。
人口問題つて、公害とか環境問題と同じ種題の問題なのよ。他のとってもたくさんの問題と、それはもう複雑にからまりあっているんです。だから、人口問題だけをとりあげて、産児制限の技術に力を入れればそれでうまくいくつてわけのものじゃないわ。だからご冗談でしょうと申し上げたの。
地球を救うという問題を解決しようと協同作業をする代わりに、お互いに競争しあっているあらゆる分野の科学者たちの間にある、信じられないような障壁に対しては、どう対処したらよいとお考えですか。
平和研究の場合も同じことね。何千という研究機関がありながら、お互いに話し合おうともしない。そして結局、仕事全体を実りのないものにしてしまっています。システム分析の専門家も経済学者もその他のあらゆる人人も、みんな協力しあわなくっちゃ。それは当然のことよりこの二十年か二十五年の間に私たちが学んだいちばん基本的な教訓てなんだったでしょう。世界全体の問題にとりくむには、国際的で学際的な協力が必要だ、さもなければ私たちはなんにもできやしない、ということじ ゃなかったかしら。ところがじっさいには、そういう形で問題に取りくもうとしてもたいへんな困難につぎあたってしまうのね-ナショナリズム、地方根性、なわばり意識といったものに。それも個々人の間だけじゃないわ。資金援助財団にだってそれがあります。私たちの考えるプロジェクトは、ふつう、いろんな分野の境界領域にはいってくるのね。たとえば環境問題をとりあげようと思ったら、財団の人たちにこんなふうにいわれてしまいます。環境問題の部局のもっている基金は、一国単位のブ ロジェクトにしか使えないことになっています。環境問題の国際的な側面をおやりになりたいんでしたら-そうですね、国際部に申し出ていただけませんか、と。でも、この二つの側面は、今では切りはなして扱うわけにはいきませんわね。モーリス・ストロングGa naar eind〔註5〕さんのおつくりになった新しい財団は、この両面をいっしょにしてとりあげる方向に進む新しい出発点になってくださると期待していますわ。でも一般の博愛団体や資金援助財団は、過 | |
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去二十五年間におこった変化には追いつけないでいます。研究のための資金援助機構はとってもひどくたち遅れていて、そのおかげでこの種の仕事はどうしようもないほどむずかしいものになっていますの。
私は十年あまリ国連本部で仕事をしてきましたが、いつもこんなふうにいわれていました。中国が加盟するまで待とう、そうすれば本当の国際機構ができる、と。ところが北京が最初にやったことは、パングラデシュへの拒否権発動でした。一般論として国際機構の将来についてはどのようにお考えですか。
国際的な機構づくりは、急速に進展していると思います。古い形の純粋外交はもうおしまいね。問題の学際的な本質をとらえようとするこのごろの傾向に合流していかないかぎりは。
学際的な秩序というところをもう少し詳しく説明していただけませんか。
今日の国際社会はもう単に政府間の関係だけで成り立っているのではない、ということ。もう単なる政治的関係だけじゃすまないわけね。単に政府のものとか政治的とかいうだけでない、その他の多くの利害関係や力関係があって、それがいろんな民族や国家の間をさまざまな次元で交錯しているのね。もし何かじっさい上の成果を得ようとすれば、それらの諸要素と政治とがうまく作用しあわなくちゃならないわ。いまの国際連合は、三十五年前の世界を反映しています。あれは今日の問題にとり くむために設立されたものじゃないんです。国連専門機関は、それでも、ある面ではもう少し幸運ね。専門機関っ てWHOGa naar eind〔註6〕なんかのことよ。それにしてもその力はとても、とても限られてます。いまこそ新しい形を展開しなくちゃいけない時がきてると思います。その希望はとてもあるの。私は過去四年間、合衆国海床委員会と密接に協力しながら、海洋空間の問題について仕事をしてきました。それで思うんだけど、海洋資源の管理のために成立する新しい国際機構が、新しい形態の国際機構をうむ突破口になりそう。その新しい形態っていうのは、そうね、一方で経済学とか産業と、もう一方で自 然科学と、それから政治を結びつけるものだわ。それは海洋以外の資源の管理にも応用できるし、一般に超国家的活動に応用できる園際機構の新しい形態です。 | |
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トーマス・マンGa naar eind〔註7〕なら『成畏の限界』をどうみたでしょう。彼は、どっちみち人類の将来についてはかなリ悲観的だったようですね。
父はたしかに経済学にはあまり興味を示しませんでした。彼はマテリアリストでもなかったし-そう、たしかにそうじゃなかったわ。一貫してヒューマニストでした。経済成長の問題は、父の心の中では第一義的な意味はもたなかっただろうと思います。ところが、今日ではどうでしょう。たくさんの人が、うぶゆと一緒に赤ん坊まですててしまいがちだわね。もちろん、私は、多くの開発途上国が出してきているあの考え方に賛成です。それはね、一方で中国人がもう一方でヒューマニストたちが (中国人もそりゃあヒューマニストとはいえるわね、とっても深い意味での) 出している考え方のこと。経済成長がすべてじゃない、人生には経済成長以外にたくさんの価値がある、という考え方。でも、そのことは経済成長をおり出してしまう、ということじゃあないのよ。それを正しい観点から位置づけようっていうわけ。MIT論文がもっているこの側面には、私は賛成。ところがよ、その面を強調しないで、経済成長を止めろ止めろといい、もっともっと早い進歩を必要としている人々の前進を遅らせうってことばっかりいうんだとしたら、私は、そんな人たちとはお別れね 。
しかし、べッチェイは人類の均衡のために仕事しているのではありませんか。
私が今日いったことは、みんな、アウレリオ・ペッチェ イGa naar eind〔註8〕の考えていることと同じだと思うわ。私ってもう何年も彼とずいぶんいろんなお話をしてきたのよ。でも彼と意見がちがったことなんて一度もなかった。アウレリオはいちばんいい意味でのヒューマニストね。今日、とくに国際関係を論じようとしたらーつまりそれは第三世界の人々のことを問題にするってことだけどー経済問題は二の次だなんていうことはだれにもできゃしないわね。それは二の次なんかしゃありません。他の問題と同じくらい重要で す。だからといって、それだけが問題だってことにはならない。分配とか均衡、社会的価値や社会的正義に対する配慮は、純経済的な配慮とたしかに不可分のものね。実際問題として、国際機構を問題にする場合に、経済問題だけをとりあげるなんていうのは時代おくれだと思います。経済問題を無視したりな | |
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おざりにしたりするのと同じくらいに時代おくれなことよ。
私は.この書物の第二巻を、大部分第三世界の人たちとの対談でうずめるつもりでいるんです。第一巻の七十人と第二巻の七十人の人達で、一九七四年にバンドン会議Ga naar eind〔註9〕型の会議を計画するということには積極的な意味があるとお考えですか。
すばらしい考えだわ。日程の面からいっても、会議を組織するだげの時間の余裕は十分ね。それ、本当にすばらしい考えだと思います。私、楽しみにしています。私もぜひ入れていただきたいわ。
最後の質問です。今、本を書いていらっしゃるのですか。
情ないけど、三冊いっ、べんに書いているところなの。その一冊はもうじきでます。『海の平和を求めて (Pacemin Maribus) 』という題で。国際的な海洋管理体制を設計するための活動に関する本です。
羅騒は法王ヨハネスからお借りにたなったんですね。 そうです。
一九七二年十一月十三日にロンドンで九十一力国によって調印された、これ以上有毒廃棄物を海中に投棄しないという協定Ga naar eind〔註10〕を、われわれはどの程度評価することができるでしょうか。
それは正しい方向への第一歩です。その方向への前進が、現在いろんな形で行なわれています。でもそれだけでは十分じゃありません。第一、海洋投棄は汚染のごく小部分にしかあたらないの。汚染のいちばん重要な源泉は、陸から出るものなんです。海洋汚染は、今日の産業都市制度全体の崩壊を示す一つの徴候にすぎません。そこから第二の論点がでてきます。汚染は孤立的には処理はできないという論点が。それは、資源の管理や開発の基本に正面からとりくんではじめて処理することができ る問題です。汚染の制御にだけ力をいれるのは、西側の偏ったものの見方のあらわれね。汚染に力をいれるのがまちがいだってことじゃあかならずしもないのよ。それだけではせますぎるってことね。 |