Seicho no genkai o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
(1973)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
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37 ラルフ・ラツプラルフ・E・ラップ (Ralph E. Lapp) 博士は、一九一七年に, ニューヨーク州バッファローで生まれ、シカゴ大学で物理学の博土号をえた。原子力エネルギーの使用と開発の分野におけるアメリカで最も著名な批評家の一人である。一九四五年から一九四六年にかけて、いわゆるビキニ島原爆実験に関与した。また原子力事情に関して国防省の順間をしている。 多数の記事や著作があるが、ここでは「我等は隠るべきか』 ‘We must Hide’ (1949), 「放射線の恐ろしさ」 ‘Nuclear Radiation Physics’ (1954), 『原子力と人類』 ‘Atoms and People’ (1956), 「核戦争になれば」‘Kill and Overkill’ (1962) および「兵器文化』 ‘The Weapons Culture’ (1968) を挙げておこう。
原子力の利用はますます拡大する一方ですが、原子力が環境や人間社会を危険に陥し入れるという点については、博士はどんなご意見をお持ちですか。
私は、原子力に関して次のような見解をもっています。化石燃料、特に石油や天然ガスのような有利な化石燃料が急速に枯渇しつつありますから、将来の動力を供給するためには原子力という新たなエネルギー源にたよらなければなりません。これは、石油や天然ガスをもっとたくさん発見したり石炭資源を利用したりすることができないという問題ではありません。それは確かに可能です。しかし、二〇世紀の現代礼会には、できるだけ早く工業化の階梯をよじ登ろうとする性質があります。事実 、いくつかの低開発国は先進国よりももっと早いスピードでこのはしごを登りつつあります。このことは、資源、殊に一回かぎりの遺産であり更新することのできない化石燃料、に対して莫大な需要があることを意味します。 アメリカに世界の他の国に例を見ないほど化石燃料を採掘し、今日ではその全石油の二五パーセソ卜を輪入せ | |
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ざるをえず、さらにアルジェリアから天然ガスを輸入するまでになっています。事実、アメリカは天然ガスを液化して輪入し始めています。アメリカでにこれらの有利な化石燃料に対する需要がとても多いので、アフリカの砂漠からガスを手に入れようとしているわけです。海岸の港まで汲み出してきてから液化させ、特別のタンカーに乗せるのです。
冷凍状態におかれるのですか。
液体の状態です。強冷化した状態で海を越えて港まで輪送し、そこで再び通常の液体にして陸上へ汲み上げ、ガス化の必要が生じるまで液体のまま保存するのです。このガスは、アルジニリアの砂漠から出て来る時には千立方フィ一トにっき恐らく二~三セントですが、ボストンの主婦の手に入る時には、その値段はニドル五〇セントになるでしょう。このことは、この種の財の価格のむちゃくちゃな釣り上げを意味します。われわれは化石燃料およびそれから生産されるもの-つまり電気-を欠かせな くなっているので、その燃料源があるところならどこへでもモれを取りに行かねばなりません。ところで私は、必要とされる燃料の予備の拡大は原子力によってまかなわれることになると信じています。勿諭、原子力は、酸素のあるところで燃やすといった使用法をとる化石燃料とは、完全に違った種類の燃料です。化石燃料を燃す場合、当然のことなのですが発電所の煙突からは汚染物質が排出されます。また、現在アメリカには一億台以上の自動車がありますが、この自動車の排気管からガソリン やディーゼル・オイルの燃焼の産物が出るばあいにも、汚染が生じます。ですから、アメリカ人ば全く独自のことをやっていることになります。つまり、数百いや数千の固定された形の燃焼装置で石炭や石油や天然ガスを焼却している上に、一億千三百万台ほどのガソリンを吸い込む四輸車の形態で、それを燃すというしかたを組合せて用いているのです。 ところで問題はアメリカがますます電化された国へと転換しつつあるということです。今世紀の中頃には、電力を生産するのに使用された燃料は全体の中の一〇パーセントにすぎませんでしたが、今日ではこの割合は約二七パーセントになっています。今世紀の終わりには全燃料の五〇パーセントが電力生産だけのために焼却されることになるでしょう。アメリカは電化された社会になりつつあり、世界の他の国々も我々の轍を踏んでいるので | |
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す。
科学者の中には次のように考えている人もいるようです。即ち、エネルギーは将来太陽から取り出されるようになり、人類は無限のエネルギーを得るようになると......。
ええ、私が原子力という時には、ウラニウムから得られる動力のことだけでなく、水素のような軽い元素の融合にょって得られる動力のことも考えているのです。これは勿論、われわれにとっては無限のエネルギー源になります。しかし、問題がないわけではありません。誰もその予定を立てることが出来ません。核という観点から、水素を燃焼させるそのような装置がどんなものであるかについて、一般的なことはいえます。しかし、それをどうやって作るかということはわかりませんし、そのコ ストの算出の仕方もわかりませんし、したがってどれだけの価格でそのよらな装置が電力を生産しらるかもわかりません。ですが、そのような装置の燃料は、事実上、海洋そのものがもっている燃料、つまり、水自体に含まれている重水素です。だから、われわれは実際に海を燃やすことになるでしょう。しかも海洋の大きさから考えれば、文字通り地球のエネルギー問題を今後一〇億年に亘って解決することになるでしょう。
公衆が心配するのは核廃棄物が何処へ行くかということでしょう。
ウラニウムやトリウムのような重金属から得られる動力を扱うばあいには、エネルギーの放出を原子炉という名で知られている装置の中で行うように保証するこどが基本的に重要な問題になります。つまり、地中からウラニウムを採り出す時に始まって、それを粉砕し、精錬し、変換し、燃料用元素を作り上げ、それを原子力発電所内で焼却し、それから新たな燃料を得るために放射性燃料を再加工し、最後に、残余の廃棄物、即ち、人類に独自の問題を提起している非常に長期の活性期間をもった 放射性元素に終わるまでの段階が考えられますが、その各段階ごとに被害が出ないようにする保証が必要です。 アメリカも、またほとんどの国も、自国の領土内に独自の共同墓地を見つけ出さなければなりません。それは、将来何世紀間にも亘って荒されることのない場所でなければなりません。というのも、これらの放射性元素がその効能を失うまでに何世紀間もかかるからです。ア | |
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フリカの諸国をあてにするわけにもいかないでしょうし、また将来何世紀間にも亘って安定している政治体制を考えることもできません。アメリカは比較的若い民主政体ですが、政治的には安定していると思います。それがどの位長続きするか、それはわかりません。しかし、政治的に安定した国、又はそうした歴史を持っ国はとても少いのです。私の意見では、放射性廃棄物を永久に貯蔵するのに必要な埋葬所は、ある種の岩塩坑でしょう。これは解決できない問題ではありません。これらの廃 棄物を地下の容器に入れ、それらを安全に保つための研究が現在十分行われているものと信じています。
将来何世紀間にも亘って人類に危害を及ほすことなしにやれるとおっしゃるわけですか。ですが、現在建設中の原子力発電所は、主にアメリカの場合ですが、ますます都市に近く建設される傾向がある、とあなたはお書きになりませんでしたか。危険とは何でしょうか。
原子力発電所について私は、基本的には次のような考え方をしています。原子力発電所が安全で、しかもその安全性が非常に高いことが判明するまで、つまり、原子力発電所を大都市の住民の近くに設置しても確かに安全だということが判明するまで、原子力発電所は居住密度の高い場所から比較的離れた所に設置すべきなのです。というのも、原子力計画に自信をもっていないからではなくて、われわれが人類の歴史上独自な問題を扱っているからなのです。地球の歴史をみても大人口のすぐ近く にこれほど独特な危険物を設置したことはありません。私は同様の例をたった一つだけ挙げることができます。それは、高いダムを建設し、そのダムのふもとに都市を建設するような場合です。こうしたことは一般には行われませんが、仮りにそうした場合にも、人々には少くともダムがそこにあるので危険だということはわかるでしょう。しかも人々はダムが欠壊する頻度について多少の経験を持っています。ですから、問題が生じても、つまり、ダムが弱り始めたばあいでも、一九七二年の地震の 後、ロサンゼルスで行われたように、技術者がダムから水を徐々に放流することができるでしょう。私の知っている唯一の同様な例はこれ位です。それにもかかわらず、例えば、フィラデルフィアから一一マイルの所にある原子力発電所は、一大居住地域の方角へ移されようとしています。私の意見では、その発電所には安全システムがっいているので、事故があったばあいでも人々にはあまり | |
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ひどい危害を加えないだけの信頼性があるということが公衆に十分なっとくゆく形では示されなかったように思います。
ええ、しかし、公衆に知らせるといっても、原子力発所が本当に安全であるかどうかは別のことです。あなたはその原子力発電所が安全だというご意見なのですか。
私はその点は疑わしいという意見です。安全性が疑わしいというのは、非常に復雑なシステムを扱っているからです。われわれはまだ、それほどの出力水準の新しい原子力発電所を運転したことがありません。この種の発電所に関するわれわれの経験は、ほんの少ししかありません。従って、原子力発電が安全だとあらかじめ言うとしても、それは、そのシステムの動きを予測するために組み立てられたモデルに依存して言うことにならざるをえないのです。モデルにたよるしかないことは、私には わかっています。が問題は、いつモデルによるか、どうやって公衆にそのモデルを受げ入れさせるかです。これが核の安全性に関しての実情であることは極めて明らかです。なぜなら、誰も実物と同じ規模の原子力発電所を作って、それを実験用として使ってみようとはしないからです。そんな実験をすれば、高くつきすぎます。費用がかさみすぎるのです。ですから実際にやるのは、その発電所のモデルを組み立て、それがどう動くかを分析してみることです。しかも人々がやりたがるのは、小規模 な一連の実験を行って、そのモデルを実証することです。アメリカでは、こうした実験がいくつか原子力エネルギー委員会によって行われています。 われわれは学界に対してさえ、このような装置の安全度を証明することができないのですから、まず第一に安全性の研究計画をもっと強化しなければなりません。第二に、これらの発電所が都市にあまり近くならないように配置の線引ぎを行なわなければならないと思います。いくつかの発電所、たとえば、ここからあまり遠くないところにあるクラバート・クフリス発竃 所Ga naar eind〔註1〕のようなものは、住民の危険を考慮してうまく立地されているので、かりに大ぎな事故がおこって、数千の人々が発電所からの放射線にさらされるとしても、重大な結果は生じないでしょう。
ニューヨーク・タイムズ・マカ゛ジン誌の一九七二年六 | |
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月二二日号の記事の中で、あなたは、ニュージャージー州のアトランティック・シティの沖合ーーマイルの場合のように、海の中に原子力の島を建設する可能性について述べておられましたが、あれは公式に提案されているのですか。多少とも考慮されているのですか。
私がニューヨーク・タイムズ・マガジン誌に原子力島に関する記事を書いた後に、ニュージャージー州の公益事業会社がアトランティック・シティの北東、ニュージャージー州の海岸から三マイルの所に二億ドルの設備を建設するはっきりした計画を発表しました。
あなたは紀事の中では一一マイルと書いておられました。三マイルでは危険ではないのですか。 海晦岸からは三マイルですが、アトランティック・シティーからは一一マイル以上になります。この例の場合の問題は、もう発電所の建設に適した河川を持たない州にとっては予め計算された危険をあえておかす以外にない、ということだと患います。基本的に冷却水が足りないのです。これらの発電所は、みんな非常に多量の冷却水を必要とします。実際の建設に当面して始めて、ニュージャージー州またはニニーヨーク市にはもう本当の適地は残っていないことに気がつきます。したがって、海 洋に出て行くことによってはじめて、熱汚染の問題、即ちいわゆる温湯の問題を基本的に解決することになるのです。そうすれば、水中の生命を不必要に殺傷することがなくなるわけです。核の安全性については、まだ他の問題が残っています。とは言っても、この例の場合には、建設用地からの風向きの型を調べてみるとわかりますが、アトランティック・シティーにとっての危険は、例えば、フィラデルフィアからーーマイルはなれたニューボールド島での建設計画に含まれているほどのものでは ありません。しかし、こうした計画はすべて、なにがしかの危険を伴います。 MIT, 即ちフォレスター・チームGa naar eind〔註2〕が地球のモヂルを作ろうとしたのは、地球の将来を管理するために、まず管理方法に関する目録の作成から始めるためでした。あのモデルは原子力ネエルギーに関する、あるいは将来われわれを救ってくれるかもしれないべつの種類のエネルギーや動力に関する、変数を含んではいませんが、それでもあの種のモデルには価値があるとお思いですか。 | |
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私は自分でも、過去七年間以上、将来予測、特に二千年という年を予測する仕事を、たくさんやってきました。ですが、私はすぐ、そんなに近い将来のことは予測できないことに気がつきました。われわれが直面しているいくつかの問題の見通しをつけるためには、実際上、二一〇〇年あるいはそれ以上先の年を検討しなければなりません。MITのアブローチは、地球のコンビュータ・モデルを作る最初の試みでしたが、ひどいものだったと思っています。あのようなモデルには一つの危険が伴います。 つまり、人々がコンピュータ崇拝に陥入りやすくなるのです。人々には、コンピュータというものはすべて、それに入れられる知恵に依存するものだということがわかりません。コンピュータには自分の知恵がありません。コンピュータを使うゲームの現段階では、「個の電子工学装置内部で生み出される判断、あるいは価値体系といったものは全く存在しません。人々が二一世紀の生活の質をコンピュータ・モデルで予言しているのを見ると、私はたいへん情なくなります。というのは、コンピュー タの言葉では生活の質なんか定義できないと私は信じているからです。ですから、私は、コンピユータが生活の質についての予言を打ち出すようなことは期待しません。それは全く無意味なことです。ですから、科学者がそのような変てこな予言をするばあいには、人々は怒っていらいらする権利があると思います。この点を留保すれば、モデルによって人々が将来を現実的なものとして考えるようになり、またこの地球の資源は有限であるということを考えるようになるのであれば、その場合には、 私はハレルヤを言って讃えるでしょう。つまり、私はモデルの利用に賛成なのです。その程度の事は私もやります。しかし、人類の運命をコンピュータに委託しなければならないとは私は信じません。私はまだ人ソワト間の頭脳、つまり私の頭蓋骨の中の重さ三ポンドのやわケニアものが多大の過剰能力を持っていて、自分でこの問題を分析し、多くの変数を考慮に入れた上で、ある程度の価値ある予測をすることができると信しています。例えば、地球の化石燃料資源に関するモデルを組み立て、二 一世紀にはわれわれがどれほどこれらの化石燃料を枯渇させ、エネルギー源として原子力にどれほど依存するようになるか、を描き出すことは可能だと思います。化石燃料の供給は非常に乏しいにもかかわらず、他方で、その需要は人ロ増大に伴い、また一人当り消費の増大に伴い非常に大量となるので、われわれは短期間に化石燃料 | |
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資源を事実上「吹っ飛ばして」しまっているのです。アメリカにおいても世界においても、化石燃料の全時代は、木を燃やしていた段階と核を燃やす時代との間の過渡的な時代とされましょう。現代の問題は、化石燃料の時代から核燃料の時代へどうやって到達するかということです。例えば、ガソリンは、その経済的生命が可動性に依存しているので、恐らくアメリカにとっては最も決定的な重要性をもつ燃料でしょう。私は、内然機関をこれまでなされた発明の中でもっとも悪魔的なものだと 見做しています。といらのは、内然機関は二〇世紀およびその経済にとっては、原子力エネルギーよりもはるかに革命的だと思うからです。原子物理学者として、私がこの種の予言をするのは少し畑違いかもしれませんが、私はとにかく二〇世紀を見てきて知っているのです。 私はちょうど、『対数の世紀』 (‘The Logarithmic Century’) という題の本を書き上げたところです。私が今世紀を対数的と呼ぶわけは、煙草の消費であれ、キロワット時単位の電力の生産であれ、年当りのガロン単位のガソリンの燃焼量であれ、図にすると、全て対数的趨勢をもって上昇しているからです。そこで二〇世紀の出来事の現実の過程を見ると、アメリカが】団の国々をリードしてきたことがわかります。アメリカはこれまで、他の国々よりはるかに進んでいたのですから、アメリカの高度の技術的精緻さをもってしても、将来の確実に発生する不足 が予知できなかったということは全く信じられない位です。われわれは盲目になっているのです。それほ民主主義体制のためです。アメリカの民主主義体制は政治的には、二年、四年、六年といった単位でものを考えるように仕組まれています。これはそれぞれ、下院議員、大統領および上院議貸の職務期間です。 在職中のこれらの人々は自分達が再選される時期のことを考えます。彼らに二五年、五〇年、一〇〇年という時間単位でものを考えさせるのはとても困難なことです。といらのは、彼らは自分達の選挙区民にとっては、そんなことは重要でないと考えるからです。これは民主主義体制の基本的欠陥であり、克服されなければならないことです。ですから、MITのような研究は我々の目を少し醒まさせる効果をもつので、私は歓迎します。MITの研究はうれしくないと思うかもしれませんが、ともかくそれは われわれの目を将来に向けさせます。しかもわれわれは、実際にも未来指向的でなければならないのです。例えば、ガソリンはアメリカを活動させておくのに | |
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必要な最も決定的な重要性をもっ商品であると述べました。アメリカの人口の三分のこは百の大都市地域に住んでいますが、これらの大都市地域は、中心都市、村、町の複合体からなっており、それらほ自動車で混雑したハイウェーによってたがいに結びつけられています。これらハイウニーには、毎月数千万台にのぼる車の出入りがみられるのです。これほどの大規模の流出入は、主に平均一・二人当りに一台という高い自動車保有率に基づいています。ところで、このような輸送のエネルギー ・コストと私が呼んでいるものを計算してみますと、それは途方もないものになります。ついでにいえば、エネルギ一・コストを計算するにあたって、私は、単なるガソリンの費用以上のものを計算に入れています。つまり、ガソリンの費用に加えて、自動車自体の費用、洗車、ガソリン補給などのサービス費用、修繕費用などに含まれるエネルギーの費用を合わせたものが、私のいうエネルギー・コストです。
マクルーハンGa naar eind〔註3〕なら「地」と呼ぶものですね。
そうです。そうしますと、非常にエネルギー消費的な機械をわれわれが持っていることに気がつきます。しかもわれわれは窮地に陥入っています。人口がアメーバのような幾何学模様をなして広がっているので、都市の中心部から一〇マイルも離れた所に住んでいる住民に役立つような、効率的で妥当な運賃の大量輸送体系を工夫することがほとんど不可能になっているのです。
中国の周恩来が最近の訪問客に語った所によると、北京には一五〇万台の自転車があります。彼はこれが自動車に置き換えられるのを見たくはないようです。オランダは車で氾濫しています。今では全世界が、この病弊に悩んでいます。世界的な規模でこの問題にどう取り組むべきでしょうか。
確かにおっしゃるとおりです。事実、私はちょっとした図表を持っています。勿論、これを会話の中に挿入するのはあまり容易ではありませんが、西暦二、○○○年の地球上の自動車人口を図表にしたものです。それは、私をぞっとさせます。というのは、これだけの数の自動車を作っていながら、他方でまた、これらの自動車を汚染の少ないものにしようとしており、この過程で後戻りしているからです。つまり、新しい自動車は圧縮比の低いエンジンを備えており、またあらゆる種類の汚染防止 | |
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装置を備え、これがまたエネルギーを必要とするからです。その結果、都市に出入りしている今日のアメリカの車が、近代的な車に変った場合には、ーガロン (四リットル) 当り約八マイル (一三キロ) しか走れないことになります。私は汚染よりも資源の維持の方にずっと関心があります。というのも、もし人々を動きうるようにしておくことができなければ、つまり、人々がここからあちらへ、家庭から仕事場やショッピング・センターへ行くことができないとすれば、経済は気の抜けたものになるだろうからです。状況はひどく悪くなっているわけですね。「解決の途はある」と言うのは簡単です。結構です。もしキャデラックのかりにフォルクスワーゲンを使うならば、一ガロン当り二倍の距離 を走れるでしょう。しかし、ホワイトハウスの誰かがジェネラル・モーターズに、フォルクスワーゲンを作れというのを想像してみて下さい。それは一体何を意味するでしょう。もしキャデラックと同じ価格でフォルクスワーゲンを売ることができれば、彼らは喜んでフォルクスワーゲンを作ると思います。しかし、もしフォルクスワーゲンをフォルクスワーゲンの価格で売るものとすれば、ジェネラル・モーターズの株価に何が起こるでしょう。ジェネラル・モーターズはわが国の経済の心臓部に位 置しています。アメリカでは、約六・五人一人が自動車に関連した職についています。自動車経済をへたにいじくれぼ、つまり、デトロイトの生産が変化すればこの国の全経済が変化するのです。 だから、成長の抑制について語りたいと思うならば、厳しい結果が起こることを覚悟しなければなりません。したがうて、経済学者達が、未来を計画する際にはそのシステム全体の費用も考慮に入れなければならないと言うのは、正しいと思います。事実、多くの事を分析してみた結果、私は種々のエネルギー・システムないし種々の商品システムに射してありとあらゆる種類の制約が課されていることに気がつきました。煙草の喫煙のばあいに制約となっているのは市場の事実上の飽和です。つま り、喫煙しょうとする人間はもう少しはいるかもしれませんが、市場を今よりもずっと拡大することはあまりできないということです。飽和に近いわけです。このばあいにに、生物学的な侮辱 (the biological insult) が制限要因になっているわけです。発電所のばあいに制約になるのに発電所を建設し、またその金融を行うわれわれの能力です。これは他の何よりも制限的に作用する要因 | |
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だと思います。わが国は今世紀の終わり迄に、それぞれが百万キロワットの発電能力をもった千の原子力発電所を備えていなければならないでしょう。これらの発電所は、世紀の終わりまでには、非常に多額の建設費を要するものになっているでしょう。これは、アメリカの総ての富をもってしてさえ、一大問題です。ところが、工業化の階梯を登ろうとしている小国が原子力路線を進まなければならないとするならば、そのことはこれらの小国にとって何を意味するか考えてもごらんなさい。小 国もまた、われわれが支払うのとほとんど同じ価格を支払わなければならないでしょう。私は、ほとんど次のように考えたくなるほどです。つまり、原子力がもたらす効果は、豊かな国を一層豊かにし続け、貧しい国を一層貧しくするというものだろう、と。 これらのエネルギー問題のいくつかについて、将来の見通しを立ててみましょう。われわれは、エネルギーがあたかもなくならないものであるかのようにエネルギーを消費しています。実は、アメリカ人は、高度の権威筋からエネルギーがなくなると言われているのです。けれども、そんなことがおこるなんて信じられないでいるのです。エネルギー危機に石油産業の発明であるなどと言われています。石油業者はただただ、石油を売り、もっと高い価格をつけ、そしてさらに多くの石油を売りたい と思っているだけだというわけです。事実、石油産業自身さえこの問題に気がつくには時間がかかりました。というのは、彼らは通常は約一五年先のことしか考えないからです。しかし、その場合でさえ、今では問題が出てきました。他の国々、例えばインドは世界人ロの一五バーセントを占めていますが、現在のところ世界のエネルギーの約一・五バーセントを使用しているにすぎず、しかもそのエネルギーの多くは動物の糞を燃やすことによって供給されているのです。これは全く後進的な状態で すが、インドが現在よりも高度の工業発展の状態に登ろうとするばあい、どのようなことがおこるでしょうか。そのような発展に融資するためには資本を入手しなければなりません。ところで、低開発国はこのような新開発に融資するための資金をどこで手に入れることができるのでしょうか。われわれが低開発国のために原子力発電所を建設し、化学薬品のための電力を生産し、また農業用水を供給するボンブの運転用の電力を生産してあげられるだろう、ということは結構ですけれども、それを実 現するためにはともかく資本がなければならないので | |
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