Seicho no genkai o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
(1973)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
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35 グンナー・ミュルダールカール・グンナー・ミュルダール (Gunnar Myrdal) 氏は一八九八年にスウエーデンのダレカリア地方、グスタフスで生まれた。ストックホルム大学に学び、現在同大学の国際経済学数授である。また、スウエーデソ国立国際経済研究所長、ストックホルム国際平和研究所 (SIPRI) 理事長を兼ねている。 ミュルダール教授の数多くの著作の中には『アメリカのジレソマ』 ‘An American Dilemma’ (1994) 『国際経済』 ‘An International Economy(1956), 『福祉国家を越えて』’Beyond the Welfars State’ (1960), 「豊かさへの挑戦」 ‘Challenge to Afluence’ (1963), 『アジアのドラマ』‘Asian Drama’ (1968) がある。
一九七二年ストックホルム国連人間環境会議で、あなたは, 人類はっいに成長の隅界を認識し、それに備えるベきだと警告されましたが。
これはあなたの国オランダの友人、シッコ・マンスホルトGa naar eind〔註1〕を含めた多くの人が考えているよりも、はるかに復雑な問題なのです。全地球的規模での問題の解決に関する散漫なおしゃべりは、すべてまやかしです。世界中での平等の欠如をみ、世界の資源の四〇パーセントをアメリカが使っているのを見るとき、全地球的な問題やその解決についての議論は全くナンセンスなのです。
おそらくそうでしょう。しかし、あなたは成長の隈界について厳しい警告をされたわけですが。
確かに限界は存在します。しかし、それについて多くのことを知る人はだれもいません。いわゆる、事実というものはすベて、議論の余地を多く残すものなのです。私が特に異論をもつのは、これらのいわゆる限界が、あたかも動かすことのできない全地球的な問題としてあつかわれ、国際間のあるいは一つの国の中の平等という、もっとずっと緊急の問題に、少しも立ち入っていない点です。 | |
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あなたは強権的ともいえるほどの人間活動・経済活動の「計画化」を唱道しておられますが、しかし、どうやってそれを実行するのですか。
まさにそれは私の明らかにたいと思っている事柄です。われわれは非常に厳しい管理社会に直面しています。もちろんそこには政治的な問題もあります。しかし、私は今までにこれらの問題についていくつもの論文を書いていますので、それらを引用していただけると幸いなのですが、また、私はこれらの問題をちょうど脱稿しようとしている、『経済学批判論集』"Critical Essays on Economics"という本の中でも説明しています。
なるほど、しかし、私がわざわざストックホルムまで飛んできたのは、すでにお書きになったことをそのままひきうつすことではありません。もう少し一対一のお話をうかがいたいのですが。
いいでしょう。抽象的なモデルというものについての私の考えをお話ししましょう。この十年間私の同僚の多くの経済学者は、自然科学者が用いる方法だと彼らが考えるもの、すなわち非常に単純化したモデルを構築し、しばしばそれに数学の衣をいそいでかぶせたものによって、その発想を競いあうことに、精力的かつ精いっばいの努力を払ってきました。この種のモデル構築は最近急速に他の社会科学分野にも広がりつつあり、それらの分野の研究者達も、次第に経済学者と肩をならべて、競い あおうとするまでになってきました。 しかし、この種の形式の採用は、もしもその形式が社会的現実に適合せず、従って分析のために有用でないならば、社会科学をして真に「科学的」たらしめるものではない、ということは明らかなはずです。自然科学者の場合には、確認された事実や関係に対して、机上で数学的な推論をたんに適用してみるだけでも、基本的に重要な発見をすることがしばしば可能なのですが、その理由は、彼らが奥底の現実にまで降りていくことができる、という事実にもとづいてそれを行なっているからなので す。他方、私たちの研究分野では流行ば循環的に変化しています。最近では、米国をはじめとして、振子は抽象的モデル構築の方向に向って振れています。 しかし、私は今後一〇年ないし一五年すれば制度的アプローチが再び流行するようになると予見しています。より単純な自然科学の手法-むしろ形式といった方が | |
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良いかも知れませんが-を競って取入れようとする最近の試みは、がいして浅はかさと不適切さに落ち人るような一時的な邪道とみなされるようになるでしょう。私があえてこのような予見をする理由は、社会的な事実や関係の研究はもっとずっと複雑で、さまざまに異なり、またうつろい易い物事を取扱わなければならないのに、非常に抽象的なモデルに含まれるパラメーターや変数によって、それらを表現しつくすことなんかできはしないという点にあります。抽象モデルでの変動は、集計量 や平均値で表わされているだけで、十分な説明は与えられていないのです。 誤解されるといけないので少し補足しますと、私はモデル化それ自体を否定するものでは決してありません。すべての科学的研究は一般化・単純化でなければなりません。ただ、そこで重要な点は、モデルに取り入れられる要因の選択が十分に適切な基準に従ってなされなければならないということです。 抽象的経済モデルを作る人々が、彼らのアブローチを「質的」なアブローチと彼らが呼びたがるところの制度的なアブローチと対比させて、「定量的」と性格づけるならば、それはもちろん誤りです。知識を定量化することに、研究の自明の目的であり、より批判精神の強い研究者である制度派経済学者は、経済的データを得ようとして強く努力しがちなのです。従って、もしも制度経済学者が通常の経済学者に比べて提示しうるデータ-特に低開発国に関する-をよりわずかしかもっていないとし ても、それは彼がデータの信ぴょう性を確保する上で、より批判的であるからなのです。 私の第三の論点ぽモデルを肯定するものです。が、モデルの前梶とされている抽象的仮定やモデルで使用されている概念について十全な吟味が一般に非常に欠如してはいるものの、計量経済モデルは-一国全体を扱うマクロ型のモデルの場合ですら-しばしば適切な結論に到達するし、アル7レッド・マーシャルがそれらの手法を非現実的だとして非難した頃よりははるかに有効なものとなってきていることは、事実です。 今日、先進国では統計資料がはるかに完備し、信頼するにたるものとなっています。しかし、『成長の限界』でMITチームの用いた統計データが事実に則した正確なものだったかどうかは、私には明らかではありません。 | |
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」成長の限界』は全地球的なモテル計算を目的としているのに、地球の三分の二が発展途上段階にあるにすぎないと考えられる現状からすれば、あの本で使用されたインプット・データの信頼性は、第三世界全体に関しては、どの程度のものだとごらんになりますか。
まず第一に、これら低開発国の状況に関するわれわれの知識は、極端に不足しています。私は収集されたデータや数字のうちのかなりの部分は、経済的現実の分析においてまったく意味を持たないのではないかと思います。他方、分析に使用される概念上のカテゴリーの不適切さが、第一次的な観察を行なう上で、非常なマイナスとなっています。先進諸国においてさえ、今日、国民総盆産、所得、そしてその成長率といった概念は、ごく控えめにいっても根拠薄弱なものである、ということに気付 くようになりました。それらには分配の要素が考慮されていません。成長していると想定されているものが何なのか、あるいはそれが何らかの意味で真の成長なのかどうか、さまざまな望ましくない発展に起因するコストにすぎないものではないか、などという点に関する明瞭さが非常に欠けているのです。みせびらかしのための消費、個人消費、政府消費、あるいは投資などには、絶対的ないし相対的にいって明らかに無駄と思われるものがあるわけですが、これらの点についてもいっさい考慮が払 われていません。さらに低開発諸国の場合には、その経済の広範な分野にわたって効果的な市場が欠如していたり、また統計をとる上でのそれらの国々独自の概念上の困難といった追加的な要因がみられます。以上の諸点および統計整備の極端な不備から、低開発諸国に関するかぎり、文献の中で自信ありげに引用される国民所得や生産高の数値は、明らかにほとんど無価値であるとみなさざるを得ません。 私にいわせれば、理論的成長モデルの原型は、総生産量が、資本産出高比率によって物的資本投資に関係づけられているというものです。この単純な一生産要素モデルは、もともと先進国の経済不況や不安定性の問題をあつかうための理論的道具として作られたにもかかわらず、まったく異質な低開発国の経済発展開題に応用されるにいたっています。 資本係数を用いるアプローチは、物的投資と経済成長の間の緊密な関係をテーマとした西欧諸国でのいくつかの主要な研究によって、第二次大戦後、経済学者の間で | |
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よく知られるようになりました。事実、しばらくの間、資本係数はほぼ定数に近いと見なされていました。定数から出発すれば、純粋に数学的な推論にょって物理的宇宙に関する知識を拡げることが可能となるのですが、資本係数にもまさにそのような地位が与えられようとしたのです。 しかし、西欧先進諸国で行なわれた経済成長に関する最近のより突っ込んだ研究では、物的資本に対する投資量によって説明されるのは成長の一部にすぎないことが明らかにされています。資本では説明できない残差の推定値は場合にょって、かなり大きく変動していますが、一般論としては、それは経済成長のうち資本没資によって説明されうる分よりもかなり大きいという見方を支えるに足ります。
あなたは、ローマ・クラブから出版された報告書でフォレスターGa naar eind〔註2〕、メドウズ両氏の用いたコンピュータ手法は誤まったものだとお考えですか。
全地球的問題をあつかう手法として、コンビュータを用いるという方法が非常にすぐれた手法であるとは思いません。なぜならば、私が前に強調したように、われわれのかかえている地球的な問題はMITチームの考えているような単純な意味のものではないからです。もちろん、われわれが直面しているあらゆる危機や謎を解明するに当って、現代のデータ・マシンがもつ偉大な能力を過少評価してはなりません。しかし、そのさいには疑問点や問題点を明瞭に規定してやらなければなりません。それら は、はっきりと定式化されていなければならないのです。あいまいだとうまく動かなくなるどころか、まったくまちがった結果がでることさえあります。このマジック・ボックスからはそこに投入した以上のものは決して得られないのです。私が断乎として反対なのは、ばかげた仮定やあやまった仮定に立っても問題が解けるとか、誤まった概念やまったく不適切な資料を用いても何らかの結論に行きつける、という甘い信念です。
あなたは自然科学者が、より賢明な環境の使い方に関して政策立案者や世論にはたらきかけようとしていると思われますか。
私は彼らがそうすることを期待しています。もちろん、すべての科学者がそうすべきなのです。 | |
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国際労働者同盟 (ILU) は今全地球上の雇用者の力を中立化する方法を探しています。いいかえると、環境を含めた全体としての社会や人間の利益を守るために、各個人の利益中心主義に立つ意思決定をなくしてしまおうというのですが。
私はその分野については、十分詳細には研究していません。理論上は、今われわれが一国レベルで政府や議会から受けているような制約を世界政府に拡大する、という答はもちろんあるわけます。
マルクスは不必要な生産がより多く行なわれるようになれば、役に立たない人問がより多くでてくるようになる、と警告しましたが。
長髪にして髭をたくわえた若者達がその種の議論をよくやります。しかし、私は経済発展の結果あまりにも多くの遊休労働者が現われるようになる、という考えはばかげていると思います。われわれは、老人、小児、健康、その他多くの問題にとり組むための非常に多数の人を必要としているのです。
しかしおそらく、近代工場の労働者は、なかんずく彼らが実行するよう命令されている仕事のために、病み疲れてしまうのではないでしょうか。
確かにそうです。もちろん仕事には多くの喜びがあります。しかし、近代産業の労働者は、まったく別の型の圧迫をこうむりつつあります。それは賃金要求と技術とがもたらしているものです。このような状況は変えなければなりません。例えば、ヴォルヴォGa naar eind〔註3〕はアッセンブリー・ラインを廃止する方向にあります。 実際、われわれはついに次のことに気づくようになりました。すなわち、現代福祉国家にみられる平等化を目ざす諸改革と経済成長とは両立しうるということです。二、三〇年前まではほとんどの経済学者が-そして今日でも何人かの経済学者は-社会の平等化は高所得者層にとって負担となるのみならず、経済成長という面からみれば国全体にとっての負担となる、という理論に執着していました。だが現実には、福祉社会を目ざす諸改革はむしろ生産的だったのです。例えば、スウェーデンで急進的 な社会改革が行なわれた時期において、経済成長はスローダウンするどころか、むしろスビードアッブ | |
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したという事実が、広い意味で上の結論を確証しています。所得再配分に関する改革は貧困者層の所得を増加させましたが、全般的にいって高所得者層のそれを低下させることはなかったばかりか、ある意味でその増加さえもたらしました。全体的にみると、所得の特に富の分配率は、低所得者に有利なような累進所得税の増加や高額の支出を要する再分配政策の実施にもかかわらず、大きな変化を示していません。今ではわれわれは、たとえば医療や児童福祉施設の国有化への動きといった多く の改革が、生産性の向上に、とりわけ強い効果を発揮したことを知っています。その上、現代福祉国家の発展にみられる最も重要な要素は、教育の分野での若者達の機会の拡大にあるのです。古い不平等社会は、すべての高等教育を上流階級が独占することに基づいていました。ところが、この独占は、すべての豊かな民主的福祉国家において、今日急速に壊れつつあります。この発展は、新しい技術時代における生産性の上昇の実現を願う動きとぴったり一致しています。このような政治的・社会的 ・経済的な過程は、すべての富んだ国々でスピードを加速する傾向にあると思われます。
あなたの著作によると、あなたは楽観主義者、悲観主羲者のいずれでもなく、むしろ現実主義に立脚した中道を追っているように見うけられます。
中道ではありません。非観主義にしろ楽観主義にしろそこには偏見があります。現実主義は現実に立脚しています。それはまた敗北主義をもたらすこともありません。なぜならば、物事が薄ぼんやりとしか見えない時に世界の変化をうながすための勇気を持たねばならないからです。すべての科学者は、この点に立脚していなければなりません。私はワインやその他のものが豊富にある快適な生活を送っていながら、なぜせっせと蓍作の仕事をするのでしょうか。それは、私があらゆる学問的研究の 基礎にある次のような信念をもっているからです。結局、知識は力なのです。幻想、特に日和見主義的な幻想は常に危険です。学者のいだく信念とは、このようなものです。
しかし、創造的であるためには、人類を信じていなければなりませんね。
まつたくそのとおり、それこそ私があなたに説明しょ | |
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うとしていたことです。それこそがすべての学問的仕事における信念なのです。 |