Seicho no genkai o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
(1973)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
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34 ジェイ·フォレスタージェイ·W·フオレスター (Jay W. Forrester) 教授は、マサチユーセッッ州ケンブリッジのマサチユーセッツエ科 大学 (MIT) アルフレッド·P ·スローン経営学院のジャームスホーゼン記念讓座教授である。 ー九ー八年ネブラスカ州のアンセルモで生まれた。教育学を苒攻し、ー九四九年にはMITのサーボ工学実験所の共同釗設者となった。ー九五六年、网大学でデイジタル·コンビユータ実験所を削設し、アルフレッドスローン経営学院の教授になった。デイジタル·コンビユータや経済行動のダイナミクスについて広範な著作がある。デ二ス·L·メドウズの率いるチームがフォレスターの業級にもとづいて行なった研究が、現在世界的に有名なローマ·クラブへの報告書『成長の限界』であり、一九七ニ年 に出版された。 フオレスター教授の著作の完全なリストが、この対談の付録としてそえられている。 スキナー教授は、彼の著書『自由と尊厳をこえて』Ga naar eind〔註1〕に対する批評の九〇パーセントが誤解か、あるいは彼が提起した問題に直面することへの嫌悪によるものである、と苔情をいつていました。多分、人々が彼の窨物を認識するさいに用いた心的モデルが不適当だつたのでしよう。ところであなたの『ワールド·ダィナミクス』とメドヴ ズGa naar eind〔註2〕の『成長の限界』に対する反応はいかがでしたか。
私もだいたい同じような感じをもつています。じつさい、スキナーの本の进評を説むと、『ヮールド·ダィナミクス』や『成長の跟界』の書評とあんまり似ているので、私は、彼の本の主題が何かを知るためだけでも、きつと、彼の本を読んでみなければならないだろう、と思いました。伝統的な知恵をふみこえていたり、なじみのない方法論を用いている边物にぷつかると、批評家はしぼ | |
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しば肃物を歪めあるいはその意味を逆転しさえします。批評する過程のもつ性質というものはこのような脈絡で理解されなければなりません。否定的反応をもった批評が、肯定的反応をもったものよりもはるかに早く、どっと活字になります。その上、批評家というものは、通常、著者と意見を異にする義務を感ずるものです。そうしないと彼は自分自身が知的な貢献をしている気にならないのでしよう。『ヮールド·ダィナミクス』や『成长の限界』に対する反響にも、以前システム·ダィナミ クスの本についてみられたのと同じ傾向がみられるだろうと思います。はじめに出る論評は否定的です。そのあとで、主題に関心をもつ思慮深い人たちが、もっと深く掘り下げ、問題を検討しはじめます。否定的批評の敢初のラッシュがおわったあとで、ひじように異なった調子のものが展開されていきます。最近のこの二つの本のひじように短い歴史の中でも、このような反響の変化がおこりつつあります。
ニつの本の基礎になる方法論としての、システム·ダイナミクスについて説明してください。システム·ダイナミクスの由来はどういうところてすか。 われわれはシステム·ダィナミクスをMITで一九五六年以来開発してきました。それは、それ以前の三つの流れの努力が合流してできたものです。社会システムへの古典的ないし記述的ァブローチ、フィードパック構造および動的行動の理論、コンビュータの発達、その三つです。 背景となる第一の道筋としての社会的行動に対する記述的ァブローチは、人文諸科学や教育の古典的方法の基礎となっているものです。それは歴史家や社会評論家の方法であり、報告し、評価し、予言するというものです。記述および言語分析というこの古典的方法は、そのもっとも形を整えた実例としては、亊例研究方式による教育にみられます。たとえば、法律学校や医学校で用いられ、また、ハーパード·ビジネス·スクールでの亊例研究による経営教育の方法としてひろく知られることにな ったような教育方法の中にみられます。妃述と分析と論証と直観的判断を利用するこの古典的流儀は、今日、あらゆる政治的決定、あらゆる法律の審逮、そしてあらゆる経営上の意思決定、の基礎になっています。この古典的意思決定の手統きは、大きな利点をもつとともに、大きな弱点ももっています。その利点は、われわれの社会 | |
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システムの中にある努カや圧カや反応を人間が直接観察することから生まれます。各人は、人間や制度を観察することから得た情報を豊かに貯えています。各人は、圧力や人間の反応や想定される結果についての謙論を通じて、彼の観察事項をふるいにかけます。各人は、社会システムの別々の側面ないし部分にかんする豊富な一体化した知識を身につけています。だいたいにおいて、これらの観察は、システムにおける個々の圧力や反応という第ー次的なレべルでは、正確です。しかし社会シス テムへの古典的な接近方法はニつの重大な弱点をもっているのです。その弱点のーつは、この古典的流儀では、おそるベき蛍の無関係な情報から重要な情報を分離する指針がほとんど与えられないということです。もうーつの弱点は、古典的流儀では、ある一組の仮定を相互に結びつけ、さらに、それらの仮定の中に内包される論理的帰結を確灾に苺き出しうるような方法論が与えられないということです。そこで、社会システムを管理する場合の古典的な過程では、システムの諸部分に関する有効な 情報のおどろくべき大量の貯えを利用できる状態にありながら、過剰な情報から意味のある情報を選びだす適当な方法がなく、また、俏々の压カゃ人間の反応にっぃて逡ぴだされた情報から導かれる帰結を確定する方法がありません。したがって、古典的流儀では、人々はっ報過負荷の状態におかれ、また極度の内部矛盾の状態におかれることになります。つまり、与えられたMじ亊灾から別々の人が別々の結論をひき出すことになるのです。しばしば、承認された結論が承認された仮定との一慣性を欠 いており、しかも、システムがひじょうに複雑で、人間の知能では多様な原因を広い範間でおこりうる諸結果に正しく結びつけることが不可能なために、その矛盾が検出されずにおわるのです。 システム·ダイナミクスの背景となった第二の道筋は、一〇〇年にわたる正統的な科学の発展の中でみられたものです。サイパネテイクスとかサーポ機構とかフィ-ド·ハック理論とかさまざまによばれている分野がそれです。フィードパック理論とは、制御作用 (決定) が系の状態 (システム·ダイナミクスにおける‘レベル’) を変え未來の決定の指針となる新しい情報条件をもたらすような、クローズド·ルーブ行動をとり扱うものです。あらゆる決定は、公的なものでも私的なものでも、また意識されたものでも無意識のものでも、このようなフィードパック·ループ構造の脈絡の中で行なわれるのです。成 | |
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长、目標設定、均衡、振動、衮退などのあらゆる過程は、フイードパック·ルーブの中の諸力の相互作用によって生み出されるのです。フイードパック力学の、私が知っている限りでの最初の専門論文は、一八六七年にクラーク·マックスウヱルによってロンドン王立協会あてに提出されたものです。マックスウェルは、電波の空中伝播に関するマックスウェル方程式の発見のほうでもっと有名になった人ですが、「調速機について」というこの彼の論文は、ジヱームズ·ヮットの蒸気機関で使わ れているフライポール調速機の安定性および行動の数学的分祈を行なったものでした。ベル電話研究所は、大陸横断電話に利用するためのフイードパック增幅器の開発で、フイードパック理論をよみがえらせ拡充しました。第二次大戦中にその考えはさらにみがきをかけられ、兵器に応用されました。もっと聆近では、その理論は拡张されて、化学工場や精油所、さらに航空機や宇宙衛星のための制御システムの設計に役立っています。われわれはその諸原理の開発をさらに統けて、正および負のフイ ードパックの両方を含む非線型度の高い多重ルーブの系に応用できるようにしました。フイードパック理論から生まれた赭原理によって、古典的流篏で現夹世界を胜接に観祭して得られた惝報を、遇別し組織化する指針が与えられます。フイードパック理論の諸原理のおかげで、われわれは、直接的観察の泥沼の中から、いったいどの項目の情報が、ある観察された現戈世界の行動様式を生みだすのに関係しているかをよみとることができるのです。クイードパック系の諸原理は、重要なデータを無用 なデータからふりわけるふるいになります。その上、フイードバック系の原理は、選別されたW報がどのようにして相互作用系に播成されうるか、の指針を与えます。フイ丨ドパック理論から得られる構造および行動の諸原理によって、われわれは、古典的流儀の記述分析では不可避であった情報の過負荷からまぬがれることが可能になります。しかも人間の知能が処理しうるよりも、さらに多くの情報とさらに高度の構造的複雑さとを問題にすることができるのです。 第三の背景となった高速電子計算機の発展は、ある一組の仮定からどうしたら正しいダイナミックな結論を苒きだすことができるか、という問題を解決しました。コンビユータにシミユレーシヨン·モデルを与えてやります。それは、システムの各局所点での、觔機づけとなる仮定や情報フローを列举し、システムの各局所点で諸力 | |
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がどのように相互作用するかを特定するものです。そこで、コンビュータは、システムの別々の要因がお互いにぶつかりあうにつれて何がおこっていくかを、シミュレートする、つまりー歩一歩追跡するのです。 つまり、古典的伝統的方式によって多すぎる情報がもたらされ、フィードパック理論によってその请報を選別し描造づける指針が与えられ、さらにコンビュータの発連によって、社会システムに関する構造づけられた観測値からどのような結果がでてくるかを分析することができるようになったというわけです。
ソ連のジェルメン·M·ヴビシャニ博士Ga naar eind〔註3〕は、テレビのインタビューでコンピュー夕の重要性が转張されすぎている、と私にいいました。われわれは社会学的な、また、心理学的な側面を考慮に入れなけれは ならないが、それはコンビュー夕で表わすことはできないというのです。
新聞とか、その他多くの人連が、われわれの仕事のコンビュータ的侧面を強調しすぎている、ということは私も認めます。システム·ダイナミクスのモデルに対するもっとも茁要なィンブットは妃述的情報でぁり、また、社会システムのさまざまな点でおこる影饕と反応に関するわれわれの知党です。第二の主要な概念上のインプットは、フイードパック系の原理に由来するもので、過刺な妃述的情報からの選択と、選択された諸関係の糾織化とを、可能にさせるものです。コンビュータは安あがり の道具として必要なものですが、システム·ダイナミクスの、概念的ないし理論的な構造のー部をなすものではありません。 もし私がグビシャーニ博士に同意しない点があるとすれば、それは、彼が、心理学的おょび社会学的観点はコンビユータ·シミユレーション·モデルに入れられないと考えているという場合だけです。記述できる関係であればどんな関係でも、モデルの中に入れることができます。いわゆる無形物を表わすものでもモデルに表わすことができます。ただその場合には。測定のための尺度をきめなければなりません (尺度白体をどうとるかは任意です) 。次に、その尺度とじっさいの状況との關係をつけなければなりません。また、その尺度の用いられ方はー贳していなければなりません。過去の無形物を未来の有形物に転化させるょうにしてやることができれば、いっそう厳密なァプローチがえられます。思想と满論は、いっそう | |
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秩序だった、いっそう透徹したものになります。われわれのシステムの心理学的·社会学的側面は圧倒的な重要性をもっています。それらは形式的モデルに含ませることができますし、また含ませなければなりません。
あなたは、社会システムが多重ループ•フイードバ·フク系だといっておられますが、作用をその結果に結びつけるクローズド·ループというのがどういうことなのか、はっきリしません。
フイードパック·ルーブは、システムの状態に影響を及ぽす作用をシステムの周囲の状態が決定するようなところでは、どこにでも存在します。これは、時間を通じて変化するあらゆるものを含んでしまうような、絶対的に包括的な定義です。単純な振り子の力学の例でも、振り子の位蹬が加速度を決定し、それが速度を決定し、それが位置を決定するというフイードバック過程を構成することができます。生物進化の過程も、生物学的変化が環境に対する種の適応性をかえたり、その棟のうちでも っともよく適応するものたちに好都合な新しい圧力を与えたりするというような、柚と環境との間の絶え間ない調整としてとらえることができます。経常や政治的決定もフィードパック構造の脈絡の中で行なわれます。つまり、決定は周囲の社会経済的環境を変えることを窓図して行なわれ、また変えられた環境は将来の決定の基礎となる新しい一連の情報をもたらします。 しかし、フローズド·ルーブというとらえ方は、たいていの人が因果関係について考える考え方とは、はっきりした対照をなしています。たいていの人は、円環過程をみずに、全過程のうち一方向的な作用の部分だけをみています。通常の理論や論争では、作用Aはどのようにして結果Rを生じさせるかに焦点がおかれ、結果Rがどのようにして作用Aの新しい型を生みだすことになるかについては考察を進めていこうとはしません。新間などのたいていの記事も、単純な一方向的観点に焦点をおいていて、 社会変化を生じさせる本当の円環的な動的構造をあまいにしてぃます。 簡単な例をあげてみるのがよいでしょう。蛇口から水をコップにみたす場合、ふつうは、コップにはいる水の流れのことだけを考えます。そして、その過程の説明は、クローズド·ループの因果描造の残りの部分を明らかにしないまま、一方向だけを考えた段階で止ってしまいます。しかし他方ではコッブの水が蛇口の栓をとじる、と | |
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いうことも方しく真実なのです。人は水をみていて、それがちようどよいところまできた時に蛇口の栓をとじます。全体としてのシステムは、水の流れがコッブをみたすのと同じく、コッブの中の水®が水の流れを制御している-後者は前者と同じ程度に正しいのです-というものです。つまり、過程は円環をなしており、クローズド·ループをなしています。作用がシステムの状態をかえ、新しくえられた状態が作用を修正します。あらゆる勧的行動は、このようなクローズド·フイードパック·ル ーブによって生みだされます。フイードパック·ルーブには、はっきり異なった二つの種類があります。正のフイードパック·ルーブはあらゆる成長過程を生みだします。負のフイードパック·ルーブは目標追求、均衡、振動などをもたらします。
私がこの本をつくるために対談した人々のなかには、「その種の間題をとリ扱うのにコンピュー夕はいらない」といゥている人も数人います。
それはある意味では当たっています。しかし、別のもっと大事な意味ではそれはまったく偽りです。次のようにいっておいたほうが公平でしよう。われわれはこの十五年間社会シスチムの分析を行なつてきました。その間、われわれが発見したことといえば、少なくともだれかが、ああそのことならすでに知っていたとか、それは私がすでにいったことがある、と-それもごく正直な意味で-いえるようなことばかりでした。しかし、大きな問題についてはかならず意見の分裂があるのです。人々は、あ らゆる問連について別々の立場をとります。重要問題については、意見の分岐点が四〇パーセントから六十パーセントの範囲にくることが多いのですが、多数意見なら正しいということが証明される保証はありません。しかし、この棟の論争についていえば、それまでに一度もはっきり表明されたことがなかったような答を考えだすことができるなどとは、想像だにほとんど不可能です。混乱が生ずるのは、どんな正しい命題についても、十分倍頼できそうな人でなおかつその反対の意見を主張する人 が、かならず見出されるためなのです。 コンヒユータ·シミユレーション·モデルの使用そのものに関する論爭が解決されれば、形式的モデルの使用によって礼会問題の実質に関する論争を減少させることが可能になるでしょう。論争の減少は、二つのレペルで生じます。まず第一に、その方法によれば、ある前提か | |
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らどんな結果がでてきうるかについて同時に考迸することなしに、基礎になる前提そのものに焦点をしぼらなければならなくなります。拣礎的諸前提は、いわばそれ自身の拖利において、つまりそれが诏ましい結論を導きだすことになるかならないかといった偏見にわずらわされることなしに、重視されなければなりません。政治論爭の古典的やり方では、前提と結論とがどうしようもなくからまりあっています。人は、まず自分がコミットする結果から出発して、現在の状況のなかから、その望 ましい結果にいきつくようにみえる一速の仮定をとりだして嫌論を行なう傾向があります。見解の相違を解決するために、個々の前提が明白に述べられたり個別的に論じられたりするということが見られないのです。前提が明白に述べられさえすれば-コンビュータ·モデルではそうするしかないのですがー通常、不一致の多くは消えうせてしまいます。谦論の背後にあるのは、举に、明晰さの欠如とか意味論的な難解さというにすぎない場合が多いのです。 第二のレベルというのは、古典的論争手統きによれば、現在の一組の前提がかりに承認されたとしても、そこから未来にどのような結果が生ずるかについて、きりのない不一致が生ずるということです。このレべルでの争いは、システム·ダイナミクスの方法を認めるものの間では、完全になくすことができます。なぜなら、入力された諸前提および諸関係からコンビュータが生みだす猪結果については、何の疑問もないからです。
『成長の限界』の主理について対放していてびっくりしたのですが、ある分野の、というのは経済学のことですが、その分野の人たちが、あなた方と同じような地球に関するモデルにとりくんでいかなければならないはずなのに、システム·ダイナミクスの分野のあなた方のモデルと交流することに反発を示しているので すね。
あなたは、多分、少数の個人からの不当な一般化をやつていらつしゃるようです。あなたの言葉があらゆる経済学者にあてはまるわけではありません。これまで、われわれの仕事は、当面の間題に関連している多くの異なつた分野の考え方を代表する人々をひき入れてきました。『成长の限界』の仕事では、そのさまざまな側面に必要な情報インブットを得るために、多くの異なった分野のさまざまな人たちとひじょうに広い接触をもつてき | |
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ました。私自身は、現在、アメリヵ合衆囯に特に焦点をおいた一囯レべルの社会的および経済的変化をとり扱う新しいプログラムをはじめようとしています。この仕亊に対しては、あらゆる分野で活躍している人々から、すばらしい協力が得られることはすでに明らかです。一部の人は接触なり參加なりを避けようとするでしょうが、ー般にみんながそうだというわけではなく、またある特定分野の人はみんなそうだというわけでもありません。
しかしェール大半の経済半者ウイリアム·ノードハウスGa naar eind〔註4〕と対談した時に、彼は、あなたの『ワールド·ダイナミクス』の書評を書き、その中であなたの本が利用可能な経験的デー夕にまつたく反するような前提を含んでいると主張した、といつていました。あなたはその書評を読まれましたか。
読みました。ノードハウスの書評はまだ発表されていませんが、非公式に北アメリヵとョーロッパで広く回览されていました。あの書評は、新しい分野を理解できないくせに即席の専門家を自称する人がおかすたぐいの誤りと偽りのー例です。あの宙評では、『ヮールド·ダイナミクス』には三つの大きな誤りと三つの小さな誤りがある、と述べています。ところが、論点を注意深く分析してみますと、すべての指摘が批評者自身のひどい誤りか、『ヮールド·ダィナミクス』の本の誤読によるもの であることがわかります-ある関数をその導関数と思いちがえるとか、変数の尺度単位を読みちがえるとか、本にはのっていないような変数をでっちあげてそれが本にあるといい、また、現実世界のテータを誤用して、モデルの中にあってそれと表面的には似ているがしかし実はまったく異なった概念と対比させる、といった具合です。この書評は、伝統的な経済学の古典的静学的訓練が、われわれの社会システムを構成している非線形多重ルーブ·フィードパック構造の性質および行動を理解する上で 、いかに贫しい教育結果しかうまないかを示しています。 私はあの書評の分析およぴ返答を書きました。その書きものは、ほしいという人にはお渡しています。じつさい、私の返筲の中で書いていることですが、あの批評者によつて示されたデータは、その批評の中にある誤りが正されれば、『ヮールド·ダィナミクス』の前提をひじょうに強く支持するものなのです。 | |
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『ワールド·ダィナミクス』に対するーつの批判として、資源が物理的阜位でではなく経済的皐位ではかられるべきであったこと、モデルが価格システムを含んでいないために誤ゥた結果を生じさせるものであるこ と、があげられています。
ものが足りないということに対する解決が価格機構にあるとする論者は、短期的見地から語っているのであり、絶対的な不足でなく相対的不足について考えているのです。これらの人は、おそらく、ことがらをすべて货幣黾位に換算してから論じようとする経済学者の職業的ーェ統にたって語っているのです。しかし、価格メヵニズムの中には、決して、物理的空間を新たにつくり出したり、あるいは地殻の中にすでに存在している以上に資源をつくり出したりする機構が存在しているわけではあり ません。価格の変化とは、努力の方向を変えるものであり、残り少なくなった供給をだれが利用するかを決定するものです。高い価格を支払うことができるものは、もはや高い価格を支払うことができなくなったものが市場から駆逐されたあとまで、資源を利用し統けることになります。価格機措は、決して、『ワールド·ダイナミクス』で提起されている問題に対する解決ではありません。 価格メヵニズムの意義についての現実的な疑問が、エール大学のウォリック教授によって『フォーチュン』誌 (一九七ニ年十月) で述べられています。「われわれは、今日の大部分の天然資源の価格が、将来の不足に対する予測を反映していないものであることをもちろん知っている......将来のある時点での不足が予想される場合に、価格機構がじっさい上十分な先見性をもって反応するかどうかは疑わしい。そうはならないだろうということが、人間の誤りやすさということを別としても、さまざまな要因から考えられる。」ついで彼は論点を、资源から、環境の明白に制限された側面の一つ、すなわち土地に移します。「土地 の経済学および政治学は、天然資源問題の特殊なー面をなしている。土地は全般的にいって供給が固定されている。......ここでもまた、価格機構は事態を処理する能力があるという完全な保証を提示してはいない......これまで累欲されてきた多垃の証拠からして、肺格機構は、局地的人口過密を処理する上では、本質的に不適当というのではないにしても、少なくとも相当に非効率的である。人ロ觔向は家®の上昇や過密の増大に対してひじように長い時間遅れをもってしか反応しないよ | |
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うに見える。」ここで提期的な遅れの重要性が認識されていることがわかります。 価格とは、供給をうみ出しうるようなたぐいのものではとうていなく、利用可能进が全体の必要をみたしえなくなっている場合にだれが消找するかを決定するように機能しうるにすぎない、ということがここに示されています。別のいい方をすれば、私は、価格とは、不足な資源の割り当てをだれがうけるかを決定する媒介変数だ、とみなしているのです。コストの上昇は、質の悪い資源の利用を促すことになり、資本やエネルギーや労働力のより大規模な利用によって供給を拡大させる方向に事態 は進む、と多くの人が論じてきました。このことは真実であり、そういう考えは私の『ヮールド·ダィナミクス』モデルに生かされています。その点はまた、『成長の限界』モデルでも、価格機構としてでなく物置的な抽出効率システムとして生かされています。資源の質の低下は抽出の努力の增大を意味し、またこの点が突質的な、つまり貨幣的なものと区別された、ィンフレーションを窓味する、ということに注意しなければなりません。価格上昇は生産性の低下を意味しています。したがってそ れは生活水準の低下を意味します。なぜなら、それは、同じ単位の財を生産するのに、より多くの労力が投下されることを意味するからです。配分問題を処理するのにはもっともっといろいろなことを行なうことができるでしようから、私は、これまでのわれわれのとり扱い方が完全なものないしは最終的なものだ、といおうとしているわけではありません。ただ、それらの点がみおとされていたわけではない、といいたいだけです。 ニ冊の畨物で示されたような成長崩壊型の動きが生ずるのは、高度の集計モデルが用いられているために、価格や金融のブロセスが明示的というよりは潜在的にしか含まれていないからである、と示唆している人がいます。私は、価格や金融の流れを付け加えると、その影響はむしろ逆方向に現われる、と思います。貨幣と物量との間にあらたなシステム·レベル変数と相互作用とがつけ加えられれば、システムの新しい形の不安定性がモデルの中でおこりうることになるでしよう。私は、社会経済 システムの全行動が明らかにされた時には、次のことが明白になるだろうと思います。すなわち、価格および货幣的システムは、物理的な、人ロ学的な、そして物量·資本的な観点と少なくとも同じ程度に、問題の處理を誤る危険があり、また価格と金融のフローは、闲雔のない移行 | |
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を保障するというよりは、成長から均衡への道程に追加的な障害をもちこむことになる、ということがそれで す。
『ワールド·ダィナミクス』の読者の一部は、技術の発展が無視されている、と感じていますが。
あの湛物に対するあのような反応は私がまったく予想しなかったものです。もし予想していれば、技術変化についてどのような性質の処理をしたかを、もっと完全に説明しておくのでした。私自身長年にわたって科学技術畑にいたものですから、その私が科学の進步の早さを知らないでいるとみなが信ずるだろうとは、とうてい考えられなかったのです。この問題は、『ヮールド·ダィナミクス』で詳細には論じられていませんが、しかしその五三頁で次の点ははっきりと述べてあります。「資本は 、建物、道路および工場を含む。それはまた教育を含み科学的研究の成果を含んでいる。なぜなら、これらのものはモデルのシステムの別のところで表わされているわけではなく、またこれらのものに対する投資は物的資本とほぼ同じ率で減耗するからである」ここでの論点は、モデルを適度に単純な稱造にするために、変数の集計を適宜行なうことに閱するものです。類似した動的行勅をとるものは一つの変数に粢計することができます。研究および技術変化は、物的資本蓄積とひじょうによく似た 勒的行動をとります。両者とも成畏に好都合な状況では正のフィードパックの性質をもちます。資本はより多くの資本をうみだし、知識はより多くの知識をうみ出す准礎になります。両者とも減耗します。われわれの技術的ノーハゥの主要な部分は、人間の頭の中にあるのであって、人類の各世代ごとに巨額の教育投資によって再構成されなければなりません。この知識の陳腐化や消滅の時間定数は物的資本の時間定数に類似しています。その土、それぞれの利用の意味も冏じです。知識も物的饩本も ともに生活水準をあげ、資本蓄稹の効率を高め、鹿業生鹿を增大させるのです。これらが、『ヮールド·ダィナミクス』モデルにおける、資本と知識を合体して考えられた変数の、三つの利用の側面です。つまり、資本と科学的知識が合体されるのは、それらが同じようなかたちで生み出され、同じような生涯をたどり、同じ目的に利用されるからです。
『成長の限界』が、その結果をうみだすのに用いられ | |
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たコンビュー夕·モテルの烊細を前もって発表せずに刊行されたことを、批判する人がいます。
それは資金面おょび組織面での困難から生じた予期しない結果でした。しかしその批判は部分的にしかぁたっていません。まず、『成長の限界』モデルの罾㈱は、一九七ニ年春の嘗物の発行時に、その細部の検討を希望し、その仕事に従事するスタッフをかかえ、コンビュータを利用してモデルの検討を行ないぅるいくつかの研究グルーブには提供されたからです。第二に、『成長の限界』の趣旨は本質的には『ヮールド·ダィナミクス』の趣旨と同じであり、『ヮールド·ダィナミクス』のモデル の詳細ははじめから利用できたわけですから。『成長の限界』のモデルの洋細とその根拠を示すかなり大きな本が、一九七三年に発行されます。
この本は、偭値判断や優先順位の問題をゎれゎれに提起しています。貧しい囯々は成長について豊かな国 国とはまったく違った意見をもつだろぅ、と考える人 がいますが。
あなたの質問のいわんとするところは、豊かな囯々は指数的成長の終了を飲迎し、贫しい围々はそうしない、ということでしよう。しかし、先進国で意見の万坳ー致があるわけではありませんし、また、低開発围でも间搽にたった一つの意見しかないというわけでもない、と思います。灾際、先進国と低開発国という用語区分は、「過度肥大」国と「均衡」国という区分にかえられる必要があるかもしれません。開発の度合いの少ない国では、開発されてしまった (過度肥大) 国に比べて、社会の伝統的な目標や価値観をよりよく維持できるかもしれません。低開発围には、ニ派の考え方があると思います。先進国で教育をうけ工業国の学問的および政治的価値観をうけ入れた政治指導者達は、成長によって生ずる困難が彼らの将来や彼らの政治的信頼性に影を落すまでは、成長を琅視するでしよう。しかし、その国の伝統主義者や思想家達は、旧来の価値観の方が長期的な将来にはよりよく調和するものであることを理解するでしよう。そして、工業化されたパターンではな く自分連の旧来のパターンにより近い社会に結局はもどってくるのであれば、相次いで二度の大きな価値観の変動Iまず成长にむかい、ついで均衡にもどる-を通りぬけるよりは、むしろ過去を守りぬくことのほうを重視するでしよう。低開発囯 | |
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のほうが先進囯よりももっと合理的な兄方をとるかもしれません-その理由の一つは、彼らのほうがより多くの時間的余裕をもっているからです。われわれは、他のグループの人達がどのように反応するかについて性急な結論を出さないように、十分注意しなければなりません。前の仕事の時に、私達は、社会的政治的集団が予想とはまったく異なった反応を示すことを発見しております。時には、もっとも直接的でかつ好ましからぬ影響を受けるようにみえる集団が、まさしく、畏期的にみてもっ ともR明に行動する最大の誘因をもち、かつ目先のことにとらわれず先をみとおす最大の能力を示す集団である、ということがあります。低開発国が経済成長に献身するだろうという想定は、主として自分達の価値観や目搮を低開発国におしつけようとしている先進国の経済学者や政府宵僚や突業家逹の心の中にある、ということが明らかになるかもしれません。成長至上主義に疑問がなげかけられ、それが革に過渡的な利点をもつにすぎないことが示されるにつれて、低開発国は彼らからみて偽りの希 望や価値観をおしつけようとしている人連に背をむけることになる、ということもありうることです。低開発囯では、経済成長倫理は先進国ほど浸透していませんから、贫しい国にとっての方が豊かな闺にとってよりも、未来と手を結ぶために経なければならない精神的苦痛はそれだけきびしさが少ない、ということであるかもしれません。
あなたの『ワールド·ダィナミクス』に対する批评のーつに、ゼロ成長に移ることはわれわれの現在の問題に対する破壊的解決を意味するだろう、というもの があリましたが。
最近の世界研究に対する批判者の一部は、われわれが不可能なことをすすめている、つまり、成長をただちに止めることができると示唆している、かのように考えているようです。多分、そういう反応は、コンビュータが出した結果のなかの、必要な対応が今とられるとすれば事態がどうなるか、を示す部分を見て生ずるものでしょう。しかし、もちろん、価値観や政治的方針の大きな変化はすぐにおこるものではありません。コンビュータの結果は、もし行動がすぐにとられたとしても世界の社会 システムには大きな困難が生ずるということ、そして、もし行動がおくれればさらにより大きな困雉が生ずるであろうということ、を示そうとするものです。時間はさし | |
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迫っています。しかしなお選択のための時間、今のまま統けるよりはもっとましなことになるような方針を論嫌し、うけ入れ、灾施に移す時間が残されています。 われわれはニつの大きなジレンマに直面しています。成长を統ければ、成長を急速に低下させることにくらべて、現在の人間の価値や制度をより大きく破壊することになるでしょう。しかし成長を止めることも、それに固有の困難-成長をチュックすることなく進める場合に比べれば苛酷さの度合いが少ないとはいえ、なお相当な困難-を生じさせるでしょう。これらの困雉からまぬがれているユートビアは、どこにもみあたらないようです。しかし、未来の可能性をめぐっては、選び取るべき多くの選 択肢があります。われわれの課題は、選択肢の性質を吟味した上で、われわれを、生きのびさせてくれ、忍びうる未来にいたらしめてくれるような種類の困難を選択することです。『ヮールド·ダィナミクス』および『成長の限界』の趣旨は、今日の困難を無視することが明日のより大きな困難をもたらすことになる、ということです。われわれができるだけ早く行動にうつれば、その行動はむずかしくとも、また短期の紛争や困難を生ぜしめても、そうしない場合に比較的近い将来商面することにな ってしまう困難を軽減することはできるのです。問題は、舫境をのがれるかどうかではなく、いかなる窮境を、いつ、どんな目的のために甘受するか、という点での意思決定を行なうことなのです。
プリンストン大学高等研究所のケィセン博士Ga naar eind〔註5〕は成長メカニズムが、あなたやデニス·メドウズGa naar eind〔註6〕のモデルで示されているよリも、われわれの社会秩序のもっとずっと深いところに位置している、と感じているようです。
システム·ダィナミクス.モデルについて感知される深さというものは、相当程度、読者が見ようとするところのものの反映です。もし彼が最小可能な内容をとらえようと望めば、最大可能な内容をとらえようと望む場合にくらべて、ひじょうに異なった結論を得ることになります。高度に集計的なモデルにあっては、異なった解釈の余地が生まれざるをえません。その個人がモデルで何を問題にしようとするかに応じて、別々の解釈が両方共正しいということはありうることです。现在のようなかな り高度の集計を行なった世界モデルでは、物的な変数を人間の反応に結びつける心理学的、社会学的作用の細 | |
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目全部が明示的に示されているわけではありません。システム·ダイナミクスの方法は、心理学的な、道徳的な、社会学的な、あるいは価値判断的な構造を含ませたいと思えば、その全範囲を容易にとりこむことができます。そのようにすることが、ワールド·ダイナミクスやナショナル·ダイナミクスのモデルをつくる時に、重要になるでしよう。しかし『ワールド·ダイナミクス』で、人口、資本、食播、資源、および汚染という主要なセクター間の作用にのみ焦点をしぼろうとしたことの意 味は、単純化のために価格とか心理学的反応とかの多くの媒介的な変数を、それらの変数がもともと生ずるもとになりまた逆にそれらに影響を及ぼしたりもする、より有形的な変数の中に適当に包摂させる、ということだつたのです。
今までに、もゥと無形のものの変数をモデルに含めたことがあるのですか。
あります。私達にはそうできるということがわかつています。その一例は会社の成長のダイナミクスのモデルでしたーそれについては要約的な説明しか発表されていませんが。そのモデルは、技術に基礎をおく新しい会社に成長や危機を生じさせつつ相互に作用するニ五〇前後の変数を含んでいました。その会社モデルは、会社設立古逹の心理的特徴や指導力の特徴を含み、また、組級そのものの伝統や歴史がどのように目標や目的に影轚を与えるかを示し、さらに、会社の资源配分過程の社会学お よび心理学をとり扱っています。しかし、そのようなモデルは、極度に複雑でこみいっています。したがって、それは『ヮールド·ダィナミクス』のように、モデルが平均的読者の利用可能時間内に理解されうるようにした本では必要とされる、単純さと明解さを欠いています。なお、もう一つ留意しておかなければならないのは、現在、国や世界の意思決定に際して用いられている心的モデルだつて、おそらく『ヮールド·ダィナミクス』や『成長の限界』で示されているのとせいぜい|同程度にしか 、包括的ではないということです。
世界モデルは社会的および心理的影響を含むように拡張されなけれはならないでしようか。
結局はもっと複雑なモデルが必要です。理由の一つは、それによってもっと単純なモデルの妥当性を示すた めです。もう一つの理由は、省略されていた変数を加え | |
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ることによって、灾際の社会システムの中でおこりうるような追加的な行動様式をモデルから発生させることができるようになるからです。もっと簡単なモデルでは表わしえないような追加的な種類の困難が現われ、また人ロの均衡や崩壊の追加的な変動様式が現われます。しかしながら、追加的変数を含むことになっても、おそらく二つの畨物の主要な論旨が変わることにはならないでしよち。
その論旨というのは?
現在の世界の価値観や、それに基づいて生ずる人口や工業化の成長趨努は、あと数十年以上は続くことができないということです。多くの異なった圧カによって未来がっくり変えられます。未来へのある経路は別の経路よりももっと好ましいものです。われわれが現在の政策を続けようと一所懸命やればやるほど、それだけ大きい反動が自然および社会的現境から生ずることになるでしよう。それでもまだ、将来を左右するための選択を行なう時間的余裕があります。これら二っの本に「最後の審判 」というレッテルを貼った人たちと違って、私は、これらの本は希望の託宣であると思っています。私逹は、過去の価値観や伝統に対する盲目的な献身が予示するところよりも、よりよい未来をもつことができるのです。
しかし、緊急を要する事態にきているとすれは、必要とされている膨大な研究や教育を行なうに十分なシステム·ダィナミクスの專門家を訓練することは可能ですか。
來態はたいそう緊急を要してはいますが、訓練や研究は、この仕事や提起された問題点をめぐって現在存在するはなはだしい意見の対立によって、しばらく遅らされるでしょう。論争は多分避けがたいものです。なぜなら現代は、古い伝統が满足すべきものだという過去の確信から、あなたが今質問なさっているような新しい流儀の思想、教育、分蚵および社会システム設計への、移行期に属するからです。今のところはまだ、中等教育以上のレベルでまったく新しい教育体系をつくりだすのに必要 な人材開発を実施しようとしても、それに必要な資金的援助のたぐいを組織することはできそうもありません。しかし、いずれ疑念は消えていくことと思います。そうすれば仕車をどんどん進めていくことが可能になります。現在は、われわれが何とか突破しなければならな | |
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い時代です。過去の伝統との重大な訣別は、新しい思想が受け入れられるようになるまで、不可避的に論争を生じさせるものなのです。
それが比較的短期間に逮成できるかどうかにっいてあなたはどの程度希望をもっておられますか。中国人やソ連人を、たとえば日本人と同じように、あなたの方法論にひき入れることができるでしようか。
私はほとんどあらゆる国から手紙を受けとっていますが、アメリカの外からくる手紙は全部でアメリカ内部からのものと同じくらいになります。社会主義国を含めて、あらゆる種類の国から、質問や批判、講演要請、それからここへ来て勉強したいという人たちの申し込みの手紙がきます。われわれがやっていることはひじょうに広い範囲で知られています。考え方はまだ深く浸透してはいませんが、広く行きわたっています。いたるところで人は、社会の未来に影響を与えるシステムについて、今 までよりずっと活発に考えはじめています。
『ワールド·ダィナミクス』と『成長の限界』の出版以来の、世界中での反韾をみると、提起された問題についてものすごく讓STかなされていることがわかります。あなたは、この反韾が多くの人々を動かして、人類の未来の展望を分析することができ現在の態度や方針をかえることができるような一群の指導者をつくりだ すにいたる、という希望をもっていらっしゃいますか。
問題はひじょうに大きく、また、新しい方向は古い方向とはひじょうに大きく変わらなければならないので、指導者層だけでは十分ではありません。広範な民衆の理解と支持も必要です。それを達成するためには、われわれの教育制度が、社会·経済·技術·環境システムの機能の仕方を理解させるのにもっと効果的なものにならなければなりません。われわれがシステム·ダィナミクスと呼んでいるものを構成している諸概念が、そのような现解を可能にしていくと思います。 システム·ダィナミクスとは、異なった学問領域や存在の異なった位相を共通の土台の上で結びつける方法であり、それによって、われわれの存在の、技術的、経済的、倫理的、心理的、政治的、そして自然的な側面を、単一の搆築物にまとめ上げることができるようにするものです。すべてを同じようにお互いに関係づけて、それ | |
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らがどのように相互作用して社会的·経済的変化を生み出すことになるか、を理解することができるのです。世界の猪問題は、单一の学問分野の中にあったり、あるいはわれわれの環境のごく限られた一部の中にだけあったりすることがらによって発生させられているのではありません。問題や困雔は、多くの部分の間の相互作用によって生み出されているのです。われわれの教育制度のどこでも、また、われわれの政治体制のどこでも、これらの相互作用が十分に処理されてはいません。囯際連 合でも、諸国の政府でも、企業の中でもそうです。 われわれをとりまく世界の理解の仕方に拫本的な革命がおころうとしています。この新しい理解の仕方は、どの分野にも、あるいはどのような猪分野の組み合わせにも適用されうるような、動的行動についての共通の基礎の上に展開されるのです。この新しい種類の教育においては、学生は多くの異なった分野に繰り返し現われる構造に注意を集中することになります。物理学には、経営学や政治学や生態学にも繰りかえし現われるような動的描造があります。一つの構造とその梆造のおこりうる行 動様式とが理解されれば、その構造が医学の中に現われようと、会社の方針や人口動態の中に現われようと、理解することができます。この補の考え方の教育は中学校レベルで始めることができます。 世界は「ルネッサンス人」の現代版を必要としています。というのは、一人でいくつもの学問領域を経めぐり、多くの分野のそれぞれを理解し、それらの重要な相互閔係をとらえることができるような個人が必要だということです。教育者達は、人間的亊象の多元的な面がもつ外見上の複雑さの内部をみとおすことができるような棟類の人間を再び育てあげるという希望を、これまであきらめてきましたが、あきらめなくともよくなったのです。むしろ、私たちは、增大していく科学の多様性の基礎 にある新たな根本的基礎を見出だすことをあきらめるべきではないのです。人文科学、自然科学、生物学、そして社会事象の間に、共通の勤的構造および行動という撟をかけることが可能になるのです。 | |
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ジエイ·フオレスター著作目錄 Jay W. Forrester, Industrial Dynamics. M.I.T. Press, Cambridge, Massachusetts, 1968 -, Principles of Systems. Wright-Alien Press, Cambridge, Massachusetts, 1968 -, Urban Dynamics. M.I.T. Press, Cambridge, Massachusetts, 1969. -, World Dynamics. Wright-Allen Press, Cambridge, Massachusetts, 1971 Nathan B. Forrester, The Life Cycle of Economic Development. Wright-Allen Press, Cambridge, Massachusetts, 1972. Dennis L. Meadows en Donella H. Meadows(red.), Toward Global Equilibrium: Collected Papers. Wright-Allen Press. Cambridge, Massachusetts, 1973. Dennis L. Meadows e.a., Dynamics of Growth in a Finite World. Wright-Allen Pre's, Cambridge, Massachusetts. 1973. Dennis L. Meadows. Dynamics of Commodity Production Cycles. Wright-Allen Press, Cambridge. Massachusetts, 1970. Dennis L. Meadows e.a.. The Limits to Growth, Universe Books for Potomac Associates, New York. 1972. |