Seicho no genkai o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
(1973)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
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33 アーザ·ミシヤンァーザ·ミシャン (Erza J. Mishan) 教授は、ー九五六年以来ロンドン·スクール·オプ·エコノミックスの経済学嫌師である。ー九ー七年、マンチェスターで生まれた。 その著書には次のようなものがある。『厚生経済学ーひとつの評価』 (一九六九年) 、『厚生経済学-十の入門的論説』 (ー九六九年) 、『二十一の一般的な経済学的誤り』 (一九六九年) 、『経済成長の諸費用』 (一九六七年) 。
『成長の限界』の刊行に対する感想はいかがでしたか。
MITの報告は、大方の経済学者の歓迎をうけないだろうと予想することができます。彼らのうちのほんのわずかの人しか、持統的な経済成長が社会政策の正当な目的であるという考え方を、本気で疑ったことがないからです。第二次大戦以来常に、力点は、経済成長率の增大におかれてきました。実際、『生存維持のための靑写真 』Ga naar eind〔註1〕がアメリヵで受けた反応を一般化して考えてみますと、この本がどんな種類の非難をよびおこすことになるかも予想できます。まず第一に、終末論者に対する宗教的侮蔑がなげかけられるでしよう。古代エジプトにまでさかのぽる世界の破局の予言者たちが発掘されることでしよう。しかし、はたしてマルサスGa naar eind〔註2〕は誤まった予言者としてしりぞけられることになるでしようか。経済学者は、大あわてで、われわれに次のことを思いおこさせようとしています。伝統的な資源が枯渴したらきっと新しい原料があらわれるようになり、また新しい技術がー少なくとも西側世界では-たえずわれわれの実質生活水準の上昇を可能にする、ということがそれです。なぜならーと経済 学者は統けます。今日、科学の境界は歴史上の他のいかなる時期にもましてはるかに急速に広がっているから、と。経済学者は、MITのモデルがあまりに單純 | |
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すぎて現実をあらわすことができず、またそれは人間の機知や器用さに必要な配诹を払っていない、と主張するでしよう。しかし、この本は、きっとそのニ、三ヶ月前に出た『生存維持のための靑写真』と向じように、衝撃を与えることになります。フォレスタ ーGa naar eind〔註3〕やメドウズによって利用されたモデルは、かなり权雑な構造をもったものです。諸変数間の関係を示す数学式は、当然のことながら一般向けの叙述の中にそのまま示すわけにはいきません。そこで、一般統者は、この相互関係の性質についての言葉や図による簡爭な例解や、また本のあとの方では、最初の仮定や変数を変えるのに応じてコンビュータが算出する時系列の説明やグラフ (あまりはつきりとはかかれていませんが) で満足しなければなりません。しかしながら、もっとも真面目な批判者が検討したいとョむところは、モデルに送りこまれた情報だけでなく、方程式系の構造です。方程式系の構造が変わると、結果に重要な差異が生ずるだろうか、といった問題があります。そのような問題があるにしても、まず第一着手がはじめられたのです。地球モデルが明確に示され、したがって修正が可能になり、一磨の実験や粘密化が可能にされました。成疫淪者にとっても反成长論者にとっても、もし正の成敁率が維持さ れるならば長い間にはどのていどの規模の技術的成果が必要とされるようになるかについて何らかのはっきりした認識をもつことが有益なことは確かです。
あなたは、生産の技術的条件は人間の生活経験を高めるという®点から選ばれるのではない、社会科学はそれに関係しない、と害いておられますね。「その条件は、単に産業の能率及び利潤追求の必要に対応してのみ発展するようにみえる。その過程は偶然的にうみだされるGa naar eind〔註4〕」と。この傾向を逆転させるのにはどうしたらよいでしようか。社会的要因-ー般大衆の利害を反映させるのにはどうしたらよいでしようか。
はっきりいって、傾向を逆転させる方法はわかりません。それでも、私のいいたいことはかなりはっきりしています。たとえば大気汚染を考えてみましょう。レーブとセスキンによる研究がありますが、それは、人が低汚染地域から高汚染地域に移動すると、ある特定年令層では、ぜんそく、気管支炎、気腫、といった病気が二倍になることを示しているようです。このような亊態は、医療関係の尿用をふやすことになりますし、それから、もちろん研究にたずさわる人たちの雇用機会も增加させる こ | |
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とになります。これこそまさに、科学が問題に接近する典型的な形だと私には思えます。科学はまず何らかの新機軸をなしとげます。そして、こんどはそこからよかれあしかれ、予期できなかった結果が生じてきます。悪い結果の方が、現体制のもとでは歓迎の席を与えられます。なぜならそれを研究するために人が辑用されることになりますから。ですから、一つ一つの技術革新に対する黉否のいずれか一方の立場を常に維持するというような全面的に恵み深い存在であることはできない、と私 がいったのはそういう意味です。現体制は、その目先の商業的見通しだけに導びかれて、このような形で多かれ少なかれ盲目的に進んでいくものです。
経済成長は多くのことをすたれさせていきますが、経済理論もそのーつでしょう。人口、汚染、生態系というような点からみて、地球上のさまざまなパ夕ーンの急速な変化に対して経済的思考をどのようにあわせていきますか。経済理論は、われわれが実際におかれている状況にはたちおくれていくものなのですか。
ええ、経済理論はいつもおくれています。他の科学にても同じことだと思います。しかし、若者たちは最近生態学に興味を示すようになっています。彼らのもともとの教育は経済学に関するものでした。今や、彼らはそれ以外の多数の問題にもとりくみはじめています。そして彼らがとりくむことができる問題は、通常、環境とか生態学に直接かかわるものです。「未来资源研究所」はよく知られたアメリカの機関ですが、そこでは相当数のひじように有能な経済学者が働いており、彼らはモデル作 りに興味をもっているだけでなく、計鼉的な推定もやっています。波らの関心は天然資源や環境の保全にあります。彼らはまだ、もっと広い社会的な諸結果にまでは手をのばしていません。それらのものは多くの場合無形のものだからだろうと想像されます。社会的な問題については純理論的に考えることが大いに要求されます。そして、社会学者がとりくむたぐいの問題でさえしばしばひじようにせまいものです。ことのなりゆき上、彼らは長期的な社会的結果についてあまり考慮することができな くなるように思われます。たとえば、今日、人々はボルノグラフィーの社会的影黎について議論しています。テレビの暴力場面、しばしばサディスティックな暴力場面の、若者やあるいはさらに成人に対しても及ぼされるような影搏について論じています。社会学者によってなさ | |
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れるこの種の研究はひじように範囲が狭く、ただ単に、これらのものをみることが人々に直接影饕を及ぽすことがあるかどうかを、あきらかにすることだけにつとめています。たとえば暴力場面をみることがただちに犯罪を增加させることになるかどうか、性的乱行の写真を見ることがただちに性的乱行を増大させることになるかどうか、といった問題のたて方です。統計学的にいえば、そのような結果はあまり価侦のあるものではないと思います。しかも、彼らは正当な問題、たとえば人間の性 格に及ぽされる最終的な影簪は何か、といったようなことにはとりくもうとしないのです。われわれがどんな種類の生活を求めるかは期極的には人間の価倘観に、また人々がお互いをどう感じるかに依存しているのです。私がみずから問題をたてるとすれば、こうです。最後まで道徳感をもつことのない、他人によって凌辱され、また乱暴されるだけというようなテレビ番組をみたら、どういうことになるでしよう。惡者が暴力をやりおおすことができ、性的乱行をやりおおすことができるとすると、 若者連はそういったことを、もしかすると社会的規範とうけとり、世にうけ入れられる生活のし方と受けとり、それを模した生活をおくろうと試みることにならないでしようか。そうすれば未来はどのようなものになっていくでしょうか。こういったことが私の頭にうかんでくる問題の形です。しかし私には、われわれがそういった問題に答えることができるようにしてくれるものを社会学者が示しているとは、考えられません。
あなたの本の中に、十三歲から十七歳の間の子供たちが彼らの「甘い生活」をおくるために、ぜいたく品に七百ドルばかリを使う話がでていましたねGa naar eind〔註5〕。ますます悪くなる傾向を転換して、若者たちが価値覦を変え、もっと現実主義的に行動するようにするためには、経済半者は、あるいはもっとつけ加えれは社会半者や心理学者は、どんな役割を果たしうるのですか。
それは、実際、にわとりと卵とどっちが先かという話のようなものです。なぜなら、まず現境を変え、そして変わった環境によって人間が変えられるようにするためには、まず人間自身がイニシアティブをとらなければならないからです。環境はひとりでに変わるものではありません。人間がまず琼境を変えなければなりません。わが国では一種の民主制度ができていると考えられていま | |
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すが、環境は、まず国民の多数がそのょうな変化に黉成する場合に、変わることができます。したがって結局、事態が進行するためには、まず多くの人々が、何らかの新しい洞察とか何らかの新しい認識に基いて、その気持を変えるということがなければならないわけです。明らかに、いったん環境がかえられぼ人々も変えられます。かつてウインストン·チヤーチルGa naar eind〔註6〕がいったように、われわれは建物を形作りますが、その次には建物がわれわれを形作ります。そういった過程をたどるのです。
しかし、いわゆる自由な民主的社会でも、われわれは今や制御されているのではありませんか。教師によって、教授によって、公務員によって、政府によって、制御されている。われわれは上から下まで制御されている、変わるためには制御が変わらなけれはならない......
ある意味ではもっともです。われわれはすでにいくつもの政治的、制度的制限に従っています。マディソン 街Ga naar eind〔註7〕は実際ひじょうに強力です。既得沲はひじょうに強力です。物質的な既得権も知的な既得拖も強力です。そのことはわれわれも知っています。しかし、根源的な変化が生ずるための唯一の希望は、それがひとりでにはこないものだという認識です。唯一の希萤は、多くの人々が現在あるような生活状態、経済成長の副産物であるような生活状態は、彼らが 望む生活ではない、と確信するようになることです。人々は適択する対象の範開を一新することを望みます。そして、いったんそれが本当に実行可能であると信ずれば、われわれは本気で環境を変えはじめることができます。
ミシャン教授、あなたはこの地球を巨大株式会社のように運営することが可能だと思いますか。
はい、一部の人々にとっては、それはすでに巨大会社として連営されはじめているといってよいでしょう。
しかしもしそうだとすれば、世界が全体として一年にニ千億ドルも軍車予算につぎこむというようなことは、効率的な世界経営という減点からは認められない 濫费でしよう。
もちろん認められません。もし世界政府があるとすればこのようなむだは存在しようがありません。しかし、現在莫大な軍備をしている囯々がお互いにどんなに恐怖 | |
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心をもって警戒しあっているか、を理解するのにたいして想像力は要しません。一つの国でどんなにささいな武器の進歩でも行なわれると、ただちに他の国がそれに追随します。灾際それぞれの国が、他国がどんな武器を発明することになるかを、それに対抗する武器をもつ必要から、予想しようとします。実際、経済成長に今日あるような基本性格を相当ていどに賦与しているのが、囯家間の眾備競争なのです。もし承備较争がなければ、またエ業的、技術的成長から生ずる付随的利益をめぐる 議論がなければ、安定状態に逹する試みのために意識的に成長をスローダゥンさせるという政治的可能性は、はるかに容易になるでしよう。
そうですね。しかし、あなたははたして全地球的規横でこの惑星を管理する可能性を想像できますか。
いいえ、近い将来には考えられません。可能性は認められません。私の立場は悲観的です。もし文明世界があとどのくらい統くかとたずねられたら、私は十年か十五年は続くだろうと推測します。もしそれ以上に統くとすれば、それは一種の奇跡です。しかし同時に、人間は自由意志をもつているのですから、時には奇跡もおこると私は倍じます。ですから、私は最悪を予想はしますけれども、善を#望してこつこつやっていきます。
われわれは、果たして、豊かな国と貧しい国の間のギャップをうずめることができるでしようか。もしわれわれが地球規模の管理をめざすとすれは、そしてそれは畏期的には不可避のようにもみえますが、豊かな国と貧しい国との間にこれだけ恐ろしい開きがあるというのに、どうやって地球を管理していクたらよいの でしよう。
どうも私の背のとどかない深みにつれていかれるようです。私は、概して、馊かな社会のことを問題にし、豊かな社会にとってはこれ以上の経済成長は健全な目的に役だたない、と論じてきたのです。経済成長は今や悪いくせになってしまったのです。あるいは、機械をとめることができなくなってしまったといってもよいでしよう。ところで、あなたの私に対する質問は、贫しい多くの闺々に対してはわれわれが何をするかということでしたね。本当は私はこの点に首をつっこむのはいやです。と いうのは、突は私は、これらの国々がガンジGa naar eind〔柱8〕のすすめた道をたどるべきだったと信じているからです。そ | |
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れはどういうことかというと、規換の小さい技術、ほどほどの技術を用い、ひかえめな、しかしかなり满足すべき物質的水準をめざすべきだ、というものです。しかし彼らはそうは進んできませんでした。これらの国のどこでも、少数の人たちがそのまなこを常に西側世界にむけており、自分たちの国をその水準までもつてくることを望んでいるのです。ところが、それは、ことがらの性質上不可能なことに思えます。短期間のうちにそうなることが不可能なのははつきりしています。なぜなら、 これらの国がすべて数年のうちにアメリヵに匹敵する物質的水準に到連することができたとすると、世界はあと十年か二十年以上は統かないだろう、ということが明らかだと思えるからです。資源消费の度合いと汚染の度合いは莫大なものになるでしょう。
中国人全部がその車庫にニ台の自動車をもっているという......
そうです。そのょうな状態です。ある意味での理想は何かと問われれば、そしてそれがどうすれば実現できるかということは間われないとすれば、全世界を支配する全榷をもった独裁者を考えれば話は簡単だと...... トィンビGa naar eind〔註9〕が前にそういういい方をしていました。
まあ、時には、意味のあることはそんないい方でしかいえないことがある、ということでしようか。なぜならわれわれはたえず何が実行可能なのか、すぐに実現できるのか、もしもつと制約条件が少ない場合を想像すれば、もつと近い将来どんなことがおこるのか、といつたことにまきこまれてしまうからです。 もし全世界が慈悲深い独裁者のもとにおかれることになつたとすれば、まず行なわれなければならないことは、明らかに、人口増加率を低下させるためのあらゆる努力を払うことです。総人口を安定させ、できればそれを減らすことです。そして二番ェには、もちろん、世界のをもう少し平等に分配することになるでしよう。その場合には、現在アメリヵでみられるような生活水準を維持することができなくなるのは確実です。 |
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