Seicho no genkai o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
(1973)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
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32 アイヴァン·イリックアイヴアン·D·イリツク (Ivan D. Illich) は、ウイーンの生まれであるが、現在はメキシコのクエルナバヵにある文化交流资料センター (CIDOC) の所长をしている。 ゥィーン、ザルツブルク、ローマで学び、牧師の兜職を授けられ、後にはモンクーニァGa naar eind〔註1〕の称号を与えられたその後、自発的に牧師の仕事をやめて、現在、クユルナバ 力のセンターの活動を指導している。 いくつかの最も著名な著名な著書の中には『自覚の覺揚』 ‘Celebration of Awareness’ (1969) 『社会の脱学校化』 ‘Deschooling Society’ (1970) などがある。
クリストフアー·ジェンクス氏その他によるハーパード大半での最近の研究の結果、大人になってからの経済的な不平等が生じるのは学歴の不平等によるのではないことが確かめられました。首い換えれば、がな国における贫困の間題 (ジェンクス氏たちが研究の対象とした国はアメリカだったのですが) と教うためには、学校にそれを解決してくれと要求するよリは、経済制度を根本的に変えなければならないということになります。
私はこれまで、学歴の不平等のせいで大人になってからの経済的な不平等が生じるといったことはありません。私が主に問題にしたのは、学校が与ぇる因果的影響よりもむしろ族式的な影押の方です。この点については、私の著进『社会の脱学校化』の中の「進歩の儀式」という窣を見て下さい。神話を押しつけるための链式はみなそうですが、竿校教育の過程も、それに参加する人々に、自分たちが倍じている神話と自分たちが依存している社会構造との間の食い違いをかくしてしまいます。学校 は平等の神話をはぐくみます。そして不可避的に、その神話への帰依者に対して、自分の世代や同期生への帰 | |
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属感党を植え付けます。機会の平等という意戡やあるいは社会的生産物の分配の平等という意識の育成は、学校教育方式を重要な制度として採用しているあらゆる社会にとっての主要吕揉のーつになっています。これらの社会はみな、その市民に対して、救育の消费という終わりのないはしごを登る競争に加わる義務があると命令します。しかし、誰でもこのはしごを萵く登れば登るだけ、また彼がますます「学ぶことを学んだ」と考えられるようになればなるだけ、彼の学習をさらにもう一年続 けさせることは、社会にとってますます大きな負担になります。学校教育を通じてィニシヱーション〔社会活動への参加の手ほどき〕を行なうことにしている社会はすべて、公認の階級つまり教育の消费者の階級から成るーつのピラミッドを作り上げます。初期の脱落者は、教育の非消費者とみなされて、経済面での不可触賤民にされてしまいます。したがって、学校教育制度の採用は、人々を彼がもつ制度化された資本つまり「教育」に応じて階級に分けるような社会を正当化することに等しいので す。傈準化された「教育」、「操作」、「社会的条件づけ」、あるいは「社会化」といったものの価値を人々が佾用する限り、それらの人々は、神話と社会経済構造との間の矛盾には盲目にさせられます。 もちろん、学校制度は、それを設立した特定の階級社会を㈠反映し、㈡強化し、㈢再生産します。学校は、教師と生徒との間で行なわれることの内容とは無関係に、こうしたことを行なっているのですが、それはひとえに、私が学校の「隠れたカリキュラム 」Ga naar eind〔註2〕と名付けたもののおかげなのです。しかし、さらに重要なのは、特殊化され制度化された教育の苻遍的必要性を偁じている人々は、学校教育を受ける中で、拡大していく産業社会が不可避的にもつ階級社会としての特質に対して盲目にさせられてしまうということです。
ヨーク大半のウィリアム·ー·トンプソンGa naar eind〔註3〕の感想では、あなたの『社会の脱学校化』の研究のねらいは、正面から変革を問題にすることではなくて、つまり現実に対する意識の程度を离めることではなくて、 むしろ半校や教師の代わリ親としての梅威を変革するところにあるのだそうですが。
トンブソン氏の批判がどんなものなのか知りませんが、私は現実に対するとらわれない見方ということにし か関心がありません。 | |
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私が学校問題をとりあげた理由を申し上げましょう。産萊社会にはさまざまな生産のシステムがありますが、われわれはそういうシステムの本質について幻想をもっています。この幻想を打破するには、教育システムをとりあげるのが一番良いと思います。なぜこういうことが言えるかというと、ごく最近まで学校は産業社会の聖牛としての役割を果たしてきたからです。もし教育に対する幻想を明らかにできれば、想像力が産業化され盲目になっている現在の情況を打破して、交通、住宅、医学に 対する幻想を明らかにすることもできるようになると考えたのです。 ー九七〇年までに、CIDOCGa naar eind〔註4〕は次のニとを明らかにすることができました。 ①一般教育を義務教育によって行なうことはできない。 ②他の方法で一般教育を行なうことは可能ではあるが、それらは、義務教育よりもより耐えがたいものである。現在では多くの地域で新しい教育システムが伝統的な学校制度に取って代わろうとしているが、それは人々を操作し、条件づけ、資本化するという点では、過去四〇年間の伝統的な学校制度よりもより効果的なものとなりうる可能性をもっている。また、新しい教育システムは特に、人々を資本主義経済での生活に適応するように条件づける点で、ずっと信頼性がある。したがって、新し い教育システムは我々の社会を管理する上ではずっと魅力的であり、人民にとってはずっと誘惑的である。しかし、问時に、根木的な人間的価値を知らぬ間に一屑破壊するものとなる。 ③一社会が (高度の計画的な条件づけとは反対の) 高度の共问学習方Ga naar margenoot+式を採用しているばあいには、社会は、産業成長の基本変数の値に対する教育上の限界を設定してやらなければならない。 このように学校教育を分析した結果、私たちは、教育における大a生産を、他の産業的企業-つまりいずれもサービスを生産し、公益企梁として机織され、基本的必需品とみなされる生産物を生産しているような企菜-のひとつの範例として認識するようになりました。私たちはまず、強制職莱健康保険や公共輪送システムに注目しました。公共輪送システムは交通の速度が一定以上になるばあいに強制的に採用される傾向があります。そこで次のことに気がつきました。つまり、サービス機関を産菜化す れば破滅的な副次的効果が生じ、それは商品の | |
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過剰生産から生じる周知の望ましくない二次的効果と類似している。ということがそれです。こうして、人工の物品の工業的生産に内在的な固有の限界に対応して、サービス部門の成長にも一連の不可避的な限界があることがわかったのです。成長に限界というものは、商品とサービスがともに工業的に生産されていて、その両者に対して成長の限界があてはまるばあいにはじめて、全体としてもうまく定式化される、という結論に達したのです。 私は、学校や教師の、代わり親としての権威を変革することを主たる問題にしてきたわけではありません。まったくちがいます。私が学校を範例として引くのはいつでも、どのような形であれ産業の生産物を強制的に消費させようとするばあいには矛盾が生じるのだ、ということを改めて自覚させるためなのです。
ジャン·ビアジエGa naar eind〔註5〕とB·F·スキナーGa naar eind〔註6〕とは、子供のプロヴラミンヴに関して意見が深く対立しているようです。ビアジーはスキナー流の制御-子供を将来のために条件づける手段としての-に反対しています。ビアジェは、背景と環境とが子供の半学習速度を主として決定するのだと主張しています。したがって、進み方が早すぎても いけません。すべての子供はいくつかの理解の段階を通過していく。発宵過程にある能力はたえず使用され検定されなければならない。さもなければ知的発育は止まってしまうだろう、というのです。
教育心理学者は、ふつう、著者を現在のわれわれが住んでいる社会に入っていくように手ほ どGa naar margenoot+きする過程を中心にしてものを考えます。私が関心を払ったのは、わかりきったことをさらに強調することでした。すなわち、非人間的な社会で、人間的な生活を送るように人々を条件づけるのは不可能だ、ということがそれです。私が問題としたのは新しい「教育」ではありません。そうではなくて、人々が効果的に学習を行ないうる世界を設計する上で必要とされる、限界に関する消極的な設計基準、が私の関心のまとだったのです。 私は、人間生活の多元的なパランスという概念を提案しよう、とますます強く思うにいたっていますが、この概念は、道具に対する人間の関係を評価する際の枠組みとして役立つと思います。このパランスが含む多数の次元の中には、自然の尺度という次元がいくつか入ってい | |
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ることが明らかになっています。ーつの企業がこの自然の尺度の上のあるー点を越えて成長するにいたると、まず企業活動の計画目標そのものが実現されなくなります。次いで社会全体にとっての脅威となります。このような自然の尺度を発見し確定しなければなりません。また、その範囲内でのみ人間の生存が可能なような人間の努力の程度を表わす諸変数を探してみなければなりません。教育心理学は、これらの尺度をいくつか確定する際の道案内を努めることができる、と私は信じています 。それによってまた、心理学的環境を不透明で、秘密で、その上近づきがたいものにしてしまうような組嫌や生産や道具の站形態を法の保護の外に置く上で有用となりうる諸概念を、教育心理学は提供してくれると思っています。
アウレリオ·ぺッチHィGa naar eind〔註7〕とローマ·クラブは、成長には限界があるので地球は現在危機に瀕しているのだということを指導者や科半者に理解させ、社会の上層部の考え方を転換させようと拭みていますが、あなたのお仕事はブルジョア社会の基盤自体を革命的に変えることを指向しているとい文るのですか。
べッチェィゃ、フオレスターGa naar eind〔註8〕や、メドウズたちは、財の生鹿の成長には不可避的な限界があることを非常に多くの人々に明らかにしました。これは大変大きな貢献です。彼らは明白なことをだれの目にも明らかにしてみせました。私は、サービス部門にも冏じように、成長の固有の限界があることを強調しています。この点で彼らの洞察を補いたいと思つているわけですGa naar eind〔註9〕。 私の意見では、制度化された価値全体に多元的な限界があります。財部門の成長に課せられている特に生態学的な性質の限界は、このようなより広い範囲の限界の一部をなしているにすぎません。成長によって社会が破滅する場合は、いろいろあります。例えば、いきすぎた成長の結果環境が社会に対して敵対的になる場合とか、成長によって社会の構成員の天性の能力が自由に発揮できなくなる場合とか、成長によって各人が孤立化し人エのからの中に閉じこめられてしまう場合とか、成長によっ て社会の極端な分掙化や人々をひき裂くような特化が促進されるために社会の共问体としての構造が担われる場合とか、あるいは、加速化がガンのように進行して社会を急速に変化させ、現在手統き上の指針として一般に認められている法律的、文化的、また政治的な前例が排除されてしまう場合とかがそれです。このような結果をも | |
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たらす手段は、許されるべきではありません。成長がこのような段階に達してしまえば、企業が名目上個人、会社、あるいは固家のいずれによって所有されているかといったことは問題にもならなくなるでしょう。というのは、どのような経営方式を採用するとしても、このような企業を社会目的に奉仕させることはできないからです。
今後のニ〇年についてどんな見通しをお持ちですか。金持ちと貧乏人とのギャッブ、さらにがな国と贫しい国とのギャップは、ますます增大しているようですが、特にこの点についてなにか-。
私は次のことを信じています。制度化された成長に限界を課するためには、科学を非神話化し、日常的な言語を復活させ、基礎的な手統きを回復させるしか手はありません。そのためには、現在の政治目標をくつがえすほかありません。現在の政治目標は通常、社会システムの総座出高を坩加させ、生産物を一岡平等に分配することを指向してします。しかし、分配の正義に向けられているこの種の関心は、参加の正義の必要に対する洞察によつて補われねばなりません。つまり、社会の產出物を平 等に分配せょという要求は、それに加えて、現在集めることのできる新たなエネルギーの統制度をも平等に分配することへの閲心にょって、補足されねばならないのです。その結果、たとえ、参加の正義を実現するにはエネルギー消费を敝庳的に制限した社会を必要とする、という認識にいたらざるをえないとしても、なおかつそれは必要なのです。『浮かれ騒ぎの道具』‘Tools for Conviviality’という題の次の著龙で、私はこの問題を取りあげてみることにしています。 |
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