Seicho no genkai o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
(1973)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
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31 カール·ロジャースヵール·R·ロジヤーズ (Carl R. Rogers) はー九〇ニ年イリノイ州オークパークで生まれた。ー九二八年コロンビア大学で心理学の博士号を得た。 はじめ、二ユーョーク州ロチエスターにある児童虐待防止協会で子どもについての仕事に従市した。ついでシヵゴ大学およびゥイスコンシン大学で心理学と精神医学を教えた。ー九五七年、ヵリフオルニア州のラホヤに移り、はじめはその町にある西部行動科学研究所と關係をもち、現在は、人格研究センターで仕亊をしている。 口ジャーズ教授は、現代の偉大な心理学者の一人である。一九三一年には『児童の性格適応の測定』を発表し、また一九五一年には今日古典的研究とされている『患者中心の治療』を、そして一九六一年には『一個の人格になることについて』を発表した。最近の著作には『学習の自由』 (ー九六九年) および『対抗集団について』 (一九七〇年) などがある。 はじめから自然を愛し、生物半、農業を愛してこられたというあなたの過去から判断しますと、あなたはローマ·クラブがやっているような努力に共感なさるだろうと思います。あなた自身の地球に対する愛がそこに実っているでしょうか。
ええ。私はこの惑垦が現在ひじょうに危険な状態にあると感じています。私の自然愛と、人間の中に顕現されているところの自然に対する愛との両方のために、どうしたらこの地球を破壊から守れるかという問題に対して私がひじょうな関心をもつようになっている、ということはほんとうです。
あなたの主たる関心は個人にあるのですね。個人をどのように救うかということに。なぜなら、あなたはこの世界がますます統制され、ますますブロヴラムされていくことを心配していらっしゃるから。ところ | |
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が、それが現にスキナーのいっていることですね。われわれは環塊の獺牲者であリ、環境を再設計する必要があるというわけです。あなたは、空間が縮小しつつある現在でも、なお個人をいれる場所があると思っておられますか。
ええ。もしわれわれがますますプログラムされていくのだとすれば、だれかがそのブ口グラミングをやろうとしているのだと思います。これこそ、スキナーがロにするのを好まない亊柄です。だれかがプログラミングを行なわなければなりません。いいかえれば、ー部の人が、残りのわれわれ全部を統制する計画を、自由につくる立場にいなければならないのです。私は、そのょうな道は個人としての存在を破壊することにつながると思います。私はまさに個人を重んずるのです。なぜなら、個人こ そ剑造性の源泉だからです。われわれの努力は、個人を解放して彼自身のもっとも自由なもっとも純枠な自己たらしめることに向けられるべきであって、個人を支配することに向けられるべきではない、と思います。私の自然に関する偁念の一部として、私は、人類がその性質上社会的な存在たと思つています。生物のすべての種が社会的なのではありません。たとえばネコ族はあまり社会的ではありません、ネコは、だいたいにおいて、生まれながらに孤立者です。しかしヒトは、サルから進化して きたもので、生まれながらに社会的です。したがって、私は、もし個人がほんとうに自分をとりもどすことができ、自分たちの中で何がおころうとしているかを知り、個人相互間の関係を知ることができたとすれば、不和よりも調和を好み、破壊的行動よりも建設的行動を好む、と思います。
ええ、しかし、人類にとって空間は小さくなリつつあり、縮みつつあリます。紀元ニ〇〇〇年には人口が七十億に連します。人間の行動をプログラムするためには、それを行なう権力者にとってどのような制度的、組織的手段が有用ないし可能でしょうか。たしかあなたはどこかで、われわれの最終的行動は統制されないであろうが、特定のしかたで行動する傾向は統制されるだろうと思う、と述べておられたですね。あなたは、行動をプログラムすることはできないと思うのですね。
私見によれば、しばらくの間ならば、あるいはある限度内ならば、行動をブログラムすることができます。しかし、自由な人間の粘神はそれを突破します。これこそ | |
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私が、ロシアでも、他のどこでも、おこると思っていることです。それはともかく、まずあなたの主な質問に戻ると、私は、物理的な空間がわれわれのスビードの增大につれて縮小しつつあるということは認めます。人口の急增を統制しないままにしておけば、各個人にとっての現実の物理的空間は縮小していきます。これらのことは、絶望的なほど深刻な問題です。しかし、私は、自分が個人について、また小集団、敵対する小集団について経験したところからすれば、ある程度楽天的になれま す。個人はお互いに意志疎通をますます深い所に進めることができ、そこで彼らが直面している問題を解決しはじめることができます。われわれは人口について何をしようとしているでしょうか。汚染に対して何をしようとしているでしょうか。汚染がよい例です。私は、アメリヵ国民があるかなり深い水準で汚染について何かをしようという選択を行なった、と思います。何十年かかかるかもしれません。失敗することだってありえます。しかし、すでに端緒は与えられたと思います。決意はすでに 下されました。人ロ燦発に関しては、ー般の人々がじっさいに決定を下す段階にいたったかどうか、確灾ではありません。すでにそうしている国もあるとは思いますが。多分ィンドでは、人口を統制しなければならないという事実にすでにとりくんでいます。多くのことが、全人ロの内部におけるひじょうに深い水準で下されなければならない決定に、依存しています。
意思決定者にどのように働きかけたらよいでしょうか。緊急事態が生じているということ、われわれが戦争状態にあるということを、人々にもっと知らせるようにするにはどうしたらよいでしょうか。
二番目の問のほうがずっといい問ですね。どうやってわれわれが意思決定者を意のままに動かすかということではなくて、彼らをいかに鼓舞して合理的決定を下させるょうにするかという問題です。私はちょっとした空想にふけるのが好きです。これまで国家間の関係は、つねにひじょうに格式ばった形で行なわれてきました。もしあなたがある国の使節だとすると、まさにどんな姿努で事に臨むかについて、あなたの政府から訓令を受けます。あなたはそれからはずれるわけにはいきません。私は 私の政府から訓令を受けます。私はその立場から離れるわけにいきません。このょうなやり方では、問題の真の解決がないのも当然です。私が空想するのは、もしわれわれ | |
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が外交交渉を行なう-現在べトナムをめぐって交戦国間で行なわれているパリ会談のように-と同時に、つまり正式の外交代表が事に当たるのと同時に、両国の同程度に傑出した市民から選ばれた別のグループが、それぞれの政府を代弁する義務をもたず、ただ自分たちだけの考えに従って話し合うことにするとすればどうかということです。そうすれば、後のニつのグルーブはしだいに和解の共通基盤へと歩みよるようになり、そして、おそらくその和解の共通基盤を、もっとずっと厳格な態度をと っている外交官や政府にも通訳ないし伝逹できるようになる、と思います。たとえ彼らがはじめどんなに敵対していても、もし彼らが意志疎通を促進する訓練をうけた心理学者をつれて会合するのならば、問題ないと思います。私は北べトナムを代表する市民が、ベトコンを代表する市民、アメリカを代表する市民、南べトナムを代表する市民と会えば、問題なくある播の解決に達しうるだろうと思っています。
多分、政治家とその選挙民との間の意志疎通を改善するためにも、心理半者が必要なのではあリませんか。誤った前提ゃ誤った減念のもとで多数の選举民をただ投票にかりたてるために現在語られている大量のうそ偽リは、まさに嫌悪すべきことであり、また自滅的なことですから。心理半者たちはまず自分の国で政治過程に介入することはできないものでしようか。
ほんとうにそうなればよいと思います。選挙民との意志棟通をほんとうに試みている政治家は、ー人か二人しか知りません。ー人はヵリフォルニア州議会の議貝で、有権者と正直に話し合おうと努めています。しかし大勢としては、といっても他の囯のことは判定を下せるほどよくは知りませんが、私の国では偽善がこれほど大きな比重を占めるようになってしまったのですから、状況を変えるのにはたいへんな手腕が必要だと感じます。何よりもまず、政治家の側でほんとうに国民に語りかけ、さ らに国民の声をきく気になることが必要です。その気持ちが現にあるのかどうか私には確倍がもてません。
政治家が早く態度を変えるよう促すために、行動科学者や心理学者はどんな役割りを果たすことができま すか。
私たちはいろんな形でそれを果たしているつもりで | |
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す。たとえば、ラボール集団ないし人間関係未験室ということで私が構想しているものを、国務省のお役人や大使たちおよびその屈僚とともに設けるという試みは、もっとも有望なものです。皆はそれに夢中になっています。彼らはそれを駐在国にもっていくことを望みました。そうすれば、ァメリヵの代表と彼らが派遗されている国の代表との間に、同じようなグルーブをつくり始めることができるというわけです。もっとも、その後全計画は、資金の欠乏のためにいっさいだめになってしまい ました。しかし、それはひとつの小さなきっかけでした。きっかけはほかにももっといろいろ出てくるでしょう。ただ私が気にしているのは、さまざまなきっかけが、手遅れにならないうちに与えられるだろうか、ということです、私たちは、ひじょうに小規換ですがいろいろなことをやってきました。黑人集団と有力者摘との間、また、メキシコ人グループと有力者墦との間の意志疎通を改善することによって、人種的対立を緩和するという点であがった成果には心躍るものがありました。そのこと からみても、望みがないわけではないと思います。行動科学者は、ラィト兄弟が彼らの贫弱な小さい飛行機ではじめて離陸した時と冏じょぅな地点にたってぃるのです。あの時には、だれもまだ彼らの仕事を木気にしようとはしませんでした。だれもそれが重要な意味をもつとは思いませんでした。民衆はまだ、そのアィデアにお金を出そうという気にはなっていなかったのです。私たちは何回かそのような小飛行を繰り返してきたのですが、これまでのところ民衆全体としては、まだ、たとえば物理 学者に対してもっているような信頼感を、行動科学者に対してはもって いないように思います。
ロジャーズ先生、豊かな西側社会とそれ以外の世界との間の意志疎通についてはどうお考えですか。あなた流にいえば、己れの立場を自觉しつつ、中国人、ィンド人、アフリカ人、中南米人たちとの間の真のかけ橋を、どの地点からかけはじめるべきでしようか。
その点については、私の経験からいえば、各グルーブが敕格な指令による統制に服していない場合には、成果があがると楽観することができます。私は、フランスでいくつかの集団の問題を扱ったことがあります。日本やォーストラリアやその他の国でも、集団の問題を扱ったことがあります。どの埸合にもたしかに習慣は違っていました。伝統も違っていました。しかし、もし各個人がこ | |
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れらの習惯や伝統をのりこえて、自由に、かつ各々の側に相手をよりよく理解させられるような人がついていて、話し合うことが許されるならば、彼らは個人的な意志疎通をますます深めはじめるようになります。私がよく知っているどの文化の場合でも、この点はひじょうによく似ています。
ーつの原理としての個人の自由というようなことからまずお伺いしますが、十六年前、あなたはハーパード大半のあなたの同僚のスキナー教授と肘譎なさったことがあリましたね。いまそれを省みてごらんになって、あなたは、世界がスキナー流の觀点にそって進んでいるとお思いですか、それともロジャーズ流の期点 にそって進んでいますか。どういう事態になりつつあるのでしようか。
わが国のアカデミックな心理学は、明らかに、スキナー流の方向に向かって動いていると思います。その点について私自身は別に疑問を感じません。しかし、他方、スキナー流の観点は他の高度文明国に対してはあまり魅力的ではないようです。心理学におけるもっとも深い力であると私が考えるもの、つまり人間学的心理学への傾向のなかで、人間俏人を甫視する立坳を支持する声がますます強くなっていると思います。私は、フロィト主義は死んだと思います。その葬儀はだいぶ遅れていますが 。行動主義、つまりスキナー流の見解は、アメリヵ文化にとってはひじょうに大きな魅力をもっていると思います。なぜなら、それはわれわれの技術愛に適合するものですから。ここにわれわれが行動を制御することのできる技術があるのだ、だからそれが取善の方法にちがいない、というわけです。しかし、私は、じっさいのところ今では、個人に倍をおく傾向のほうに支持があつまりつつあると思います。
あなたは、自分の生活のなかで孤独であることの特権をひじょうに重視し、それをあなたのもっとも実リ登かな時間とよんでおられGa naar eind〔註1〕はずですね。人口が増加し、統制が強められ、われわれの生活の計画化が進められている現代世界で、孤独になれるだけの余地が残っていますか。オランダの半生は、今では自分のしたいことを勉強するわけにいきません。選ぶことができないのです。時には、勉強をまったくやめるよう にといわれたこともあります。ある特定分野に半生が | |
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あつまりすぎたことがあったからです。個人にとって の希望はどこにあるのでしようか。
その問題に対する私の答えはひじようにラディヵルなものだと思います。われわれの社会における既成の制度の大部分は、未来の希望をしめ殺しつつあると思うのです。この点は教育にもあてはまると思います。教会にもあてはまると思います。結婚にも-それを一つの制度とみる場合には-あてはまると思います。ですから私は、私の最近の本には『パートナー同士になること』という表題をつけたのです。結婚するということでは必ずしもないというわけです。政府こそ、多分-特にわが国では-未来の 希望をしめ殺す点では何よりも強力なものだと思います。その点、私は若い人たちに期待をつないでいます。というのは、若者たちが主張する基本的な価値の一つは、自分自身であること、純粋であることの価値だからです。彼らはもはや、「もちろん、私はこの会社に勤めて、九時から五時までの仕事をやらなければならないし、それを一生統けなければならない」とはいいたがりません。そういうことをいう気持ちにならないからです。それだけでなく「そうだ、私は戦争がよいことだとは思わな いけれども、澳兵によって軍務につかなければならない」とさえ、すすんでいおうとはしないのです。ますます多くの者たちが「いや、私はそんなことはしない。私は自分の人生を生きなければならない。私は制度によってしばられたりはしない」というようになっています。最優秀の学生の中に、大学を去っていくものが出ていますが、それは授業についていくことができないからではなくて、われわれが課している課程に従うことを拒否するからです。そこから、联密にいって何が生まれてくるの か-私はじっさい予首者ではありませんから、はっきりしたことはわかりません。何かもっと自由な、もっとゆるやかな、もっと心の通いあっちもっと真実なものが生まれてきそうです。そのように私は思います。 ガブリエル·マルセルGa naar eind〔註2〕はわれわれの所有物がわれわれを食いつくす、といっています。若者や大衆をプロヴラムする以外に、この物的利得をめざすきちがいじみた鼓争から流れをそらすためのどんな方法があ るのでしようか。 私は、心理学者の役割りが、伝道師のように、物質的なものから流れをかえさせるというところにあるのだとは | |
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思いません。その流れ自体は、すでに現われていると思います。心理学者はそれに気づくべきです。その点は、ちょうど、救育において載格さを重視する方向から流れがすでに変わっていることを、彼らが理解すべきなのと同じです。若い人たちは、物質的な対象を使うことになれており、それらをひじょうにむぞうさに、あまり意識することなく使っていると思います。しかし、物的な所有物と自分自身であることとのあいだの二者択一が問題になる場合には、流れは後者に向かっているのです 。私は、若者たちが株式仲買人や郊外に住む金持へと退化しつつあるとは思いません。もちろんー部のものはそうでしょう。それは当然のことです。しかし、私は、わが闹の若者たちが目搮とするところには、真の流れの転換が生じつつあると思います。
生存の維持を達成するにはどんなことが行なわれなくてはならないかを研究するための世界モデルを改善しようとする場合に、あなた方はどんな役割リを果たすことができますか。役割りを果たすところが何かあるでしようか。
まずあなたの質問の意味をもう少しはっきりさせてください。
問埋というのはこうです。システム分析家たちによってモテルがつくられました。ー部の経済学者はそれに異論を唱えています。二番目のモデルがいまつくられつくあります。心理半者や行動科学者がそれに関してどんな役割りを果たせるのか知りたいのです。何かできるのでしようか。何かやるべきなのでしようか。またあなたは、この種の研究努力を支持なさいますか。また、この種の研究でコンビョー夕を使用することに贊成ですか。あなた自身、集団の行動の研究ではコン匕ュー夕を利用 しておられますか。
この惑星がどうなろうとしているかについてのモデルにくみ入れられるべき諸要因をはっきりさせるために、行動科学者はー心理学者も含めてーひじょうに実饩的な役割りを果たさなければならない、と私は思います。ひじように重きをおかれることがよくあるタィプの要闪よりも、心理学的な要因のほうがはるかに重要だということは、繰り返し示されてきたと思います。株式市場はなぜ浮き沈みするでしょうか。経済学者でさえ、それが相当程度に心理的要闪によっているということ、經濟的要 因 | |
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が一方をさしているのに株式市場は逆方向に向かうことがあるということを、認めざるをえなくなつています。他の多くの分野でも同じことがいえます。人々の不満や、自分たちの無力さに対する絶望でさえも、政治過程では、どの政治家も思い及ばないほどに大きな要囚です。国民の相当部分が、物事の結果に影響を及ぼそうとしてみても無駄だと感じています。「私は自分たちの政府に対してはまつたく無力だ」と。それこそがの棟になります。かならずしも暴力革命というのではありません 。じつさい、そうでなければょいと思います。しかし、それは、考え方の革命、存在様式のでありうるわけで、将来の政治に深い影響を及ぼします。ところで、コンビュータの利用の点ですが、私はその分野の専門家ではありません。私自身はコンビュータを使いません。もしコンビュータが全面的に人間精神の下僕であり道具であると考えられているのならば、そしてそれがひじょうに複雑であるからというだけの理由でなんらかの神秘的な意味を与えられたりしていなければ、私はその性能に敬意 を払 います。しかし、完全なコンピュータ·モデルが設計さ れるなどということは、きわめてありそうもないことです。 ロジャーズ先生、あなたはわれわれの惑星の未来についてどの程度希望をもっていらっしゃいますか。
その質問は何度も受けました。私は回答を二通りにわけなければなりません。現在のところ私は概して小集迪の問題にとりくんでいますが、これまでの仕事の中では、大部分侗人の間題をとり扱ってきました。その経験からすれば、私はまったく楽観することができます。人間という有機体は建設的な有機体です。自由な選択が可能であり、あらゆる状況を知ることができれば、この有機体はほとんどまちがいなく削造的で建設的な道を選ぶょうに思えます。もしわれわれが、一個の人間を、小集団 をなしているくらいの人間を、問題にするのならば、私は徹底的な楽観論者です。私が前にもいおうとしましたょうに、私たちは、もっと大きな集団や団体のとり扱い方の知識さえ持ちはじめるにいたっているという気もしています。しかし、その知識が、手遅れにならないうちに一定の役割りを果たすことになりうるかどうか、それは私にはわかりません。したがって、われわれの文化の未来については、また地球全体の未来については、私はまさに五分五分という感じをもっています。われわれは 自 | |
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分たちを滅してしまうかもしれないし、また、時期を失せず何とか自分たちを救うかもしれません。人間性は、まったく最後の瞬間にみずからを救う俾大な記録を、特に民主的な社会では、もっています。地球全体についてもそのことがおこるかもしれません。しかし私は、地球全体に関しては、明るい曈の楽天家だというわけにはいきません。 |