Seicho no genkai o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
(1973)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
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23 ロバート·リフトンロバート·ジェイ·リフトン (Robert J. Lifton) は、コネテイカット州ニユー·へヴンのイエ-ル大学における精神分析研究協会基金教授の地位にある。特に個人の心理と歷史的変化との關係に興味をもゥでいる。 リフトン教授は一九ニ六年ニユーョーク生まれ。多年ハ ーヴァード大学東洋研究センターに関係。極東に七年間を 送った。 主著は、『思考改革と全体主義の心理学-中国における洗脳の研』 (一九六ー年) 、『革命の不死性-毛沢束 と中国文化革命』 (一九七〇年〕、『誰が生き残るか』 (一九七ー年) 『死の内の生命ーヒロシマの生存者』 (一九七一年) 、『境界』 (一九七〇年) など。
あなたの著書『境界』の冒頭で「限yない破壊」と いぅことをおつしゃつていますね。
問題は、ぽくの考えるところでは、破壊といぅものは剖造や成長以上に限りないものです。破呔には限りがない。これは『境界』やその他の本の中で、ほくが問題にした第ーのことです。つまり、われわれの量的飛躍やわれわれの破壊能力じたいが新しい歴史的状況をつくり出すということ。だから破壊には限界がない。これについては二つの次元で論じなければならんのです。一つはわれわれのつくる武器の実際的、物理的な摄。これは琳灾上限界がない。ということは、われわれの知るかぎり、 地球上の全生命をまず全戚させるだけの能力が今のわれわれにあるということで、もし次の核戦争がおこった場合に生き残るものがあるか、全生命が消えるか、滅びるか、大部分が捫滅するか、などと、いささか絶対的な予言をする必要は、ないのです。そういう予言は、一九五〇年代末と六〇年代初期には、一種の客間のゲームみたいなものでしたがね。事突は全体を破壊する物理的能力を今のわれわれは具えているということです。 ほくが『境界』に書き、ひじょうに関心をもっている | |
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ことは、この能力に伴う物理的状態ないしこの新しい能力がわれわれの心理的生活に与える影響のしかたです。 この点でほくは、われわれがニつの樹に生きている、と いいたい。一つは黙示録的な層で、今ェ行なわれている黙示録的思考についてはずいぶん批判する向きもあるけ れども、ぽくの立場は、現在の実際を把握するにはぽくの いう黙示録的想像力を必要とするということなのです。 人は黙示録的想像力とともに生きなければならない。な ぜならそれがわれわれの破壊の可能性の真の性質だから です。 他方に日常のあれこれやりくりの必要、ものごとを動 かし、世界に何らかの均衡を保っていく必要というものがあります。平和を願い、平和を得ようとする。これは非黙示録的な性格の日常的判断を要します。全体破壊の能力に対しては、こういう二つの層の反応がある。
そういうニつの層のあいだのこのゆれは若者たちにどんな彩響を及ほしますか。
ごく若い層はこれにずいぶんまき込まれていると思い ます。若者の行動を、何にせよ一つの要因に帰すること ははなはだむずかしい。ほく自身の気持ちは、これも書いたことですが、ブロテウスGa naar eind〔註1〕型ということで、心理 的·歴史的地すベりの全状況を指すわけです。
プロテウス的人間ですか-
若者の状況、波らの行勋や願望の大半がこういう新しい歴史的諸力の組み合わせの上に座礁したのだと思う。一つのひじょうに重要な力が、いま話していたもの-全体破壊の能力-です。しかし、それと同時に-そしてこれはほくの大いに強调することですがI行なわれて来た伝統的象徴構造の崩壊ということがある。これは最近十年、二十年に始まったことではない、第二次大戦後ということでもないのであって、おそらく十八世紀のある時期、あるいは伝統的文化の崩壊以前に初まった。それが力を増し 、第ニ次大戦の大殺狨にょって加速された。これが象徴形式破壊の第二層です。この象徴形式のまわりに生活が組織されていたわけで、それで生活が所与の文化の中で全体的な、統合された描造を具えていたわけです。ほくのいっているのは宗教、政府、生活周期、結婚、教育、その他生活におけるあらゆる主要活動の構造のことです。こういうものがもはや一組の文化的象徴にょって定められなくなった。いや、現代文化以前 | |
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には、そういうものが、時たま考えられているほどキチンと定められていたわけじやない。しかし今日ではこうした象徴の力は急激に崩壊している。象徴的構造はまだ存在する。われわれは今も家族の中に苺らす。多くはキリスト教会なり、ユダヤ教会なりに行く。投栗する、しないは別として自国の政府に関係をもつ。しかし、ほくのいいたいのは、こうしたことに対する開係を内面的には信じていない。こういうものによって内面的に真に心を保持される可能性は減少した。だから、われわれ は、一種の残洋物とともに苺らしている。もう力のないもの、命のないものと暮らしている。そういうことです。そういうしだいであるから、こういう、強力な象微の崩壊、こういう、人間ならびに人間の歴史を人間のテクノロジーによって全体的に破壊、消滅させる新しい能力、このニつが結びついて現在のマス·メディア革命を大いに重 要なものとする。 マス·メディア革命の重要性には三つの要素がある。ィメージを迅速に、全体的に、ほとんど同時的に拡散する-可能性のイメージですね。あるいは人間いかに生くべきかという心理的可能性、あるいは人をひき込み、誘う物質的対象のイメージ、あるいは異質文化のイメージ。いかなるィメージだろうと、だれもが、いかなる時 にも利用できる可能性がある。これはわれわれの精神生 活におけるもう一つの真に根源的変化です。ご質問の点 に戻れば、この三つの要索が若者の行動のしかたに大いなる影響を与えるわけです。ぼくには若者の急進的実験には大きな論理があると考えられる-たとえ彼らが時 には破壊的に見えても、また、やりすぎの失敗があっても、たとえ行動に失敗しても。たすえ直接的解決を得ることに失敗しても。そんな解決はもちろん不可能なんで す。にもかかわらず、われわれのおかれた状況のこうした要素を考えると、このょうな実験の背後には1つの論 理がある。
ジャン·ポール·サルトルはある程度まで、あなたのお0しゃるプロテウス的人間の例になるとお感じですか。
ぼくが彼をプロテウス型の例に使ったのは、彼が二十世紀においてはなはだ重要な現代人であるからだ。いろいろな層において屯要なんだが、ぼくは彼の人生と作品の中から利用した。自伝『言葉』はプロテウス型の例で す。彼の場合、継続性とブロテウス的実驗の間にたいへ | |
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ん削造的な均衡を獲得している。彼は実験的作家としてりっばな継続性を維持してきた。彼は著作において、固定したエゴ、固定した意識の不在ということを強調し、意識ないしエゴを一種の流れもしくは流動体と見る。その窓味で彼の心理学の内容自体が根源的にブロテウス的だ。彼の人生、彼のさまざまな灾験、さまざまなグルーブや若者に対する彼の反応、こういったものにおいて、彼は多くのブロテウス的傾向を示して来た。もちろんブロテウス的ということが絶対ということはない。人 はつねにある種の比較的固定した、安定した位置に結ぴつく。それだからこそ、ある意味では、ブロテウス的でいることができる。彼の場合にはある柚のかなり固定した政治的位置があって、それから、そういう政治的位置に結ぴつきながらブロテウス的実験作業をした。しかしそういう政治的位置さえ敢近変わった。サルトルは、人生においても、作品においても、多くの面でプロテウス型の例だとぽくは思います。
第三の要因の話に戻ります。マス·メディアとその 彩響ということ。なまはんかの知識の拡散のもたらす 評価しがたいほどの危害ということをおつし、つていますが-
それはいたるところでおこっていると思います。しかし、まず一般的な問題に戾りましよう、ローマ·クラブと『成長の限界』のアブローチの話です。ある会議でフォレスタIがその記述についてかなり細かく説明しましたが、ぼくの感じでは、真実と誤解を招くような主張とがまじっている。全世界の生態組織のすべての要素が相互に関連しているという考え、これはたいへん深遠な、进要なアブローチだとぽくは思う。世界的過程を考えるさいかならず入れなければならないアブローチだと思う。 他方、ローマ·クラブのアプローチでなまはんかな真実としばしば思われるのは-フォレスターがその例になるわけで、ー組の変数が仮定されていることです。ぼくは彼の都市問題に関する仕事のほうをよく知っているのですが、彼はそのさい一連の仮定を提示し、それがじつはコンビュータに読み込まれた変数であるわけですが、これがずいぶんアヤシィもので、他の多くの要素、多くの傾向を考慮に入れていない。彼の仮定の多くはどうも現在の都市系列のものなのです。フォレスターによって提示 された材料は都市に满足している中流階級 | |
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-だいたい中流階級の上-の人々の仮定です。これはコンビュータ·ブロジェクトにおける大きな危険です。未来の予測は必要だと思う。世界を生態システムとして考えなければならぬ。しかし同時に、われわれ が確実な変数と思っているものを技術的に投射して、そ れで世界の正確な未来像ができると思うことには大きな 技術者的誤粱があると思う。ぽくはアヤシィと思う。
例の、終末の日が近いという宣首、そうやゥて人の心をゆすぶるやy方、これは害になると思いますか、役に立つと思いますか。
それもまたなまはんかな真実という問題です。何になるんです。世界の人々の心をもっと確実なやり方でゆ すぶれたらいいと思う。あるいはほんとうなんでしょう-ほかにもたくさんの人が別ないい方でいっています-われわれは資源を使いつくし、人口対資源のパランスが心もとない方向に進んでいる危険があるとか、われわれは乱れていて無*任だとかいうことは。かなり劇的な提示のしかたをして人心をゆすぶることには価値がある。しかし未来学について提案されている仮定や未来学者の性質にはずんぶん誤解を招くような情報があると思う。一種のパラドックスです。この学問は、テクノロジーの芽ば え、テクノロジーの成長に誤った信頼を寄せることが危険であると強調するからです。何といってもテクノロジーの進歩がそういう资源を必要とし、そういう資源が欠乏してきたわけだからです。他方において、用いられている方法は技術主義的で、社会科学を、技術化された、機械をモデルとする学問にしようとする点で精神がテクノロジーを模倣している。さまざまなパラドックスや矛盾があって、とても誤解を生みそうなところがあります。結局において肯定的な結果を出すことも、消極的な結 果を出すこともひじょうにむずかしい。かなり人にものを考えさせ、こういう問題を論じさせるという点で否定的というより肯定的なものが多いかもしれません。
環境が個人を形成するのであって、その逆の面は少 ないだろうというスキナー教授の論は正当でしょうか。
ぽくの考え方は根源的にスキナーに反対です。ニ、三ヵ月前、ニューョークの公けのあつまりで注息して彼のいうことを聞き、それから彼のいったことについて討論する機会がありました。ごく舉純化していうと、彼が唱说す | |
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るような行動主義理論は、比較的限定された、比較的単純な行動についてはかなり正確です。複雑な人間の相互関係については、まったく不正確だと思われます。望ましい人間の心理的反応を生み出すために一つの世界環境をブログラムすることができるという考えは、まつたくの誤りだと思います。つねに一種の弁証法がなければならないのです。創造的な、建設的な弁証法が。一方にブラニングを真から必要としています。思處深いブラニング、つねに諸価値にもとづき、完全な人間をつくる 環境を成就するなどという考えにはもとづかないブラニングをです。人間はつねに不完全でしょう。一方にそういうブラニング。他方にー種の關放性、ひらかれた世界、ひらかれたシステム、何とよんでもいい、たくさんの予測不能なもの、たくさんの無秩序が必要です。そういう種類の弁証法のほうが、完全に計画されコントロールされ、行動主義的に予告された環境などという考えよりも必要です。 科学者はまったく異質の、時には反対の価値や文化、たとえばアジア文化を、全地球的な研究や予知のさい に、じゅうぶん考慮しているとお感じですか。 それが一つの例になります。全体的ブラニングとか世界規模の朽敢主袭的搏作なとというものはとんな文化の中にいるにせよ、まちがっている。それが概念的にまちがっているということを知るためには何もわざわざ文化的相違を強調するまでない。スキナーが自分の私的な生活において人道主義的であることはたしかでしよう。しかし彼のアブローチは権威主義エリートの役に立って、われわれ他の人間に対するブランを決定することになりましよう。それは究極的にはまったく実行不可能なこと です。
新しい歴史に関するあなたのビジョンをご説明願えましようか。それは要約すれば実際に境界を変える、限界を恒常的に変えて行くということになるかと思いますが。無限の努カでまったく自由なアプローチをす るということを繰り返しお、きになっていますね。 ええ、ぽくのいわんとするところをある意味では伝えてくださったと思います。ぼくは歴史あるいは歴史における人間の経験を一種の継統的な過程と見ます。ある特定な時期に完全になるという考えはぼくにはパ力げたことと思われる。ユートビア的ビジョンは必要です、歴史的諸変化における何らかの積極的な力をつくるために。しかし新しい歴史ということを語る場合、その考えを強 | |
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調する一つのやり方は象徴的、動因的永遠性とぽくがよぶものを述べるか、または、ほく以前に哲学や心理分析において出されたある種の考えや提案をとりあげることだった。心理分析においてはぽくは特にオットー·ランクGa naar eind〔註2〕の考えを持ち出します。人間の歴史のすべてを継統的な人間の自我感維持の努力だと考えるのです。まあ、神秘的な考えのように聞こえるかもしれませんが、ぽくはその意味を次のようにとる。すなわち歴史的諸過程のすべては人間が継続性を求めることに関係する、あるい はぽくのいう「象徴的永逮性」、自分が自分の前に行なわれたこと、自分の後に行なわれることとつながっていると感じる-それが人間の集団であろうと、人間の思想であろうと、何であろうと-連結していると感じることにかかわっている。これはいろいろな形で行ない得るわけで、さっき申したように生物学的に家族を通し、あるいは自分のつくる作品のように影響力を通し、死を征服するという精神性というふうな考え方、あるいはもっと文宇通りに死後の生命というふうな考え方を通し、それか ら自然を通し、あるいは永遠なる自然は、死すベき人間生命の限界というか、死の限界にもかかわらず、いつまでも統いて行くというふうな考えを通し-こういうものを通して行ない得る。あるいは究極的には、ほくが「超絶的経験」とよぶもの-時間と死が消滅するような強烈な身体状態を通して行ない得る。こういう観点から見ると、新しい歴史は「予徵的永逮性」の様態 (单数もしくは複数の) における大きな変化なのです。十九世紀の、宗教的様態から、自然的様態に関しても、生物学的様態に関しても提示されたダーゥィンその他進化論の進化という考え方に興味をもった人たちのもっと自然的様態へのダーゥィン的変換における新しい歴史ということをいってもいい。同じような転換が現在も進行中です。ぼくにはハッキリしていることですが、古い様態ははずかしめられたり疑われたりしています。ぽくが「象徴的永遠性の新しい様態」というのは、象徴的なやり方でわれわれが自分を 永遠化しようとするさい今までよりも高度と考えられる価値のことです。新しい様態は、はずかしめられ疑われているものにとつて代わる。この点があまりハッキリ兄通されない。それで大殺戮というふうなことが考えられます。
あなたが「核殺戮」とよばれるものですね。こうい う疑わしい生物半的ー永速性の概念は若い人々にどんな | |
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釤響を与えますか。
核殺截という考え方はあらゆる大人にたいへん強いものです。避けがたい過程というのではなく、現代の一つの可能性として。この考えは過去三十年にわたって人間の意識に力をもって来ました。象徴的永遠性、自分の子どもたちの中に生きる、とか、人間の仕事の中に生きる、とか、宗教的様態などという考え方、永遠の自然に生きるなどという考え方には異論の余地があります。われわれは武器で自然の大部分を破壊できます。われわれの環境の大部分を武器なり汚染なりで破壊できます。だ から、一言でいえば、象徴的永遠性の様態はすべて、事実上排除はされないが威嚇されている。象徴的永遠性の様態はわれわれにとってまだ存在するが、心理的にいって、何らかの基本的な疑いをもたれている。それが、いろいろな形のっハィっ (麻酔昂播状態) しにおける、ぽくのいう経験的超絶なるものに根源的な新しい興味をわれわれがもつ理由の一つだと思う。これは、いわゆる麻薬革命を通じて、あるいは麻薬を使わない意識の実験を通じて、あるいは政治的行動における突驗を通じてでもよい、そういうものを通じての強烈な身体經験という意味になります。若者たちは‘ハィ’の時、‘ハィ’の経験を求める。この意味で若者たちのやつていることの多く、彼らの戈験とか彼らが頼るような棟類の実験は、われわれの意識をとらえた殺戮の観念を通 じて、従前の象徴的永遠性の様態に異論をとなえているとも考えられます。
それは精神を麻痺させる傾向があるものでしようか。われわれの感慨を除去してしまうものでしょう か。
人間の維統性が崩壊しそうなこういう状況に対し反応が欠落するということは可能です。それは死の脅威というだけじゃない。受け入れることのできない死の#威なのです。早すぎる死の脅威です。早すぎる死とは、自分の永遠性を象激するかもしれないあらゆる要素と突然に縁を切るということをほんとうに意味する。その意味で、こんなふうにしゃべつていても、たくさんの心理的観念が逆立ちするわけで、ともかく多くの反応が可能だといつてよい。 時にはこれに対して多くの削造的な反応がある。いま玷題にしている若者たちの火験として、さまざまな急進 | |
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的な団体をつくる実験があるが、そういう実験の屮にも見られるわけです。削造的なのもあるし、破壊的なのもあり、中間のものもある。しかし他の反応においては極度の麻瘅がおこる。これについては、ほくの著作に論じています。最近の、まだ出版されていない本で、この点をもっと組織的に発展させようとしているのです。この非感応化、その起源、これは、非象徴化、あるいは象徴化機能の低下ないし人間生存のエッセンスである檇成機能の低下といっていいと思う。換言すれば、ほんと うに麻瘅がおこるのは自我と世界のあいだに何らかの意味ある適合ないし関速づけができなくなった時、心理的にいって、そのギャッブがひじょうに大きくなった時にしばしば麻瘅状態が求められるのです。
核力や核兵器を完全なものにしていく-これは新しい限界、新しい意味をもとめる上の仲介とか努力であるでしようか。
限界という言葉はそのような場合混乱をおこしかねませんが、しかしまったく不適当というわけでもない。大げさな言葉を使えば、ほくのいう心理·歴史的地すベり、象敢や象徴形式に対する力のこもつた関係が根源的に欠落した、こういう状況にはいろいろな反応があるとぽくは いいました。いま論じたょうなすべてについて殺戮は一つの役割りをもつ。否定的な棟類のもっとも極端な反応 はぽくが「核症状」とょぶものです。それは人間のたいへ んな器用さを表現したものです。人間は自分を威嚇する ものをほんとうに崇拝すること、かできる。兵器、潜在的破壊主体そのものを神の座におくことができる。しかし、もちろん、ある意味では新しいことじゃない。われ われはつねに神を見て来たのだから。じっさい、われわれはつねに神を破壊の能ヵの祛盤以上に大きなものと認めてきた。われわれは振り向いて、われわれの削造したもの自体を崇拝し、それに創造力までも帰属させる、神についてやって来たことです。神は破壊することも創造することもでき、その上でわれわれはIたいへんな空想だと思うんですが-窓図的に安全無來のシステムを作る。これが.ほくのいう核症状です。神格化とともに、こうした兵器に心理的に大いに依存する要素がある。兵器に対 して、まったく不可能にきまっているあらゆることを期待する。これもまた、ある補のなまはんかな真実から生じるのです。なぜなら核兵器を所有することは世界においてある稀の力を保持することだからです。たれも | |
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がそれをほしがる。もっとも多数の囯々が幸いにもこう した過程ぜんたいを考え直しているようですが。しかし、そういうなまはんかな真実にもとづいてたいへんな兵器ファンタジーがつくられる。そこで「安全」幻想がつくられる-わが国の軍事関係者の愛用語です、これは。しかし、それと同じようなものがソ連にもフランスにも、その他の闻にもあるでしょう。この码気は、その可能性においてー国に限らない。この幻想には安全というふうな考え、いや、そういう兵器を通じての現実性というか、ある柚の超絶性まで暗示されることが関わってきま す。なぜなら、いくつかの面で、われわれは絶対的な力をもった存在に愛若というか、関係というか、そういうものをもつのです。これはもちろん控え目にいってもたいへんに危険な稀類の依存関係ですし、ぽくは自分の本の中で権力の現代病といっています。われわれが堕落したと感じる、あるいは、われわれに手も足も出ない状態、この状況を支配し掌握する試み、心理的境界ないし心理的な意味形式をとり戻そうとする試みに関わる問題なのです。 核症状に進む傾向が、たとえば、核力を非戦閼的用途に使うという考えを崇拝させたがらせることにもなりましよう。核力に対してあまり総括的なことはいいますまい。ぼくはエ萊技術や動力供給とかいう観点から手がたいことをいう資格がじっさいないのです。しかし要するに、核力の平和時の表現がわれわれに与えそうなものを甚んで受け人れる気持ちが見える。ー種の無批判的な受け入れであり、いわゆる平和的用途にも伴なう核力の危険の可能性を認めまいとするあがきが見える。たとえば エドヮード·テラーの『ヒロシマの遗産』としうふぅな本を読むと (ぼくがこの本のことをいうのは過程のー例として、た-過程を例証するためであって非難しようという気持ちからではない) 、核力を、兵器としても平時の可能性としても無批判に受け入れようという気持ちがわかるでしよう。これは、ほくには、なかなか印象的であり、また危 険でもある核症状の一例と思われるのです。 |