Seicho no genkai o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
(1973)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
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22 エドマンド·カーぺンターエドマンド·カーぺンター (Edmund S. Carpenter) 教授はニユーョーク市のニユー·スクール·フォア·ソーシャル·リサーチにおいて、人類学を教えている。細かい履歴書を書いてくださるよう何度かお願いしたところ、ようやく次のような四行の電報を受けとった。-北極、ボルネォ、シベリア、ニューギニアの現地研究を行なった。最近の二著は『工スキモーの諸現実』と『ああ、あの幽霊の打搫の大きかったこと!』
いかがお考えでしょう、『成長の限界』、生態学への関心、人口や汚染問題への関心、こういったものは新しい種類の意識であクて、人類をスキナーがいうような「生き残る」という目標に導くものでしょうか。
私の気持ちでは、そういう問題に答えようとするそもそもその前に、何がおこつているのかということを正確に理解しなければなりません。問題を、また現在存在する過程を、真剣に探究せずに答えを出してしまう場合が多いのです。 人類学の分野でいま発表されている記録は『ふしぎの国のアリス』の世界に属するようなシロモノで、ほんとうにいまおこっていることとは関係がないんです。私はわが国の文化のメディアでも、それから、よその文化、エレクトロニック·メディアがはいりつつある文化でも、仕事しました。それでわかりますことは、文化を破壊しようと思ったら、もっとも強い武器、ジフテリアよりも致命的なのはエレクトロニック·メディアである、ということです。ライフル銃よりも安く、ライフル銃より もずっと効果的です。エレクトロニック·メディアがあれば文化を消すのには手間をとりません。まさにいまおこっていることがこれです。それが皮肉なことは、こういうメディアはわが身に戻って、われわれ自身の文化、西欧文明を代表するぁらゅるものを消してしまぅのです。 | |
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エレクトロニック·メディアは文化を消去する。文化環境をメディア環境に代えてしまうのです。クック船長が異質の文化から乗り出して来る時代ではないのです。いまやメディアから乗り出して来る。簡単な例を申しあげましよう-私はよく原住民にカメラを渡して、どうすれば映画ができるかを教えました。
ニユーギニアで?
ニユーギニアでも、エスキモーの間でも、その他の地方でも。 いつも同じ結果になりました。はじめ私は原住民が自分の文化、自分の知觉、価値を反映するようなしかたでカメラを扱ってくれるだろうと思ったのです。しかしそういうことは一度もなかった。逆に、彼らがつくったのは映画なのです。つまりメディアが文化を吞みこんでしまうのです。原住民は自分の文化を完全に捨てて、カメラの世界にはいってしまう。原住民のつくった映画はわれわれのつくった映画と区別のつかないものです。 合衆国内のインディアン部落指定保留地へ行くと、アメリカ·インディアンがよくいいま-土地売買周旋業者が私たちの土地を盗んだ、毛皮商人が私たちの毛皮をとりあげた、そして今は宣教師が私たちの魂をほしいといっている、と。そして笑います。その意味は、土地も毛皮もなくなったけれど、魂だけは渡さない、ということです。テレビで、あるインディアンがいつているのを閒きました-宣教師は魂を盗まなかった、しかしテレビが、宣教師の思いもつかぬ方法で魂を盗んでしまった、と。テ レビがインディアンの精神をコントロールするようになつた。テレビがインディアンにアイデンティティーを与え、テレビがインデイアンのアイデンティティIを否定した。 文化は自動的にメディアの犠牲になります。メディアが新しい環境となり、われわれは一日のうちにも多くのメディアを出たりはいったりする。文化のために残された場所はないのです。文化は消えてしまう。いまや文化は人類学者その他が固執する神話です。過去のものです。どこにあるというのです?
消えゆく文化の重要性というのは?
私にとつて文化とは肉体のなかの精神があるところに存在する。エレクトロニック·メディアでは精神だけ、純粋の精神だけです。 | |
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先生のご意見では、文化とは人間の生活にとって、人閏の創造的可能性にとって、自分なりの命を創造するに当たって、どれほど必要不可欠なものでしょう?
わかりませんね、ただいえることは、アメリカではどこでも、文化が消えようとするとき、その文化に対して飢えを感じるらしいのです。とつぜん、失ったものを感じる。エレクトロニック·メディアはわれわれを天使にしてしまった。翼があって、善であるという意味の天使じやなくて、肉体を離れた精神という意味、どこへでも、たちどころに移動することができるという意味です。電話の受話器をとりあげたとたん、あなたは精神においてどこへでも行き、空間的にはどこにもいないのです。 テレビのニクソンは同時にいたるところにいる。聖アゥグスチヌスによる神の定義は次のようなものです-「他と接する境界がどこにもなく、その中心がいたるところにある存在」今日では純粋精神が肉体の中の精神ょり上位にあるのです。店員に頼みごとがあって順番を待っているとする。そのとき電話が鳴る。店員は電話に答える。われわれはそれを受け入れている。だれも文句をいわない。純粋精神第一なのです。だが危険なことは、人人が純粋精神となってメディアにはいるとき、肉体を捨てて しかはいれないということです。純枠に形のないものとなってしかはいれない。アメリカの若者たちはこれに気づき、背を向けて、肉体の再発見をしょうとする。彼らは酒を飲み、栄養のある食物を薬味のきいた食物を欲し、土に興味をもち、裸足で歩き、精神を肉体の中へ戻そうとする。しかしメディアには肉体を入れる場所がありません。
ラジオがヒットラーをつくりました。いまわれわれは世界的規模のテレビで何をつくっているのでしょう?
ヒットラーのもとにおけるラジオなどは今日の事態のはしりにすぎません。今日、真の麻薬のトリップ、真の内面旅行Ga naar margenoot+はテレビであり、多くの人にとってそれは第一義的なものです。外の世界はメチャクチャで混乱し、価値がないと考えてメディアの中にはいり、その中に生きるのです。彼らにとっては、それが現突なのです。私は少しばかり簡単なテストを学生にこころみたことがあります。映画の『バトン将軍』をクラスに見せて- | |
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バトン将軍ですか?
バトン将軍についての映画です。それから二冊の本を読ませた。一つは A.J. リーブリングの本で、これはバトンに対してひじょうに点がからく、バトンは自分が参加しなかった戦闘のためにほめられていることを指摘したりします。もう一冊読ませた本はバトンの敵であるロンメル元帥に関する本で、ロンメルは控えめの人間であり、自分の軍隊の福祉に関心をもち、反ナチで、ヒットラーを殺そうとして死んだ。 さて、驚いたことにですよ、学生はこの三つをエンジョィしました-一人として歴史的な正確さについて疑問をもたなかった。一人として「どちらの話が真実であったのか?」と質問しなかったのです。 それから私は昔のチャールズ·ロ-トン映画『バゥンティ号の反乱』をとりあげた。子どものころ私はこの映画が大好きでした。これをクラスに見せて、それから反乱暴徒の記録を読ませた。これらの暴徒は人殺しであり強姦をやり、アル中であった。十五人いたのですが、そのうち生き残ったのはただ一人。お互い殺し合ったのです。それからブライ船長によるオーストラリア統治の記録を読ませました。ブラィ船長は有能な統治者であるばかりでなく、船員を人間的に待遇した先覚者でもあった。 学生たちはこの三つをすべてエンジ‘ィして「どの話が真実であったのか」という質問をする必要を感じなかった。 若者は外的現実、歴史的真実とか物理的現実という考え方から離れてしまった。彼らの親の世代はものを見たがった。彼らは映画スターを見たがった。現実のジョーン·クロフォードを見たがった。作家が自作を読むのを聞きたがった。ィメージを地に引きおろして、触れ、見、観察できるものとして人間を見ようとしたのです。「モナ·リザ」の写真を見ればルーヴル博物館へ原画を見に行った。複製で見たままのエッフヱル塔を見たいと思った。今の若者たちは違う。そういうものに興味をもた ないのです。これは人間の歴史における最大の変化の一つだと思います。あらゆる経験、あらゆる真実が目に見える、観察可能な世界と同調するという西欧文明の、この、第一の特徴を捨ててしまったのです。若者たトちにとってそんなことはどうでもいい。たくさんの世界、たくさんの現実を受け入れるのです。彼らにとって、テレビは外なる世界を反映するものではありませ | |
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ん。そういう想定ではないのです。今日のニュースが現実と無関係であっても、彼らは、いっこうにかまわない。現実とかかわるものなどと予想していないのです。記録を調べようという衝動はもはや存在しないのです。
それはどういう影響を及ほすものでしようか。こういラ、ものごとを台なしにしてしまうと考えられるテレビ中毒によって、どういう変化がアメリカに見られますか。
現在合衆国では大統領選挙が行なわれようとしています。印刷対テレビ現実の対決であることはまちがいありません。マクガヴァンはいいま-都市は崩壊しつつある、経済は逆行している、人々は死につつある、と。物理的、歴史的現実を話しているのですが、だれも耳を傾けようとしない。ニクソンはテレビの中にだけ存在することについて優れたテレビ演技をやっています。
それで、だれも現実の効果を問題にしないのですか。
だれも問題にしません。まずいテレビ演技だといってマクガヴァンを嘲るのです。恐しいことですよ!現実をごらんなさい。この都市をごらんなさい。いいですか、世界のどんな都市でも、このニューョークのょうに1多数の精神分裂病者が歩いているのを見たことがありますか。カルカッタ、バンコック、リオ-こんなことはない。ここは六階ですけど、音響レベルが高くてテーブ録音がむずかしい。これが現実です。ニューョーク市の音響レベルは人間が発狂する位点に達しています。通りを五丁も 歩けば、狂人が自動車に向かって叫ぶ、紙袋の中に叫ぶ、下水道に向かってわめく、ひとりごとをつづける、そういう光景を見るでしょう。環境が人々を発狂させる文化を私はこれまで見たことがなかった。フロィトは人間関係から生じる危険を心配したが、音響レべルが、ものを考えることができない位点にまでいたるだろうと警告した人はいなかった。 もちろんニクソンはこうした問題にとりくんでいません。彼は「ふしぎの国のアリス」の世界の話をし、国中がそれを楽しんでいる。マグガヴァンは学問のある、田園的な、根本的には十九世紀人間で、なすべきことは人人に向かって、あなたがたは病気で飢えているがまだ助かる、といえばじゆうぶんだと信じている。 | |
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変わって行くために、人生を個人がもっと生きる価値のあるものにするために、環垅を変えよ、というスキナーの論をご存知ですか。
パヴロフは犬について全環境をコントロールしないかぎりどうにもならないことを知りました。それで、環境をコントロールすると、ごくわずかな変化でも行動に変化を与える-この発見をマルキシストが見逃すはずはなぃ。 バヴロフはマルキシストにたいへん人気があった。全環境をコントロールすることによって人間をコントロールするしかたを教えたからにほかなりません。しかし、環境のコントロールということを人々がいい出すと同時にその環境の外に出てしまいます。その環境をあとにして別な環境にはいってしまう。メディアの環境にはいってしまうのです。このニューョーグ市でもっとも目立つことを教えましょうか。この町には耳に栓をしてトランジスター·ラジオを聞きながら道を歩いている人たちが います。私の知っている男で、娘といっしょに歩くとき、お互いに話し合えるようにマイクでラジオ·システムにつながるようェレクトロニック装備しているのがいます。電話とラジオによって精神分析を受けているわけです。
そぅいぅメデイアの力で私たちはどこへ行くのでしよぅ?
人類学者がメディアを扱ったことはありませんよ。
先生は特別な研究をなさったわけですか。
しかしこんな研究は文化に関心のある人類学者にはまるで受け入れられません。人類学者にとってメディアなんてものは存在しないのです。しかし文化を一冊の本の 中につめこむことは平気でやる。 ニューギニアである村に行ったところ、村びとたちはカメラが何であるかを知っていた。政府のつくった映画を見たことがあり、映画に興味をもっていました。私たちが到着したとき、たいへん神聖な式を行なって数名の少年の成人の儀をやろぅとするところでした。女人禁制うで、はいると死刑です。大きな儀式用の構築物を立てました。高さ二十五フィート。成人した男性以外のだれも覗くことができないよぅにしてあるのです。式のはじまる直前-私はそれを撮影してもいいですか、などと、と ても訊けはしなかつたのですが-向こうの方がやって | |
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来て、映画をとりますかというんです。私どもは喜んでとりましようといいました。それから、またやつて来て、われわれのバーティにいた一人の女性のことを訊くのです。彼女はカメラマンですか、という。同行の三人のカメラマンのうち一番うまいのが彼女だと私はいいました。すると長老たちがあつまって、彼女にも撮影してもらいたい、といった。彼女を招いたばかりでなく、式をやめて彼女のフィルム再塡を手伝ったり、カメラの位置によい場所を見つけてやったり、いろいろしてくれ るんです。終わるとサウンドトラックをブレイバックして聞かしてくれないかと頼まれました。そのあと、かならず映画を持って戻って来る約束をさせられました。彼らは もう一つ神聖な囲いを立てて映画を上演する計画をつくったのです。もう自動的な成人式はやめだと公表し、彼らにとってもっとも神聖であるはずの水太鼓を売ってもよいというのです。映画ができればもう少年を成人させる式の必要はないというのです。メディアがとって代わるわけですね。 一年ほどまえに私はあるカナダの大学のオーブン·セミナーに参加招聘を受けました。エスキモーの生活に関するセミナ-で、この催しにさまざまなエスキモーが来ていました。私はエスキモー文化について私が知り、愛しているものや、過去のエスキモー人との経験などについて語った。出席したエスキモーのうちの若い人たちには大憤慨したのがいました。それはゥソだというんです。エスキモー文化とはどんなものか、私に教え出すのですが、彼らはほんとうの経験がないんです、メディアを通 じてしか知らない。彼らの技術の知識は映画を通じ、本を通じ、政府のブロパガンダを通じ、ゥォールト·デズニーの世界を通じて得たものです。最後に一人のエスキモーがいいました-「われわれがだれであるか、何であるか、われわれに教えてくれなくていい。白人のゥソに決まっているのだ。われわれは知っているのだ」と。 今日の怒れるアメリカ·インディアンも自分の文化遺産など何も知っていません。知っているのはメディアのイメージだけです。その役割りを演じて搾取されているわけで、その搾取されかたは先祖の搾取されかたも顔負けです。
アメリ力の黑人は?
彼らは搾取的様相以外に自分の背景など何も知らない | |
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のです。彼らの文化遺產である偉大な音楽、美術に出会ってもわからない。自分たちの民族的英雄さえ知らない。大学キャンバスの黑人にポール·ロブソンとはだれかと訊いてごらんなさい。知らないんですよ。彼らが知つているのはテレビで見せられるアイデンティティーだけで、それを信じ込んでいるんだから、結局彼らはそれ 以外のなにものでもない。
力ーベン夕ー教授、エレクトロニック·メディアが地球の生き残ることに関してどのように影響するか、これを要約していってくださいませんか。大きな問題ですが、テレビの、たとえはこれから三十年先を見越しての影響力ですね、テレビ衛星-合衆国なリ何なりでブログラムされた衛星がインディアン村を教育するというようになったときの。
私はメディアの内容よりもむしろメディアそのものが心配なのです。私にとって、テレビの真の効果とは精神を肉体から離してしまうということで、それは印刷メディアとは違うところがある。ある種のたいへん混み入つた理由があって、印刷の場合、肉体を離れたイメージがあっても、なおかつ、つねに肉体、物理的事物に戻って照らし合わせるという衝動が存在する。テレビその他のエレクトロニック·メディアではそういうことがない。今日われわれはそういう変化を目撃している。つまりわ れわれは西欧文明のエッセンスにほかならぬものを捨てているのです。感觉の同調化やあらゆる経験の同調化というものは一種の密集行進法であって、あらゆるものが単一の目的、単一の目標に向けられた-多数の人々の組織化を可能にしたのです。物の大量生産を、流れ作業を、軍隊を、官僚組織を可能にしたのです。こういうものは読み念きの学問のもとで可能だったのです。なぜならそれは、そういう、高度に限定され、同調され、方向づけられた使い方で自分の感覚、自分の精神を使うょうなタ イプの人間を産み出したからです。 |
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