Seicho no genkai o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
(1973)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
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24 クロード·レヴィェストロース一九〇八年べルギー生まれの人類学者クロード·レヴィ=スト口ース (Claude Levi-strauss) はパリで哲学と法 学を学んだ。一九四九年パリ大学博士となる。 ー九三五年から三九年にいたるまでブラジルのサン·パゥ口大学に教え、その間、数度にわたり中部ブラジルへ民族学的研究旅行を行なぅ。第二次大哦中は二ユーョーク市の二ユー·スクール·フォア·ソーシャル·リサーチに教鞭をとり、ー九四六年ワシントン市驻在フランス大使館付き文化官。一九五〇以来パリの高等研究珥門学校の研究所長。コレージユ·ド·フランスの社会人類学教授であると同時に非読書民族比較宗教学教授を兼ねる。またコレージユ·ド·フランスならびに專門学校の 社会人類学研究所 所長。
先生は『成長の限界』をごらんになりましたか。
まず申しあげなければならないことは仏語訳を統んだということで、仏語訳が原本にじゅうぶん忠実であるかどうかわかりません。私の受けた感じは、ひどく輻輳しています。と申すのは、一方において私はこの報告の目的、目標、楮神というものにまったく完全に同意するものであります。けれども、その提示のしかたは私には冗長でもあり、どうも幼稚なようで、これはいいすぎかもしれませんが、差しあたり、ほかにいいよう、かない。報告が数字や図表に限られていたら、もっとずっとよか ったと思うのです。それらは私の意見ではテキストの坫さにくらべて手ごたえもあり、驚くべきものでもあります。 本文のほうはあまりに敗漫で、ことを单純化しすぎています。
ということは背後の哲学が最高級のものではなかP たということでしようか。
いや、哲学の寂さというわけではありますまい、哲学 | |
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に間題はありません。むしろ表現のしかたです。
批抨家たちは、これがあまりにもアィンシュタィン書簡ふうの、終末の日のお告げのょうな形で提示されすぎているといいました。
私の理解では二種類の批評がありしたね。一つは経済学者や数学者からの批評で、モデルが単純化されすぎている、変数がじゅうぶん多数考庙されていない、などという主張です。私が個人的に感じますのは-もちろん、これはシロゥトの感じですょ、私は数学とか経済の分野での力はまったくないのですからIここにあるのはモデルであることを見逃がしてはいけないということです。『成長の限界』は、現におこりつつあること、将来おこるであろうことを示すなどとは全然いっていないのです。実 験室でつくられたモデルであり、具体的な現実において起きていることを理解するためのものであります。それは、まさに、たとえばヵール·マルクスが『資本論』を、いたときにたどった種類の過程なのです。それは、つねに社会あるいは人文科学においてたどる過程であります。この観点からすれば、このモデルの性格、この本の結果、そういうものはよく了解されるはずだと思います。だから、こういう種類の批評には私は平気です。だが別な型の批評があります。あなたがさっきおっしやった 、終末の曰のお告げというのがそれです。この観点から見ますと、私の感じでは『成長の限界』関係者たちはあまりにも警成しすぎ、あまりにも弱すぎる。状況はもっとずっと悲劇的です、関係者たちが論じているのよりももっとず。と悲劇的だといえましよう。私はもっと打ち明けて申しましよう、なにしろ私が『熱帯のかなしみ 』Ga naar eind〔註1〕という本を#いたのはもう二十年近くも前のことですから-私はまさしく同じ種類の考え、恐れ、警告を表現しようとしたのです。『熱帯のかなしみ』はロマ·クラブがなしとげ得たああいう厳密さをもって述ベておりませんけれども。しかしあの報告を読んで得た私の唯ーの結論は、ああもうこの状況は望みなしだ、報告にスヶッチされている対応策は真に適用され、真に使用され得る可能性のそと、希望的観測の領域にはいるものだ、ということであります。私自 身が世界を見るところでは、現状はこの報告に出ているところよりもずっと 暗いといってよいのです。
先生は『熱#のかなしみ』に「世界は人類なしで始 | |
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まった。そして人類なしで終わるであろう」とも害かれました。これが二十年前ですね。それがさらに悪化したとなると、いったい私たちは子孫に何といったらいいのでしょう?
ニつのまったく別種のことを区別しておかなければいけません。私がその文を書いたときには現在の世界の苦しみや困難を特に考えていたのではなく、だれの目にも明白な事実を考えていたのです。永遠に生きている種がないならば、あらゆる生きている種に始めがあったし、終わりがあるであろぅ、もちろん人類も終わるであろぅ、地球自身も終わるであろぅょぅに、と。
それは、つまり、太陽が地球を焼いて-
ええ、しばらく経ってからの話です、ずっとずっと後 の話です。私たちにしても、私たちの子どもの世代にしても心配することはないわけです。今から何十傲年したら地球がなくなり、人類がなくなるであろぅなんてことは何といっても、これは一つの哲学的要因にすぎません。物事を考えるに当たって一つの手助けになるのです。だが、これと、人類がじつさいにたどつて来た道が終わりに行きつくのではないが、大きな規模の悲劇、破周にいたり得る、おそらくいたることは確実であろうというのと、このニつは大違いのことであります。
ヒロシマ以上の破局でしようか。
まあ、あれほど不意でもないし、あれほど残忍でもないのでしょうが、もっとずっと悲惨でしょう、世界の人ロがどんどん增えて行くのですから。それは報告の数字を見るだけでたしかなことです。生きて行くことが、すでに多くの場所においてそうなっていないとしても、まもなくまったく人間の数という理由からだけでも、耐えがたいものになるでしょう。それは何十億人だか知りませんが、その人口を養うだけの食物を見つけるという人間資源の問題にとどまりません。たとえこの問題が解決 したとしても-解決するとは思いませんが-解決したとしても、あらゆる生存中の種と同じく人類にも敢適生存密度があるという亊実はどうにも変わらないでしょう。そしてこの密度は低すぎてはいけないこと、もちろんの話で、低すぎればコミュニヶーションがなくなり、沈滞 (スタグネーション) という結果になり- | |
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均衡が必要ですね-
そう、密度と多様性の最適度が必要です。いまぉこっていることは、自然資源のことは除外しておいても、大都市や未開発諸国、人口過密地域などに行けばわかりますが、人々がじつに近接して来ている-簡爭にいってしまえば、ー人一人が仲間に対して脅威となり、邪魔となる段階に来ているということであります。
心理分析学者のリフトンは、社会が何世紀にもわたって強化して来た古くからの行動が、それをつづけるかぎり、われわれを減ほすであろうといっています。つまリ人間行動を再段計しなければならないというのですね。スキナーは人生を生きる価餹のあるものにするために環垅を再設計すべきだといいます。
し力してきます力。てきるのてす力。まつたくユートビア的じゃありませんか。人間行動を再設計することが可能ですか。そりゃ希望しますよ。何らかの自然過程を通じ、ある撺の、均衡をもとめる自然の必耍を通じ-そういうものはまったく私たちの知らない働き方で働き、その存在を意識していないわけですがIそういうことが自動的におこつてくれればよいと希望します。しかし、それをあらかじめ考え、それをやろうと決め、それに成功するなんて、とても考えられません。そのためには十分な 理解と善意のある世界を考えるか、ある棟の至高権威があつて全地球を統治することができるような世界-もちろん、これが良い結果ばかりもたらすか、恶い結果ばかりか知りませんがーを考えなければならないでしょう。いずれにしても予測できる現実の話というよりは 夢の領域の話です。
毛沢東は、八億の中国人のプロヴラミンヴに成功した、何らかの下部構造的社会秩序を社会に配置した、と感じられますか。
さあ。私は中国亊佾にあまり通じていませんのでね。 ありそうなことではある。同時に、私たちの多くが中囯で計画されているたぐいの生活をあまり送りたくないと思うこともありそうなことです。
中国における贫困な環境を考えてみると、今でも中国の贫しさというものはたいへんなものだとモラヴィアが中国から帰つて来て私にいいました。時代精神が毛のやつたような厳しい形で中国の心的構迭の動貝を | |
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-物質経済のみにとどまらず-要求したのでしようか。厳密なプロヴラミンヴが唯一の解決だったのでしようか。
中国は必要としていたのかもしれませんし、世界ぜんたいが、たちまちのうちに必要とするんでしようが、だからといつて世界がたいへん楽しいところになるわけではない。悲惨な必要かもしれません。希望してもとめるものでないことはたしかであります。
トィンビーがいったことですが、ローマ皇帝はときどき、緊急辜態になると独裁制に戻ったものだが、博愛的な種類の世界運営のための独裁が結局は必要かもしれない、と。
しかし問題は、何らかの独裁に戻るということは、それが右翼陣営からであれ左翼陣営からであれ、現在の私たちの立場からすればどうでもよいのですが、これは伝統的な国々においてなら考え得ることですけれども、それを世界的規模において、問題解決をもたらすため必要だとして考え得ることでしようか。なぜなら、多くの国々が右翼的危機に瀕し、独裁に戻るとして、おそらくおこるであろうことは、この独栽がいくつかの独栽国のあいだで衝突するということで、私にはこれが一般的かつ 相互的理解への道であり得るとは、とうてい思えないのです。
ラテン·アメリカの原住民を研究なさって半んだもっとも大きなものは何ですか。嫌遜心でGa naar margenoot+すか。
嫌遜心。いや、そういうことばよりも、むしろ「控え目」ということばを逸びたい。じじつ、ひじように限られた量の仕事をするだけで満たされ得るひじように限られた必要しかないから幸福に生活する人間のグループでありまして、私たちの現代社会よりレジャーの時間も相当に大きいわけです。何よりも、そこでは人間ないし人類が地上の主人、支配者であるとは考えないで、世界秩序のなかの限られた役割りを分担し、その世界秩序は、他の形式の動物生命のもつ分担、植物生命のもつ分担な どを重んじることによってのみ維持され得ると考えるのです。これは控え目という一つのヒューマニズムで、それに対し私たちのヒューマニズムは控えることのないもの、釣合いを失ったものになってしまいました。それは人類のことばかり考えて、人類の利益も、他のあらゆる地上の生命 | |
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の利益も犠牲にしてしまうからです。
ええ、先生は人類こそ人類最大の敵だといわれました。人間以外の自然-生きとし生けるもの-はどのような生き残り方をするでしょうか。
生き残らないのではないでしょうか、私たちの必要とする少数種の植物か動物を除いては。私たちはネズミは 必要でありませんが、家畜を必要とします。ムギとトゥモロコシを必要とします-ただ、いわゆる緑の革命な るものを進めて行って、限られた稱を淘太していれば、そうしたものは、とりわけ虫害や病害にかかりやすく、長いあいだには滅びることになるでしょう。
先生のなさったような絶減した社会の研究は人間精神を理解する助けになるでしょうか。最終的には、いかに精神Ga naar margenoot+を扱うべきかを学んだ場合にのみ、私たち、生き残るだろうと思うからうかがうのですが。
さあ、助けになるかどうか。でも、まあ、たしかに唯一の、もしくは主要な方法でしょう。一方の人間ないし社会科学と、他方の、物理ないし自然科学には大きな違いがあります。後者の場合、実験室で灾験することができますが、人間社会を実驗することはできません。あまりに高くつくわけです。時間がかかりすぎるし、その他いちいち述べる必要のない多くの理由があります。 それでレディ·メードの実験をもとめざるを得ません。それが人間の苦難に科学的にアブローチする唯一の道です。レディ·メードの実験を構成するのが、こうした社会、いわゆる原始の、つまり私どもの社会とはまるで違う社会で、そこへ出かけて行って、仮説をテストすることができるのです。こうした社会が完全に消えてしまうのも遠い先ではありませんが、そうなると私たちにはただ一補傾の人間突験しかできなくなる、つまり私たち自身の社会が用总するものだけに限られてしまいます。 こうした比較をしたり、人間経験、人間能力の全長をはかったりすることは不可能になるでしょう。
ブラジルのインディアンと仕辜をなさったとき、先生がじつは実験を行なっているのだとインティアンは 感じたでしょうか。
それにお答するのはむずかしい。と申しますのは、じっさい、いろいろな場合があるのです。たしかに人類学者の目的、目標などにはまったく無関心なグルーブもありま | |
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して、贈り物がもらえるから、何らかの利益があるから、客として許容しておくにすぎないというのもありました。しかし何回か会ったのですが、いわゆる原住民で、人類学者のフィールドヮークの目的を完全に意識しているものがありました。それは、彼ら自身が、人類学者の生活や沔惯だけでなく、自分たちの社会の生活と習惯に興味をもっていたからなのです。同じことは十九世紀末期のアメリカ合衆国でもしばしばおこりました。インディアンが自分たちの文化が終わりに近づいているこ とをょく知っていて、もし記録が残るなら、何かが残るなら、品物だけでなく、信仰や惯習をも残すために人類学者と協力するという場合があったのです。昔の俏侣の文献で試みられたケIスもあります。自分たちはおそらく種族の敢後の見本であろうと思い、彼らの知識も、その祭式の道具もともに博物館に収納され、自分たち自身の世代の未来のために残されることに疑いもなく関心をもっていたのです。ですから、ご質問に対して簡坩な答は 出て来ません。
レヴィ=ストロース教授、現在ブラジル政府がアマゾンの森林を伐採しているやり方は、それ自体、一種の生態学的ヒロシマと称すべきものだ、とストックホルムの会議でいっていますね。
それはまことにそのとおりで、それも今なお比較的に外の世界を知らない小部族について起こっているのです。比較的に、ですよ、現在の世界にまったく外界を知らない部族などありませんから。新しい道路政策によって、ブラジルのインディアンはたしかに滅亡の運命にあります。この民族は多く移動耕作をし、自然の食物をあつめ、狩をし、生き残るためにぼう大な踏破地域を必要とします。彼らの歩きまわる自由が制限されれば、彼らは消滅するでしよう。しかし、この政策はインディアンに 対してだけ危険なのではありません。全人類にとって危険なのです。なぜなら熱帯林は一度破壊されると再生できないものであることを忘れるわけにいきません。破壊されればそれっきりです。二度ともとに戻りません。私の理解に誤りがなければ、気圈中の相当量の酸素はアマゾン森林から発生しています。ということは、もしアマゾン森林が破壊されれば、全人類の酸素供給が脅かされ るのです。 | |
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科半者はこの状況をどのように動かすことができるでしょう?ブラジルは生態学のために経済成長を傷つける気にならないでしょう。
科学者には何もできないのではないかと思います。ブラジルのような国が未開発国のままでいたいとは思わず、さっさと完全に工業化した国に発展しようとしていることは十分理解できることです。これはじつによくわかります。私には非難することもできない。いまおこっていること、これからおこるに違いないことのために私たちは災害と破局の瀬戸ぎわにいる-現代世界の悲劇としかいいようがありません。
ス夕ンダールがかつてナポレオンについて書いているのですが、サン·クリー宮廷の女性たちは偉人というものを鷲にたとえ、高く飛んで行けば行くほど見えにくくなってしまう、「彼は偉大さの代償として魂が孤独になってしまうのだ」といったというのです。先生は、ー生と仕事を、地球という惑星の最後の森林に住む人種への愛情をかえりみるとき、人類や生命について、どうお感じになりますか。
生まれて来たことがひたすら残念です。私の生まれた世紀に生きなければならないことが。一世紀ないし二世紀まえに生きれたらずっとよかった。さもなければ新石器時代の昔に生きられたらよかったのですが、まあ、生物学的亊故ですね。
しかし、その時代ですと人民はパスチーユを襲擊し、マリー·アントワネットはギロチン上に消えてい ますよ。
ああ、それなら、フランス革命のすぐ前か、すぐ後に生きていることを選んだでしょぅ。 |