Seicho no genkai o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
(1973)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
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15 レオナルド・ロス、ピーター・パッセルレオナルド・M・ロス (Leonard M. Ross) 氏およびピーター・バッセル (Peter Passel) 氏との対談は同時に行なわれた。というのは、両氏は、一九七二年四月二日の『二ユーヨーク・タイムズ・ブリク・レビュー』第七部で(もう一人、コロンビア大学の経済学教授マーク・ロバーッも一締に)、『成長の限界』『ワールド・ダイナミクス』および『アーパン・ダイナミクス』に対する徹底的な批判を行なったからである。 レオナルド・M・ロス氏は一九四五年カリフォルニア州ロサンゼルスで生まれた。ピーター・バッセル氏は、ロス氏と同様、コネティカット州二ユー・ヘブンのイエール大学で学んだ。ロス氏はイエール大学の法学部を卒業し、バッセル氏は一九七〇年に経済学の博士号を得た。ロス氏も現在、イエール大学で同じく経済学の学位論文を執筆中である。 ふたりともコロンビア大学で教鞭をとっている。最近、共著『豊かさとその敵』“Affluence and Its Enemies” The Viking Press,New York (1973) を出版した。
■ロス教授-
ロス教授、あなたは『成長の限界』の批判者の一人でしたね。例えば、ニューヨーク。タイムズに批判を書いておられまずね。
われわれが基本的に感じたことは、それは大胆で野心的な試みではあるが、まことに否定的な結果しか生まれなかった試みであったということです。それはちゃんとした学問的研究といえる水準にはおよそ達していませんし、したがって、再版するよりは作業し直すべきだとわれわれは考えました。
ええ、しかし、あなた方はあの本の著者たちのPRのうまさについてふれていらっしゃいますが、あの仕事に参加した人々について私が知うている限りでは、 | |
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彼等は最初の地球モデルを創り出すべく、とても真剣に取リ組んできました。
われわれが批判したのは、科学的批判を可能にするように作業の裏付けとなった資料を提出することもしないで、結果だけについてまことに統一のとれた宣伝の弾幕を張りめぐらすというやり方をとった点です。およそ真面目な科学的研究というものの通常の手続きは、ある期間はその結果を専門的な批判と吟味にゆだねることです。その後で世界的な宣伝をするのもけっこうでしょう。われわれの批判は、宣伝そのものよりはむしろ、宣伝の方がその裏付けとなっている研究よりも重要だとしたそ のやり方に、向けられていたのです。
才ランダでは特別なPRのためにお金を使う必要は全くありませんでした。あの報告書は、そのまま販売ルートに乗せられただけですが、それでも直ちに世論に激しい衝撃を与えたGa naar eind〔註1〕のです。それはともかく、フォレスターGa naar eind〔註2〕やメドウ ズGa naar eind〔註3〕が用いた形のシミュレーション・モデルに対するあなた方の反対諭はどういうものですか。
われわれは、一技法としてのシミュレーション自体には反対していません。それは自然科学でも、またかなり厳しい制限付きではありますが、経済学でもともにたいへん価値があることがわかっています。われわれの反対はシミュレーションをしようという考えに向けられたのではなくて、あの『限界』モデルのすべての計算機のランの基礎にある一対の仮定に向けられたのです。あのモデルでは、よくないもの、つまり、環境や汚染度や人口増加等々に負担をかけるものはすべて、幾何級数的に成 長すると仮定されています。他方、それらの負担を軽減しうるもの、つまり―よいもの―例えば適切な技術進歩―は幾何級数的には成長しないと仮定されています。『限界』は、汚染防止技術の可能な最大限の改良によって、生産物一単位当りの汚染排出量が七五バーセント削減されると仮定しています。しかし、それは一回限りの削減です。その削減がなされた後では、事態はもはや改善されえない、とされているのです。ひとたびそのような仮定をすれば、純数学的帰結として、幾何級数的に成長 しているものが、何倍かにはなれるがそのような増加は一回限りしか生じえないものを、遅かれ早かれ圧倒することになり、もはやそれ以上には成長しえなくなると | |
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いうことにならざるをえないのです。したがって、そのような仮定には、世界システムの崩壊という結論があらかじめ組み込まれていることになります。もしも、その仮定自身が正しいのであれば、そういうやり方をしても一向にかまいません。しかし、汚染防止技術の最大限の改良度が七五パーセントだという仮定は、全くナンセンスです。事実、それには何の根拠もありませんし、あの本にはそれを支持するどんな事実も示されていません。さまざまな種類の汚染に対して、現在の技術でさえ 、汚染を七五パーセントよりずっと多く削減することができます。現在欠けているのは、神秘的で思弁的な突破口なのではなくて、単なる政治的な決定なのです。とはいっても、正しい政治的決定が必ずなされるといっているわけでありません。汚染に対処する政治的行動が取られうる速さに関しては、われわれも、『限界』のチームと同じくらい強い関心をもっていますし、また彼らの悲観論 の多くを共有してもいます。しかし、人類が汚染を止めるという政治的決定をしなければならないということと、人類が生産を止めるという政治的決定をしなければならないということとは、別のことです。後者は誤った結論(Nonsequitur)であり、前者は絶対的に正しいことなのです。『限界』が発した唯一のメッセージが前者でむあったとしたら、われわれも拍手喝采するのですが。
あなた方が反対しているのはその誤った結諭なのですか。
ええ。生産を成長させれば、これらの問題が必然的に大きくなっていくという仮定、したがって、問題を解決するには生産の停止以外に途がないという仮定、これにわれわれは反対なのです。われわれの考えでは、成長自身が......。 いわゆる成長経済からサービス経済への転換ですね。
まあ、それは実際には付随的な議論なのですが。『限界』の著者達の場合、その論点にはほんのついでにふれているにすぎません。それは、『限界』の著者達とは別の人々にょってもっとはっきりと示唆されている論点だと思います。
サミュエルソンGa naar eind〔註4〕教授も、サービス経済については語っています。 | |
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ええ。将来の成長は工業製品よりサービスの方に向けられるでしょう。もっとも、このことは、予言としても事実の記述としても、低開発世界よりも先進世界に一層よくあてはまることだと思います。カルカッタの町の歩道で寝ている人たちが必要とするものは、サービスの成長では必ずしもなくて、もっと多くの食料と頭上の屋根なのです。それには一定の工業生産が必要とされるでしょうし、また世界の数十億人中の大多数が直面している絶望的な貧困を現実に緩和するには、工業生産の実質的 拡大の段階を経過することしか望みがないのです。工業生産がひどい緊張を生みだしうるものであり、またこれらの緊張を処理するためには政治的行動が緊急に必要であるという点では、『限界』の著者達に全く賛成です。しかし、このことは工業生産の機構そのものを全面的に停止させるための政治的行動が必要であるということとは、全く別のことなのです。
しかし、彼等は均衡を強調していますが。
彼等はゼロ成長を目標としています。彼等は富んだ国から貧しい国への富の再分配について語ります。我々も大いにその目標には賛成しますが、そうしたことがおこるだろうとは考えられません。イギリスの労働党政府やアメリカのニュー・ディールについての研究が行なわれていますが、その示す所では、これらの社会革命と考えられているものでさえ、所得分配の面では全く何らの変化も引きおこしませんでした。ティトマスその他が行な った最近の研究によれば、労働党政府の二〇年間に、っまり、福祉国家の成長と成熟の見られた二〇年間に、階級間の相対的所得分配率の純変化はゼロでした。ニュー・.ディール下のアメリカについても、同じことがあてはまります。ですから、この種の西欧世界でも最も進歩的な社会運動の先例からしても、アメリカ人が、インド人の生活水準を一人頭二〇○ドルに上昇させるために、自分達の生活水準を一人頭五〇〇ドルに削減することを突然思い立っだろうと考えてよい理由は、ほとんど見い 出されません。この種の提案がどれ程すばらしいものであろうと、世界がそんなふうに動いたことはいまだかつてないのです。
『成長の限界』は、なされうる新発見を考慮に入れずに、エネルギー資源の有限性を誇長し過ぎていると思いまずか。 | |
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将来を予測するための基盤などないことは確かです。核融合の開発によって、膨大な、恐らくは非常に寮価な動力供給源が切り開かれる可能性は、明らかに存在します。また、そのようなことがおこらない可能性も明らかに存在します。われわれは在来型の燃料によって引きおこされる汚染の問題や、いずれはそれも枯潟するという問題を忘れているわけではありません。しかし、現在のエネルギー源の存在量を疑いもせず、そのまま将来に投影して考えることには、何の根拠もないのです。過去に おいて、世界がそのように動いたことは一度もありません。少なくとも歴史的には、いつも何か他の源泉があらわれてきました。
技術も幾何級数的に成長するという微候がありますか。 今日なされている最良の研究は、そのことを示しています。卜ービンとノードハウスGa naar eind〔註5〕は現代における生産関数を推計しました。その結果、技術とエネルギー源の生産性との幾何級数的成長を見い出しています。トービアとノードハウスのものを含めて、どんな計量経済学的推計も、それに基づいて二〇年ないし五〇年先を予測することは危険なのですが、それでも『限界』の著者達の無思慮な投影よりはましだし、健全でもありましよう。
ロバート・S・マクナマラGa naar eind〔註6〕はストックホルム会議で、先進国は貧しい国が汚染と戦うのを援助するために〔GNPの〕二ないし三パーセントは出せようと述べましたが。
私は再分配に賛成ですし、また、先進国の側が低開発国にもっとずっと物惜しみしない態度をとることに全く賛成です。しかし、海外援助のためにGNPの一パーセントを出すという目標さえまだ一度も実現された二とがありませんし、アメリカではそれをますます下回っていくばかりです。ですから、新たな研究や緊急を要するという新たな呼びかけによって、過去に実現され得なかったような気前のよさが突然引き出されると考えられる理由に何もないのです。
しかし宣伝による以外に、政治家を行動させるどんな方法があるのですか。
繰り返しますが、われわれが反対したのは宣伝それ自体なのではなくて、宣伝が緊急に必要だとされたことの | |
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内容についてなのです。宣伝が汚染に反対し、所得の再分配や低開発国への援助に賛成することに向けられているだけなら、勿論われわれは異議をとなえないのですが。しかし『成長の限界』の宣伝は問題の解決とはいえない提案の中でも最悪のものに、つまり、世界の贫困を救済する可能性のある生産機構にスバナを投げ込んでとめてしまぅことに、向けられているのです。
フォレス夕ーのモデルとメドウズのモテルとを較べた場合、フォレス夕ーの地球モデルの方が少しは望みがあるとあなた方はいっておられますが。
フォレスターも同じ方法論を使っていますが、恣意的な仮定の内容が少し違っているために、それほどひどくない結論に達しています。もっとも、どちらの場合も、その仮定があまりにも頼りないものであるために、結論 は無価値だと思います。
ハンス・リンネマンをチーム・りーダーとするディンベルヘンGa naar eind〔註7〕のグループが、現在オランダで、ローマ・クラブの第二世界プロジェクトの仕事を寸すめています。
ティンペルへンは勿論、世界の最も著名な経済学者の一人です。私は彼のモデルをょく知りませんがそれはフォレスタI“メドゥズのモデルとは全く違った企てになるだろうと確信しています。 バッセル教授― 私の主な反対は、从I 丁のブ0ジヱクトが演鞸論理の演習にすぎないという点です。つまり、その結論は全てはじめの仮定の中に組み込まれています。ですから、最初から全く見え透いている結論に連するのに、莫大な姓 の似而非科学が用いられているのです。
ルーレットに仕掛けをしておく (fixing the wheel) というやつですね。
ええ、まったくその通りです。悪いものが幾何級数的に成長するという仮定と-彼等がいつも言うように-良いものは線型の成長しかないという仮定から出発すれば、結局は悪いものが良いものを追い越すでしょう。だから、崩壊が不可避なものになります。 | |
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だから結果が都合の悪いものになるというのは、誤つた結論なのですね。
その遁りです。そのプロジェクトに参加した人々が心で何を思っていたのか知りません。自分達のやっている二とはわかっていた上で、イデオロギー的熱意から自分が正しいと信じている危険のことを宣伝しようとしていたのか、それとも、素朴に自分達は科学的なんだと信じていたのか。 このことは、経済学者達が自分とは違った専門の人たちに問題を理解させることには失敗している、ということを証明するものです。あのプロジェクトの父であるフオレスターは明らかにとても頭の良い人です。フォレスター自身が、このことを証明してくれたわけです。『ワ-ルド・ダイナミクス』やフォレスターの他の書物の中でなされた種類の誤りは、経済学者の基準からすればとるに足らないものであり、大学院の学生が期末試験で可をもらうような種類の誤りなのです。ですから、あのプロ ジェクトには実に悲劇的な面があります。多数の有能で献身的な人々が、時間を無駄にしていたのです。
MITチームには経済学の基本を知っている協力者がいなかったということですか。
ええ、まさにそういうことです。彼らに欠けていたのは、単純な初歩の経済学、つまり、アメリカの大学では経済学部学生が教わるていどの経済学の知識です。
しかし、それだけでは十分ではないでしょう。
基本的な間違いを見てとるには、まったく十分です。『限界』には中級レベルの価格理論になじみのある人なら誰でも気づくだろうと思われる誤りが二箇所あります。価格に言及することなく稀少資源の配分について語ろうとしている点が、とくにいけません。
地球規模の世界モデルが必要なことは確かだとすれば、この最初のモテルをどうやって改善し、拡張していったらいいでしょうか。
そうですね。どちらかといえばわれわれにあのモデルの拡張はしたくないのです。むしろ、モデルの構造を単純化したいと思っています。多分、コンビュータなんか、使う必要もなくなるでしょう。われわれがしたいと思う | |
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ことは、経済学からの実質的な投入をもっと多くして、システムズ・アナリシスの側からの投入をもっと少なくすることです。私が考えているのは、ノードハウスとトービンの論文のようなもののことです。あれば、世界の資源の基盤に今日何がおこっているか、また次の五〇年ないし六〇年に何がおこるかを見ようとするずっと保守的な試みです。そのさい、主として用いられているのは、経済学的理論であり、エコノメトリックスやモデル作りといったことは二の次です。作業の大半は、問題 を注意深く組み立てることになければなりません。推計がとても面倒なものの推計値を長々と並べたてたり、関係式の形の指定を誤ればプロジェクトそのものが無意味になってしまうようなモデルを恣意的に作ったりすることではないのです。この種の問題に対する最も効果的なアブローチは、ノードハウス=トービン流のものです。あたかもその種の問題そのものが存在しないかのような扱いをしているわけではありません。確かに問題はあるのです。メドウズやフォレスターが示唆しているように 、一〇〇年後には資源基盤が恐ろしく減少しているかも知れません。『成長の限界』があるかどうかがわかれば、確かに非常に役立ちましょう。
大西洋の反対側から飛んできた私のような外部者には、ノードハウス=トービン・チームとフォレスターの=メドウズ・チームとが合流して新しいモデルを組み立てればとても面白いだろうと思えるのですが。
さあ、潜越なことかも知れませんが、フォレスターのグループの人達が提供しうるものが多くあるとは思われません。彼らの特殊な技能が本質的に経済学的な分析において、重きをなすとは思いません。彼らは、少くともその間題に公衆の関心を向けるという役割は果たしたかも知れません。しかし、フォレスターの技能はシステムズ・エンジニアリングの面にあるのであって、経済学にはありません。そして、近い将来に関するかぎり、社会科学のほとんどの分野について、システムズ・アナリシ スの効果的な応用は望みうすだと思います。 |