Seicho no genkai o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
(1973)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
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14 ルイス・マンフォード著作家ルイス・マンフォード(Lewig Mumforord) は一八九五年ニューヨーク州フラッシングに生まれた。ニューヨーク市立大学ならびにコロンビア大学で教育学を勉強。著作中もっともよく知られているのは、『都市の文化』(一九三八年)、『人間の条件」(一九四四年)、『機械の神話―第一巻、技術と人間開発。第二巻.権力のベンタゴン』などである。 一九七二年に、マンフォードは全米文学賞を授与された。
ジョン・グレン宇宙飛行士が地球に戻って来たとき、「人類に跡を継がせよう」といいました。『成長の限界』はまきにそれを主張するものです。
それがおそらく最初からぼくの考えの中にあったと思う。一九三八年に『都市の文化』を出版したとき、当時の人口統計がそのまま続いて行くだろう二とばもちろんだと考えました。オランダを例外として主要西欧諸国に旧来の成長率を失っていた。オランダ以外の国はいずれも遅くとも一九七〇年か一九八〇年には人口が均衡することを予想していた。だから『成長の限界』はぼくには格別新しい考えではない。そういうのが新しい種類の文明をつくる上の基盤にほかならないと感していました。 一世紀半にわたり、われわれは人口増加に頼って産業拡張と財政利益を確保してきた。あまりのせき立てられかたで、あらゆることをあまりに速く、量的にあまりに多くやって来ました。
しかし、それが一九三八年のご意見なら、この半世紀間に、より多く管理された産業成長、人口増加というその目的達成に向かって、人類はどの程度進んで来たと思われますか。
避妊具の知識がひろまった点では大きな進歩です。こ | |
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れははじめフランスでおこった。フランスでは十九世紀に百姓でも避妊具の使い方を知っていた。上流階級からいかに人口を制限するかを学んでいたのです。フランスは第二次大戦の前にほとんど安定していた。しかしその逆が産業成長についてはおこった。今までに例のない規模の戦争と浪費がこの種の成長を過度に刺激したのです。
べネズエラなどにおける三パーセントほどの人口急増というふうなものに対しては世界人口委員会というふうな管理機構をおいて、地球を紀元二千年に向かって住む価値のあるものにしていく必要があるとは思いませんか。
それは紙上の解決にすぎません。真の問題は割り当てられた時間内に教育によってどのくらいのことがなされ得るか、です。ただ法律を通し警察に調べさせて、それで単純な人々の性生活をコントロールするわけにはいかない。何かほかのやり方を考えなければなりません。過去には通例これは宗教によって行なわれた。今われわれはそのようなコントロールがありません。そういうコントロールは時がたつにつれて弱くなるばかりです。やらねばならぬことは、それが性交をしたり、子どもを育て たりするのと同じに大衆にかかわることだという基本で、みなに訴えるのです。この問題に簡単に答えることはむずかしい。よりよい円満な生活、というふうな一般的な表現しかないわけです。
あなたが「権力のペンタゴン」Ga naar eind〔註1〕とよばれるものの基本概念をお聞かせ願えまし占うか。
「権力のペンタゴン」の基本は権力、金、快楽に無制限にかかりあうことです。すべて自然の欲求には限度があって、間もなく限度に達する。しかし権力とか金の獲得にに自然の限界がない。それが良識をもって社会的に、または個人的に使用されるか否かにかかわりなく、ね。金が現代社会で演ずる心理的役割りには奇妙にも最近発見された、脳の中の快楽中枢に似たところがある。快楽中枢に電極をつないだサルは他のあらゆる生存の必要を忘れ、餓死にいたるまでもひたすらこの快楽刺激の時 間を長くし、強化することばかり考える。同じことがいえる-われわれの現代の、もっと物理的エネルギーを増やそう、政治的コントロールを増そう、軍事力を、個人の力を増大しようという衝動について。これが地位、特権、 | |
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名声、評判といった形をとり、そればすべて金という抽象的シンポルに換算可能なのです。このゆえに世界中いたるところ環境が掘り返され、ブルドーザーをかけられ、破壊される。すべて「快楽のため」つまり金のためです。 さまざまなものがこれには関係しています。第一にエネルギーそのもの。これは根本的な意味において力です。あらゆる社会の基本です。この基本を排除するのではありませんが、これが人間社会で唯一の重要因子だという考えを排除することはできます。力の拡大が人間の主要事ではない。人間は適時に適所において適量の力を必要とするのであって、だから必要に応じて力を増減する能力をもたなければなりません。 力の神話があらゆる大規模な社会を五千年間支配してきました。どの国家も、国家生命を力の増大という考え方で見る。それはつまり、他国と戦い、勝ち、搾取する能力を増大することです。これが非理性的因子であることは明瞭です。次に、権力のペンタゴンの別な部分に、宣伝機関をインフレ化する圧倒的必要というものがある。現在われわれは、それをラジオ、テレビ、広告を通じて行なう。われおれの生活の時間がしだいに宣伝を通じて他人の注意を惹くことにうばわれていく。これはかつ て王の大きな特権であった。王の宮殿とか記念碑とかは広告の道具で、自分にどれほど力があるかを示した。あなたが大統領である、独裁者である、音楽指揮者である、テレビ・スターである、とすれば、あなたのイメージは毎日いたるところに現われる。今や世界的規模のコミュニケーションがあるわけですから。ただの人もこれに溺れている。犯罪が行なわれていることは間違いない、ただ自分に注意をひこうとして-
-オズワルドGa naar eind〔註2〕やブリーマーGa naar eind〔註3〕のような?
ーごく最近の気ちがいが、ただ新聞記事になりたいというだけで、逮捕され、処刑されるのを覚悟の上で人を殺している。
あなたは、マーシャル・マクルーハンはエレクトロニック幻想だということをいろいろおっしゃっています。「われわれはエレクトロニック誘導マッサージの精神病にかかっている」と考えるマクルーハンに賛成なさらないのですか。
そういうものに屈従せよという彼の考えに反対です。 | |
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彼はひじょうにデタラメな考え方をしますから、しょっちゆう矛盾したことをいう。ぼくは最近のマクルーハンを追おうとしていませんから何をいっているか知らない。が、ぼくの知っているマクルーハンはーぼくはずいぶん昔から彼を知っていますがー人間の真の生活はいまや人間の外にある、人間がつくり出した機械の中にあると感じ、人間はそれに屈従すべきである.それを自分の宿命だと考えるべきであるという、そういうマクルーハンです。ぼくはそれと正反対の立場です。
じゃ、人間の個性にまったく違う重要性を与えるのですね?
ぼくの考えでは、人間性のいちばん重要な部分、あらゆる生きた有機体の根本的事実は、自律性ー自らを治めてい、自分に独自の成長のしかたがある、自分なりに環境に関係づけを行なう、その生命が内部から生じるのであって、外部からだけではないのだ-ということです。もちろん外部に存在するものすべての影響を受けますけれども、どの有機体にも何かそれを自分に向いたものに変える力がある。今おこっていることを読んでいると、われわれはだんだん、われわれの重大な活動をさまざまな 有機体まがいの機械のほうに移してしまっている。機械はそういう活動をより有能に行なうことができますが、しかし、つねにだれかほかのもののコントロールの下にある、われわれのコントロール下ではなく。
テレピも含めてですか?
そう、テレビも含めて。
しかし、その災難といったらよいような影響力を否定なさらないでしょう?大衆はー子どもまでもーー毎日毎日テレビにしがみつき、愚にもつかぬものを見せられているのです。
そう、これは一種の自殺です。それは大衆組織のニセの生活に対して行なわれているー日々の自殺です。テレビの支配下に自分の生活をこちらの組織あちらの組織に引き渡すわけで、自分の生活はだんだんカラになっていく。何らかの形の麻薬の刺激がなければーテレビは最も安価で最もありふれた麻薬にほかなりませんがーこの殺心剤がなければ生きるに堪えぬ。この現象の下にはひじょうに深い自殺傾性があります。発展しようとすることをやめ、人生すべて空しいという傾向です。文学 | |
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においても、絵画においても、今の前衛がいっているのはみなそういうことです。
無方向性のア゛イスぐつエンチフド社会ですね。この深渕をどう抜け出したらよいでしょう。
そう、その答は、今もなお多数の健康な人々が働いていて、生命に向かって方向づけられている。新しい子どもが生まれるたび、可能的には生命に方向づけられた人ができるわけです。すでに変化の始まりが見えます。二つのことが同時におきている。一つは否定的なもの。あらゆる伝統的な生命創造的習慣や機関を、われわれの生命をコントロールする大きな官僚的、軍事的組織-権力のペンタゴン-にゆずりわたすのです。他方、若ものの多数には自律性をとりもどそう、一人で考えよう、独立して 行動しようという試みがある。そのやり方は粗末で子どもっぽい。なぜならひじょうに狭い自我を考えているのですから。自分たちの知っている情けない五年間文化の枠で考えている。それではまるで物は考えられないのだということがわからないのです。旧石器時代の発見物を使わなければ考えることはできないのだということがわからない。それは言語とよばれる発見物で、少なくとも五万年前の発見、もっとずっとさかのぼるかもしれません。つまり、彼らは過去を切ろうとしている。それでは 未来をもてません。真の生活には常に過去と未来が心の中で共働していなければならない。過去は否定することができませんし、完全に消すこともできません。遺伝子と同じです。過去はわれわれの遺伝子の中に存在する。遺伝子を消し去るわけにいかない。遺伝子は良かれ悪しかれ、われわれとともにあるのです。歴史についても同じことです。
マンフオ-ドさんは地球全体が一つの村であるという考え方に意味を認めないのでしょう?
イエスでもありノーでもあります。マクルーハンのずっと前にぼくは、ある種の目的のためには「全地球が一つの都市である」といっています。村ではない、都市です、最も高度な広範囲のコミュニケーションの手段としてです。しかしそれは高度な教養のある、訓練された少数が対象です。今日それは主として科学者ということになりましょう。狭い村の正反対になります。その人の言葉を話せなくてコミュニケーションが成り立ちますか。イメージでもコミュニケーションはできません。なぜな ら | |
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トルコでは首を左右に振ることがイエスで、たいがいのヨーロッパ文化圏では上下に振ることがイエスを意味するからです。ある種の限られた目的にのみ「地球村」は成り立つでしょう。生活の豊かさは村では成就したためしがありません。じっさい地球村ではひじょうに原始的な、ひじょうに基本的な文化しかできないでしょう。最も原始的な村にもあるような人間性も存在しないでしょう。
あなたはよくトインビーを論じ、非物質化の過程を語られます。それは『成長の限界』と似ています。物質的利益、権力穫得のための気ちがい競争をやめて生活の質を向上させようというのですから。あなたのお考えにな非物質化とは何でしょうか。また、それはどうやって成就するものなのですか。
ええ、それは物品の需要を必要量に限るということで、地位を与えるような量、利益や権力を与える量ではなくて、生きる上で必要な量に限るのです。アメリカのどんな郊外でも行なわれているひじょうに単純な例をあげましょう。たいていの郊外生活者は暮らし向きの度合いを芝生の大きさではかります。一工ーカーもの芝生を手に入れれば、毎週八時間は原動芝刈器であちこち刈って歩くわけです。芝生の浪費どころですな。この家には同量の空間がある。広い芝生をやめて、ぼくはなるたけ小 さくした。これだけの芝生なら手動の芝刈器で一時間十五分です。じっさい家では、ぼくがこの一工ーカーぜんたいの面倒を見て、他人の力を借りずに整えておけるのです。いろいろな種類のラズペリーやスグリの茂みをつくり、アスパラガス畑をつくり、野菜畑もある。つまり、郊外生活者が芝生を整えるのに使うのと同じ時間を使って、家では環境の豊かさを楽しめる。そういう意味で郊外生活者は力の文化の中にいる。芝生が地位を与えるのです。これっぽっちも有益なものは育てていない。そ れに対してぼくは人間の文化の中にいて、さまざまな、ひじょうに多量の喜びをもち、しかも、彼ら以上の仕事をしないでいる。郊外生活者は芝生を維持するためにオイルとガソリンを使ってしまう。ぼくは食物を通じ太陽のエネルギーを使うだけでいい。エネルギーの需要をどうするかという問題に答える、これは一つの解答です。それにエネルギーの需要を然るべき計画によって縮小できるということです。ここでは、どんな仕事をするのにも余分なカンリンは必要ありません。 | |
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大学における力の組織が知識を「山なすばかりのガラクタ」に変え、また、「書物の生産過剰」ということもあなたはいわれますが......
これはもちろん精神的な汚染問題で、とうの昔に気づくべきことでした。われわれが発明したシステムでは、どの学部でも、利益のありそうな方向に向けて次から次と成長を要求する。われわれは国民総生産高ということをいって、それを毎年増やしていく必要を説く。これはあらゆる分野で行なわれていて、書物生産の分野でも行なわれていることに明らかです。本や論文を生産しなければ大学では昇進できない。
それは超殺人的ですね。
もちろん超殺人的です。精神の超殺人でもあります。なぜなら五十年もたてば、この書物の山の中にはいったら道に迷ってしまうに決まっているのです。
『成長の限界』はコンピュータを使いました。コンピュータは社会的に崩壊的だとお考えで」ようか。
われわれの発明品がそれ自体で社会的に崩壊的、なんてことはありませんよ。われわれがバヵげた使い方をするから崩壊的になるのです。今日の迷信的な考えでは、ある種のデータをコンピュータに入れればコンピュータが答を出し、その答は神がかった権威を獲得しますが、その同じ知識が直接人間から出た場合には権威も何もない。これ鳳機械崇拝というもの。ぼくは新形式の偶像崇拝と見なします。機械崇拝と金力崇拝の混血です。
あなたはオートメーションを、自ら自分に加えたインポテンスとよばれましたね。
そう。何にもまして貴重な力を捨ててしまうからです―精神のすべての属性、記憶、感情、直観、器官、予測、それに抽象的思考。たいへんエレガントではあるが限られた、速くて正確な、しかし多くの肝要な人間的な広がりに欠けたものに、すべてゆずり渡してしまうのです。なるほどコンピュータの行なう、ある種の型の単調な仕事にあります。だから、ふつうの人間的手段では百年もかかりそうな天文学的計算を行なうために最初コンピュータが発明された。これはコンピュータの正当な用途 です。しかしながら、いかなるコンピュータといえども完全な有機体の代わりにはならない-すべてわれわ | |
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れの機械は人間有機体の側面というか、断片である。どんな機械にもとうていマネのできない豊かな幅を人間有機体はもっている。機械はどれも全人間の一部にすぎません。
バーバラ・ウォードのいつたように、機械は顔を赤らめもしない、感じもしない.そう、そのことは、もっと前に物理学者のアーウイン・シュレーディンガーも『生命とは何か』という本の中でいいました。科学の世界は色のない世界、感情のない、個緒のない、いかなる有機体の特性をも具えたもののない世界だと。
しかしサイバネティックス、地球のコンピュータ化した方向づけ、それから地球の大衆、そういったものが、コンピュータがローマ・クラブを助けて地球の力タロヴをつくったように、助けになると思いますか。それとも、そんなものはなくてもよいでしょうか。
そう、そういうものの用途は限られていると断然考えます。なぜならわれわれの問題はじつは技術的問題ではない。われわれの問題は心理的、精神的なものです。それは、われわれの捨ててかえりみない内部コントロールの再興にかかわっている。精神の変改、われわれの生き方の変改にかかわっていて、じゅうぶんな教養のある人にとっては、だれであろうとテレビの前で一年中毎日八時間、いや三時間にしても、一時間にしても過ごすなんてトンデモナイことと思われるようにならなければなら ない。テレビは必要なとき、何か生活上要求されるとき使うべきもの。何か特別な音楽を聞くためにレコードをかけるようなもの。生き残るためにそれを毎日かけるなんてナンセンスでしょう。
自由な時閲の八〇パーセントをテレビで過ごすような人々ですね。
それは彼らの時間の八〇パーセントが生き生きと生きてはいない、ということです。
『権力のベンタゴン』でミミズが人間になるというエマソンの使った寸鉄的な隠喩を引用なさいましたね。人聞は成長の度合を速める、というか、単に大きなミミズになることによって進歩するとはいえない、ということ。」かしわれわれ、じつに数多くのミミズが今も出て来るわけです。われわれには新たなイエスかマ | |
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ルクスが必要だとお考えでずか。新しい宗教が必要でしょうか。人間は自分を救うために何が必要でしょうか。
宗教とは製造され得るものだと思いません。われわれは日ごとしだいに自分では宗教と認めていない宗教に支配されています。機械の神話・宗教の下にいるのです。今日、テクノロジーに具現している夢想・願望はすべて、エジプト、スメル、バビロニアの叙事詩中に見えます。細菌戦争も聖書にありますね、神がエジプト人に仕掛けたものです。こうした初期の宗教で神々がやったことを今は人間がやる。そこで人間は愚かにも自分が神だと思う。人間が忘れていることは神に二面があるというこ とです。神の一面は悪魔とよばれる。破壊力です。創造的・建設的な力が他の一面です。通例われわれは内部にたくわえられている、この知られざる力を無視する。この力は二つのどちらにも働くのです。ぼくは救世主なるものを信じません。宗教をつくることのできる人間がいるとは思いません。今日において宗教がつくられるなら、それはクリスチャン・サイエンスかマクルーハン主義のようになるでしょう。それに真の宗教なんかじゃありません。世界を救おうというなら、男も女も子どもも、 だれもが役割りを演じなければならないのです。
今日の人生の主要目的は生き残ることだというスキナーに同意なさいますか。
いや。人生の主要目的にいつだって創造にある。われわれが創造的行為に向かうなら、これなら必要な犠牲をはらってもいいと思うようなかたちで人生を生きるなら、生き残ることにもなるでしょう。真の芸術家に向かって株式仲買人のように生きるなと説く必要はない。自分のやっている仕事にずっと、ずっと興味があるから、パンと水だけで生きることもしばしばでしょう、たいへん控え目な生活、セザンヌの送ったような生活です。大富豪やペンタゴンの将軍たちに必要な物品などを寄せつけ ないのです。創造的生活を送る人々はひじょうにわずかな食糧で生活することができるし、じっさい、しばしばそういう生活です。貧乏がそれ自体において望ましいというのではないが、自分の仕事にじゅうぶんに没頭していれば、いくら金がはいって来るだろうか、とか、どれだけ人に知られるか、などという問題はどうでもよいことになる。 | |
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それは何から何までバオロ・ソレーり式です。Ga naar eind〔註4〕。どうしたら、この、人生の絶対的必要物としての創造への道を若ものにすすめることができましょうか。
まず第一に若ものに注意をはらうことです。われわれの従っている非創造的生活様式のすべてから目をそらすことです。われわれの人生の大部分はやり切れないほど決まりきっている。これは工場で働く人たちだけのことじゃない。大量生産に神聖なものは何もない。われわれは今よりずっと低い生産規準で、仕事自体が仕事をしている人に興味あるようにすれば、生活もずっとよくなるでしょう。ぼくに流れ作業というのはテクノロジーの古風な形で、未来のテクノロジーなんかでは全然ないと思 います。
デトロイト市の工員たちはまったく退屈し、いらだっています。
忿懣ムんニんとサポタージュだとデトロイトの人はいっています。創造的に生きれなければ破壊的になるものなのです。自分を痛め、苦しめているものを残らず破壊しようとするものです。この点を忘れてはいけない。白鯨に復警するエイハブ船長のようなものです。
マンフオードさん、より積極的な生活様式に向かうためにマスコミ関係者はどんな役割りを演じられるでしょう?
そう、そういう生き方にもっと注意をはらうことです。新聞編集者、雑誌編集者に興味のあることは二種類ある。一つは刺激的なこと、異常なために大衆の目をひきそうな刺激です。もう一つは真に重要なこと。この種のニュースは長い間知られないでいる二とが多い。人々は認めなかったのです、十九世紀末期に物理学の偉大な発見がなされている時に、自分たちの世界が変わりつつあるのだということを。当時、ほんとうにすぐれたジャーナリストがいたら、アインシュタインが相対性の第二理 論を一九二〇年代はじめに発表した時ニューヨーク・タイムズ紙の編集長がやったことをしたでしょう。ヴァン・アンダが当時のニューヨーク・タイムズ編集長でしたが、タイムズ紙の第一面いっぱいにそのことを報じ、さらに二、三ページをアインシュタインの発見の註解に費した。これは真のニュースです。古風な意味のニュースではありません。古風な意味のニュースでは人を殺したと | |
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か、女をおかしたとかいうことが第一面のニュースになったでしょう。 ニューヨーカー誌主筆ハロルド・ロスがジョン・ハーシーのヒロシマの記事にぶっつかってどうしたか、ご存知ですか。ふつうの編集者の容易にまねできないことです。広告部には何もいわずに広告原稿を残らず捨ててしまった。そうしないとヒロシマ記事をニューヨーカー誌は一回で全文掲載することができなかったから。これは偉大な編集というものです。こんなことは毎日やるわけのものでない。しかし、時の必要によっては、やれなければいけないことです。 |