Seicho no genkai o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
(1973)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
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11カール・ケイセンカール・ケイセア (Carl Kaysen) は、一九六六年以来、ニユージャーシー州のブリンストン大学高等研究所の所長である。 一九二〇年、ペソシルパニア州フィラデルフィアに生まれた。始めュロンビア大学で経済学を研究し、一九五四年にハーバード大学で博士号を取った。 第二次大戦中は、ワシントンの戦略局 (Office of Stra-tcgic Service) に勤務、特にドイツ戦時経済の問題を取扱った。その後空軍に入り、ヨーロッパにおいて、情報将校として動務した。 一九四七年から一九六八年までは、カリフォルニア州のサンタ・モニ力にある一ランド研究所の顧問をつとめた。一九五三年から一九五四年にかけて、国防長官官房の兵器システム評価グループの顧問として活躍した。九六一年には、ケネディ大統領付きのホワイト・ハウス幹部職員として、国家安全保障問題担当の特別補佐官富に入った。一九六一年から一九六三年までは、国家安全保障問題担当の大統領特別補佐官補をつとめた。一九六三年から一九六五年までは、リンドン・B・ジョンソン大統 倶の特別顧問として活躍した。
何人かの世界の最高の経済単者たちが、成長の隅界に対するMITの研究にひどく批判的な理由は、なぜだとお思いですか。
それは、いくつかの初歩的な経済学的仮定を無視してモデルを組立て、議論をしているからです。 モデルが無視している最も重要で初歩的な経済学的仮定は、価格を通じた調整機構があるということです。つまり物が乏しくなった時には価格は上昇し、価格の変化が今度は次の調整を引きおこす。つまり、需要が一方では供給を減少させ、また他方では供給を増加させ、新たな技術、新たな代替品を呼びおこす、ということです。これらの調整が、過去には資源供給の増加をもたらした | |
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のです。このことをどこにも認めていないし議論もしていないという事実があるので、経済学者はこのモデルを疑問視するわけです。
一体、資濠は経済的単位でにせよ物理的単位でにせよ、コンビュータのシミュレーションやその他の方法でそもそも測定されうるものなのでしょうか。
勿論、資源は物理的単位で測定されうるものですし、従来もそうされています。何工ーカーの土地とか何トンの石炭埋蔵量とか何百万バーレルの石油埋蔵量等々という言い方をします。他方、私は資源を経済的雌位で測定したり考えたりすれば、資源についてのより深い洞察がえられると思います。簡単に近づくことができ、しかも容易に耕作できる何工ーカーもの土地があります。しかし、もっと高い価格をつければ、灌漑により、あるいは開墾により、あるいは湿地の排水等々により、もっと多 くの土地が迫加されうるのです。同様に、鉱物資源のことを考えても、容易に利用可能な供給があります。しかし、そのような資源が比較的少ない場合でも、もっと高い資源の回収価格がつけられる場合には、もっと多くの資源が利用可能となります。私はつい先日、ある大きなアルミニューム会社の経営者と話をしました。彼の言う所では、その会社は最も容易に加工できるアルミニューム鉱石であるボーキサイトから、これまで使用されたことはないが膨大な埋蔵量と潜在量をもつ、どちらかとい うと少し加工しにくいアルミニューム鉱石の利用へ移行しつつあるということです。このことは、一トンのアルミナの費用が二|三セント余計にかかるようになるということを意味するかも知れませんが、しかし、この二~三セントを余分に払うことによって埋蔵量はいちじるしく増加するのです。このことから『成長の限界』に示されている考え方の一つの問題ほ、物理的単位で資源を測定することによって、経済的単位で測定されたぱあいには明らかになってくるある重大な事実をぼかしてしまっ ている、という点にあることがわかります。
しかし、もっと多くの土地とか、もっと多くの新アルミニューム資源とかはすべて、もっと多くのお金を必要とするでしょう。貧しい国、即ち第三世界は新たな土地を開発し、灌漑し、耕作するのに、どうやつて資金を調逹するのでしょう。
第三世界の貧困の問題を解決するみちは、世界全体の | |
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経済成長以外にはありません。世界全体の経済成長がなければ、第三世界の問題は悪化するばかりで、良くなることはないでしょう。成長なしに富と所得の徹底的な再分配が現在行なわれると期待するのは、まったく非現実的であると思います。まず第一に、貧しい国における生活水準の向上という事実が生ずるならば、それはまさに、それらの国々に経済成長がおこったということを示すものなのです。貧しい国には世界人口のほぼ三分の二が住んでいますから、貧しい国の経済成長は、世界全体 の経済成長を意味します。さらに、貧しい周の経済成長は、富んだ国との貿易や富んだ国からの投資に大きく依存しています。富んだ国の所得が向上しないで減退している時に、富んだ国が貿易を増加させ、さらに投資を増加させるであろうとは、実際、考えられないのです。
技術も幾何級数的に成長する徴候があるとお思いですか。
その点に関しては、過去にたくさんの事例があります。勿論、未来を予言するのは危なつかしい仕事です。未来を予言しうる唯一の方法は、過去の経験を見ることです。過去の経験が数量的にも最もよく研究されてきた地域は、アメリカです。ほぼ過去一世紀にわたって、アメリカの技術、つまり一定量の投入から得られる産出の価値は、年串約ニパーセントで-言い換えれば幾何級数的に-成長してきました。幾つかのヨーロッパ諸国と日本についても、かなり短期間のものですが、多少の情報があり ます。それらも同じ意味で、幾何級数的な技術の成長を示しています。信頼に足る判断を下世るほど決定的なものとは思いませんが、近年、技術の成長率が増加したという、まことにかすかな徴候があります。それがほんとうにそうであるかどうかがわかるには、さらに一〇年ないし二〇年待たねばならないでしょう。
技術の成長率の増加を、モデル、つまりMITの地球モデルに灘入すれば、勿論、出てくる結果は変わるでしょうね。
それはモデルをまさに根本的に変化させるでしょう。このMITモデルは、次のようにかなり大まかに特徴づけることができます。幾何級数的に成長している量、つまり、人口、工業生産等があります。しかし、成長には固定された天井があります。これらの量が天井に突き当たる時、天井を突き抜けることができないだけでなく、 | |
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大衝突してはね返らなければなりません。その大衝突が世界人口、世界の富の下方転換、即ち、MITモデルが予言する破局なのです。ところが幾何級数的技術成長をひとたび導入すれば、そこに見られるのは、天井もまた成長しているという姿です。すると、問題は、他方との関係でみて、一方がどの位速く成長しているかということになります。さらにこの点で、いわゆる天井の水準あるいにその成長率を、人口、工業生産、鉱物の投入使用量等々のような量の成長率と結びつける調整機構がどうい うものであるかを、立ち返って検討することもできます。
調整機構はひじょうに重要ですか。
調整機構にいくらかでも配慮しなければ、どんな有用な経済学的モデルも作り上げられません。経済学的な考え方の全体にとって中心的なひじょうに重要な調整機構は、価格機構です。MITモデルはどこにも、この機構の働きを認めていません。鉱物資源の限界についてなされている議論に関して、疑問をはさむことのできるまことに単純な理由を上げてみましょう。国民産出高にしめる鉱物の割合、あるいは国民産出高にしめる食料、つまり農業生産の割合が、これまで上昇しているというのは、一般 には正しくありまぜん。むしろ、長期間にわたって、低下してきているのです。これは、十分長期間の数字があるアメリカについては確実にいえます。西ヨーロッバについても同様に真実であるように思われます。もっとも、その種の比較のための情報ば、完全ではない、あるいは十分長期間にわたっていないということも言えるのですが。もしMIT論文が正しければ、鉱物の相対的な産出割合は上昇するものと期待すべきでしょう。したがって、これらのますます乏しくなる鉱物を供給するためには、 もっと多くの資源が必要とされると期待すべきでしょう。ところが実際にはその反対、つまり、産出の割合はゆるやかに減少しているのです。 イエール大学のジェームス・トービン教授と協力してひとつのモデルを組み立てた、同じイエール大学のノードハウスGa naar eind〔註1〕教授と話した際、彼は、MITモデルはあまりにも複雑すぎると言っていました。彼はMITモデルよりはるかに簡単なモデルの必要性を指摘していました。あのモデルは、多くの面でもっと単純化できるでしょうが、他のいくつかの面では、なんらかの価格調整機構を導入することによって、もっと複雑にすべきである | |
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と思います。私はまだ、ノードハウス・トーピン・モデルを見る機会には恵まれていません。
あなたはMITモデルを受け入れられないとおっしゃいますが、正確にはどのような根拠にもとづいてですか。
成長の限界を止めなければならないという結論を導き出す基礎的議論においてまったく誤っており、知的にも説得力がないという根拠にもとついてです。目下のところ、破局は不可避ではないというのであれば、何がそれに代わる選択であるかを問わなければなりません。前に申しましたように、世界の人口の三分の二が直面している貧困の問題を第一の重要間題にみなすならば、経済成長を続けることなしに、どうやってその貧困が緩和されうるか、とうてい考えることは不可能です。こう言って も私は次の二つのことのいずれをも言いたいわけではありません。一つは、成長の型が過去のものと同じでなければならないということ。そうではなくて、恐らく、成長の型は変わらなければならないでしょう。二つは、汚染や資源枯渦の問題は現実的でにないとか、注意しなければ欺らない問題ではない、ということ。そうではなくて、汚染の問題は、工業化した国でも工業化しつつある国でも非常に緊急を要する問題であると思います。われわれはこれまで、この問題に関して適切な措置を講じて きて怯いません。この問題に関して、何をなすべきかをやっと学び始めたにすぎないのです。この点の学胃は、まことに重要です。汚染の問題への対処の一つは、汚染を少なくするような方向で技術の遡択を考えることです。いまひとつは、再び、価格機構のまことに単純な長所を活用して、汚染者が社会一般に加える摂害の躍用を彼ら自身に負担させるようにすることです。もし、そのような負担をさせれば、彼らは、危害を最小限にしようという強力な経済的動機をもつようになるでしょう。現、 、在のシステムの下では、汚染の生産ほいわばただであり、したがって、汚染を避けようというどんな経済的動機もないのです。同様に世界が人口の問題をかかえていることも疑いありません。ですが、『成長の限界』という小冊子でのこの問題の議論は、たいへん皮相なものです。分析というものがありません。望ましい家族規模と実現されている家族規模との間の区別がありません。一方では、何が既に実現されている家族規模の大きさを決めているのか、また他方では、何が望ましい家族規模の | |
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大きさを決めるのか、ということについて全然議論がなされていないのです。私自身の判断では、産児制限法の知識を広げたり、小家族にしたばあいにえられる望ましい結果を人々に指摘したり、また、生存率の上昇-とりわけ死亡率の低下に由来する-のおかげで生む子供の数をずっと少なくしても十分な大きさの家族を作れる、という事実を人々に知らせたところで、何の役にもたちません。言い換えれば、世界人口は次の三〇年間にごく簡単に倍増するであろうということです。われわれは、世 界人口が増加しないことを望もうとするよりも、この増加した水準に適応する方法についてもっと考えなければならないのです。
この地球の資源と問題との目録を作成するために、世界的なコンピュータ・モデルを作ろうと努力する、というようなことにあなたは基本的に賛成ですか。
さあ、それは知的な企てに関する他の問題の場合と同じことだと思います。それは、自分自身で決めなければならないことなのです。たとえ誰もそれが非常に良い考えだと思わなくても、また誰もそのやり方をわからないと思うとしても、やってみたいという人にはやらせてみるのがよいでしょう。私自身はそんなモデル作りなんかしようとは思いませんが、なにしろ、多くの面で膨大な情報ギャッブがありますので、そのようなモデルはなんとも大変粗雑なものとなりましょう。ですから、そこか ら引き出せる結論は、まことに心細いものだと思います。おまけに、まったく不必要なコンピュータ神秘主義というものが、ひじょうに強くあるように思います。MITモデルの主要な考えの多くぼ、精密な計算が無くても扱いうるものです。精密な計算は、モデルに多数の詳細な情報が含まれているばあいとか、ある数字が他とは違った一つの重要さをもっていて、計算が現実的な相違をもたらすようなばあいには、重要であります。MITモデルには諸関係の構造に関する知識が欠如しており、また量的な側 面がまことに組雑であることがわかっているとすれば、計算の役割があまりにも強調されすぎている、と私には思われるのです。
しかし、それはささやかな第一歩にするつもりで作られたものなのですが。
確かにそれは、ささやかな第一歩として、しかも恐らく興味深い第一歩となるつもりで作られたものです。私 | |
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はこのモデルの批判者の多くよりにもっと大きな興味をこのモデルに対してもちました。恐らく、批評のおかげで、モデル作成者たちは改善された第二歩にふみ出すことができるようになるでしょう。
私がここにいるのもそのためです。
そしてそれが、いつでも望ましい方向だと思います。繰り返しになりますが、コンピュータ神秘主義の要素がみられます。コンピュータでやった計算は、そのことだけで、人間が紙と鉛筆を使ってやった計算より正確だというわけではありません。ただ、計算装置が頼りになるというだけのことです。適当な数の方程式や関係が含まれているという音意味で、モテルが十二分の複雑さをもつようになった時には、コンビュータの使用が必要になっいつてきます。それは一に、判断の問題だと思ます。
社会はIBMやジェネラル・モーターズのような規槙での、地球管理の方向に進んでいると思われますか。それとも、一種の実際的で実用的な地球管理の方向へさらに進むことが望ましいとお思いですか。
私にはそんなに先のことまでわかりません。自分では、あるものは大規膜に管理されるであろうし、あるものは比較的小規模に管理されるであろうと推測しますが、私ばアメリカ人として、物事はできる限り小規模に管理されるべきだと信じる、一種のジェファソン流の偏見をもっているのです。現在の世界の情況をみても、急速に政治的統一・政治的同質化の方向へ進んでいるとは思われません。
しかし、科学者が政治に影響を及ばして、二の最も必要性の高い世界管理の方向へ進蜜せることができるのではないでしょうか。
その質問に賦、次のような形で恐らく間接的に答えさせていただきます。今日の世界で最も強力な政治的力はナショナリズムであって、合理的な計算ではないように思えます。ナショナリズムとは、なお長期間抗争を続けなければならないでしょう。論理的議論によって、これはして良いことだというものが示されるとしても、そのために政治の世界で物事が成就するというのはきわめて珍しいのです。私が究極的には信頼している理性の役割を、過小評価したくはありません。ただ、理性の議論が 普及するには非常に長い時間がかかることがあるものな | |
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のです。 |
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