Seicho no genkai o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
(1973)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
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12 マーシャル・マクルーハンハーパート・マーシヤル・マクルーハソ(Herbert Marshall McLuhan)は一九一一年、カナダ、アルパータ州のエドモントンに生まれた。マニトバ大学に学び、さらに一九四二年、英国ケンブリッジ大学にて博士号を取得。ウィスコンシン大学、セントルイス大学、アサンブション大学で教え、一九四六年カナダ、トロント大学のセント・マイクルズ・カレジに移り、現在なお同大学の文化およびテクノロジーセソター所長。 著作中もっともよく知られているものに『グーテンペルク銀河系-印刷術的人間の形成』(一九六二年)、「メディアはマッサージである』(一九六七年)、『メディアを理解する』(一九六八年)、『地球村の戦争と平和』(一九六八年)、『文化がわれらの仕事』(一九七〇年)などがある。近著はバリントン・ネヴィツトと共著の『今日を取れ-ドョフブ・ヲウ脱落者としての経営者』(一九七二)。
マクルーハン先生は何を「地」とよぶのですか。
それはゲシュタルト心理学の用語です。自動車というヽヽヽ「図」をかこむ「地」をごらんなさい。いかなるテクノでももロジーをかこむ「地」でもいい。どんな種類の技術にも、テクノロジーにも、当然それに関連してブラス、マイナスの大きな「地」がある。さて、ふつう注意は「地」よりもむしろ「図」に集中する。車とか車輪のついた乗物の維持に必要な、巨大な道路サービスのシステムよりもむしろ車のほうに集中する。自動車についていえば、たいていの人が自動車のデザインや型を変 えることに興味をもつ。たまたま付随的に注意を道路の巨火なサービス環境にはらう-石油会社とか、ガソリン・スタンドとか、その他、類似の製造工業サービス、つまり自動車の「地」になるものですね。自動車が今世紀初期にはじめて出て来ると、これで都会のかたがつく、ぼくたちはこれで田舎へ戻れるのだから、と思ったものです。自動車という「図」を見て、単に都市生活者を運搬して、そ | |
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の出身地である田舎に戻すという直接の可能性を思ったわけです。自動車について、初期の標語は「田舎をドライブしよう」というのです。自動車という「図」が、この「図」からは思いも及ばないような新しいサービスの巨大な「地」を生み出そうとにだれも考えなかった。つまり、自動車はブラスとマイナスをともなうまったく新しい環境-「地」-を創造し、それがアメリカふうの生活様式と結びつくようになりました。 さらに自動車については奇妙な特色がありますが、これはまったく気ずかれていません。アメリカでは自動車とはブライバシーの究極的な形なのです。ヨーロッパでは自動車はオモチャです。遊び道具です。アメリカでは究極的な私室、居間、ブライバシーの主要な形なのです。だからアメリカ人ならだれでも大型車をもつ。公共の通路を使うからといって、外出して人とつき合うわけでにない。北アメリカにあまねく隠れている考え方では、外出とは一人になるためなのです。だから、デートでで もなければ、カフェに行ったり、飲み屋に行ったり、公開娯楽をもとめたりしない。デートの外出であれば、社交活動のための外出ではない。一方、家に帰るということは一人になるためではなくて、人々といっしょになるために家に帰るのです。アメリカの家庭にはブライバシーがない、もしくはないに等しいくらいなのです。この状況のぜんたいが、また別な「図」をめぐる隠れた「地」であって、この「図」とは攻撃隊ないしチームをつくって自然を征服しようと決心している開拓者の「図」で す。自動車をめぐる「地」を見なければ、自動車のもつメッセージを読みそこないます。なぜなら、いかなるテクノロジーでも「地」がメディアなのであって、これが人間を変える。テクノロジーのメッセージはメディアです。「図」がメッセージではありません。
「図」と「地」の相互作用に関係して古代ローマのことをいわれましたね。
ローマ帝国の道路を維持するための巨大なサービス網も、とうぜん崩壊しました。あまりに金がかかり、あまりに熟練労働を必要としたからです。ローマ帝国道路はスピードと滑らかさのため表面に大理石を敷いていました。道路によって保持されていた使者組織のほうはバビルスによってつくられた「地」であり、バビルスはそれ自体のサービスの「地」をもつ「図」であって、このサービスにさらに軍事的な種類の環境を含んでいた。全ロ | |
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ーマ帝国軍事組織はパピルスのような、大きな領土の中を迅速に運び得る、書かれた文書に依存していました。そのような種類のコミュニケーションが、今度は、車とか、車輪のある乗り物の発達を助長しました。しかしローマの道路がどのように維持されたか、いや、どんな種類の道路であったかについてさえ、ほとんど研究されていません。主としてどこにあったかだけが注目されてきた。しかし「図」としてのローマ帝国道路は巨大なサービスの「地」にかかわっていて、その「地」は究極的 にはおそらくパピルスから生じる。パピルスの供給はナイル河が汚染したときに終わった。パピルスは今日でもナイル河上流の比較的汚染のないところにしか生えません。しかしパピルスがもうナイル河に生えて来ないと分ったとき、ローマ人は羊皮紙に切りかえた。これが中世の紙のかたちであったわけです。しかしながら昔のパピルスの用に代わるにはあまりにも乏しいのが羊皮です。しかも、巨大な軍事的官僚制を維持するに必要なペーパー・システムは、多様化され隠れている「地」-環境-に依 存していた。紙という「図」がじつは「地」の鍵になる。しかし「地」が人間の変化をつくるものではあるけれども、この「地」は研究されていない。「図」はメデイアではありませんから変化の原因にはならない。しかしながら「図」が「地」をつくり、それがいかなるテクノロジーを用いる人間をも変える手段となる。だが「図」は「地」そのものの上に坐っているだけで、そのようなテクノロジーによって生じたサービス領域が人々の生活を変えるのです。 たとえば映画産業においてハリウッドをとりまく巨大なサービス領域は、ジェット機やテレビの姿が現われたとき、たちまち萎縮しました。新しい「図」が映画産業という「地」のぜんたいを侵食したのです。映画館のためというよりは家庭のテレビのための映画つくりということになって、完全にサービスを分散させてしまった。映画ではなく、ハリウッドがたちまちにして消滅したわけです。まあ、そういう具合に、たちどころにして新しい「図」というものは古い「地」を分散もしくは解消さ せることができます。映画の生活様式を与えた、いや、映画の生活様式そのものであったのは古い「地」です。ハリウッドそのものが新しい生活様式であったのですが、今や消えたのです。オプフリト 自動車は「陳腐化した」といわれることがありますが... | |
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その言葉にはいろいろな意味があります。「革新の母体としての陳腐化」をぼくは何ヵ月も研究したことがある。自動車の役割りの変化を知る最も簡単な道はジェット機の出現がまわりじゅうにまったく新しい環境をつくった、それは自動車の「図」だけでなく、自動車の「地」でもあると指摘することでしょう。ジェット機はハイウェイ・システムのぜんたいを囲んでしまう。ハイウニイが前に鉄道システムを囲んでしまったのと同様です。まったく新しい種類の運輸サービスを提供することによ って、ハイウェイが鉄道に脅威を与えたように、ジェット機はハイウェイに脅威を与えている。ジェット機によって旅行者は完全に新しい時間の尺度を得る。世界的規模で二十四時間のパターンによるサービスの「地」ができ、地球のどこへでも行ける。ジェット機はあらゆる商業活動の計画や管理の革命化であるばかりか、あらゆる政治、あらゆるニュース取材範囲の革命化でもある。テープやフィルムが世界のあらゆる場所から二十四時間基準で到着する。たとえば学生も今は勉強を完全に新しい やり方で計画できる。自分のいる地方の大学のコースをとるのと同じくらい安価に、迅速に遠い国へ出かけて言語なり考古学なりできるのですから。いっぼう地方大学は補助金を得て教職員を世界各地に送り、じつに多様な計画に従事させる。これに対して自動車とそのサービス環境は実用性、リクリエーション、ともに新しい機能を得るわけですが、それは相当程度までジェット機旅行による新しい時間の尺度が強制したものです。 というわけで、ジェット機の新しいサービス環境が変容させたものは「図」としての自動車というよりも、自動車の「地」のほうです。同じこのジェット機の新しいサービス環境というものが自国民ならびに他国民のイメージを大きく変えます。たとえばハイジャック犯入たちをごらんなさい。ハイジャックをやれば直ちに二ュースは全世界に及ぶのです。ハイジャック犯人たちこそ真のジェット磯時代人だともいえるでしょう。直観的にはこの、新しいメディアの意味を、体制を出し抜き、わ脅威 に対する反応があるのです。たとえば自動車とか飛行機を使うということは、あらゆる私的・個人的人間力を凌駕するものなのですから、人間のエゴの攻撃的表示であり、それが一方において運転者なり使用者なりのアイデンティティーを主張すると同時に、他方、そのような活動の行なわれている環境内にいる人々のアイデンティティーの、いや、それどころか生存の脅威になります。それだけの理由からでも、スピードと力は、万人に自分のアイデンテティーを主張し守るため、同じ手段を用いさ せようとする。このような状況において、たとえば自転車に乗ろうとする人は極度に暴力的人間で、もっとも極端な抵抗手段で、脅かされたアイデンティティーを主張しているのです。 一般システム研究では、これまでのところ、いかなる「図」についても、その「地」を調査する方法を発見していません。たとえばラジオの性質を研究するのに聴取者の数を確定し、プログラムの種類を確定するだけでは、ラジオのラジオとしての人間の心性や神経組織に対する「影響」を無視していることになる。「地」としてのラジオ、世界を囲むものとしてのラジオが、プログラムの組み方とは関係なく、各人の各入に対する関係を変えるのです。一般システム研究は、たいがいのメディア研 究と同じように、「図」の「地」に対する摩擦を無視して、「図」を単に量的に研究することにより、「内容」という範疇に帰属させられ、それで「地」を演繹する。こういうアプローチのしかたはとんでもない混乱をおこします。どんな場合においても、どんなメディア-言語であれ、衣服であれ、ラジオであれ、テレビであれ-の場合においても、内容とは使用者自体であり、そのサービスを経験することになるのは使用者のみであるからです。何がテレビで放送されようと、使用者が中国人であるな らば、それは中国プログラムになるのです。それはテレビで映画を放送した場合、それがテレビのショーとして経験されるのと同じことです。テレビのメディアが映画メディアを自分のものに翻訳してしまい、映画イメージではなく、テレビ・イメージをつくるのです。この点、システム開発関係者はMITの人であろうと、ランド・コーポレーションの人であろうと、その研究に当たって、あらゆる「地」を「図」に翻訳しようとします。そして、あらゆる効果を「インプット」という考え方で分類する。 こういうことをする理由は、こうした研究員がすべて無意識のうちにアルフアベット型であり、読み書れわれの法規システムを流行遅れにするものだと把握したわけです。とすれば、「陳腐化」の意味にこんなふうなアブローチをして、旧い「地」を新しい「地」で囲んでしまうことにより、何らかのサービスの相の代わりに新しいサーどスの相が出て来ることだともいえましょう。しかし、だからといって従前のサービスが消滅してしまうとは限りません。多くの場合に前のサービスが新しいサ | |
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ーピスと共存していけるのであって、自動車とジェット機の場合しかり、手書きと印刷文字の場合しかり。タイプライターでさえ、手書きを消滅させはしなかった。印刷の発明されるまえとくらべて今日の世界のほうが手書きの量が多くなったという可能性もあるでしょう。ただし、量から機能や効用を推測するわけにはいきません。 陳腐化という点では印刷されたことなどは何回となく新しいサービスに出し抜かれています。写真とか映画とかゼロックスとか、そういうものに。グーテンベルクは万人を読者にしたが、ゼロックスは万人を出版者にして、いわばグーテンペルク・テクノロジーを一回転させた。だが印刷された本の古い効用は写真、映画、ゼロックスの新しい特性の多くと共存しています。しかし、もっと深いところを見れば、一つのサービスが新しいサービスによって囲まれたとき、古いサービスを用いるものが 大きい影響を受けることに明白です。印刷時代と写真時代では、その強度にリアリスティックな発展によって、新聞のために書く書き方も相当変化しました。映画は台本のために本を使ったが、映画技術のほうは知覚、作文ともに、その様式を根底から変えました。
MITの、人類とその状況に関する世界的規模の研究は、「地」を包含していますか。
これらの研究は「システム発展」のパターンにもとづいて行なわれ、「図」に集中して、ブラス、マイナスの「地」ないし取り囲むものを無視する傾向があることをいっておくほうがいいかもしれません。同様に、暴力に関するミルトン・アイゼンハワー報告も、いろいろなメディアのいろいろなプログラムに提示されるものとしての暴力のイメージを主として扱っています。暴力はプログラム・インプットの「図」として受けとめられ、この「図」を説明するようなマッチする「地」ないし原因を 発見しようとしています。しかしじっさいには暴力の「図」はまったく異なる「地」を背景にしてのみ意味があるわけで、それはすなわち現在の人間環境の極度の流動性ということです。流動性というものは人間のアイデンティティーを侵食するのであって、アイデンティティーの脅かされることが「暴力」の近因です。あらゆる場合について、暴力とはアイデンティティー・イメージが脅かされたときの反応であり、多種の変化がアイデンティティーを脅かすわけですから、じつに多種の暴力、すな わち、そうした | |
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脅威に対する反応があるのです。たとえば自動車とか飛行機を使うということは、あらゆる私的・個人的人間力を凌駕するものなのですから、人間のエゴの攻撃的表示であり、それが一方において運転者なり使用者なりのアイデンティティーを主張すると同時に、他方、そのような活動の行なわれている環境内にいる人々のアイデンティティーの、いや、それどころか生存の脅威になります。それだけの理由からでも、スピードと力は、万人に自分のアイデンテティーを主張し守るため、同じ手段 を用いさせようとする。このような状況において、たとえば自転車に乗ろうとする人は極度に暴力的人間で、もっとも極端な抵抗手段で、脅かされたアイデンティティーを主張しているのです。 一般システム研究では、これまでのところ、いかなる「図」についても、その「地」を調査する方法を発見していません。たとえばラジオの性質を研究するのに聴取者の数を確定し、プログラムの種類を確定するだけでは、ラジオのラジオとしての人間の心性や神経組織に対する「影響」を無視していることになる。「地」としてのラジオ、世界を囲むものとしてのラジオが、プログラムの組み方とは関係なく、各人の各入に対する関係を変えるのです。一般システム研究は、たいがいのメディア研 究と同じように、「図」の「地」に対する摩擦を無視して、「図」を単に量的に研究することにより、「内容」という範疇に帰属させられ、それで「地」を演繹する。こういうアプローチのしかたはとんでもない混乱をおこします。どんな場合においても、どんなメディア-言語であれ、衣服であれ、ラジオであれ、テレビであれ-の場合においても、内容とは使用者自体であり、そのサービスを経験することになるのは使用者のみであるからです。何がテレビで放送されようと、使用者が中国人であるな らば、それは中国プログラムになるのです。それはテレビで映画を放送した場合、それがテレビのショーとして経験されるのと同じことです。テレビのメディアが映画メディアを自分のものに翻訳してしまい、映画イメージではなく、テレビ・イメージをつくるのです。この点、システム開発関係者はMITの人であろうと、ランド・コーポレーションの人であろうと、その研究に当たって、あらゆる「地」を「図」に翻訳しようとします。そして、あらゆる効果を「インプット」という考え方で分類する。 こういうことをする理由は、こうした研究員がすべて無意識のうちにアルフアベット型であり、読み書 | |
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きの人であり、可択的手段による量的仮定による以外に調査の道を考えつかない人たちである、そういう事実とこの理由は関連があるのですGa naar eind〔註1〕 西欧的な読み書きをする人がアフリカ人や東洋人に対決するときの問題点は、彼らを支配するためアフリカ語や東洋語をアルファベット型文化に翻訳しようという侵略的必要を感じることです。なぜ音声文字による読み書きをする人が一方交通的性格であって、いかなる異なる種類の文化とも相互往復交通の対話ができないかについては内在的理由があります。そういう理由は『グーテンベルグ銀河系-印刷術的人間の形成』(一九六二年トロント大学出版部)で論じました。音声文字による読み書きの人 間は、ギリシアの昔から現在にいたるまで、いかなるものについても効果ということの研究を拒否しています。完全にインプットと内容にのみかかわっているからです。インプットを内容と考え、彼らの目標に向かうノイオ運動を妨げるものは何によらず「騒音」とよばれる。今日、音声文字による読み書きの人間ははなはだ困った存在です。柔軟性がないから困るのです。また、同時的電波インフォーメーションの巨大な音響的「地」のなかの,今は単なる一つの「図」にすぎなくなっているから困る のです。 ローマ・クラブが『成長の限界』の研究をしたとき,西欧人にふつうの誤ちをおかしました。ハードウェアとインプットだけを研究し、生活の質、さまざまな生活様式の満足性や効果を無視したのです。音声文字の人間は自分自身や他人に対する音声文字の効果を組織的に無視してきました。いま日本人は西欧の音声文字による読み書きを全日本に課そうという何十億の多岐にわたるプログラムを始めようとしています。このプログラムによって日本の顔はまったく消されてしまうでしょう。日本の口 頭文化も象徴主義も儀式性も侵食される。日本的アイデンティティーのすべてをもぎとることによってたいへんな暴力が氾濫し、人類史上に想像もつかないような競争規模による新たなアイデンティティーへの集団的探求が始まるでしょう。音声文字の人間はギリシャ人から現在にいたるまで一貫して侵略的であり、環境と戦って来ました。自分の環境を音声言語に翻訳しょうという必要が征服者をつくり、文化的ブルドーザー、地ならし機械となる。スプートニク以来、急に地球という惑星を一つの 芸術形式と意識するようになったため、人々は古い「自然」のあらゆる相をプログラムする。地球という星が人 | |
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間によってつくられた環境の内部にはいったとき、よかれ、あしかれ、芸術が自然にとって代わった。十九世紀において市場が自然にとって代わったのとほぼ似たものです。いま生き残るのは同時的にあらゆる要因の生態学的バランスしだいであると認識することが、深い意味で西欧人を「陳腐化した」ものにしてしまう。じっさい、西欧人みずからのつくり出した新しい電波的環境が西欧人を内へと向かわせる。かつての西欧的ハードウェアが東洋を外に-十九世紀の、征服という目標に-向かわせ たのと似ています。 |
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