Seicho no genkai o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
(1973)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
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10 パオロ・ソレーリバオロ‘ソレーリ (Paolo Soleri) はー九一九年、イタリヤのトリーノに生まれた。トリーノ大学に学び建築学で博士号を取得。ー九四七年、フランク.口イド.ライト特別研究負としてアメリカに渡る。ー九六ニ年以来アリゾナ州に住む。二度にわたってグッゲンハイム奨励金を授与され、その資金により人問生態学としての建築分野における 研究を終る。 ソレーリはコサンテイ協会の股立者である。これは現在アリゾナ州スコッツデールにある非常利主義の都市研究の団体で、ここを彼は本拠地としている。北中部アリゾナに三千人のための独学共同社会を建設中。これはアーコサンテイとよばれ、「アーコロジー」の原則に従って設計された煅初の都市環境となり、生活、仕事、教育、文化、余暇、健康等すべてを考慮する完全な生存システムとなるであろぅ。 ソレーリは『アーコロジー (起源学) ー人間のイメージによる都市』 (一九六九年〕と『バオ口.ソレーリ.スケッチブック』 (一九七一年) を出版している。
『成長の限界』はごらんになりましたね。
その本は見ました、さつと読みました。多くの点で、その本がいおうとしているよりもぼくは 楽観的です。
どうして都市文明作品を再投計なさるようになった のですか。
都市文明が崩壊すると思ったからです。ぼくは生命とは内破的Ga naar margenoot+性格の現象で、外破的性Ga naar margenoot+格のものではないと信じています。生命に関係あるもの、生命媒介ないし生命豸展に関係あるものはかならず外破的なものと対比的に、この内破的性格を明睞に示すわけです。だからぼくは複雑性と細密化ということを信じている。あるいは信じさせられているという人もいるかもしれません。 | |
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あなたの考えられる未来の住居は人類をふたたび人閬化するために細密化を基礎としているのですか。
ぼくは、ぼくらの行動がアダムとィヴに始まる過去の経験にのみ純粋にもとづいていたら何もほんとうには始まらないと思うんです。症候群ばかり兄られるようになってしまうでしよう。現実は人問の生命から始まるという含みで、多くの学者が現象の理由づけなり説明なりを行なおうとしています。じっさいは人間なんかが世界に出現するずっと、ずっと前、三十億年も昔に始まっている
「太陽の炉としての自然」ですか。
そこです。その文句は自然を心地よい、きれいな、牧耿的なものとするロマンチックな見方でない見方で見るためにつくられた。自然はロマンチックな考えとはまるで違う、強力な、強要的な、抜雑なものです。
残酷でもある。
自然は残酷です。現象がぼう犬で、いかなる形態的生命にもある意味でたいへん無関心なのですから。生命とは、ある意味で、ひじように特殊なものが、生命なんか何とも思っていやしない現象を俊食することをいうのです。この残酷、この無関心をおさえる、おさえるに当た沙っては同じ自然を使う、その手段を見つけることができなければならない。人間化という言葉に意味があるとすれば、それは、より多くの物質を変形して、より多くの精神を産出すること。ある意味で物質の精神化が生命 です。ですから人間的ということもこれに付随しないかぎ りたいした意味をもたないのです。
都市の人間化ということになりますと侵略性という のはどうなリます?
ぼくの考えでは、この侵略性理論なるものは相対的なものであって、じっさいには証明されていない。動物的水準で過密問題をとりあげると、それには反対すべきかもしれません。文化的水準で過密をとりあげれば、その過密は、文化が発展するメディアによってひきおこされる。だから都市がしだいに文明の中心になって行くわけです。都市において物ごとが緊迫し、危機的になる。物 ごとがおこり、急速化しはじめる。
われわれの住居を再坟計なさることによつて同時に | |
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意識の再設計も考處されるのですか。
意識はある意味で環境によって設計されてきました。地球がある直径をもち、太陽からある距離で動いていなければ今日のぼくたちは存在しない。ぼくたちは環境的に限定されている。そこから逃れる道はないし、それだからぼくたちはユニークなのです。太陽系内にある地球と柯が太陽系であるかの関係の位置づけ、これはひじょうにはっきりしたかたちで、ぼくたちが何であるかの形態学を定義することになります。これは生命の意志されない部分といってよいでしょう。生命の意志される部分 になるとぼくはスキナーの説に完全につくわけにいかないんです。赏抑に反応するだけじゃない、それ以上のものがあると思う。個人の行動を実証的強化論によってぼくは説明できない。それ以上のものがある、スキナーの行なうように、新しい環境を定義することによって人間を再定義するとか、そんなことはいえない、それ以上のものがあると信じています。ぼくたちはある意味で.ほくたちをとりまく環境の意味するものです。ぼくたちをとりまく環境の性質、性能が新しい水準に移されたとき、 はじめてぼくたちの発展がある。
あなたのやっていらっしゃるような都市センター設計は同時に意識の共営化を促すとお感じですか。
ぼくはティヤール.ド.シャルダンGa naar eind〔註1〕と同意見で、すぐれた個人を得るためには、すぐれた社会がなければならない、すぐれた社会を得るためにはすぐれた環境がなければならない。社会が真に個人個人の協同形態になればなるほど個人は個人化する。これは矛盾していないのです。この強化作用はある意味でスキナー的なものです。
あなたが段計に向かわれるとき、いかに人々をもっと近づけるか、ということをお考えになリますか。
ぼくはいつも腰をすえて人々の住居を設計しているわけじゃありません。まったく根本的な結びつきを見つけようと思っているのです。この結びつきを例証しようとー試みているわけです。まだ都市を設計してくれといわれソたことはありません。ですから都市を設計したことがあロりません。しかしほくが出している材料はーつのアィデ付アの図式的な定義ならびに説明のシンボルにすぎないの的です。そのアイデアは次のような方法論を表わします。 | |
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何か今までより活発なものが生じるときにはかならず何か今までより複雑なものがある。何か今までより抜雑なものがあるときには自動的に複雑性の性質からいって細密化しなければならない、ということです。ですから、生命に役立つものを生み出そうというなら、自動的にも っと複難であり、自勒的にもっと細密化したものを生み出さなければならない。
だいたい西欧世界を考えてばかりの話でしたが、ほんとうの過密がIたとえはインドでのようにー問埋になゥている第三世界Ga naar eind〔註2〕について、あなたのおゥし梦るような都市をつくることは可能でしようか。
可能というだけじゃありません、ある意味で至上命令になるでしょう。利用可能な物質とエネルギーの量は限られていると考えはじめているこの時点における真実です。この時点でぼくたちは道を見つけなければなりませんI成長を限ることによって生命を懲らしめる道ではなく、変容による道、萤的飛躍によって今までと異質のものに逹する道です。これがある意味で内化 (インテリアライゼーション) 、より多くの物質を人煩のための「新風说」とでもいえるようなものに內化することです。ぼくが主張しているのは都市の內化ということです。都市をして內化した環境たらしめよ。そうすると、ある意味で都市は新しい有機体になります。そうなることによって新しい経済体ができます。この経済体は猪神化の過程に完全に関係し、つながっています。新しい有機体の一つ一つが内化された字宙であり、諸有機体がいっしょになり共同して、今までよりも環境を把握しやすい、環境を利用しやすい諸 システムを作り出すことになりましょう。ミツバチの巣がよい例です。シロアリの集団がよい例です。じつに多くの例があります。
そういうミツバチの巣を生きる価値のあるものになさるわけですね。
いや。そういう超システムに人間的要素を入れる。人間的要素とは何か?根本的に共通文化的表現になって現われる心的要素です。ミツバチに生物的水準で可能なことをぼくたちは人間的水準、社会的、文化的水準でやらなければなりません。それがミツバチの巣を都市に変える。こんな類推にギョツとなさるかもしれませんが、そういう超システムが人間、個人に対してどれだけのことをしてくれるか、ゎかってぃただけなぃと凼る。ミツバ | |
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チにとって、そういう超システムは、証拠によって判断するに、ミツバチが生き残り発展するため必要欠くベからざるものです。人類にとっても、人類発展のため必要欠くべからざる、非常に稱極的な道具になるでしょう。生命にとって共同は根本的に重要であることを忘れないでいただきたい。I日たりとも生き残って行けないのです。人間や、組嵌体や、あらゆる種類の日常的機構の共 同にほとんど完全に穎らないかぎりは。
ですが、たとえばカルカッタの心的および文化的要素を注出すると、これはまったく異霣の世界というこ とになります。
生き残るということは問題の一つで、もし目搮が生き残ることにあるなら、カルカッタを扱うのがよいことになるかもしれない。しかし、生き残るということは、もっと希望を燃やしてくれるようなことのための基盤なのです。ですから、よいミツバチの巣を定義したからといって、それでは個人が発見していくためのよい都市、よい環境を定義したことにはならない。ミツバチの巣は道具であって、道具として、ひじょうに限られた種頌の現架にのみ十分役立つというふうなものです。忘れないで いただきたいのは、道具は道具であって、創造者とか音楽家とは別なんだということです。音楽をつくろうと思えば、たとえ声帯にもせよ何らかの装置が必要です。装置があったからといって大声楽家なり大作曲家なりが出て来るとは限らない。ーつの文明をつくり出そうとなれば、つくり出せるような器具が必要です。さっきの『成長の限界』に戻りますが、この研究が、ぼくのいう「量的飛躍」に拥訳されるものならと思います。ー:的飛躍において、より少ない量でより多いものがなされるーそ れを複雑性が可能にする。そしてその物理的側面は細密化の過程になるわけです。
それが起源学Ga naar margenoot+ですね。これもあなたの発明ですが。
起原学が例証しようとしていることです。成就するか しないかは別問題です。
起源学は人間共営化の究極的な道具になるベきでしようか。
恶い意図が隠れていて、それが発展し、ひろがり、メディアもそれにおさえられるとなれば、起源学をもって してもどうにもならないでしよう。じつは悪人のよい道 | |
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具になりかねない。しかし、その危険はかけなければならない。が、ニはニに等しいということは意味をなさないし、それにまた、ぼくたちはみずからも共営的現象なのです。ぼくたちの一人一人をつくりあげている何十傲の細胞は想像も及ばないような組織で見事に調和し自動化した種類の世界を示すよい例です。そういう面が反生命的であるかのように拒否することは、圧倒的便努をもつて生命であるものを無視することになります。その面を超えて行かなければなりませんが、それを拒否する ことによつて超えるということはできません。それを生命 の発展に組み入れることによつて超えなければなりません。
あなたがなさろうとしていらつし,ることは、建築的ならびに心的に人閗の生命を変容することだといゥ てよいでしようか。
建築的にというのは環境の意味で。その環境にいる個人個人は環境を使用するとき、心的に使用するでしょう。出発点は、この環境が個人なりグルーブなりに生きることをもつと有効にやらせるということ。ということは集団なり個人なりの目的によく順応する環境ということです。今日の都会が社会においてひきおこしているフラストレーションのよい例は届けられるべき品物を届けていないということで、根本的な品物とは「情報」です。ほくたちは、どんな種類の生命の相互作用のあつまりに も気をつける。それは情報にかかわるからです。ぼくたちは知りたがる。知りたがるのは行為したいからで、知ってはじめて行為が可能になる。だから生命とはあつまりであり、内破であり、共同である。より多く知り、より多く行動するために。環境がこの目的を破るなら、その環境は反生命で、それを今日の大都会はやろうとしでいるとしかいいようがない。このような相互作用を、このように知ることを、このように見出すことを、このように結びつくことを、このような共同を、このようなも のすべてを破壊しようとしているのです。あまりに多くのものを隔離する傾向があり、あまりに多くのものに対して、あまりに多くの障害を置く傾向があって、ついに個人は身の置き場をうしない、暴力的ないし侵略的な反応をおこすことになります。基盤は道具にあります。目的は道具を超えたところにあります。
将来あなたの浬想は遑成する、実現するとお思いで | |
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すか。
そぅ思いますね。たとえ現在のところ興味は単なる好 奇心にすぎないとしても。 |
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