Seicho no genkai o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
(1973)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
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8 ポール.サミュエルソンポール.A.サミュエルソン (Paul A. Samuelson) 教授は、一九一五年ィンディアナ州ゲリーに生まれた。一九四一年にハーバード大学を卒業して以来、ずっとマサチューセッッ工科大学で教え、現在そこの経済学の全学特別教授である。 一九七〇年、サミュエルソン教授は、ノーべル経済学賞をおくられた。
『成長の限界』のょうな研究を評価するには、二つの異なった観点がありうる。その一つは庶民としての観点である。人は『ヮIルド.ダィナミクス』Ga naar eind〔註1〕や、『成長の限界』のょうな書物が人類の正しい行ないに役立つかどうかをたずねることができる (そして、庶民は人口統計学や工嶪技術あるいは経済学の専門家ではないから、フォレスターとかMITのコンピュータとかの権威を用いれば、庶民に本当の問題に関する警告を与えるという有用な目的を果たすことができる。ここで問趣というのは、豊かな社会がかけがえのない资源をおどろくベき率で使いきり、また、世界が、現在、歴史上かつてない早さで進みつつある、というものである。われわれが意識的に知性を用いて事態に対処していかなければ、紀元二〇〇〇年とか二〇七三年という特定の 年ではないにせよ、将来ある時点において、破局的な諸問題が人類の上にふりかかるであろう。従って庶民の立場からは、私は、フォレスター=メドゥズの仕事は有益であると判断せざるをぇない。 しかし、この種の業績を評価する第二の観点がある。それはその分野の専門家としての観点である。専門家達は何十年もの間データを計測し報告し分析してきた。ここで私の念頭にあるのは、一九七一年のノーペル経済学赏受赏者サィモン.クズネッツのような人達である。次のような問を出してみよう。すなわち、ローマ.クラブの人達は、どんな新しいデータを分析したか、データの | |
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分析にどのような新しい方法を適用してこの分野の專門家の理解を広げることに貢献したか。ところで、予言者は彼の袓国では受け入れられない、といわれることがある。従って、背後の事情がよりよくわかってきた時には、私は自分の意見をかえることになるかもしれない。しかし、現在までのところ、フォレスター=メドウズの研究には新しいデータが乏しい。実際この研究は、事実面では驚くほど皮相的である。 彼らの分析方法はどうであろうか。過去において、フォレスター教授は複雑なシステムの分析の先駆者だった。その点ではわれわれは彼に敬意を表する。しかし現在われわれは世界中に-ロシアのボントリャーギンからカリフォルニスのべルマン、スウ!ーデンのウォルド、ニュージランドのフィリッブスなど-確率的最適制御問題を扱う種々の精緻な方法の専門家を有するにいたっている。事情に通じた専門家からなる審判陣は、ローマ.クラブや『ヮールド.ダィナミクス』の研究における分析手法が、 将来性ある新機軸であるとはみなさないのである。 彼らの方程式は、多数の学者によって分析され、経験的な事実に対するその適合度の検定が行なわれはじめている。これが科学の正常な方法である。だれも、かつて得た栄誉に甘んずることはしない。だれの栄誉も神聖不可侵ではない。唱えられた新しい仮説のひとつひとつが、同僚達による注意深い吟味にさらされなければならない。フォレスター=メドゥズのモデルに対するこの稀の作業は、ちょうどいまはじまったばかりである。したがって私は、敢終的判断を下すのは早すぎると考える。しか し、それらの注意深い検査からえられた第一次的評価と思われるものを、私なりにできるだけ客観的に、要約してみたい。 まず第一に、フォレスターの方法論からえられべ諸結果は、モデルの諸仮定が変化しても堅固に維持され るGa naar margenoot+ものであろうか。あるいは、仮定された諸関係の一部が変えられた場合には、その結果はそれを敏感に反映して変化するであろうか。私は今、ヵリフォルニア大学で行なわれた研究の結果を手にしているが、その中で論者は自己の漸定的な結論を次のように要約している。「フォレスターの世界モデルの諸結果は諸仮定の変化にひじょうに敏感であることが示された」と。ちなみに、この論者とは、ロバート.ボィドである。彼は経済学者ではなく、カリフオルニア州デーヴイス にあるカリフオルニア | |
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大学動物学部にいる。 私はまた、すぐれた若い経済学者、イエール大学のウイリアム.ノードハウス教授Ga naar eind〔註2〕の未定原稿を読む恩恵に浴した。たまたま彼は私が教えているMITの経済学部で博士号をとっている。したがって読者は、彼に対する私のえこひいきを割り引いて、以下を読んでいただきたい。 ノードハウス博士の指摘によれば、フォレスターやメドウズの本に明示されている材料から判断するかぎり、収穫逓減法則に関するわれわれの知識-これは事実知識であるが-が取り入れられていない。すなわち、メドウズや7ォレスターのモデルにおける根本的な脱漏は、価値および使用率に対して希少性が及ぼす影響に、彼らがほとんど住意を払っていないということである。資源が不足になりはじめ、フォレスターのシミュレーションで示されているように、供給のボトルネックが成長率を低下させ はじめると、現実の世界では、それら特定の資源の価格は上昇する。イギリスでは、かつて鉄を熔かすために材木を燃やすことができた。イギリスの森林はやがて滅少し、そのようなやり方を永続的に続けることはできなくなった。そこで材木から石炭への転換が生じたのであった。これこそ、T.ロバート.マルサスGa naar eind〔註3〕が将来の人口増加の悲惨に関する彼の一七九八年の予言で大きな誤りを冒した点である。マルサスは産業革命の驚異を予見しなかった。そして炭業革命の驚異は今なお終っていないのである。 私はいま、ダィソン教 授Ga naar eind〔註4〕のJ.D.パーナル記念講演をよんでいる。この講演は、世界でもっともすぐれた物理学者かつ天体物理学者のひとりであるブリンストン大学高等研究所のダィソン教授が、ロンドンで行なったものである。彼は、遠い未来を眺め、原料を加工-かつ再循環させる新しい生物、すなわち人類にかわって鉱山業と廃棄物処理業とをうけもってくれる新しい生物の開発が生物工学によって可能になるような事態を予想している。ワシントンにある未来資源研究所のクニース 博士が指摘したように、ローマ.クラブ.グルーブのコンピュータによる陰鬱なシミュレーションによれば、われわれのひじょうに多くが将来アスぺストによって誘発されるガンで死ぬことになる。もちろんアスベストが発ガン物質であることは事実である。しかし、とクニースは反問する。来世紀の自動車を止めるブレーキが、病院はアスベストの犠牲者でいつばいだというときに、な | |
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おアスべストで作られているとだれが信ずるだろうか。新たな希少性の状況のもとで、もっとも安くかつもっとも安全とされるきわめて多くの新物質がある。代替が行なわれるとか汚染に対して課税する-課すべきところに負担を課す-とかいう過程は、経济学者には自然に思い浮かぷ過程であるが、多分工学者にとっては、自然には思い浮かばないのであろう。上にのべた研究では、これらの点がすべてもっともらしくいい紛らされ、ほとんどは除外されている。結局、この分野の專家門からなる審 判陣としては、破局の瞬問がやってくる可能性は、二〇七三年でも二二七三年でも二二七三年でも二三七三年でも、それぞれ同じ程度にありそうだと結論するのが正当であろう。 思いつきの議論は、このへんでおわりにしよう。皮肉屋の話では、このごろでは売りこむためには時には売りすぎなければならないそうだ。未来に関する専門家の審判陣の最終評決は、多分、次のようなことになるだろう。「ローマ.クラブの研究は売りすぎに核当する。自己满足からヒステリーにいたる広い幅の上でいえば、彼らはヒステリーの側に偏しすぎるという誤ちをおかしている。」 しかしながら、われわれは厳正な科学の法廷を去って実務家の集まる広場に移動することもできる。政治家、庶民、大衆の中へである。生態系について、ただそのおしゃべりをするのではなく、何かしなければならないのだ、ということを世論に納得させるためには、フォレスターの、メドウズの、ローマ.クラブの、そしてスタンフォード大学の著名なボール.エアリッ クGa naar eind〔註5〕のような生物学者の、売りすぎは、いずれもその最終審の法廷では立派な功績という勲章をおくるにふさわしいと判断されることになるかもしれない。 |