Seicho no genkai o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
(1973)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
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7 バラス. F. スキナーバラス. F. スキナー (Burrhus F. Skinner) 教授は、一九〇四年ベンシルバニア州サスクェハナで生まれた。ハミルトン大学に学び、一九二八年ハーバード大学で心理学の研究を開始。 種々の研究教育職についたあと、一九四八年、心理学ェドガー.ビアス記念講座教授として、ハーバードにもどった。現代のもっとも影響力の大きい心理学者の一人に数えられる。最近の著作『自由と尊厳をこえて』Ga naar eind〔註1〕は学界に大きな諭争をまきおこした。 (『タィム』誌の一九七一年九月二十日号の巻頭記事をも参照せょ) スキナーの小説『第二ゥオルデン』Ga naar eind〔註2〕は一九四八年にはじめて発行されて以来、ベストセラー書のリストにのり続けている。その他の著作には次のものがある。『有機体の行勘』 (一九三八年) 、『科学と人問行動』 (一九五三年) 『言語行動』 (一九五七年) 、『強化の計画表』 (一九五七年) 、『教授工学』 (一九六八年) 。 本書に収められた七〇人の対談者の中で、スキナー教授ただ一人が、対談を原型のまま発表しようとする著者の意図を了解せず、記録を印刷に付すことの承認を拒否した。 交渉の末、『現代心理学 (Psychology Today) 誌の主任編集者、ヶネス.グッドールが記録を現在のような形にかきかえた上で本書に収録することが認められた。 なお著者は、グッドール氏に、氏自身の研究を基礎とし、また、応用行勤分析およびスキナー心理学の人間への応用に関して氏が行なった最初の包括的なサーベィを基礎にした、簡單な諭説を付加するよう要請した。グッドール氏は現在、この主題に関する著書を準婶中で、一九七四年に出版される予定である。 (『現代心理学』誌の一九七二年十一月号における氏の論文「条件づけ活動の実態 (‘Shapers at Work’) 」をも参照せよ。
ねずみとおうむの実験によって行勤科学に新天地を開いたハーバード大学心理学教授B.F.スキナーは、近年ますます人間の条件および人間の存続の問題に開心を | |
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寄せるようになっている。最初はユートピア小説『第二ゥォルデン』 (一九四八年) で、また後には『科学と人間行動』 (一九五三年) で、彼は、人間がもっと生きがいのある入生を送ることができるように文化を再設計する必要を説いた。『自由と尊厳をこえて』が発表された一九七一年までには、彼は、文化の再設計が生存維持の至上命令だとみるようになった。スキナーの主張が広く人々の注意を集めるようになったのはこの本によってであった。彼がこの本でのベたことの大部分は、すでにそれ以前に彼がのべていたことである。しかし今回は、汚染、過剰人口、および戦争という三重の脅威におびえる人々がますます增えつつ ある時期であったために、彼の言葉に耳をかたむける素地ができていた。 『自由と尊厳をこえて』の要旨は、人間が生きのびるためには、スキナー自身が彼の最初の書物『有機体の行動』で概要をのべたォべラント心理学の原理に基づく精巧な行動科学的技術を開発しなければならない、ということであった。この技術は現在開発の初期にあるが、これによれば人間は、今までよりはるかに正確に自分由身の行勒を制御することができよう。スキナーののベるところによれば、行動科学的ュートピアへの逍程には二つの大きな障害があるが、そのいずれも一八世紀合理主義 哲学の残滓である。その一つは、支配からの自由に対する無益な願望であり、いま一つは人間の尊厳に対する盲目的な信仰である。スキナーによれば、人間が自由であるということはありえない。オべラント心理学教の科学的な人間行勤分析によって、人間の行勒は、すべてほとんど例外なく、その物理的および社会的環境によって支配されている、ということが示されたからである。また人間の尊厳ということも、幻想にすぎない。人間は自分自身の行動を自分のせいにすることはできないからであ る。 当然のことながら、スキナーの書物は、多くの読者を憤激させた。彼の見解は、ダーゥインや、フロイトの場合と同じように、人間の伝統的な自己イメージとは根本的に異なった-ましてや、人間を実物以上によくみせるようなことはないような-人間観を表わしている。ダーゥインは、われわれが猿の子孫だといった。フロイトは、われわれが動物的な情念によって支配されているといった。今やスキナーは、自分で自分の生活を制御できないという点では、人間はスキナー箱の中の鼠とえらぶところ がない、とわれわれに信じこませようとしてい | |
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る。 この見方は小人物たちを絶望においやるかもしれないが、スキナーにとっては、むしろ彼が『自由と尊厳をこえて』に書いているように、「わくわくさせるような可能性をさし示す」ものである。「人々が争うこともなく共に生き、必要な衣食住を生産して生活し、美術、音楽、文学、遊技などでみずから楽しみ、かつ他人の楽しみに貢献し、世界の資源のほどよい部分しか消費せず、また世界の汚染をできるかぎりわずかにとどめ、上品に育てうる以上には子供を産まず、彼らの周囲の世界の探究 を続け、それに対処するよりよい方法を発見し、自分自身を正確に知るようになり、したがって自分たち自身を効果的に管理する、というような世界を想像することはむずかしい」と彼はのべた。「しかし、このすベてが可能なのである」-行動主義の科学と技術によって。『自由と尊厳をこえて』の発行一年後、スキナーは、本書の著者ゥィレム.L.ォルトマンズとの対談で、自分の考え方について論じた。自由の概念を定義するよう求められて、心理学者スキナーは、オルトマンズにこう答えた。自由の ための歴史的な闘争は、支配者、雇用者、その他、支配的地位にあるものによる処罰やぎやくたいから、みずからを解放するための闘争であった。その闘争はかなりの程度成功した。その結果、われわれがあまり露骨なかたちの抑圧的支配にさらされる度合いは少なくなった。したいことをする機会が大きくなつた。そして、われわれは、したいことをする時には、自分が自由だと感じているという。しかし、われわれが現実に自由であると想定することは誤りである。スキナ-はいう。「われわれは、 したいことをしている場合でも、せねばならぬことをしている場合とちようど同じ程度に、支配されているのだ。私が主張しているのは、ただ、自分の不自由と感じさせないような種類の支配に対しては人間はなぜ抵抗しないのか。という理由を吟味すべきじゃないか、ということなんだ。」 スキナーによれば、われわれの行為のほとんどすべてがわれわれの環境の歴史の産物であるということは、科学的研究によって示されている。けれども、その関係を理解することは、むずかしい。「自分の行動を開始させるのは自分自身だ、と万人が信じているさ。しかし、私はそうは思わんね。われわれは、まず第一に、その遺伝的資質に規定されて行動するのであり、そして第二に、人間として生まれてきた後に生起した事柄に規定されて | |
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行動する。このことは何を意味していると思うかね。いうまでもない。これらの条件は可変だということさ。われわれがそれを変えることができるということなんだよ。人類の未来を保障するような行動捸式をとるべく入人を誘導するために、世界を全体として再設計しなければならない。もしわれわれが環境を変えなければ、またそれによって人間の行動を変えなければ、われわれの未来はないのだよ」 スキナーは、彼の書物が人々や国々をおどろかせて行動へかりたてることを意図したものであることを、オルトマンズにほのめかした。「おどかしの技術、カッサンドラ流の予言」が必要なのだ、と彼はいった。「人をびつくりさせて行動に走らせなければならんのだ。そんなやり方は私は好きじゃない。人びとが喜んでだね、自然にそれをめざして動こうとするような美しい未来像が提示できるものなら、それにこしたことはない。だが、残念ながら、それとは逆のやり方をとらざるをえないのだ な。恐るべき未来の姿を明々白々に示してみせねばならん。人々が何とかそのような事態を避けるための行動をとりたくなるような未来の姿を。」 スキナーにとつては「唯一の価値」は存続ということなのである。もはや、ある一つの文化が存続するかどうかの問題ではない、と彼はいう。「全体としての人類を考慮に入れねばならんのだ。」しかし存続という価値は、実現が困難な価値である。それは、「存続のための必要条件を理解し、さらにそれらの条件をみたすのに必要とされる諸特性をなんとかして人間行動に持たしめえた時に、はじめて追求すべき価値としての意味を持ちうるような価値」なのである。 この惑星の未来に関するローマ.クラブのモデルは、ひじように重要な一歩だとスキナーはいった。「どんな仕方でもよい。とにかく未来を解明してみせることは、未来にうまく対処する方向へ向けての一歩となるからな。」スキナーによれば、唯一の異論は-彼の眼からすれば決定的な異論だが-このモデルが、「物理学と生物学の技術にのみ注意を集中しがちで、必要とされるであろう行動科学的技術には目を向けていない」という点である。つまり、このモデルは、人間行動の決定者としての環境の 役割を考慮に入れていない。スキナーも指摘するように、「産児制限のゑを用いれば、入口問題は解決できる、そりゃわかっている。問題はさらにその一歩先にあるんだな。避妊するように人をどうやつたら | |
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しむけられるかね。大家族をもつことを誇りに思う気持は、どうすれば捨てさせられるのかね、なんだ二、三人しか子供をもっていないじゃないかといって笑われたりしないようにするには、どうすればよいのかな。それが行動科学の問題なんだよ。避妊法をいくつ見つけ出してみたところで、この手の問題の解決にはなりゃしない。」 期待の增大と過剰人口とが深刻な脅威なのだ、とスキナーはいった。「世界の全人ロの生活水準を、現在一部の国々にみられる程度の高さまで引き上げようものなら、世界はとうていやっていけない。そんなことは問题にもなりゃせん。想像できるかね。たとえば紀元二千年にだ。十億の中国人が何百マィルもの高速道路でスボーツカーをふつとばしているさまを。新しいエネルギー源の奇跡的な発見でもなければ、そいつはどうにも不可能というものだ。」だからといって、もし少数の国が他の国 よりもはるかに豊かであり続けるとすれば、常に戦争がおこることになろう。なぜなら「人間は、必要とするものを持たない時には、持てるものの手からそれを奪おうと思う」からである。そのような世界を避けたければ、「豊かな国が、その生活を簡素化するほかはない。つまり、豊かさをもたらすもととなつた人間行動の極めて基本的な過程自体を、なんとかして意図的に逆転しなけりやならんのだ。」そのためには、「細心きわまる行動工学の大量の応用が必要だ。なにしろ、一番好きなものを あきらめるというのは、人間にとってどうにも不自然きわまることだからな。」 ォルトマンズは、だれが文化をこのような方向に再設計する力をもっているのか、慈悲深い独栽者なのか、とスキナーにたずねてみた。スキナーは、変化は強制されるものであってはならず、文化そのものの中に生まれてくるものでなければならない、と答えた。「文化の再設計にあたってが、‘慈悲深い独裁者’という言葉が意味しうるような権力的地位に、そもそも人がのぼれないようにしておく必要があるんだな」と彼はいった。「支配力-権力にせよ富にせよ武器やその他のものにせよーーを もつものは、ある限られた範囲でしか行動できないような文化を作らねばならん。」 それにしても、誰がそれを先導すべきなのか、行動心理学者なのか、とォルトマンズはたずねた。「行動科学者ができることといえば、提案をするくらいのものだろうな」とスキナーは答えた。それはちようど、土木技師が撟をどうやつて掛けるかについては指導することがで | |
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きても、どこに架けるべきか、いくつ架けるべきか、については指導できないのと同様だというわけである。行動科学者は「方法の推薦はできる。だが、決定は彼が下すのじゃない。人にああしたりこうしたりするように仕むける力は技師にはない。技師にできることといったら、決定権の持主に向って、所期の目的の達成を確実にするためには何をしたらよいか教えてやることだけだ。」 そういった後でスキナーは、ローマ.グラブのモデルに行動科学的変数を加えることは可能であろう、と断言した。技術は急速に発展しつつある、と彼はいった。「行動と環境との関係については、ひじょうに多くの知識が得られつつあるところだ。精神療法 (サィコセラビー) とか教育、産業その他の分野で、よりすぐれた技術が生み出されている。今日、教育の分野では大きな進歩がなされているんだよ。教育不能と烙印を押されてきた子供達でさえ、波らにとってのよりよい環境を作り出してやることによって、教育できるようになっているの だ」。 成長の限界の探究において、行動科学的要因はきわだった重要性をもっている、とスキナーはのベた。なぜならば、「人間を今日あらしめたのは、人間行動の特性なんだが、他方今日直面している困難の方も、他ならぬこの特性自身がいろいろな形で生み出してきたものだからな。」事実、「期待すべき唯一可能な成長の限界とは、人間行勤の科学的分析に基づき、またそのような分析を考慮に入れた政策形成に基づいて出てくるような限界なのだ。」 以下は、この項目の補足として、グッドールとの対談を記録したものである。
あなたは、スキナー心理学の原理に基づいた行動科学的技術の開発と応用に関する最初の全面的な研究を完成させようとしていますね。この技術はどの程度進歩しましたか。
たとえば子供の救育といった特定の分野では、相当進歩しました。その開発がほとんど偶然的に行なわれたもので、人間を月におくる埸合のような政府による继続的な支援が何もなかったという事実を考慮に入れれば、なおのことです。
この開発はどこでどうやって行なおれてきているのですか。
B.F.スキナーがそのすベてを始めたのですが、ハ | |
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ーバードにおける彼の大学院生の二、三人に直接影響を与えたことと、彼が『有機体の行動』で一九三八年に概要をのべたその原理に感銘をうけた他の若干の若い研究者に対する間接的な影響を通して、研究が進められました。動物実験家にとっては、ねずみとかおうむの行動の分析からもっと複雑な人間という動物の行動の分析に進むのは、自然な歩みだったといえましょう。しかし、実験家がそれだけの大きな前進をとげるのに、スキナーが彼の本を刊行してからほとんど二〇年近くもかかった のです。スキナーは、この遅れの責任が、人間に內在する自由とか尊厳とかいう使い古された観念にあると非難していますが、私も彼に賛成する気になります。たとえば囚人の尊厳といったことについて讁論するのは、すばらしい高貴な感情です。しかしその場合の「尊厳」という言葉は、機能的ではありません。私にとっての尊厳なるものはあなたにとっての尊厳ではないかもしれません。
しかしだれがあなたにとゥての「尊厳」や、私にとっての「尊厳」を定義するのですか。
行動工学者は、行動科学的な用語でわれわれ各人にとつての意味を明確に説明する方法を発見しています。彼らは、私にとっての「自由」と「尊厳」とを構成する八つか十の主要な項珥を列挙することができるでしょぅ。そして彼らは、それぞれの項目が生ずる頻度を測定することができます。たとえば、朝おそくまで寝ていることが私の自由の重要な要素かもしれません。刑務所の中では、この自由はおそらく私から毎朝とりあげられるでしょぅ。刑務所で私が朝寝する回数と、刑務所の外で、私 が朝寝する回数との差が、私がこの自由をどの程度失ったかの行動科学的尺度になるわけです。もちろん、工学者による私の自由の定義は、私を自由だと感じさせる特定の行動に限られています。刑務所長とはちがって、あるいは社会改良主義者達ともちがって、彼らが私の自由を定義することができるためには、前もって私に相談しなければなりません。ここで、あなたのさきほどの質問にあらためてお答えするとすれば、行動主義者は個人の自由を行動科学的用語でいい表わすことができます。彼 らはそれを測定することができ、またそれを操作することができます。しかし彼らはそれを定義することはできません-ただ個人だけが、彼自身の行為を通してそれを定義することができるのです。しかも、その定義は、毎日かわるかもしれません。 | |
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それどころか一分ごとにかわるかもしれません。
すぐれた行動工学者の名前をあげてみて下さい。彼らの最大の成果は、どんなところで挙げられたのでしょうか。
成果の大部分は、チームによる努力の結果うまれました。実際、スキナーの理論-一個人の業績は、ほとんど全面的に彼の物的および社会的環境の産物であり、従って、個人はほとんど、あるいはまったく手柄に値しないという理論-そのものがチームワーグの必要性を強凋していますし、科学の発展が偉人によるという説をみごとに葬ってしまいました。応用行動分析家-行動工学者-は、明らかに、この理論を彼ら自身の生活の中でうけ入れているのです。彼らは大きな活動センターでグルーブを作って 仕事する傾向があり、各人は個々の、しかしすベて相互に関連している問題にとり組みます。チームは、ハーバードの他に、サザン.ィリノィ大学、シアトルのワシントン大学、カンサス大学その他いくつかの場所で作られています。カンサス.グルーブ-ドナルド.ベア、B.L.ホブキンズ、バーバラ.エッツエル、ジェームズ.シヤーマン、バンス.ホール、トツド.リズリー、モントローズ.ウルフ、ドン.ブッシエル-は、過去七年間、信じられないほど生産的でした。彼らの仕事は正常児と障害児の両方を含む子供達 の学習問題に集中されてきました。しかし彼らは、成人の問題にもとりくんでいます。学習問題というものは、もちろん勉強の成績と同時に、社会的相互作用をも含んでいます。くつのひもの結び方を習うというような一見初歩的な仕事でも、このことがいえます。三歳児にとってはそれは初歩的ではないわけです。ところが、カンサズ.グルーブは、三歲児にこの仕事を一時間以内で覚えさせ、しかもほとんどまったくまちがえないようにする方法を発見しました。彼らは、ゲットーの学校の学習おく れの生徒、発育遅れや自閉症や脳障害のある子供、潜在的犯罪者、言語障害のある人、その他あらゆる種類の施設収容者の生活に新生面を開く助けになっているのです。彼らはまた、この人達が達成した成果をできるだけ維持するようにするために、この人達の両親や家族とも共同作業をしています。
この種の臨床的な仕事が、行動工学者による人類の福祉への貢献の主なものになつていくのでしようか。 | |
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答えるのは早すぎるかもしれませんが、私は、彼らの主要な貢献は、新しい社会契約の基礎を樹立することにあるのだと信じたいと思います。合衆国憲法はいくつかの権利を保証しており、また、わが国のさまざまな法律はこれらの権利に対してあるていどまでおたがいが承認した限界を設定してきています。しかし今日までのところ、われわれは、各個人がそれらの権利を正確にいってどの程度までもつのか、あるいはもたないのか、を設定し測定する方法をもつにいたっていません。行動工学に よって、われわれはそうすることが可能になります。また、行動工学によって、公平な配分を保証する一手段-すなわち行動科学的契約-が開発されつつあります。もし行動科学的契約の締結が大規模に実行に移されることになれば、たとえば囚人は、彼の尊厳の内容や、波の自由の限界、そして多分もっとも重要なこととしては彼の出獄を可能ならしめる正確な行動內容、に関しての明確に規定した契約を、刑務所長や国と結ぶことになるでしょう。そうすれば、彼らの釈放は、仮出所審査会の主観的判 断によるのではなくて、彼らがその作成に一役かっている契約条件の履行に依存することになります。同じような形で、われわれは自分の雇い主と、あるいはわれわれが選んだ官吏たちとも、行動科学的契約を結ぶことができます。戦争終結を政策にかかげて当選した大統領は、戦争をおわらせる契約を結んだことになります。もし彼がそれを履行しなければ、一定の審査を経て、結局は予め明示された手続きにより職を追われることになるかもしれません。最後の例はちよつとのりすぎかもしれませ んが、われわれの公選官吏が、彼らを選んだ国民に資任を負うようにするためには、何かがなされなければならないのは明らかです。
あなたは、結局、行動工学はその中に政治革命ないし社会革命の素因をもっているといゥているのですね。
まさにそのとおりです。そしてこれもまた、地球の未来のモデルに行動科学的次元を含ませるべきだというスキナーの忠告に、ローマ.クラブが従うことが大切だとナ私が思う、大きな理由です。 |