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Soren no tachiba. Detanto no hokani michi wa nai (The Sovjet viewpoint. No alternative to detente) (1983)

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Titelpagina van Soren no tachiba. Detanto no hokani michi wa nai (The Sovjet viewpoint. No alternative to detente)
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Soren no tachiba. Detanto no hokani michi wa nai (The Sovjet viewpoint. No alternative to detente)

(1983)–Georgi Arbatov, Willem Oltmans–rechtenstatus Auteursrechtelijk beschermd

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2 大戦の帰結から封じ込めへ

- だがそうはならず、間もなく冷戦に突入してしまった。A 冷戦をテーマに取り上げた本は数多くあるし、これからもまだたくさん出版されるだろう。冷戦は今でも新鮮さを失わないテーマだが、この問題をめぐるわれわれの見方は、冷戦の責任をソ連に押しつけるアメリカの支配的見解とはまったく違っている。われわれは、主な責任がまさにアメリカとイギリスにあると考えている。ついでに言えば、この点はアメリカのいわゆる「修正主義派」の歴史

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家たちが過去二〇年間にたっぶりと立証してくれた事実だ。

- そうした一派には、ネオ・オ-ソドクス(新正統派)からの批判も出ているが。A よく知っている。正統派というものはなかなか減びないものだ。だが私はアメリカの歴史家の間の身内の争いに口出ししたくはない。われおれの観点からすれば、全体の状況がどう見えるかを説明できるだけだ。

原爆投下とチャーチル演説を契機として

- 冷戦が急速に進みはじめたのは、ソ連がマーシャル・ブランを拒否したからではないのか。

A モスクワから見ると、冷戦はずっと以前に始まっていた。ー九四五年春、第二次大戦終結の数週間前にすでに、われわれはアメリカの政策の変化に気づいていた。

ハリー・S・トルーマン大統領はソ米関係の多くの分野で、ルーズベルト大統領と違う立場をとった。戦争が終わったまさにその日に、武器貸与法に基づく武器援助は突然打ち切られ、ソ連に向かっていた何隻かの船は引き返した。多額の再建融資を提供するという約束は破られた。それにもちろん、広島と長崎に原爆が投下されたが、これはわれわれの見方では、第二次大戦の最後の集中爆撃ではなく、冷戦を予告する最初の集中爆撃だった。原爆を投下したのは、敵と同盟国の両方を脅かすためだ った。言い換えれば、ヘソリー・スティムソン陸軍長官が日記に記していることだが、「ロシアを説得して協力させるため」だったのだ。

次に、これもマーシャル・プランより前に、ウィンストン・チャーチルがミズリー州フルトンで例の悪名高い演説をしたが、事実、この演説は冷戦を布告するものだった。忘れてならないのは、チャ

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ーチルのこの「鉄のカーテン」演説はハリー・トルーマン大統領がその場に出席し、公然とお墨つきを与えたということだ。そして一九四七年二月、トルーマン・ドクトリンが発表されたが、これは全世界的な反共聖戦を呼びかけるものだった。マーシャル・プランが発表された当時の政治的状況はこのようなものであり、こうした状況からこの計画が真に意味するものは明らかだった。

後になって、ソ連が「公正な取引」を拒否し、代わりに冷戦を激化させる道を選んだという説が捏造された。しかし、最近解禁されたマーシャル・プランについてのアメリカの文書を調べてみると、この計画はソ連に拒否されるように慎重に計算されたものであったことが明らかになる。アメリカの当局者たちは、ソ連がこの計画に参加することに同意するのを恐れてさえいた。

ジェームズ・フォレスタル〔元国防長官〕は、「もし彼らが本当に参加してきたら目も当てられないだろう」とこっそり打ち明けていた。チャールズ・ボーレン〔元外交官〕はずっと後になって、「ソ連をあからさまに締め出さなかったのは、どでかい賭けだった」(D・ヤーギン Shattered of peace: The Origins of the Cold War and the National Security State ボストン、ホートンミフリン、一九七七年、三一五ページ)と告白している。

- 言い換えれば、一九四五年以降、アメリカからはっきりと敵意を感じたということか。

A 情勢が一変したことに気づいた。実際、ワシントンから戦争の脅威さえ感じたのだ。

- 西ヨーロッバで一九四五年以降、ソ連が侵略するのではないかと恐れたのは事実だ。そ

のために私の家族は南アフリカに移住し、私は一九四五年に国際関係を学ぶためにエール大学に行った。

A そういうたぐいの恐怖が西ヨーロッバにあったことは想像できる。一部には、その恐怖は戦後ヨーロッバの、非常に不安定な心理的風土に根ざしている。何といっても、ヨーロッパは一九三九年か

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ら四五年にかけてとてつもない試練を経験したからだ。

だが、こうした恐怖を生み出した第一の理由は、第二次大戦直後からソ連への善意の気持ちを消し去るため開始された「ソ連の脅威」キャンペーンのせいである。ソ連への善意の気持ちは本物で、広く存在していた。なぜなら、ヨーロッパをナチスから解放するうえで決定的な役割を果たしたのはソ連だったからだ。

この点で、今日西側で進行している事態と当時の情勢との間には、非常に気がかりな類似性がある。相変わらず、不合理な偏見や恐怖が同じ目的、同じ方法で利用されているからだ。そしてまた以前と同じように、恐怖をまき散らす者たちは、大衆やエリートを反ソ的世論に結集させようとしながら、結局はこのつくられた恐怖そのもののために、自分たちも正常な判断を失ってしまうかもしれない。「ソ連の脅威」という戦後の受けとめ方については、西側に恐怖があったことを認めるにしても、 脅威にさらされていると感じる理由は、ソ連側のほうがはるかに多かったということを強調しておきたい。そしてこのソ連側の気持ちは、後にアメリカの本物の戦争計画が明らかになったとき、十分根拠があったことが証明された。

終戦時、すでに対ソ核戦争計画

- 戦争計画・ようやく平和が実現したばかりだったときに。A そう、アメリカの意図についてわれわれが抱いていた一番恐ろしい疑念には、当たっていたものもあった。これを文献で知ることは、今日でも目を開かれる思いがすると同時に、いやなものだ。すでに一九四五年末には、アメリカの軍首脳部はソ連への核攻撃の準備を始めていた。合わせて人ロ千

百万人のソ連の大都市二〇が、先制第一撃で原子爆弾一九六個を投下する目標に選ばれていたのだ。

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- 西ヨーロッパでは、そんなことは何も知らなかったし、今でもその計画のことを知らない人がほとんどだ。

A そうだとしても、最近解禁されたアメリカ政府文献、たとえば一九四五年一二月付の統合参謀本部統合情報委員会報告第三二九号が示しているように.その計画は本物だったのだ。この報告や続いて作られたこの種の報告は、一九四六年から四九年にかけて「チャリオティア」「ダブルスター」「フリートウッド」「トロ:ジャン」などの暗号名の下に作成された詳細な戦争計画の基礎となったものだ.

戦争準備は一九四九年の「ドロップショット」で最高潮に達した。これは一部の中東、アジア諸国の支援の下に,NATOの全軍隊を動員する対ソ全面戦争の計画だった。実際のところ、第三次世界大戦の青写真だった。「ドロッブショット」で原子爆弾約三百個を投下してわが国を破壊する-「アトマイジング」と通称された-計画だっただけではない。アメリカ軍部隊がわが国を占領し、続いてソ連体制を根絶することも想定していた。仕事熱心なワシントンの作戦家たちは、わが国領土に将来成立する政権 の行動規範までも、念入りに形成していた(アンソニー・ブラゥン Drop shot: The American Plan for World War III Againstin 1957 ニューヨーーク、ダイヤルブレス、一九七八年、四五ページ)。世界をファシズムから救うために二千万以上の生命を失った昨日の同盟国に対して、カルタゴの平和が用意されていたのである。

- 気違いじみた話に聞こえるが、偉大な戦争の英雄ウィンストン・チャーチルが当時、ソ

連を核爆弾で破壊するよう提案したことも、やはり記録に残っている。

A その通り。チャーチルは少なくとも二回そういう提案をした。最初にその種の発言をしたのは、アラン・プルックが日記に記録しているところで、戦後間もなくだ。

- ヘンリー・カボット・ロッジ〔元米国連大使、元駐南ベトナム大使〕は回想録のなかで、似

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たようなエビソードを語っている。

A あの当時、ソ連はそうしたサイソを数多く受け取り、きわめて深刻に受けとめざるをえなかった。あのころの脅しは言葉のうえだけのものでになかった。

- これはそうした戦争計画を作成した軍部の願望思考にすぎなかったのではないか。

A 願望思考の産物も確かにある。しかし現実の政策も存在したし。この政策は言葉よりも雄弁に実態を物語るものだった。大規模な軍拡競争やNATOの増強が進み、軍事基地や第一撃爆撃機部隊がわが国を包囲した。

対ソ核攻撃の恐るべき計画が、机上のもので済んだのは、結局、理性がアメリカ政府内で勝ったためというよりも、むしろソ連の軍事力が強まった結果、何よりもまずアメリカの原子力兵器の独占が急速に終わったためだと思う。アメリカ政府は、ソ連に対する予防核攻撃をまじめな政策の選択肢と考えたが、これに勝てないことがはっきりしたため、これを退けざるをえなかった。一九四九年には「トロージャン」と呼ばれる米戦略空軍司令部の核第一撃計画が非現実的だとしてタナ上げされた。

国家安全保障会議(NSC)文書NSC-68は.ソ連に対する予防戦争を勝利不可能とみなした。

「ソ連に強力な打撃を与えることはできるが、こうした作戦だけではクレムリンに降伏を強いたり、降伏するように仕向けたりする結果ににならないと推定される......」(トーマス・イーッォルド、ジョン・ルイス・ガディス共編 Containment: Documents on American Policy and Strategy 1945-1950, ニューヨーク、コロンビア大学出版.一九七八年、四三一べージ)と、この文書は述べている。「ドロッブンショット」についても、強い疑問が出された。

- たぶん原爆が足りないと思ったのだろう。

A それだけではない、核電撃戦では済まず、アメリカが全世界を破壊する際限のない消耗戦に巻き

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込まれるのではないか、という懸念が深まっていたということもある。だからそのころにはもう、核時代には軍事優位に限られた価値しかないということが明らかになっていたにずである.

- その点はどうもまだはっきりしていないようだ。

「封じ込め」の真相

A あの当時、アメリカは冷戦政策の進め方をある程度修正したが、目標はもとのままだった。アメリカは予防戦争を当面タナ上げにして、冷戦下の対ソ政策の基礎として「封じ込め」ドクトリソを採用した。

それはせんじ詰めれば、ソ連にあらゆる点で、絶え間なく圧力をかけることによって、ソ連の政治体制を破壊することを目的とした戦略だった。いろいろな種類の圧力があるなかで、軍拡競争はソ連を疲弊させる一つの方法とみなされた。このドクトリンを解説しようとしても、その創案者たちにはとてもかなわないから、一九五〇年に作成され、七五年に公表された「封じ込め」の公式バイブルともいうべきNSC-68から重要な部分を多少引用したい。

この政策の主要な手段は、圧倒的な軍事優位であるとされた。「現に存在し、直ちに動員できる優越した総合的軍事力がなければ、"封じ込め"の政策ー計算に基づいて徐々に強制する狙いを持つといっていい政策-は、政策上のはったりにすぎなくなる」(前掲書、四〇ニベージ)と、この文書は率直に述べている。また、そうした優位を築くまでは、ソ連とのどのような交渉も「(軍備増強)計画に国民の支持を取り付けるうえで望ましい戦術でしかない」(前掲書、四二三~二四ぺージ)と述ベている。

そのほかの手段で、提案されたあと積極的に採用されたもののなかには「対ソ忠誠からの集団的離反を促すよう計画された公然たる心理戦争」や「一部戦略的衛星諸国での動揺や反乱を誘発、支援す

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ることを目的とした経済戦争ゃ政治・心理戦争の分野での、秘密手段による大胆で、時宜にかなった措置や作戦の強化......」(前掲書、四三五~三六ぺージ)があった。

- だが計画は計画でしかないことが多い。そういう気違いじみた考えは必ずしも、つねに実際に試そうというものでしかない。

A いや、そうではない。こういう計画は決して単なる夢物語ではなく、実際に運用される指針だったのだ。われわれが一九五〇年代にアメリカからこのような扱いを受けたのは事実なのだ。

NSC-68でもう一つ興味深いことは、一方で攻撃的な路線をとりながら、同時に罪のない受け身の体裁を取り繕おうという考えにいつも取りつかれていたことである。NSC-68は「どのような政策発表や、採用した措置の運用に当たっても、本質的に防衛的な性格を強調し、内外の好意的でない反響をできるだけ少なくするよう配慮すべきである」と冷静に勧告している。こうした措置はすべて、最終的な目標、つまりソ連の影響力を後退させ「ソ連体制の性質を、根本的に変えること」(前掲書、四三四、三八九ペ ージ)を目指していた。

- ブレジンスキーはソ連の国内情勢に影響を与えようと外交努力を集中したようだが。

A その種の政策の頑固な支持者だというブレジンスキーの評価はすっかり定着している。ブレジンスキーは過去にそういう政策を形成することに貢献したし、十分に推測できることだが、政府に参加してからもそうした努力をやめなかった。内政問題への干渉という手段で、ソ連国家を「改造する」というNSC-68でドクトリンとなったこのテーマは、カーター政権の発言や行動によく見られたし、その後継者たちもすぐに採用した。

- アナトリー・ドブルイニン大使はヘンリー・キッシンジャーに、一九五九年から六三年

にかけて超大国間の関係を改善する機会が幾つも失われた、と指摘したというが(キッシンジ

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ャー The white House Years 一一三ぺージ)。

A 大使の見解に全面的に同感だ。核戦争は考えられないし、自殺行為であることに気付きはじめたアメリカ人が多くなったのは、一九五〇年代の末、ソ連の人工衛星、スブートニクが打ち上げられた後だった。冷戦の氷を砕くため、幾つかの措置がとられた。私の頭に浮かぶのは一九五九年のフルシチョフ・ソ連首相の訪米で、続いて六〇年にはアイゼソハワー大統領がソ連を訪問することになっていた。残念ながら、そうした努力は実らなかった。

- ソ連上空でゲリー・パワーズ飛行士が撃墜されたU2事件の結果ということか。この事

件は一部の専門家によると、アイゼンハワーがパリで、フルシチョフとの会談に成功するのを阻止するため、CIAが故意に仕組んだとされているが。

A この事件をめぐるCIAの陰謀は知らない。もっとも、最近伝えられたことだが、CIAがアイゼソバワーのモスクワ訪問が実現した場合に備えて、大統領専用機に偵察機器を取り付けようとしていたことは知っている。

U2の飛行は大統領自身が承認したのに、大統領がそのことをひどく不器用にもみ消そうとしたから、パリ首脳会談は失敗に終わったのだ。このェピソードは全体として、やや馬鹿げていて、まるで偶発的な事件のように見えながら、しかし実体をはっきり見せてくれた。つまりアイゼンハワー政権は、通常の情報収集活動を、ソ連との関係を改善する好機よりも重視したということである。こうして、大きく事態を改善できたかもしれない機会が失われた。

ケネディ政権の最初の二年間にも、見逃された機会が幾つかあった。発足早々「ミサイル・ギャップ」を強調したことと、キューパのコチノス湾上陸侵攻作戦を敢行したことで、ほとんど身動きがとれなかったからである。ケネディ政権が対ソ冷戦姿勢の再検討に着手したのは、キューパ・ミサイル

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危機のショックを経たあとのことだった、その結果、部分核実験停止条約調印などの建設的措置が幾つかとられた。しかしその後、ケネディ大統領の暗殺で、こうした歩みも突然中断された。

とどのつまり、平和共存に代わる妥当な方法はない。しかし国際関係で最重要なこの事実を理解するのに手まどれば手まどるほど、結果は途方もなく高くつくことになりかねない。一九六〇年代の経験はこのことをはっぎりと証明している。われわれに五〇年代終わりから六〇年代初めにかけて試みても成功しなかったような両国関係の打開を、七〇年代初めになって何とか達成できた。

しかし丸々一〇年間が失われたのであり、非常に高価な損失だった。その結果、途方もなく軍事力が増強された。キューバ・ミサイル危機は人類を戦争の瀬戸際に追い込んだ。

- ディーン・ラスク〔元米国務長官〕によれば「真正面からにらみ合った」。

A そうだ。そのあと東南アジアで戦争が始まり、これはアメリカ国内に危機をもたらしただけでなく、その後長期間にわたって国際情勢を混乱させた。

次いで一九六七年に中東で六日間戦争が起きた。われわれに一五年もたった現在でも、あの紛争の長引く余波を受けている。中東は依然として絶え間ない争いの温床であり、適切な解決らしきものは何も見えてきていない。もっと小さい危機も幾つかあった。こうした危機の多くは、全体的な緊張緩和の情勢の下だったら避けられたはずだ。

復活する古くて幼稚なソ連観

- だが六〇年代の緊張を経て、七〇年代初めには事態がよくなったのではないか。

A 確かによくなった。そうした一連の出来事の重要性を軽視したくはない。それはアメリカの外交政策にとってまさに正念場だった。

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一九四〇年代終わりから五〇年代初めにかけて立案された政策全体の枠組みが、深刻な欠陥をさらけ出しはじめた。それはあまりにも現実からかけ離れ、アメリカと世界が直面している現実の諸問題とのかかわりをひどく欠いていた。アメリカ人の多くは、六〇年代終わりから七〇年代初めにかけて、アメリカの外交政策があまりにもしばしば非生産的なことに気づいた。

- 米ソ関係はそうした変転を経てきたのに、一九八〇年になって五〇年代の冷戦の時期に

逆戻りしたように見えるが。

A その通り。だれもがなにがしかの確かな教訓を学んだはずの、悪夢のような経験をずいぶんと積んだのに、アメリカ政府はまたもや同じ言葉を使い、同じゲームをしているように思える。だがもちろん、時代は変わった。歴史がくり返すことはありえないし、くり返すことはないと確信している。過去の経験を無視することはもちろん、忘れたかのように振る舞うこともできないはずである。

- ユージン・ロストウは軍備管理軍縮局長に就任する前、私とのインタビューで、たとえ

ば一九五八年、アイゼンハワー大統領はレバノンに海兵隊を派遣できたが、今ではアメリカ

政府にはこんな行動がとれないほど、アメリカの力が実際に低下したと指摘した。

A アメリカがこのように力を失ったのは、軍事力が弱まったからではない。アメリカの軍事力は一九五八年以来、着実に増大してきた。しかしアメリカを取り巻く内外の環境が大きく変化した結果、その種の海外での作戦が非常に高くつくものになったのだ。ベトナム戦争は、その点を非常にはっきりさせた。しかし、いまやロストウがぐちをこぼしても、そのぐちとは別の流れがうかがえる。ベトナムの教訓を「捨て去り」、軍事的干渉主義をアメリカの政策遂行の手段として取り戻そうと、懸命に努 力していることである。

今復活しつある冷戦政策は、四〇年代終わりから五〇年代初めにかけて、表向きアメリカの利益〔当

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時はもったいぶって「自由世界」の利益と一体のものとされた)に対する唯一の敵、ソ連からのいわゆる「脅威」への鰐応策として作り上げられた。

アメリカ政府は軍拡競争、軍事基地と同盟関係、さらに対ソ経済封鎖、心理戦争などの破壊活動という手段によって、目標を達成できると公言した。しかし「ソ連の脅威」が作りごとだったから、このような冷戦思考にはすべてそもそもの初めから欠陥があった。結局、アメリカでは、自分たちの本当の問題がソ連とはまず関係ない、いうことを理解する人たちが多くなった。

今日、こうした問題がさらに増える一方で、ソ連を悪魔の本拠地とし、アメリカのすぺての悩みごとの根源だとする古くて幼稚な見方がまた頭をもたげてきている。だが仮にアメリカがソ速に最も敵対的な道を進んでも、第二のイラン、第二の一一カラグアを防ぐことができるだろうか。失業を減らし、エネルギー問題を解決し、ドルを強め、イソフレを抑えるのに役立つだろうか。そして最も重要なことだが、そうした政策がアメリカの安全保障に貢献するだろうか。

アメリカの対ソ軍事優位が永久に失われ、決して元には戻らないというのが、まさに現実である。対ソ軍事優位を実現するという目標が、アメリカの公式の政策として復活しているのを見ると、ただ驚くほかない。それに、軍事優位は何の役に立つというのだろう。次から次へと新しいタイブの大量破壊兵器が開発された結果、伝統的な概念の多くが通用しなくなり、事実、合理的な政治目的のために軍事力を用いるという考え方そのものが、疑問になってきた。

またアメリカとその同盟国との関係にも長期的な変化が生じている。アメリカの同盟国は経済的に以前よりもずっと強くなり、政治的にはワシソトソへの従属匿を弱めてきている。これら諸国は自分たちの利益を考慮に入れるよう要求している。そしてアメリカが海外で企てる冒険のあるものは、これら諸国の間に深刻な懸念を引き起こしている。

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- ベトナムのことか。

A あれは冒険の一例だが、非常に深刻な影響を残した。最近は外交政策上、最も重要と言えるかもしれない問題について、アメリカと同盟国との問の関係にますます紛糾がみられるようになった。

- しかし、ヘソリー・ギッシンジャーは、ワシントンが強く異議を唱えるような政策を断

行できる西ドイツの指導者はいない、と強調している(前掲書、五三〇べージ)。

A この問題でキッシソジャーと論争するつもりはない。なるほどアメリカにまだ、NATO内で一種の支配権を維持している。しかしかならぬキッシンジャーが同じ回想録のなかで、ウィリー・ブヲソトの東方政策について、アメリカ側は、この政策を特に好ましいものと思わなくても、つとめて慎重でなければならないと書いているではないか。アメリカとその同盟国との関係には、もちろん重要な変化が起きた。アメリカは、かつてはただ命令すれば済んだ問題についても、今では政治や外交に頼らざるを えなくなっている。

- リチャードニクソソとヘンリー・キヅシンジャーも確かに、西側諸国との関係で後退

を味わった。

A そうだ。そしてカーターが大統領選に出馬したとき、カーターとその仲聞は、共和党が酉西関係で失敗したという点を、選挙戦の重要な争点の一つにさえした。しかし結果から見ると、カーター政権もこの点であまり成功したとはいえない。

同じことが多分、その後継者についてもいえるかもしれない。同盟国がアメリカに従って、第二の冷戦に巻き込まれることを望んでいるとはとても思えない。これらの諸国はワシントンを喜ばせようと計算して、いろいろなことを言ってにいるが、一般的に言って、行動に移すことには消極的だ。

アメリカに寄せる同盟国の信頼感が損なわれていることを示す兆候は多い。だがその関係がまだ不

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均衡なものであることは確かである。もしアメリカが本当にその気になるか必要に迫られれば、特定の問題で同盟国をむりやり従わせることはおそらくできるだろう。その点でキッシンジャーの言うことにも多分一理ある。ただ同盟国を無理強いすることは、アメリカと同盟国双方にとって、ますます高くつくようになるかもしれない。


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