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5 再び緊張緩和の時代を
- ソ連とアメリカの関係に戻るが、多元的でまとまりに欠け.時として大荒れをみせる社会と、秩序があり中央集権化した社会との間で本当の共存がありうると思うか。
A どんな社会でも荒れれば、それとの共存はどんな社会にとっても難しい。しかし国家的ヒステリーは例外的な事態として、いまはさしおいて考えよう。
アメリカの多元性についていえば、最近の緊張緩和の後退をそのせいにするのは、それをスケープゴートにしているにすぎない。われわれはアメリカ社会が複雑で、寄せ集め的で、幾つかの面では地方分権的であることを知っている。そのうえでわれわれは、ありのままのアメリカ社会と共存する用意が十分ある。
- しかし、アメリカ議会がもう少し統制がとれていて、SALTのような緊急の問題で大統領を支持できるなら好都合だということはあるのではないか。
A 確かにそうではある。しかし、われわれは現実主義者でなければならない。議会はアメリカ政治の仕組みのなかで重要な役割を果たしている。そしてこれまでその議会とかかわりを持ってきた経験から、現在ワシントソにある政治過程というものを、われわれは十分理解している。
もちろん、人ロのごく一部しか代表していない少数の上院議員が、アメリカ全体にとって死活的で、
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時には決定的な重要性を持つ条約を阻止できるような手続きが賢明かどうかについては、疑問に思うことがあることも告白しなければならない。たとえば、世論調査によると、アメリカ国民の七〇%以上の多数がSALTIIを支持しており、これに反対するものは一〇ないし一五%にすぎない。しかし、こうした手続きはアメリカ人だけが決定できる憲法上の事柄と理解して、われわれはそれを問題にはしない。
そしてまた、緊張緩和は、ワシントンでの真剣な政治討論に耐えうるとわれわれは確信している。むしろ討論すれば、それだけ緊張緩和の立場は強まるはずである。われわれの意見では、貿易やSALTについて問題を作り出したのは、議会が持つ憲法上の特権などではない。この点は、アメリカの報道機関に広くみられる独断的な反ソ主義が報道の自由の原則のせいではないのと同じことである。
問題は、アメリカの多元性が軍産複合体のような、確固とした基盤と広範な影響力を持つパワー・エリートの勢力に最大限効果的に利用されているということである。彼らの関心は、緊張緩和の基礎を危うくし、ソ連とアメリカの関係を損なうことにある。これら勢力とは利害を異にする人たちや全体として国益を代表するにちがいない人たちさえ、こうした勢力の猛攻撃にうまく対抗することができず、その結果、緊張緩和はいま困難に陥っているのである。
- しかし、アメリカはまとまりが悪いために、あらゆる力を総動員してソ連との激烈な競争に立ち向かうことが難しいのだ、という議論もあるが。
A この議論は実は、アメリカがソ連との共存に同意するには、その前にソ連のほうがいまより「まとまりが悪く」ならなければならない、という考え方の裏返しである。
進歩派はおおむねソ連がまとまりが悪くなることを期待する。保守派は、アメリカがいまよりまとまりがよくなることを期待する。極右はその両方を望んでいる。しかし、アメリカを自分たちの望み
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通りに組織してゆくのはアメリカ人の自由だが、ソ連の憲法上の体制や、社会をどう組織してゆくかの問題は、われわれにまかせてもらわなければならない。それに、こうした割り切り過ぎた比較は、すでに指摘した重大な問題点を見すごしている。
本当の競争は、社会体制の問の競争である。つまり、現代の人間に幸幅で生きがいのある生活を提供できるかどうかの能力をめぐる競争である。この点を強調することは大事である。というのもアメリカ人が「力の総動員」を口にするときには、貧乏人や老人のための支出を増やすことをまず意味していないからである。平和共存や平和的競争を意味してはいないのである。「総動員」ということばが持つ軍事的な響きは、象徴的ではないか。
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ニンジンとムチの懐柔策
- ソ連のほうがアメリカより、相手との対決に向けて準備を整えているようにみえる、という点については、否定しないと思うが。
A われわれの社会のほうがまとまりがとれているし、国家目的に結集する能力も高いから、首尾一貫して国家政策を遂行する用意がアメリカより整っている、ということは言えると思う。この国家政策は緊張緩和の政策であることが望ましいが、対決の場合に避けられなくなるかもしれない措置でも、必要とあれば、遂行する用意はある。
同時に、アメリカも同じことがでぎる能力があることを過小評価してはならない。残念ながらアメリカ人は、累張緩和よりも対決の際に愛国主義や好戦的強硬論が叫ばれはじめ、「ハリー(そのときの大統領がだれであってもいいのだが)、やつらをやっつけろ」とトキの声が響きはじめるときのほうが、はるかにその用意が整うのだ。七〇年代から八〇年代初めの時期は、このことをあらためて示した。
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しかしせんじ詰めれば、今日では対決に際して力を結集するそうした能力は、あまり重要ではないかもしれない。もし対決が最悪の事態にはならず、遅かれ早かれ、後に緊張緩和の時期が続くとすれば、この能力が大きな役割を果たすことはない。もし最悪の事態がくれば、事前の準備態勢や団結や国民感情など、どうでもよくなるではないか。
- かつてブレジンスキーのもとにいて、そのあと国務省の政治軍事局長を務めたレジナルド・バーソロミューから聞いた話だが、ホワイトハウスは時々、ソ連にアメリカの男らしさを試されているような気になることがあるそうだ。
A アメリカの政治家がそれほどに男らしさ-この場合、個人としての男らしさではなく(もちろんそれも重要だが)政治的な意味での男らしさ-にこだわるのをよく不思議に思う。彼らは強い、男らしい格好というものがどうも好きなようで、闘牛場の闘牛士のように肩をいからしたがるようである。しかし大向こうを意識したスタソドプレーは、国の政策にとってきわめて危険な結果をもたらす。
ことあるごとに世界に向けて自分の強さを見せびらかすことは目標にはなりえないし、それを目標にすべきでもない。そうした態度は、国家の問題に対して誤った非現実的な取り組みを鼓舞することになりがちである。
政策決定に当たって本当に必要なのは、英知と自制心であり、相手を理解する能力であり、実現可能で手の届く解決策を見出す能力である。なぜなら、政策決定とは、これまでもつねに実現可能なものを見出す技術であったし、これからもその点は変わらないからだ。このことは十分理解しなければならないし、核時代の今日、特に重要な事柄として受けとめなければならない。
しかしこうした問題について、国民一般はまだ十分教育されてにいない。そして、自分たちや自分たちの政策を国民に売り込もうとする政治家は、大陸間弾道弾(ICBM)、爆撃機、空母その他の兵
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器に象徴される過大な男らしさへの願望をともすればかき立てたがる。なぜなら、なんといってもそうするほうがずっと容易だし、頭も勇気も必要としないからだ。しかも、そうした態度がすべていかに無意味になるかに気を使わずにいられるのは気楽なことだ。平和や経済状態、ニネルギー、その他、全世界にかかわる諸間題、生活の質などといった主要問題に目を向ければ、なおさらその無意味さがわかろうというものである。
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レスリー・ゲルプは、いまやアメリカが「自国の国益について、より明確な意識を持ち、それを事前にソ連に知らせるようにする」時期が訪れていると述べている。ゲルブは、アメリカの指導者がこれまでソ連の行動に影響を及ぼす効果的な方法を開発できなかったことに言及して、さらにこう言っている。「ニンジンはいつもきまって安物だったし、ムチは毎度不十分であった。相手に与えるものは少なすぎたし、脅しをかけるほどの力も持っていなかったりだ」(ニューヨーク・タイムズ、一九八
〇年二月一〇日)
A 率直に言って、レスリー・ゲルブにはしかるべき敬意を払うけれども、このニンジンとムチを用いた比喩醸、今日の間題を議論するにはいささか単純すぎる。ゲルブが言おうとしたのは、アメリカはあえて、十分大きくて甘いニンジンを差し出さなかった、ということであろう。
やがてそのニンジンもみじあな像どごくわずかになり、最後には怒り狂って、アメリカ政府がそのわずかの残りものさえ引ったくってしまった。ゲルブの比喩に従って、大きなムチはといえぱ、もちろんそんなものはなかった。あったとすれば戦争だが、それは自殺に等しかった。アメリカの手のなかにあったもっと小さなムチは、どんどんと使い切ってしまった。
その過程ではっきりしたのは、これらのムチが両刃の剣であり、ソ連に与えた痛手に劣らぬ痛手をアメリカも被ったということである。穀物禁輸や貿易差し止めなどを考えてみよう。ゲルブが考えて
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いたのはこの辺りのことだと思うが、ここまでのところでは、ゲルブに反論するつもりはない。
この関係で一つ付け加えるなら、一部の問題はどちらのカテゴリーに-二ンジンとムチのいずれに-属するのか、明らかに混乱がある。たとえばSALTII条約の場合をみよう。この問題が最終的にどのような形で決着するにせよ、この協定全体は結局、ソ連を「処罰」しようという熱心な復讐心の犠牲になっているようである。しかし、このために両国は平等に損害を被ることになる。核戦争防止といった死活的な問題についても同じことがいえる。
しかし一般的にいえば、政策の核心をニンジンとムチに変えてしまうという発想そのものが、今日ではほとんど効果がない。どんな国でも,買収や脅しに屈して外国から政策上の指図を受け入れるようになってもいいと考えるとは思えない。もちろんアメリカとソ連は、そうした事態に陥ることをこれまでも避けてぎたし、今後も避けていくだろう。言い換えれば、ニンジンとムチは現代の主権国家がとうてい容認できないたぐいの懐柔策だから、うまくいくわけがないのである。
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誇大宣伝される経済制裁の効果
- アメリカとの経済関係にかかわるソ連の利害を考えると、カーター大統領が実施し、レーガン大統領に引き継がれた経済制裁が、やはりムチとしての役割を果たしていることは否定できないのではないか。
A 対米貿易から得るソ連の経済上の利益は、おおむねひどく誇張されている。たとえば一九八一年のソ連の外国貿易に占めるアメリカの割合はわずか一・七%であり、穀物を除外すると○・五%以下になる。したがってこれらの制裁はソ連経済にとって取るに足りない影響しか与えていない。特に、制裁で失ったものは、ほかで埋め合わせがきくだけになおさらそうだ。
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また、中西部の農民や関係企業の多くが証言するように、この制裁措置がアメリカにとっても無害というわけではない。しかし本当の問題点は,純粋に経済的な損得を超えたところにある。われわれはつねに、貿易、経済関係を緊張緩和の基礎を固める手段と考えてきた。
アメリカは、社会主義諸国との貿易相手を、「処罰」したり、脅迫して政治的譲歩を引き出したりするための冷戦の武器として利用することが、ここ数年ますます増えてきた。
- 「資本は大陸間弾道弾と同じように有力な武器だ」と、著名な銀行家のフェリックス・ローハティンが最近語っている(ニユーズゥィーク、一九八二年一月二五日号、一二べージ)。
A その点については、まず第一に、ソ連は革命当初から、外部の資本家がその経済的影響力をわれわれに対する武器として使うだろうと考えていたことを指摘しておきたい。
長年の問、われわれはつねに経済封鎖や経済圧力を経験しながらやってきた・ソ連が西側への過度の経済依存を避けながら、経済や外国貿易を発展させてきたのはそのためである。国際関係が根本的に再編成されるまでは、われわれは基本的に自給経済を維持すべきだと考えている。
最近アメリカでは、ソ米貿易を「敵を助けるもの」とする見方がもてはやされているようだが、同じ理由からこれはまったく馬鹿げていると思う。ことがそんなふうに運んだためしはない。
第二に、貿易もまた両刃の剣であることを忘れてはならない.肝心な点は、このローハティンの論理そのものが危険な時代錯誤であり、古い帝国主義的発想の遺物だということである。ますます複雑化し、もろさと相互依存の度が強まっている今日の世界で、全面経済戦争の道に踏み出すことは、われわれにとって危険なばかりでなく、ほかの国々にとっても危険である。国際的な政治・経済関係の基盤そのものを、根底から覆すことになりかねないからだ。
緊張緩和を強固にするうえで、国際経済関係がどの程度価値があるかについては、議論の余地があ
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るかもしれない(私自身は、その価値は大きいと考えている)が、国際怪済関係を引き裂けば、国家間の緊張増大が避けられないという点には疑問の余地がない。その意味では、ローハティン氏の見方にも一理ある。
しかし、相手に対してできるかぎり最大限の打撃を与えることを目的とする方法が意味を持つのは、長期的目標をゼロ・サム・ゲーム〔相手のマイナスはこちらのブラスという考え方〕や、敵対と対決という観点から解釈する場合だけである。
- 国家間の行動が以前より制御しにくくなり、混乱が強まっているとは思わないか。もしそうした傾向があるとすれば、危険は明らかだと思うが。
A一国の外交政策を外から制御することはますます難しくなっている。しかし、それによって状況がさらに危険になっているかどうかはまた別の問題だ。
かつては、世界が幾つかの帝国に分割され、それぞれがきちんとまとまった制御システムとして動いていた時代があった。その時代には戦争が絶えず続いていた。それは後になるほど大きな犠牲を伴った。ソ連では、平和と国家問の安定維持には国家の主権と平等を認めることが必須条件だと考えている。
このように国家の主権と平等のうえに立って初めて、ある種の政策を抑え、ある種の政策を推進する抑制、制御のための新しい国際システムを作り上げることができる。しかし制御の権限は、ほかの国や軍事ブロックの手にゆだねられることはない・このシステムを守れるのは、国際法ないしは国連のような集団的安全保障の機構だけである・そうでなければ、われわれは再び帝国主義時代に後戻りし、大火を免れられなくなるだろう。
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ソ連に対する偏執病
- そうしたシステムができれば、どのようなブラス、マイナスがあるか。
A ブラスのなかには、従来より多くの資源を国内の開発に振り向けられるようにする安全保障が含まれるだろう。また国際協力を増進することによる直接的な利益もあるだろう。マイナスについて言えば、いま挙げたようなプラス面を自ら拒んだり、この安全保障システムを損なうような行動をとれば、自らマイナスを被ることになる。
また戦争の危険が増し、世界の世論から指弾されるということもある。極端な場合には、国連憲章に規定されているような、なんらかの集団的措置もとられるかもしれない。この新しい国際システムの安全は、広範な国家間の相互依存によっても保護されるだろう。
- 西側は、ソ連外交政策のどこを理解し、どこを理解していないか。
A その質問を受けると、ソ連に対する不当行為について洗いざらい不満をぶちまけたくなる。それらの不満には十分すぎるほどの根拠があるのだが、ここではそれを口にするのに控え、おもな問題の要点だけを説明するにとどめたい。
基本的な問題は、誤解だとか理解が欠けていることだとかではなく、一般的な態度である。西側にとっては、ソ連の存在そのものが長い間我慢ならなかった。今日でもなおその存在を認めたがらない人がいる。ソ連に対して本物の偏執病にかかっている人もいる。このように頑固に現実を拒否する態度こそ、問題を引き起こす主な根源であり、誤解を生む主な原因である。
リチャード・パイブスやヘソリー・ジャクソン上院議員といった人たちの議論に対し、キケロ以上に雄弁に反駁することはできる。しかし、彼らの見解は反ソ主義の鉄のよろいで身を固めているから、
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納得はしないだろう。
もちろんそうした人たちは、今日では少数派だ。しかし彼らの態度は極端な例外にすぎないが、それほど極端な考え方をしないまでも、これと同じ政治的態度にまだ毒された人たちは多い。彼らの態度もその論理的結論として行きつくところは、ソ連などの社会主義諸国との平和共存という考えそのものを否定することである。
もちろん西側には、こうした人たちとは違う政治指導者もいる。そうでなければ、そもそも緊張緩和は実現しなかっただろう。彼らは広い政治的、歴史的、文明的観点からものごとを考える。彼らには遠い将来が見える。こうした人たちのなかには、ソ連社会が好きか嫌いかにかかわりなく、究極的にソ連との共存が必要なことを理解している道理をわきまえた政治家がいる。
- 何人か名前を挙げてほしい。
A 実際の政策に大きな影響力を持ったという意味で際立った二人を挙げれば、おそらくドゴールとプラントだろう。もちろんこの二人を同じカテゴリーに区分けすることは難しい。政治的信念でも、そのほかの点でも違うからだ。
しかし二人に共通していたのは、偏見と旧来の考え方を打破し、多くの西側の同世代の人たちより現実的に物を見る能力である。二人は自国の基本的利益を見極め、またソ連の利益を無視しようとはしなかった。
彼らが現実を把握した一つの理由は、おそらく二人に戦時の経験があったことだろう。プラントはナチスにドイッを追われ、ナチスとの戦闘に参加した。ドゴールはナチス占領下のフランス解放のために戦った強力な開士だった。そうした経験が重要なかぎを握っていたかもしれない。
というのも、西側がソ連について誤解している最も大事なことの一つは、戦争に対するソ連の態度
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だからである。第二次大戦がソ連国民にとって何を意味したかは、西側の人たち、とりわけアメリカ人にはほとんど理解されていない。最近、西側で時折こんな話を耳にする。つまり、ソ連は前の戦争で二千万人の犠牲を出した、だから核戦争でまた二千万や四千万の犠牲が出ても十分やっていけるハラができている、というのである。
- そういう考え方を支えているのは何だろうか。
A ソ連は核戦争を始められるし、犠牲が大きいとおかっていてもひるむことはない、と言いたいのだ。これは自動車事故で大ケガをした人について、大ケガに慣れたからこれからは無暴な運転をするだろうというようなものである。現実には、そんなことはありえない。
第二次大戦は確かに、われわれに輝かしい勝利をもたらした。しかし、この戦争は、これまでにもまして、平和の尊さをソ連国民に教えてくれた。平和こそわれわれにとって最優先の課題である。だから平和と緊張緩和の政策に対しては、ソ連国民の間に確固とした広範な支持がある。
- この平和の政策は、ブレジネフ書記長の人柄を反映したものだろうか。
A ブレジネフ書記長は個人としてこの政策に大きく寄与した。同時に、これが党全体の政策であることを、書記長自らが強調していた。これは何度かの党大会で指示され、ソ連共産党中央委員会が遂行している政策である。
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ソ連衰弱という幻想
- 平和への献身を強調する一方で、同時にソ連が軍事力に最大級の配慮を払っていることも否定できないだろう。
A そうだ。その点は否定しない。アメリカや西側は、特に現在、この点であまり選択の余地を与え
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てくれていないではないか。
もちろん、平和を追求するということは、圧力に屈することを意味しない。わが国民は戦争は嫌いだが、何者かがわれわれの安全を脅かしていると感じれば、その脅威に立ち向かう用意はできている。この点は、アメリカに理解してほしい重要な事柄だと考える。というのもアメリカでは、ソ連をもう一度軍備拡張競争に巻き込めば、ソ連を衰弱させられるという幻想が再び強まっているように思えるからだ。
ソ連のGNPはアメリカより小さいかもしれないが、われわれのほうが大きな困難に耐えることができる。
ソ連国民は歴史的体験によって.ソ連の安全を脅かすものにきわめて敏感になった。だからといって、われわれが怯えているということではない。ソ連は十分強力だし、自信もある。われわれは、いかなる挑戦にも対処する決意を固め、その用意もある。
- いまの話はソ連指導者の態度について言っているのか、それとも広く一般世論のことをいっているのか。
A 両方だ。実は、いまの質問で、ソ連の政策が誤解されているもう一つの分野、つまりソ連における世論の役割の問題が浮かび上がってくる。
ソ連では世論の力がないとか、指導者の態度は一般市民の考えとは逆に決まっているとか、という受け取り方が、西側ではごく普通である。案際は、これとはまったく反対なのだ"ソ連の世論がそれなりに影響力を発揮する仕方は、アメリカの場合と異なるかもしれないが.世論はソ連の政策決定のうえで重要な役割を果たしている。確かに、アメリカの世論のように派手好みのところはないが、影響力は大きいのだ。
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一部のアメリカ人は、自分たちが何をしようと、ソ連当局がいろいろ吹き込みさえしなければ、ソ連の大衆はアメリカが好きにきまっていると自分勝手に決めてかかっているように思われる。つまりならずもののような振る舞いを今日しても、明日になって一、二優しい言葉をかけ,ドアを一つ二つ開けてやりさえすれば万事OK、悪いことにすべて忘れてもらえる、と信じているようなのである。これは非常に自己盲信的な態度である。
われわれは実際、世論を考慮に入れている。もし外交政策を実質のあるものにするつもりなら、世論にこの政策の正しさを納得させなければならない。そればかりでなく世論は、党や政府の指導者に対し国民の考えや気持ちをさまざまな形で表現している。ア0メリカは、ソ連の世論に対する不信という悪い種をまいてきた。アメリカによる最近の一部の行動は本当に度を越している。
- この対談のなかで一貫しているテーマの一つは、ソ連をありのまま見てほしい、ソ連に対する認識をもっと現実に引き寄せてほしいという、アメリカ人に対する呼びかけのようだが。
A その通り。イメージと現実を混同することから、いつも国際関係に不必要な困難が生じてきた。
ここでまたアメリカの自己中心主義に話が戻るのだが、アメリカ人の目には、アメリカが善なるものを独占していると映っている場合が多い。そしてもしアメリカに悪があれば、同じ悪にどこにも存在すると思い込んでしまう。たとえば、アメリカが軍産複合口体の問題を抱えているとなると、自動的にソ連にも同じ問題があるものと考えてしまう。
ソ連の経済体制がまったく別の法則に従うて動いていることや、軍産複合体が特殊な権益団体として、アメリカ国内で享受している自由が、アメリカの政治、社会体制独自のものであることなどは、完全に無視されるのである。
ソ連が抱えている問題に対する西側の標準的な扱い方も、誤解の例である。ソ連の生活様式を貧し
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いとか、みすぼらしいとか、遅れているとかいって、果てしなくけなしつづけている。
- しかしソ連の生活水準が、ほとんどの西側資本主義国より低いことははっきりしている。
A 豊かな西側の人たちには珍しくもない一部の物資がソ連に豊富にないことは、われわれ自身よく知っている。それを認めたからといって、別に恥ずかしいとは思わない。
しかし、一部のアメリカ人がロシア人のことをぺらぺらと恩着せがましく話すのを聞くと腹が立つ。途方もない困難を乗り越えてロシア人が成し遂げたことに、大きな敬意が払われてしかるべきだと思う。そして、とにかく、われわれの生活水準は向上しつつある。
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ポーランド戒厳令をめぐる評価
- 西側の国々では、ソ連に対する強硬路線が次第に強まっている。西側が一致団結してソ連に当たるとき初めて、たとえばポーランドで、アフガニスタンと同じことをくり返してはならないということをソ連に教え込むことができる、というのがその根拠である。
A いまの質問の言い回しは間違った前提に立っている。西側の国々に反ソ連合戦線を強化しようとする試みがあることは明らかだが、そうした試みがどこまで現実性があるのか、その動機が何なのかなどについては重大な疑問がある。
動機は攻撃的であり、防衛的ではない。アメリカやその一部同盟国の政策に反ソ的傾向が強まりはじめたのは、アフガニスタンの出来事より以前であったこと、したがって、アフガニスタン事件が反ソ傾向の原因であったはずがないことを裏づける事実はすでに指摘した。
ボーランドの事態について言えば、アメリカの強硬論者はポーランドの国内紛争の平和解決、早期解決にはまったく関心を持っていなかった。彼らは「事態が悪くなればなるだけなお結構」という立
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場からポーランド情勢を扱ってきた。ボーランドの情勢が悪化すれば、緊張緩和を完全に崩壊させ、同盟国を手なずけ、アメリカ人をきわめて軍事的で冒険的な政策に結集させるという強硬派の目指すものを、一挙に実現できるまたとない機会が訪れる、と考えているのである。
- しかし、一九八一年一二月に戒厳令が敷かれたことは、現地情勢が本当に悪化したことを意味するものではなかったか。
A 戒厳令は決して心地いいものではないし、ポーラソドの指導部も導入しないですませたかったに違いない。しかしヤルゼルスキ将軍がとりえた選択の幅を考えてほしい。もし戒厳令を施行しなかったら、ポーランドに何が持ち上がっていただろうか。経済が崩壊し、内戦が始まり、混乱と流血に陥っていただろう。それに比べれば、戒厳令はまだましな小さな悪であろう。
ポーランド(およびソ連)に対し、戒厳令施行後にアメリカがとった政策は、奇妙な印象を残した。ポーランドの指導部とポーランドの同盟国が国際的危機を回避することに成功したことは、アメリカ政府を怒らせ、報復にかり立てたようだ。そのうえアメリカは、人為的な方法でその種の国際的危機を作り出すことに着手し、明らかにポーランドの事態を国際化しようと図った。
- ポーランドでの戒厳令施行はヘルシンキ合意を破るものであり、ヤルタ協定への後戻りだと西側では解する向きもある。
A その考え方には実に恐れ入る。ヘルシンキ合意をヤルタ協定に対立させて考えるのは、旧約聖書の誤りを証明するために新約聖書を使うようなものである。
そもそもヤルタ、ヘルシンキ両合意とも同じ起源からできたものだ。すなわち、戦争とヒトラーの敗北、それにソ連国民を含むヨーロッパ諸国民の膨大な犠牲の結果として生まれたヨーロッパの政治構造を明文化したものが両協定なのだ。その意味で二つの合意は血で書かれたものと言っていい。い
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い加減に、気まぐれに扱ってはならない。
またこれらの協定は、東西関係のもう一つの趨勢を具体化したものでもある。つまり、平和共存の趨勢であり、西側が、ソ連とのちにはほかの社会主義諸国を、西側諸国同様、安全保障に正当な利害関係を持つ、国際政治への独立、対等な参加者と認める趨勢である。
ポーランド情勢に関連して、アメリカやほかのNATO諸国がとっている政策を私が真剣に懸念する理由の一つは、一連の制裁や最後通告、脅迫が平和共存の基本的ルールを破るものだと思うからである。主権国家の政府がその国の社会体制を守り、暴力による体制転覆を防ぐためにとった措置、つまり内政問題にかかわるものとつねにみなされてきた行動に対して、懲罰として制裁が加えられたのである。ヘルシンキ合意が、このような他国の内政問題に干渉するためのものでないことは明らかである。
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途方もない心理的圧力
- しかし、もう一度本質的な点に戻りたいのだが、それは戒厳令というのは軍事力を背景にした苛酷な体制だということである。西側諸国の国民が戒厳令体制を否定的にしか見ないのはそのせいなのだ。
A もう一度くり返させてほしい。戒厳令を愉快なものだと思う者は一人もいない。ポーランドの指導部もにっきりそれを認めており、最後の手段としてこの措置をとったこと、これが間もなく解除されることを強調している〔ポーランドの戒厳令は八三年七月二二日解除された〕。
しかし、この措置が国際法に違反したわけではなく、ヨーロッパの平和を脅かしたわけでもないことは、同じく明白である。それどころか、この措置によって、重大な国際危機に発展しかねなかった
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きわめて劇的な事態による脅威が取り除かれたのである。
かどうかについてはわからない。西側諸国の政府やマスコミが、途方もない心理的な圧力をかけていたことを考えれば、彼らの反応は少なくとも慎重だったと思う。
西側諸国の政府、とりわけアメリカ政府の態度について言えば、これは最も見えすいた二枚舌の事例研究になるものだった。レーガン政権はー方では、ポーランドでのいわゆる「人権侵害」を声高に非難しながら、他方では、エルサルバドルやグアテマラの血にまみれた独裁政権を、ほかのラテンアメリカの親米軍事政権とともに「抑圧の程度は普通」とみなし、支援するに足る政府だとして、積極的に支持している。よほどのお人よしでなければ、レーガン政権の誠意を信じるわけにはいくまい。
またもちろん、労働組合に対するレーガン政権の本当の姿勢も周知の通りである。
二枚舌について言えば、チリ、韓国、トルコのほかかなりの数の国を挙げることができる。しかし、ポーランド情勢とこれらの国々でのクーデターをを並べて比較したくはない。
ポーランドではクーデターが起きたわけではない。戒厳令はポーランドの合法的政府によって、憲法の定めに従って施行されたのである。ポーランドの国会は解散されなかったし、逮捕者の数はごくわずかだった。法律に違反して有罪と認められた人たちの訴追は、正当な法手続きに沿って行なわれ、判決は非常におだやかなものだった。こうした一連の事態を、たとえば一九七三年チリで起きた流血の事態と、どうして比較できるだろうか。
以上の点を指摘したうえで私が強調したいのは、だれもアメリカや西側の支配層に対し、ポーランドの共産主義者やポーランドの社会主義を擁護してきた者の側への同情を期待してはいない、ということである。これらの問題についての彼我の分かれ目は、明らかに階級の利害、同情、世界観を反映
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している。
しかし同時に、特に核時代の政策決定は相当程度、ほかの配慮にょっても影響を受ける。たとえば、あれこれの地域的な出来事が国際情勢にどう影響を及ぼすか、ある出来事が国際危機に発展し、超大国間の軍事的対決はもとより、政治的対決に至る事態を傍観すべきかどうかについて考えなければならない。もし第二次大戦後の世界で、国際関係に参加している有力国がこうした配慮を指針とし、あるいは少なくとも考慮に入れなかったなら、どんなことが起きていただろうか。もしこうした国々
がそれぞれの本能や同情、反感に盲目的に従っていたなら、どうなっていただろうか。これらの問いに対する答えは明白だと思う。
世界は、最も危険な紛争のぬかるみに救いようがないほど足を踏み入れていたであろうし、人類が核破減に直面する最後の一線を、ほぼ確実に踏み越えていたであろう。こうした其理に対する理解があったからこそ、社会体制が異なる国家間の平和共存の原則に、柳えようのない活力が与えられたのである。
ソ連は、ポーランド情勢についても、ほかの地域の情勢についてと同様、国際情勢への影響を含め、あらゆる側面を十分考慮したうえで態度を決めたことを強調しておきたい。
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戻ろう、緊張緩和に
- さきに議論したことにもう一度戻るが、ソ連の対米認識はアメリカの対ソ認識より正確
だと思うか。
A むしろ、不正確さは少ない、と言っておぎたい。外国を理解するのはいつも難しいものだ。ソ米関係では、それぞれが相手に対して持つ認識の正確さが依然としてきわめて重要な問題である。
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なぜならその正確さは相互理解と密接に結びついているし、その理解を通して相互信頼にも結びついているからである。相手に対する正確な認識は、核戦争という両国関係の最終的崩壌を防ぐ、非常に重要な手だての一つでもある。
これは誇張ではない。なぜなら、そうした関係崩壊は理性の選択であるはずがなく、相手側の行動や意図、最終的目標の評価を著しく誤ることによって起こるにちがいないからだ。
- 近年、両国間の相互理解に前進はみられたか。
A 七〇年代にはこの分野でかなりの前進があったと思う。緊張緩和は、政治、科学面での接触や文化面での結びつき、観光、市民の交流などを進めるうえで、大きな役割を果たした。しかし、これらは最初の足がかりでしかなかった。
問題は依然深刻である。実際、両国間の緊張増大に伴って、ますます深刻になっているかもしれない。
- 相互認識がそれほど重要だとすれば、これをとぎすますためには、どうすればよいのか。
A 簡単に答えは出せないが、このように言えるだろう。つまり、われわれとしては、緊張緩和のころにしていたことをしなければならない。もっとそれをしなければならないし、もっと一貫していなければならない。
事実を感情にとらわれず、理性的にみられるように、正常な政治環境づくりを目指すべきである。偏見や先入観を取り除くため集中的に努力すべきである。客観的態度をとり、相手国-その国民、文化、政治など-に永続的な関心を持つよう促すべきである。そしてもちろん、両国間のさまざまなレベルで接触を広げ、対話を継続することを奨励すべきである。
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