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‘Seicho no genkai’ o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen (1973)

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Titelpagina van ‘Seicho no genkai’ o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
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‘Seicho no genkai’ o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen

(1973)–Willem Oltmans–rechtenstatus Auteursrechtelijk beschermd

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57 ジョン・ロールズ

ジョソ・ロールズ (John Rawls) 教授はハーバード大学で哲学掌を教えている。彼は、一九七一年に『正義の理論』) を出版したが、これは「二ューヨーク・タイムズ・ブックレビュー』一九七二年一二月三日号によれば、一九七二年中に批評された本のうち最も重要な五冊のなかの一つに入っているGa naar eind〔註1〕という。

ジョソ・ロールズは、一九二一年バルチモア (メリーランド州) に生まれた。プリンストン大学で哲学の博士号を取得し、コーネル大学およびMITで教えた。一九六二年に、バーべード大学に職を得た。

 

正義は高価な財であるように思われます。正義は、社会の均衡を保つために必要なものであリ、その達成を社会は最優先すべきだと思います。ところで、この社会-酉側の社会のことですが-に従来知られていたのと同じ種類の自由を失わないままで、必要とされる社会正義のニつの主要原則がいますぐ満たされるようにするには、どんな方法があリましょうか。

 

私が著書の中で説明した種類の正義は、二つの異なった原則によって特徴づけることができます。その一つは政治諸制度や、民法上の権利および経済諸制度に適用されるものです。その原則によれば.さまざまな自由はひとしい価値を与えられるべきであり、すべての市民はある範囲内でひとしい自由をもつべきであります。もしこれらの自由が常にひとしいものではあり得ないとしても、さまざまな自由の全体系については、それが社会のあらゆる成員にとってひとしく与えられていることには、そ れなりの意味があるはずです。もう一つの原則は、経済的および社会的特権の分配を問題にしており、それは例えば企業や大学やその他の形の結社のような組織体に関係しています。この第二の原則によれば、社会的特権および経済的財は、常に可能な限り平等に分配さ

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れなければなりません。つまりヨリ多くもっている者は、ヨリ少なくもっている者にそれをわけてやらなければなりません。

 

しかし、万人の利益のためにヨリ少ない成長やヨリ少ない富を甘受せよというのは、人間の本性に逆らう、若干ユートピア的な理論ではないでしょうか。

 

あなたのご質問は、もう一つの卵非常に異なった種類の問題を提起するものです。すなわち、私が述ベているような見解は、発展した工業的・技術的社会においてはどの程度まで受け入れられうる見解なのかという問題です。あなたの言われる意味は、それがどの程度まで国際的な舞台に拡張できるかということなのですね。すなわち、いろいろな国々に対してどの程度まで犠牲を期待しうるか、あるいはあなたの言い方を借りるならば、どの程度まで他の国々と富を分ち合うと期待しうるか、とい う問題ですね。この場合には、他国の政府の〃不完全性〃-これは腕曲な表現ですが-のために話がこんがらがってきます。政治間題が生じてくるのです。私の著書では、一国の社会をとりあげて、その内部では、ある程度恵まれた条件のもとでは、正義はどのような形をとるのか、あるいはとるべきなのか、というまあそういった種類の問題を論じています。

 

アメリカ内部の栃ですか。

 

西ヨーロッバもそうです。

 

ーにぎりの少数者が自分の富を圧倒的な多数の人々と喜んでわけあうというのは人間の本性に逆らうことではないでしょうか。たとえ豊かな国においてさえもそうなのではないでしょうか。マイケル・ハリントンGa naar eind〔註2〕は、『偶発的世紀』のなかで、アメリカでは、四、OOO万もの人々が依然として貧しいのだと指摘していましたね。

 

それが人間の本性に逆らうものかどうか私は知りません。人々の本性というものは、その中で彼らが成長する社会に依存しているのだという議論もなされていますよね。しっかりした論拠をあげることはできませんが、私としては次のように考えてみたい。すなわち、もし私の著書の中で説明しようと試みたような種類の社会が存在し、またもし人々が私のいう二つの原則に従っているような諸制度のもとで成長し発達したとしたら、そのよう

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な人々は互いに富を分かちあうのにやぶさかではあるまいと私は思います。少なくとも同じひとつの社会の中ではそうです。ちがった文化やちがった国々の人々に関して語る場合には、このような議論をすることははるかに難しい、ということはもちろん認めます。その場合にはお互いの必要を調整しあうためのなんらかの共通の政治制度が存在しないのですから。また、このような考え方を世界的規模にまで広げるのはさらにより難しい、ということも認めます。それは疑問の余地がありません 。

 

あなたは著書の中で、ホッブズGa naar eind〔註2〕を援用して、人は社会契約を結ばなければならないと述べておられますが、それはどんなものなんですか。

 

実際の歴史的な契約のことではないのです。私の考えているのは、人々が自分たちの関係を眺めるある仕方のことなのです。このような考え方をもつように人々にもとめてもいいし、あるいはいずれにしても彼らはこのような考え方を心にいだくようになり、そしてこの見方がどのようにうまく機能するかを見てみたいと思うかもしれません。その場合、彼らは一定の条件のもとにおかれた時にはどのような契約あるいは協定をするかと自問してみることでしょう。いちばんいいのは、各自が次のよ うに自問してみることでしょう。すなわち、もしも自分がある種の情報をもっていなかったら、もしも自分の独自の地位を知らなかったら、もしも自分自身の趣味に関して何か知らないことがあったら、等々、という場合にはいったい自分は何をすることに同意するだろうか、と考えてみるのです。いちばんいいのは、もし人々がある種の情報をもっていなかったとしたら、いったい彼らはどのような原則に同意するだろうか、という問に、ある程度詳細に答えてみょうとつとめることです。たとえば 国際法を考えてみましょう。もしある国が、自分より強い軍隊をもっているのはどの国かとか、どの国が最も地の利を得ているか、などという点についての軍事情報をもっていなかったとしたら、その国はなんらかの国際法の原則に同意することでしょう。協定に達するのを困難にしているのは、特定の非常事態や力の不均衡に関する情報をあまりにも多くもちすぎているという事情なのです。同じことは、同一の社会の内部の成員間の関係にも当てはまります。もしわれわれが自分の属している社会 階級のことを知らず、また自分自身に関するその他の多くのことについての知識をもっていないとすれば、われわれが

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ある種類の一般的ないくつかの原則に同意するであろうということは容易に考えられます。私が著書の中で論じようとしたのは、これらのことこそが、われわれが正義の原則として承認するであろうところのものなのだ、ということでした。

 

コンピュータ科学、-ケネス・ポールディングGa naar eind〔註4〕のいわゆる「コンピュータ・スパゲティ」-が素晴らしい勢いで成長していますので、近い将来、人人はお互いに関するますます多くの情報を直ちに入手できるようになり、その結果何らかの社会契約を結ぶことはますます難しくならないでしょうか。

 

私は人々がこの種の情報を実際にもっていないといっているのではありません。道徳理論をつくろうとすれば、結ぶべき契約というのは、いわば、ある種の情報には依存しないことに人々が同意するというものです。そしてこの種の情報をあたかももっていないかのようにして議論をすすめてゆくのです。実際には、もちろん、人々はこの種の情報をもっているのです。この種の情報を排除し、そしてそれを使用しないようにすることにに道徳的な根拠がある、と考えるのが道徳理論の立場でなけれ ばなりません。この理論は、実際におこっていることを説明するための理論という意味での「政治理論」として作られたものではないのです。つまり、それは、現実の国際的行動、あるいは現実の政治的行動、を説明するためにつくられたものではありません。それがいやしくも何ごとかを説明するものだとしたら、それは、かりにわれわれが公平な局外者であったとした場合に、われわれがなすであろうような道徳的判断を説明するものなのです。それは、われおれが抱いている理想であって (何らかの理想をもっているかぎりでの話ですが) 、それにもとついて行動するようにわれわれが説得され得るようなもの、を説明することでしょう。それは道徳理論であって、社会理論ではないのです。

 

そのような理論をつくりあげるには道徳幾何学を必要としはしませんか。

 

私は、次のような仮定をおきます。すなわち、人ばある種の情報をもっていない、また、人はある種の一般的な目的をもっている、その他これに類した諸々の仮定をおきます。そしてこれらの仮定から出発して議論を展開します。議論は直観的で、多くのギャップをもっています

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が、その基本的なねらいは、これらの仮定的条件のもとではある種の道徳原則が採用され、また同意されるということを示すことにあります。ここでいう条件は、理想化された種類のものであって、一定の限定が必要とされます。

 

しかしあなたのおっしゃるように、われわれはよリ巌格でより潔癖な正羲を発達させなければなりません。あなたの言われる種類の社会正義に対する人々の関心を高めなければなりません。それは実現可能だ、環境を再構築し、再構成し、プログラムして、この種のアブローチが一般に利用可能な状態にしてやるならば、というスキナーGa naar eind〔註5〕の意見には賛成なさいますか。

 

ええ。そのとおりだと思います。われわれがそのもとで生きている諸制度も、われわれが事実もっようになるであろう欲求も、われわれが抱くであろう理想や道徳その他に関しても、ある程度のプログラミングば必要です。ほとんどの人はそのことには賛成するでしょう。むしろ大切なのは、いかなる原則にもとついて環境がブログラムさるべきかという点です。この点については意見がわかれています。私の著書で提唱した見解は、正義の原則を選ぶにあたって、あるいは正義についての考え方を 議論するにあたって、人々は次のような構想を採用したいと思うであろうということです。すなわちその構想というのは、もしそれが制度化されれば、すなわち諸制度がその構想を満足すれば、人々はその構想自体を確証するであろうような欲求や理想をもつようになる、そういう種類の構想なのです。いいかえれば、人々は、そのような構想であればそれを採用するようになってゆくのです。私が真に論じようとつとめた論点は、私が提案する正義の諸原則は、人々を勇気づけ、あたかも現に人々が それに従わざるをえないかのような気持にさせる、そういう性質の原則なのだということです。それは一種の自己強化的なものでなければなりません。私がスキナーと意見を異にする点がありとすれば、それは、上のような構想をプログラムするさいに依りどころとすべき原則の問題です。どうやってそれを実現するか、そこから何をえたいと思うのか、そういったことです。しかし、その点を議論すれば話が細かくなりすぎます。重要でないというわけではないが、いまの話の本筋ではありません。

政治と巌しい現実とは、それとどのように関わって

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くるで」ようか。というのは、社会はいまだに決定的に政治家によって動かされていますが、政治家はあなたが今話しておられるようなことはなんにも知らない。

 

なんにも知らないとまではいえますまい。しかし、疑いもなく彼らの考えているのは別なことです。いいかえれば、彼らは、恐らくいかなる道徳的な問題にもあまり注意を払わないのでしょう。これに問題です。人が正しいと信ずる社会的理想や正義が守られないような情況をいかに脱却して、それらが守られている情況へといかにして移ってゆくか、これは道徳理論の一部をなす問題です。今日の話の中では、私は道徳理論そのものについてはあまり多くを語りませんでした。むしろほとんど語り ませんでした。なぜならば、それば、今までお話してきたようなことを実現しようとする時にとらなければならない戦術についてのあらゆる種類の、また特殊な、政治的な事がらを含むからです。

 

『成長の限界』は全地球的問題-どのようにして地球を管理するかという問題-を墓礎にしています。われわれが現在経験しているこの混乱の中に社会正義を導λすることは、その糸ロを見つけることさえ離しいように思われます。人類がこれほど遅い時期になってから直面するにいたった全面的なジレンマを、あなたはどのようにご覧になりますか。

 

私は、そうした全地球的な問題を議論しようと試みたことはいちどもありません。それは非常に明白な問題なのだということを認識すべきですし、私もそれを認識する点において人後に落ちませんが、それはいろいろな道徳や理想などについて論じている哲学者はみなそうなのです。そしてまた、これらの問題は、ある意味で、非常に実際的でない見方をされており、それを解決しようとする政治的行動がとられるのはまだまだずっと遠い将来の話だということも、認めなければなりません。より公 正な国際的秩序をつくりだすという問題についていえば、私はじつはそのような問題を論じたことはいちどもないのです。正直にいって、私が論じているような考え方が国際的な過程に対して真に実質的な影響力をもちうるかという点については、悲観的なのです。

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[p. 487]

 

ご存じのように、アルベール・カミュGa naar eind〔註6〕の信ずるところでは、不条理は、人間の必要と世界の不当な沈黙との対決から生まれてきますGa naar eind〔註7〕。あなたは、あなたのお国 (アメリカ) で、この世界のこの部分で、どのようにして社会正義を助長するかという点についてのきわめて貴重な理論を非常に詳細に提示されました。あなたは、二五年後には七〇億にもなろうとするという人類が、その頃どのような正義にもとづいて生きるのかという点について、どのような希望をもっておられるのでしょうか。

 

よくわかりません。もちろん、だれにもわからないでしょう。たぶん私の考え方は、若干悲観的ではないかと思います。私は、私の国においてさえ見通しは二〇年前よりも明るくはないと考えるのです。わが国においては、軍人が以前よりもずっと大きな影響力をもつようになっています。これは政治上の事実の問題です。これは、われわれが、世界の権力構造のギャップをますます多く肩代わりしたことの結果なのです。こうしたことはみな悪影響を及ぼしています。われわれは、わが国の少数人 種の問題を解決できませんでした。私は、この点に関する大統領のリーダーシップは、過去数年間非常に悪かったと思います。近い将来に私の考えるような意味でのより公正な社会への決定的な傾向が見られるであろうという点に関しては、わが国の場合でさえあまり楽観的にはなれないのです。アメリカの場合、それはやろうとすればできることではあります。そのための物質的基盤はあるのですから。しかし社会的な面からいえばそれがかならず実現するとは私には思えません。

 

あなたのベストセラーに対して政治家からの反響はありましたか。

いいえ、べつに。Ga naar eind〔註3〕

eind〔註1〕
A Theory of Justice, The Belknap Press of Harvard University, Cambridge, Massachusetts, 1971, 607pp., 『ザ・ニューヨーク・タイムズ・ブックレビュー』、一九七二年七月十六日、セクション七のマーシャル・コーエンの書評「社会契約-説明と弁護」を参照。また同上紙一九七二年十二月三日、セクション七の「一九七二年の五冊の重要な本」も参照。さらに『フオーチュン・マガジン』一九七〇年十月号、トム・アレグザンダー「社会工学者たちに砲火の中を退却する」及び『ザ・ニューヨーク・タイムズ・ブックレビュー』一九七一年二月二十四日、スチュアート・ハソプシャーの特別補遺 (34~39べージ) も参照。
eind〔註2〕
対談44<マイケル・ハリントン>参照。
eind〔註2〕
イギリスの哲学者 (一五八八~一六七九) 。
eind〔註4〕
対談65<ケネス・ボールディソグ>参照。
eind〔註5〕
対談7<バラス・スキナー>参照。
eind〔註6〕
フランスの小説家、ノーペル賞受賞者 (一九一三~一九六〇) 。
eind〔註7〕
The Myth of Sysyphus, Vintage Book, New York, 1955, ‘An Absurd Reasoning.’ page 21.邦訳『シジフォスの神話』矢内原伊作訳、新潮社 (一九五六年)
eind〔註3〕
イギリスの哲学者(一五八八|一六七九)。

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