Seicho no genkai o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
(1973)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
[pagina 233]
| |
28 ロジヤー·レベルロジャー·レベル (Roger Revelle) 教授は、一九六四年以来、マサチユーセッッ州ケンブリッジのハーパード大学人口学研究センターの所長である。一九〇九年にヮシントン州のシアトルで生まれ、カリフォルニア大学で海洋学を学んだ。
ワシン卜ンのアメリカ科半アカデミー総裁フィリップ·ハンェラー氏と最近話しましたら、人ロ問題こそ今日世界が直面しているもっとも重大な問埋だと強調していましたよ。
私自身は、二つのことがらがわれわれの時代のもっとも基本的な問題だと思っています。第一に、第二次大戦後に始まった地球の人口のひじょぅに急速な増加、第二に、同じくきわだった現象として人ロの都市化、つまり都市への人間の集中ないし集合です。二十世紀のはじめ、つまり今から七十年前には、世界の人ロの四分のー以下しか都市にいませんでしたが、今世紀末にはこの比率はきっと五十パーセント以上に坍大するでしよう。もしかしたら、地球の人口の六十パーセント以上もの人が都 市に住むことになるかもしれません。この相互に関連したニつの事物は、長期にわたって進んできた人間の条件の変化のうち、もっとも注目すべきものであることはたしかです。たいていの自然科学者は、人口についてはマルサス的見解をとっています。すなわち、人口は食糧供給とかその他の天然資源によって設定される限界までは指数的に増大を続けるというわけです。だからこそ科学者たちは現在の人口増加率をひじように不安に感じているのです。われわれがまず自問しなければならないのは 、地球上で生存できる人間の数についての想定可能な限界値はどれくらいかということです。技術や典業の現状からすれば、第ーの問題は食糧供給だといえましよう。もちろんその他にも問題はぁりますが。食糧供給の | |
[pagina 234]
| |
可能性だけを考えるとすれば、地球は、現在の人口のおよそ三十倍の生存を許容しうるということは、多分あたっています。それだけの数の人間を、生理学的には十分な、しかしあまり満足とはいえない食亊で養うことが可能でしよう。つまり、植物性食品に主として依存する場合には一人一日当たりおよそニ千から三千力ロリーを必要とすると仮定すれば、そのていどの食糧は現在耕作可能な、つまりかならずしも耕作はされてはいないが耕作可能な土地から、得られることはまちがいないので す。現在耕作されている土地の総量は、約三十五億エーヵーですが、多分八十僚エー力-くらいにまては広げられるでしよう。そうするのがいいことだといっているのではなく、それが可能なことだといっているだけですが。
なぜいいことではないのですか。
今耕やされていない土地の大部分は、耕作に困難で経货がかさむからです。
ぼう太な投資が必要だというわけですね。
そうです、ひじように大きな投資が必要です。 しかも、殺虫剤や肥料も必要になy地球をさらに一層汚すことになるわけですね。
そうです。そのとおりです。さらに水、大世の水が必要です。現在の人口增加率でいくと、現在の三十倍の人ロに到逹するのにだいたい百五十年かかります。地球の人口は、現在、三十年ごとに倍增しています。この率でいけば、人口は、九十年で八倍に、百二十年で十六倍に、百五十年で三十二倍になるわけです。これが、現在の農栗技術や食播生産方法を前提して予想しうる限りでの、地球にょって維持可能な人口の限界値です。食播生産技術は進歩するものだと主張することができますし、現 にそう主張されています。もし十分なエネルギー源さえ利用できれば、未来永劫典業に依存していかなくてもすみます。 ここからょり基本的な問題が浮かびあがってきます。いったい十分なエネルギーが利用可能だろうか、という問題がそれです。化石燃料の形で固定されているエネルギーの総垃は、現在予想されるエネルギー利用率でいけば、せいぜい数百年しかもたないていどのものです。ここで化石燃料といったのは、石炭、石油、天然ガスのこ | |
[pagina 235]
| |
とです。その他には、水成岩に凝集された有機物として、油母頁岩とタールサンドがあります。われわれがこの種のエネルギー源に依存する限り、利用可能なエネルギーは数百年しかもたないでしょう。食糧供給と化石燃料-岩の中の有機物-から得られるエネルギーというニつの観点からすると、われわれはひじょうにはっきりした限界をもっていることがわかります。 人々が心配しているさらにニつの問題がありますが、その一つはその他の天然資源、すなわち鉄、アルミ二ゥム、銅、亜沿、クロム、鉛、へリゥム、水銀などの供給の問題、もう一つは汚染です。もし将来の世界人ロの大多数が西ョーロッバやアメリヵなみの生活水準で生活するとすれば、文明の廃棄物はきわめて大きく、われわれは自分自身の出す汚物のなかで、おぼれてしまうでしょう。 機械論的ないし決定論的モデルを利用すると、人口が三十年から三十五年で倍增する率で成長し統ければ結局、限界にぶつからざるをえないということが示せます。結局のところ、人口増加は、食物供給によってか、エネルギーによってか、その他の天然資源によってか、あるいは汚染によって限界づけられるでしょう。祐本的にはこのことが、『成长の限界』という報告进を書いた人々や、その基礎となったモデルであるヮールド·ダィナミックス·モデ ルGa naar eind〔註1〕を開発したフォレスター教授の主張する命題です。 ところで、地球に関するこの棟のモデルについて、ひじょうに重大ないくつかの問題が提起されなければならないように思われます。まず第一は、そして私がもっとも重大だと思う問題は、次のものです。人間行動についてのわれわれの知識から考えて、じっさいにマルサスが正しかったということ、人口が食物供給の限界まで増加し統けるということ、を信ずべき歴史的証拠が果たしてあるでしょうか。マルサスの『人口の原理』は機械論的な考えによっています。それによれば、人間は己れの利 益のために行動するものではなく、自動人形のようなものであり、何らの行動の自由ももたず、自分自身の生態と環境とに規定されて自分ではどうしようもない存在だ、というのです。これが正しいという歴史的証拠はほとんどありません。それどころか、そうすべき理由があると知った場合には、人間は現実に自己の生殖能力を制御し、人ロ增加を抑制するものだ、という多くの証拠があります。ただ、人間がそのように行動するようになるのは、どんな力が糊きどんな条件がみたされているためな のか、 | |
[pagina 236]
| |
という点はあまりよくわかっていません。それにしても歴史的証拠は、人間がそのようにふるまってきたことを示しています。最も最近の歴史的証拠としてはいわゆる先進国の多くで、過去三十年から四十年の間に出生率がひじょうに急速に低下してきたということがあげられます。それは、すべての国でというわけではありませんが、多くの国で見られることであって、その中には、束ョーロッパの社会主義国の大部分、ソ連のロシャおよびゥクラィナ地方、北ィタリア、スカンジナビア諸国、 アメリ力、日本などが含まれています。おそらく現在のアメリ力の出生率は、純再生産率でいえばほぽ一にひとしくなるところまできています。つまり一人の女性がちょうど自分自身を再生産するだけの数の女児を生んでいるということです。いいかえれば、現在のアメリカではー人の女性が平均してニ·一人ないしニ·二人の子どもを産んでいるわけですが、この子どもの半分以上は男の子です (女児よりも三ないし五パーセント男児の出産が多い) 。そして豊かな国では、子どもたちが成長して再生産年令になるまでに死亡する率はきわめてわずかです。生まれた子どもの約ニパーセントが一歳になるまでに死にますが、その後再生産年令になるまでに死ぬ割合は一パーセント未满です。このような状況のもとでは、女性ー人当たりおよそニ·二人の子どもを出産するような状態が、人口学者によって純再生産率が一であるとよばれる状態を意味することになるわけです。現在アメリカの女性がじっさいに産んでいる子どもの数がちようどこのくら いなのです。現在の出生力をもとにして、それをアメリ力女性の再生産年令期間全体にひきのばすと上のような数字が得られるのです。アメリカでは、白人についてみても黑人についてみても、過去七ー八年の間に出生率はかなり下落しました。今後十年以内に、あらゆる先進国で女性の純再生産率が一よりも低くなるという事態は、ありえないことではないと思います。なぜそうなるのかはよくわかっていませんが、いくつかの説明が可能です。多分もっともー般的な説明は、親になる可能性をもっ ている人々に子どもがもたらす身体的、経済的、および社会的な利益が、昔ほど大きくないというものです。アメリカでは、百七十年前には、平均的女性は七人の子どもを産んでいました。しかし、女性ー人当たりの子どもの数は、過去百七十年間にわたって低下を統けてきました。その数は、一九三十年代に一たんは底をつき、その後一九五〇年代のぺビーブームの過程で再上昇 | |
[pagina 237]
| |
しました。しかし現在ではまた低下しつつあります。 このこと自体はまことにけっこうなことだ、しかし世界人口の大部分は先進国つまり豊かな国ではなく、贫しい国に住んでいるのだ、と多くの人が指摘するでしょう。そして贫しい国では、死亡率は豊かなMとほとんど同じくらいに低くなったというのに、出生率はまだ下がっていません。第三世界の人口の恐るべき增加をもたらしたのは、死亡率が下がったのに出生率は下っていないという亊実なのです。たとえば、インド、パキスタン、パングラデイシュでは、一九二〇年代の平均寿命は二十才か ら二十五才の間にありました。すなわち、生まれたての赤ん坊は、約二十ニー三年の余命しか期待できなかったわけです。これは、すでにある程度大きくなった人間が平均して二十ニー三歳までしか生きられなかったということではありません。そうではなくて、子どもの約半分が十七才になるまでに死んでいたのです。現在、インド、パングラデイシュ、パキスタンの平均寿命は約五十歳です。南アメリカではさらにもっと上です。アフリカではもっと下ですが、第三世界全体としては過去五十年間 に平均寿命は、多分、二倍半に延びております。この間出生率の低下はほとんどありませんでした。これこそがいわゆる人口爆発-恐るべき高率での人口増加-をもたらしてきたのです。開発途上国では、平均的女性は四人ないし五人、しばしば六人ないし七人、の子どもを生みます。この子どもたちは今では生きながらえます。全部ではありませんが、八十パーセントが靑年期をすぎてもなお生存しています。先進世界では、平均的女性は二人をわずかに上まわる子どもをつくりますが、ほとんどすベて の子どもが生き残って成長します。
ベネズエラでは人ロ增加率は三パーセントをこえ、しかも高い所得水準を実現しています。ブラジルやメキシロでもそうです。彼らの一人当たり所得はひじょうに急速に上昇し、しかも人口もひじょうに早く增加しています。どう説明したらよいのでしょうか。
ブラジルやメキシコでは、ひじょうに多くの人間が外見上国全体の繁栄として表われているものにあずかれないでいる、ということが多分説明になるでしょう。これらの国は、従来からあった用語を使えばいわゆる「ニ国民社会」なのです。つまり贫しいものは贫しいままでいるのに、豊かなものはますます豊かになるという社会です。 | |
[pagina 238]
| |
ギャップはますます大きくなる......
ー方には人々がますます豊かになっていく近代的な部分があり、他方には人々がいろいろな面で今までよりもいっそう悪くなるような伝統的部分があるというわけです。このことがメキシロやブラジルにあてはまりそうです。ベネズエラではたしかにそうです。
ところで、人口問題の観点からすると多分もっとも重要な、もう一つの国がありますね、つまり中国です。
地球上のおよそ四人に一人が中国人です。この巨大な国については、ほとんど何も知られていません。現代の中国ではたった一回国勢調査が行なわれただけでした。それも一九五三年のことですから、わたしたちは、中国の出生率がじっさいにはどのぐらいであり死亡率がどのくらいであるのか、またこれらの率がどのように変わりつつあるのかを知りません。中国にいったいどれくらいの人がいるのかさえよくわからないのです。ふつう考えられているよりは一億ないしニ億多いということもあり うることです。統計そのものがあまりありません。中国人は統計にそれほど興味を示さなかったようです。あつめもしませんでしたし発表もしませんでした。ですから中国に関してできることといえば、せいぜい印象主義的にながめてみることだけです。
『成長の限界』は、まったく無制限な拡大と成畏の時代の後に、どうやって均衡を達成するか、の研究に寄与することを目的としたものでした。
そうです。定常状態の世界に到達しなければならないという事実については、問題はありません。つまり、世界が現在のような指数的成長を統けていくことはおそらくできないでしよう。指数的成長がもつ性質というのは、遅かれ早かれ万事おじゃんになってしまうというものです。『成長の限界』に対して私が主に批判したい点は、著者たちが、指数的成長を破局によって止められるまでは続くはずのものと想定しているということです。それは決して続くはずのものではありません。指数的成長 というのは、通常、過渡期に現われるにすぎないものなのです。われわれは、今、人類史の大きな過渡期に生きています。トィンビーは、われわれが歴史の蝶つがいのうえに生きているのだといっています。われわれは、ある種 | |
[pagina 239]
| |
の世界から別の種類の世界に移ろうとしているところなのです。将来存在しなければならない種類の世界、存在したらよいではなくて存在しなければならない世界は、多かれ少なかれ定常状態の世界にちがいありません。問題は、どんな種類の定常状態の世界になろうとしているかです。一つの可能性は、百二十億前後の人口をもつ世界、百億から百二十億の人々が十分な食糧や十分な資源を与えられ、あらゆる人にとって物質的に恵まれた生活と汚染に対する抑制カとをもった此界です。いまひ とつ考えられる極端なヶースは、別の種類の定常状態の世界で、五百億から一千億の人口をもち、死亡率が出生率にひとしくなるまで上昇し、大部分の人が満足には食べられず (だからこそ死亡率が出生率にひとしくなるまで上がっている) 、贫困がほとんど普遍的な人間の条件となり、天然資源がほとんど使いつくされているために未来に希望がもてないような世界です。そこでは、人々はひじょうに不自由な生活を送り、大部分の人たちがまったく不快な状況のもとでかろうじて生存を保てるにすぎ ないのです。 どのような定常状態の世界をめざせばよいか、という点が、真の問題です、しかし『成長の限界』はこれよりもむしろ悪いことをいっています。それによれば、将来おこりうる事態というのは、持続的な上昇とその後にくる崩壊、つまり定常状態に、-それがどんな悪い状態であるにせよ-徐々に近づくのではなくて、資源利用の行きすぎ、人口増加や生産や経済成長の行きすぎがおこり、そのあとで、生産、人口および利用可能な資源の急激で破局的な崩落が生ずるような車態だ、といっているのです 。 どのようなモデルを考えるかによって答もかわってきます。MITがつくったモデルは、指数的変化が持続すると仮定しています。しかし、まず第一に、指数的変化は持統しうるものではありません。第二に、それは持続する必要もありません。持統する指数的成長がある限度に近づくにつれて成長率がしだいに低下する、S字形の力ーブに沿った成長も十分ありえます。経済や人口がま吣すます急速に成長していってそれからどかんと崩れおち) るというのではなくて、むしろしだいに速度をおとしな一がら成長を統けるという形です。つまり、それらはS字形の力ーブに沿って動き、はじめはゆっくりと、それからに上昇します。しかし結局は成長はおそくなり先細りになるのです。 | |
[pagina 240]
| |
彼らは、もしわれわれが急いでなにかしなければ、もし力ーブや趨勢をかえることをしなければ、暴落の瞬間がやってくることを証明しようとしたのです。
彼らの主な論点は、もしわれわれが今すぐ直ちに突行に着手しなければ、結局はこの崩壊にいたらざるを得ないということです。私が主張したいのは、彼らがものごとにまちがった優先度を与えているということです。出生率を低下させるためには、つまり人々が小家族になることに利点を見い出すような条件をつくりだすためには、われわれは経済発展の継統を、特に開発途上国において、必要とするのです。私の意見では、今日までの経験からすると、これら開発途上国の人々が人ロを安定化さ せる、つまり人口をある定常水に維持するような行動様式をとると期待することは、彼らがそうするだけの理由をもつようになるまで十分な経済発展を実現しないかぎり、絶対に不可能です。われわれ西洋人の立場からすれば、つまり豊かな国々の立場からすれば、贫しい国々の人々に対して、資源が利用できないから、汚染がひどすぎるから、きみたちは多分これ以上発展できないよ、ということはひじようにやさしい解決です。 自分たちの生殖能力を制限しようというのであれば、安定して平和で比較的幸福な世界に万人が住めるようにしていこうとするのであれば、よりいっそうの世界的な規模での経済的、社会的発展を突現しなければなりません。問題は、資源が十分か、汚染が抑制できるかにかかつています。汚染をあまりひどく增大させることなく経済成長を実現することが可能か、にかかっています。われわれは、『成長の限界』の著者たちが理解しえたところよりもいっそう深い研究を進めていかなければならな いと思います。 |
|