Seicho no genkai o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
(1973)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
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17 デニス.ガボールデニス·ガボール (Dennis Gabor) 氏は一九〇〇年、ハンガリーのブタペストで生まれた。一九三四年に渡英、一九六七年以来ロンドン·ィンべリアル·ヵレジで電子工学の上級研究員、一九七一年、ホログラフィーの発明でノーベル物理学賞を授与された。 その主著には、『未来を発明する』‘Inventing the Future’ (1964)Ga naar eind〔註1〕、『革新-科学的、技術的、社会的』Innovations; Scientific, Technological and Social’ (1970) 『成熟社会』‘The Mature Society’ (1972)Ga naar eind〔註2〕がある。 ガボール教授は、ローマ·クラブの会議や計画において活動的な役割を演じている。
『成長の限界』は必要とされていた出版物だったとお思いですか。
確かに必要とされていた出版物でした。あの本に関する最も興味深いことは、それが引きおこした、特に経済学者からの信じられないほど激しい反応でした。経済学者は経済的成長の持続以外に自由な社会を運営していく方法を知らないのです。もし成長に限界があるとしたらもちろん、それによっておきる危険は非常に大きいことになります。アーノルド·トィンビ ーGa naar eind〔註3〕は、「ィギリスでさえ、議会制民主主義が生き残るという保証はない。というのは、物質面で変化のない生活様式に立ちもどらなければならないという恐ろしい試練が待っているからである」と書いています。おわかりですね。これが危険なのです。自由社会は、若干の人々が全体主義の他に解決の途がないと考えるような困難な事態に陥ろうとしているのです。私は、『成熟社会』の中で、他に途があるかもしれないということを示そうとしました。も ちろんその場合、いくつかの自由を犧牲にしなければならないでしょう。例えば、常に暴落する危険をはらんでいる株式取引の自由や全国をマヒさせて大金をゆすりとろうとするような労働組合などがそれです。その種の自由 | |
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を保持するわけにはいきません。しかし、それと同時に、基本的な自由は保持しなければならないのです。私にいわせれば、革新的企業活動の自由と、自分の好きなことを書くといぅ著作の自由を保持したいと思います。前者なしに後者のみが存在し得るかどぅかは、疑問です。まあ考えてもごらんなさい。経済的自由がないソ連で、アレクサンダー·ソルジエニーツィンGa naar eind〔註4〕は一行も出版できないのですからな。
あなたは、人間を完全なものにする可能性 (the perfectibility of man)Ga naar eind〔註5〕を信じていらつしゃいますか。
ええ、信じています。ただ不幸なことに、その過程は非常に緩慢にしか進行しません。何らかの前進があったこと自体には疑問の余地はありませんが。例えば、われわれはローマ人よりは進んでいます。ローマ帝国時代はもちろんルネッサンス期に至っても、殺人は避けがたい出来事であり、敵を消すきわめて自然な方法だとみなされていました。
大問題はもちろん「ゼロ成長社会」とどうやゥて折合いをつけるかということですね。あなたは、われわれの社会では希望と成長とが同義語になっているGa naar eind〔註6〕と書いておられる。しかし、あなたはゼロ成長社会に期待をつないでいらっしゃるのですか。そうでないとしたら、あなたの表現を使えは、一人の「技術者」は、どんな希望をもつことができるのでしようか。
われわれ専門家や知識人は、一生を通じて、地位を高め、知恵を高め、仲間から認められる度合いを高めていくことができます。それは、一般の人々には全然ないことです。労働者は、十六歳か十八歳で工場に入り、退職する日までまったく同じ水準の標準賃金をもらうのが普通です。彼の唯一の希望は、社会の成長と自分の労働組合の闘争とによって、より大きなヶーキのより大きな一切れを得ることでしよう。もっとも近ごろでは、これは同じ大きさのヶーキの、より大きな一切れを得るという だけの意味になってしまっていますが。ここ数年、経済成長率がいくぶん低下したために、われわれは、ゼロ成長社会でおこるだろう事態をある程度前もって味わっているのです。私が暮らした三つの国、アメリカ、ィギリスおよびイタリアでは、階級闘争が激しさを增していま | |
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す。人々はお互い同士ぶったくりあっている。成長している共通のブールから分け前を取ることができないからです。経済成長は、いつの日か止まらざるをえなくなるでしょう。ゼロ成長へのこの接近過程は、恐ろしく苦痛に满ちたものでしょう。自由社会は、成長をスローダゥンさせるための機構をまったくもっていないのですから。
あなたは人間を完全なものにする可能性および、人間が成長して自らを改善していくことを信じておられるが、同時に、精神的健康とは内的葛藤の欠如を意味するというフロィトGa naar eind〔註7〕の言葉を引用してもおられる。「われわれは、彼の深いべシミズムに敬意を払わねばならないが、しかしわれわれは、それからわれわれ自身を解放しなければならない」Ga naar eind〔註8〕とまで書いておられる。いったいど うすれはそれができますか。
健康は、內的葛藤の欠如よりもう少し多くのことを意味します。そして、希望は絶望の欠如以上のものだと思うのです。社会は定常的でも、個人は年令とともに改善されていくことができます。知識がふえ、世の中を知り、それとうまくやっていけるようになるのです。もっとも、これはそれほど容易なわざではありません。この世界をあまりにも憎むために、何よりもまずそれを粉砕せねばならぬと考えている知識人たちのことを考えていただければおわかりでしょうが。
サマセット·モームGa naar eind〔註9〕は、彼の回顧錄の中で「神々は、数々の悪でバンドラの箱をお満たしになったさい『希望』もそれに付け加えなさったのだが、そのときいかばかりか忍び笑いをなされたことだろう。神々は、それこそが、不幸を最後まで辛抱するように人類を誘いこむ、すべての悪の中で最も残忍な悪だということをよく知っていなさクたのだから」Ga naar eind〔註10〕と書いてレます。
それは実に印象的な文章です。しかし、それでもなお、私は絶望してしまう人間より、希望をもって不幸に耐える人間の方が好きです。
あなたの眼からすれは悲観的すぎる見方とはいえませんか。
そう、あまりに悲観的すぎますな。サマセット·モームは、もちろん大の皮肉屋だ。私は希望の説教者のくせに、どういうわけかモーム、イーヴリン·ウオーGa naar eind〔註11〕、 | |
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アナトール·フランスGa naar eind〔註12〕、初期のオルダス·ハックスレィGa naar eind〔註13〕などのような皮肉屋が大好きです。
あなたは、科学者と開明的な実業家とが人類にとってのよりよい結果をもたらすために、その影響力を行使する方法について、何か書いておられましたね。
ええ、これは多分最も重要な点でしょう。私は、自分が恥ずかしげもなく規範的である点で、他の未来学者とは少し違っています。指示を与えたり、行勤的な人々にその進むべき方向について語りかけたりすることが、よいことだと思っているのです。私自身、産業の分野で二四年間働いてきました。産業は、世界で最も優れた技術的才能ばかりでなく、世界で最も明敏で精力的な人間をあるていど占有してきました。これは、来たるべき大転換にさいしてわれわれの味方になってくれるにちがいな い勢力です。私は私企業を信頼しています。しかし、その理由はそれが競争してものを浪費するという点にあるのではありません。 まず最初に、われわれは汚染と戦わねばなりません。しかし、これは大問題というほどのものではありません。環境主義者の中には問題を誇張しているものがいます。ロンドンの例をみても、それほど高価な努力をはらわずとも空気や水を浄化できることがわかります。われわれは、恐るべき無責任な使い方で、世界の資源を浪費しつづけている。銅が安価であるかぎり、錫が安価であるかぎり、将来の不足のことなんか考えもしないでそれらを使っています。しかし、最も重要なことは、いうまで もなく、石油と石炭を原子力に、天然石油を合成石油に代替して、遅くなりすぎないうちに豊富な動力を準備することです。石油がまだ地面からわき出ている間に、それをしなければなりません。自然は何億年もの間、石油を貯えてきてくれたが、われわれは僅か一世紀でそれを消費しつくそうとしています。これは科学技術が役立ちうる分野であり、現在ただ今は経済的でないとしてもまずまず受け入れうる均衡状態に近づくためには欠くことのできない発明や変革の準備を、あらゆる科学技術を動 員してさせたいと私が考える理由です。
しかし、どのようにしたら、科学者や世界の明敏な知性が、政治家に影響を与えて必要な決定を下させるようにすることができましょうか。
この点については、私は一部の人々が考えているほど | |
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に悲観的ではありません。もちろん、政治家は魔神ではありません。政治家はいろんなことにしばられて、なかなか動きがとれない。たとえば選挙民を喜ばせなくてはなりません。選举民は普通、政治家自身に比べて知性がずっと低く、時には倫理水準の面でもより低いことがあります。驚くことはありませんぞ。私の言っていることは単なる事実にすぎんのですからな。私の見方からすると、労働党政府は、公衆の多数の意に反した倫理上進歩的な三つの法案を通しました。同性愛と堕胎と死刑 に関する法案がそれです。少なくとも世論の八〇バーセントは死刑の維持に賛成でした。ョーロッバ共同市埸への加入についても同じことがいえます。あれを国民投票にけていたら間違いなく否決されたでしょう。
しかし、科学者を動員して国連やその他世界的管理組織に、もゥとずゥと大きな影響を与えるよぅにするには、どぅすれはよいとお思いですか。
まず第一に、科学者はひとつの声にまとまった主張をしなければなりません。現在、科学者はフォレスタ ーGa naar eind〔註14〕とメドゥズのだした結果について一〇〇パーセント意見が一致しているわけではありません。まず第一に意見を一致させなければなりません。もしひとつの声になって主張すれば、きっと聞き入れられると思うのです。ァボロ計画を組織した創意工夫は、他の分野での明敏な知性によっても応用できるはずです。技術者のことを、金物を扱う道具屋ばかりだと考えるべきではありません。現在では、一般に「ソフトゥェァ科学」と呼ばれている、システムの 動学に関する相当な学問が開発されつつあります。現在では非常に複雑なシステムが定量的に扱われていますが、それは以前であれば直観的かつ不完全にしか知りえなかったものです。特に、科学者が社会的なブロジェクトの組織化になんらかの最初の成功をおさめた場合、政治家の耳をかたむけさせることができるでしょう。絶対の必要条件は、科学者自体の間に基本的な見解の一致があるということです。
しかしですね。ここでちよゥとロをさしはさませていただきたいのですが、スキナーGa naar eind〔註15〕とチョムスキーGa naar eind〔註16〕は、マサチューセッツ州の、ケンブリッジという同じ町に住んでいます。そして、チョムスキーは、『ニューヨーク·ブック·レビュー』でスキナーをずたずたに切り刻んでいます。私がスキナーに、チョムス | |
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キーと討論したことがあるかと尋ねますと、そんなことはないという。他方、その後で、チョムスキーと会った時には、編集者に求められたからスキナーの本を批評しただけだ、「スキナーがどんなことを書こうと、どっちみちそれはすべてナンセンスなのだから」、スキナーとあの本について討論したいなどとは思わない、という話でした。彼らは同じ町に住んでいるんですよ。それでいてまったく意見が合わない。いったい何故、彼らはまとまらないのでしょう。科学者がケンブリッジでさえ 互いに会うことができないのなら、いったいどうやって、世界の科学者の共同体のなかに秩序をもちこむことができるのでしょう。
チョムスキーもスキナーも共にもちろん「ソフト」の科学者だ。私は、実のところ、物理学者、化学者、生化学者、薬学者等の「ハード」の科学者の話をしていたのです。
しかし、科学者についての話ですから、ソフトとハードの科学者をともに結びつけるべきではないのですか。 そうできればいいと思うが、あなたもはっきりご存知のように、それは非常にむずかしい。われわれ、ハードの科学者にしてみれば、例えば、自分独自のアィデアをほんのちょっびりもつにいたった心理学者が、ただちに自分の学派を組織することなど、少しばかげているように見えますな。ハードな科学においては、学派や党派などできたためしがない。恐らく、やがてそのうちにわれわれ流の考え方がソフトな科学にも浸透していける日がくるでしょう。経済学は今や、ハード化しつつある科学 だといえます。
科学についていえば、あなたも書いておられるように、科半はナショナリズムと共同して、文明を一掃しうるような全面戦争の可能な状況をうみだしました。さっきは希望について話をしましたが、メドウズとフォレスターによる最初の地球モデルによって、その種のナショナリズムが一掃され、正当な理由にもとづいた希望が生まれうるようになることを、どの程度有望視していらっし争いますか。
その点については非常に有望だと思っています。私は『成熟社会』の中で、今世紀中にアメリカとロシアの間 | |
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で核戦争がおこる確率はゼロだと書きましたが、今ではそれ以上に大きな希望さえもっています。中国に対しては、それほど希望がもてないでいたのですが、あの本を进いて以来、中国のことを勉強してみて、少なからず楽観的になりました。毛沢東の教えがいきわたっているかぎり、中国が、われわれ他国を滅ぼそうとしないことは明らかです。中国は、ある種の中間的技術水準をめざして動いているようですな。中国は、工業的超大国や消費者社会になることをのぞんではいません。私はここ に、「東洋の知恵」というものの一端を見るような気がします。通常の場合は、私は「東洋の知恵」といったしろものは疑ってかかるのですが。また、正直なところ、今世紀中は生物学的戦争の可能性を考える必要はないと思っ ています。
われわれは本当に争いをなくすことができるのでしようか。争いは人間の必要物ではないのでしようか。興奮は毎日の食物に匹敵するほどの必要物なのではないでしようか。
私も、そうではないかと恐れています。現在、産業論争から生じている興奮が危機的な高まりを見せ、ついには国民の大多数が強カな政府-もちろん、これは独裁制の別名にすぎません-を求めるようにならないともかぎりません。
ファシズムにもどるということですか。
実際のところ、それはわれわれをファシズムに向かわせるかもしれません。私は三〇年前、ドィツでその進行を見ました。他の国々でもそのきざしが見られはしないかと恐れています。例えば、ここィタリアでは、ご存知のとおり、ファシズムがまだ危険なほどではないにしても成長してきています。しかし、自由社会では、ある種の争いや興奮は、残らざるをえません。ただそれと共に暮らせる程度にまでそれを抑制しておけることを、希望するにすぎません。
あなたはテレビがいちばん悪い意味での争いを大量に提供しているとは思われませんか。 まつたくそのとおり、一番悪い意味での争いですな。事実、暴力場面を大量に放映していますから。それにもかかわらず、概していえばテレビに関する私の意見はこうです。テレビは国民の九五バーセントに対しては、一種 | |
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のカタルシス効果をもっている。残りの五バーセントの人間だけが、テレビで見る暴力と競おうとしている。いいかえれば、九五バーセントの人々はテレビが自分に代わって行なってくれた暴力で满足しているということです。
ええ、それはそうですが、だれかを殺すには、たぅた一人の暗殺者がいれは十分でしょうに。
私は、この残りの五バーセントが、本当に危険な存在ではないかと思っています。いってみれば、知的尺度の高い方のはしの五バーセントの人間が世界を前進させ、低い方のはしの五バーセントは低能の犯罪者 (時として低能と呼べる域にさえ達していないこともある) で、これが世界を危うくしています。
低能でも、一発の弾丸で世界を破滅させることができますからね。
そのとおり、実際そうなのです。 |
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