Seicho no genkai o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
(1973)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
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4 マーガレット.ミードマーガレット.ミード (Margaret Mead) 博士はニユーヨーク市のアメリカ博物館民族館名誉館長であり、同時に今もコロンビア大学で人煩学を教えている。 ミード女史は一九〇一年べンシルヴァニア州フイラデルフイア市に生まれた。はじめバーナード.カレジ〔コロンビア大学付属女子大学〕に学び、一九二九年にコロンビア大学卒業。サモア島 (一九二五-二六) のマヌ族、アドミラルテイ群島おょびニユーギニア (一九二九年) などの諸旅行記、一九三一年のアメリカ.インデイアン研究、インドシナ (当時オランダ領東インド諸島) のバリ島における長期滞在(一九三一-三八) にょつて有名になる。主著に『サモア島の成人期』 (一九二八年) 、『ニユーギニアにおける成長』 (一九三〇年) 、『マヌ族の社会組織』 (一九三〇年) 、『インデイアン部族における文化の変遷』 (一九三二年) 、『三原始社会における性と気質』 (一九三五年) 、『男性と女性』 (一九四九年) がある。近著としては『文化と投企-世代の断絶の研究』 (一九七〇年) ならびに『ブラツクベリーの冬-昔の思い出』 (一九七二年) など。Ga naar eind〔註1〕
ミード博士、『成長の限界』の印象はいかがですか。
わたしは大のシミュレーションびいきで、実験してみるには危険すぎるような大規模な問題、生体実験のできないような規模の問題はシミュレーションによるほかないと思つてます。わたしは長いあいだ主張してきました-全地球をモデルにし、わたしたちが知らない地域における事実を認め、その上で、わたしたちの知つている地域を、知らない部分を含めるというかたちで考えるということを。ですから、そうしたモデルを使うという見地から大賛成なんです。 わたしたちが直面するであろうような問題の複雑さを扱うことはコンビュータなしではほとんど無理だと思います。 | |
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もちろん、コンビュー夕の条件は入れたデー夕によるということをご存知の上でですね。
もちろんデータによります。コンビュIタが思考までやってくれはしません。が、コンビュータには複雑なデータを入れることができます。一人の人間の思考が扱いかねるような。ですから、いまわたしたちが到逹しているような技術的相互依存度においては、一方にコンピュータ、テレビジョン.コンビユータ、他方にテレビジョン-これなしでは、現在おかれている危機に手を出しようがなくなる。 問題はどのようなシミュレーションが、次にどのように解釈されて、『成長の限界』のように、どのように一般大衆に提示されるか、ということ。じつに多くの技術的困難があります。そこには、いかなる種類にせよ、ハードなデータがないんですから。たとえば人間的価俩などはいらないわけです。モデルにはモデル自体の存在効果ははいらない。ところが、ほんとうの変化モデルなら、そのモデルから生じる結果の影響をも含まなければならないのに、そういうことは正しく十分にはなされてい ないようで、それで、可能な矯正策、何らかの種類の矯正手段、その手段がお互いを打ち消すようなぐあいのもの、そういうものが含まれてくる。 また、これについての解釈のいずれかを信じる結果として生ずるような変化を十分規定してもいない。それから、わたしは、国家や経済活勒に「成長」という言葉を適用することにも反対です。
それは、つまリ、成長が悪いわけじゃないというこ とですか?
いえ、成長などというべきものじゃないと思うんです。国家的総生産高の拡大、これを成長とは申しません。それは生物的活動とは思いませんし、まるで国家が一つの器官かなんかのように青年期があり、成熟期があるなどと論じる、これは無意味だと思う。国家は大きくなりますけれども、それは生きている有機体が成長するのと同じ意味の成長じゃありません。
樹木などは......
樹木とか人間とか。生きている有機体を一つの国家や経済体の隠喩として使うことは誤りだと思います。アメリカ人に向かつて成長には限界をつくらなければならな | |
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いという。ところがアメリカ人は成長とはよいものだと思っています。だれでも成長することはよいことだと感じています。そんなことをいえばアメリカ人は反撥します。世界中どこの人だって、子どもが生まれて大きくなっていく、ないし、樹木が植えられて育っていく、そういう意味での成長がよくないなどと思っている入はいないでしょう。
何といえばよいのでしよう?
拡長の限界。テクノロジーの拡大の限界。拘束なき消費の限界。物質主義の限界を宣伝するための隠喩ならたくさんあるんじやありませんか。
社会は社会の必要に従え、個の欲望に従うな、というのは?
じつによい表現じゃありませんか。国によって別な表現を使わなければいけません。
国によゥて?
国によって。アメリカ人に対しては、こういってよいでしよう-あなたがたのご先祖の始めは貧しい人たちで、少しばかりの暖かさと少しばかりの自由を求めたのです。宗教や政治のための少しばかりの自由。子孫のための少しばかりの安全と幸福。 そうして、そのご先祖たちはこの土地へ来て、いつしょうけんめい働いて、天国にあるだけだと思っていたような安全が地上にあることを知りはじめ、物質的な幸福を精神的な幸福と同一視しはじめ、浴室.便所のととのっていることを、なぜか精神生活のすぐれていることと同一視しはじめた。その結果、わたしたちは各個人に対して、たいへん贅沢な水準を打ち建てました。 わたしたちは、それを贅沢とは思わなかった。そういうものは必需品だと思いはじめました。自動車が発明されると、それは平均値的人間を解放するものと思われた。一台のフォード車を買えるということが。それが各人に、今までにない自由を与えた。そう思った。それが今になってみると、わたしたち、自動車文明を築いて来たんだと判明する。それは牢獄のようなもので、全国の空気を危険にさらし、わが国の都会を危くし、生活を危くするばかりか、自動車なしではどこにも行けないように なってしまったんだから、人を牢獄に入れたも同じだとわかる。こうして、わたしたちは、自分を牢屋に入れ | |
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るような種類の経済体制をつくり、それが巨大な苽のエネルギーを使うのだと認識しはじめています。そして、かけがえのない世界の資源が、世界の他の場所をすっかり消耗してしまう。世界の他の場所の人々を搾取するからです。それどころか、わが国のなかの人間の一部をも貧しく、栄養不良な、不幸なものにしてしまいます。わたしたちのシステムには動いていないものがある。変えなければならないものがある。何にしても経済成長が解決するだろうという、第二次大戦後に説かれた信条、 技術援助によって富んだ国と貧しい国のあいだの不均衡は正されるだろうという信条、これは、どちらも誤っていたことが明らかになってきました。それを変えなければなりません。わたしたち、生活様式を再編成しなければなりません。 わたしたちは均衡社会をもとめているんだというのではまずいように思います。たしかに、わたしたちは人口と資源のバランスをよくする必要があり、たしかめておくべきことは第一に、核戦争、その他の科学兵器戦争によって世界を危険にさらしていないか、第二に、諸惑星、気圈、海洋を危険にさらしていないか、第三に、かけがえのない資源を使いつくしていないか、第四に、そうしたことを行なうような生活様式をとっていないか、ということです。はじめの三つは、じつは、いかに生き残 るかという問題にかかわっていて、もし人類が地球に存在しなくなるなら、よい生活様式の話などしても意味がありません。で、まず、いかに生き残るかという問题、致命的でとりかえしのつかない変化を避けるということ、その次に人間的な生活様式の問題になります。
しかし、ミード博士、いったいどうやゥてそれをなしとげるのです、だれがなしとげるのです?スベィン型の独裁下に暮らせとおっしゃるのですか。スキナーのいうように、自由や尊厳なんていうものを崇拝するのはやめよとおゥしゃるのですかGa naar eind〔註2〕。そして彼に世界が動かせますか。スキナーに?
いや、スキナーについてのほんとうの問題は、「だれがスキナーをブログラムするか」です。その問を出せば彼の位置はすべて見えてきます。
ですが、そうすると資源がこれ以上減ったら、だれが資源を所有し、だれがその使用を決めるのか、といラことについて間題が生じると思あれませんか。 | |
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ちょつと、昔のことを考えてよ。仮にあなたがギリシャ都市国家に住んでいるとしてください。アッチカにそういう都市国家は二五〇以上あったわけね。そのどれもが資源を共有し、だめにする。お互いにとりひきし、戦う。疑問がおこりま-いったい、この二五〇の都市国家間に戦争のないような秩序をだれが生み出すのか。それにもかかわらず、二億、さらに四億の人間のいる社会をつくりあげたんですよ、一つの都市が隣の都市を制圧し、男を殺し、女を奪いとつた、などということをしたので はありません。歴史をさかのぼって、その中に自分を置いて見てごらんなさい、何がおきているのか、そこから何も生じないことをたしかめなさい。 だれがそれをするのかという問題、これはまだわかりません。これは考え出さなければならないことです。しかし真の問題は現状が何であるかということを確実にすることだと思います。たとえば人口が紀元ニ千年に七〇億になるだろうか、ならないだろうか、というふうな議論は危険で無意味なものじゃないでしょうか。 どんな数になるにもせよ、それは多すぎるわけで、だから、その筋のひとは細部の議論をやめるべきです。そういう議論は一般人対エアリック博士の議論で、これもまたナンセンス。なぜなら、それほどの人口がなければ、それほどの問題もないというのですから。まさにそのとおり。テクノロジーなしでの人口なら、それも問題がない。まさにそのとおり。だからどうだというんです。人口はある。テクノロジIはある。そのテクノロジーが自然に対する関係の鎖をこわし、地球を危険におとしいれ ている。人口がやむことなしにテクノロジーをいつそう使う圧力となっている。どちらも真実なのです。
科学は一時停止されるべきでしようか。
そうは思いません。わたしたちが必要とするのは良い科学をもっと、特に、良い社会科学をもっと、ということでしょう。ハトやネズミの実験にもとづいたものでない、何か真に人間行動を理解するもの、これが必要でしょう。
しかし、ミード博士、われわれは、ロシア人もアメリカ人もいっしよになって、宇宙研究所を地球のまわリにつくるようになると思いませんか。他の惑星に移住して行きませんか。 | |
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現在のところ他の惑星に移住していくわけには行きませんよね。そう、わたしたちはここにいたいのです。他の惑星に移住する時のことを話してみても、まず、どうにもならない。というのは危険は次の二十五年間ですから。ええ、変わらなければなりません、わたしたちは。人口の不安定をくずして、この、向こう見ずな、指数的人口成長をやめなければなりません。そして、拡大する消費をやめなければなりません。諸テクノロジーのバランスをとらなければいけません。しかし均衡というと、 人は何か静的なものを考えてしまいます。たとえ動的均衡といっても、何か前後にはね返るようなものを考え、それが然るべき場所に戻ることだ、というふうなことばかり考えてしまう。それでは人類の想像力を捕えるわけにいかない。それでは人間がそのままの場所にとどまるということに響いてしまいます。
それが必要とされる、新ビジョンなのでしようか。 これはビジョンでも何でもありません。-しかし、もし、物質的なものを探求するという、このたいへんな重荷がないとなれば、わたしたち、人がふたたび人間らしく暮らせるような都市をつくりはじめられましよう。今のように人々を人工的な小さな箱に分けてしまうなんてことをやめられましよう。今のままでは老人のいるべき場所もなく、青年期の人間のいる場所もなく、未婚者の場所もなく、貧乏人の場所もなく、すべてこれ、小さな子どものいる家族のために家が建てられていますが、それ をやめて、ふたたび共同社会をつくり出せるでしょう、人人がお互いのうちに喜びをもつような。こうしたことはすべて金のかからないことで、汚染もなく、人間の資源に不当な重荷とならないことです。空気を危険にさらすこともありません。
しかしアジアについてはどうですか。第三世界は?
いや、ただいま、この瞬間に、窮乏から救い出せるわけですよ。ねえ。今は人々に食糧を与える手段があるのドですから。飢えとは純然たる悪分配の謂で、それは改善されつつあるわけです。例の、最近の米ソとりきめが、その良い例で、ソビエトは食糧を必要とし、それをわたしたちから買うことになったのです。そうしてアメリカがシアトルで失業と飢えを経験したとき、日本人が最初の船をよこしてくれたのです。すばらしいことです。アメリカにとつてはヒドイことですけれど、これはまた 世 | |
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界がいかに相互依存を必要としているかを語っています。
そういうビジョンをどうやゥて二十五年以内に広めますか。
ええ、努力をつづけなければなりません。わたしたち今はね、新しい自動車が必要となれば一団の人々をあつめて、そういう自動車を発明しろと命じる、そういう考え方に馴れてしまっている。原爆が必要だ。たくさんの入をマンハッタン計画に閉じ込めて、さあ発明しろという。 ところが社会組織というものはそんな具合に進まない。頭のいい人たちをあつめて変化を発明させるというものじゃないんです。だれもがそれに参加しなければならない。社会変化が真に意味あるものであるならばね。少なくとも人ロのかなりの部分が積極的に夢中になってくれなければ。
それが毛沢東のやり方ですね。なしとげたいと思ったことはその式によって中国でなしとげた-社会の完全再編成も。 そうです。そして、わたしたちもそれが必要です。社会の完全再編成が必要です。ただ、そのやり方は国によって違うことになります。しかも毛は唯一の指導者ですね-その変化を行なうに当たってまずマスコミの力を借りるということをしないで、しかも生き残った偉大な指導者です。一九三〇年代、四〇年代の他の大物たちはすべてラジオに頼っていました-ヒットラーにしても、ムッソリーニ、ルーズべルト、みな然り。いまのところまだハッキリしていないのはテレビの果たす役割りです。テレ ビをどう使うか、まだわかりません。テレビ衛星をつくったり、さまざまなテレビの可能性を知りながらも、まだわかっていません。
テレビをロシア人は恐れています。
ロシア入が恐れているということは、それだけテレビの価値を認めたことです。ィンドが独得な形の衛星を諸国にさきがけてつくったのもテレビの価値を認めたからです。こうしたことがつぎつぎ行なわれるでしよう。わたしたちはいっしようけんめい見守っていく必要があります。いわゆるソフト.ゥェアの材料をもつことが必要です。衛星のために。全衛星システムが動き出すときの | |
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ために。 わたしたちには技術的な方法があるわけで、世界に何がおこっているかを示す写真をとれるのです。気圈を危くする状況の、りっばな写真モデルをつくりあげることができるのです。月から見た地球の写真を見せ、それがいかに小さいものであるか、いかに孤立したもので、いかに配慮と愛情を必要としているか、それを示すことができます。月から見た地球の姿といぅものは、月へ行くために払ったお金の価値が十分あったと思います。なぜなら、それは新しい釣合いの感覚を与えたからです。そ れはわたしたちを極度に感動させ、今日おこりつつあることを、環境を保護しょぅといぅ運動を鼓舞してくれました。技術的方法はあるわけです。あなたがた、マスコミに関係ある方がそれを使ってくださればわかることです。 わたしはニューギニアに行って、坐って、子どもたちのおしやべりを聞きました。子どもはラジオでグレンの飛行の細部を聞き、電灯が消えた時のことも知り、スブートニグがどんなものであるかを知り、それが何であるかを理解してぃました。 ニューギニアで?
ニューギニアで。
そうすると過去三十年間にずいぶんな変容を見て来られたわけですね。
ええ。そう、人間が石器時代を出発して現在にいたるのを見たわけです。わたしたちの出発点を知っていますし、民族が非常な速度で動くのを見たのです。一つにはそれで、わたし、将来の可能性に対して、たいがいの人ょりも、もっと信頼と希望を寄せているわけ。
それで、その点では、ローマ.クラブは先駆的なことをしました。地球全体を一つのモデルにしたのですから。
それがわたしたちのためのスタートになります。前にあったのは、アメリカがソ連をモデル化すること、ソ連がアメリカをモデル化すること、そしてどちらもともに中国を無視していました-まるで中国は存在しないかのょうに。だれも全体を考えていなかった。少なくともローマ.グラブは全地球を考慮に入れたわけです。 |