Asu no chikyû sedai no tameni
(1975)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
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47 マーディ・エルマンディラマーディ・エルマンディラ(Mahdi Elmandjra)氏は、一九三三年三月、モロッコのラバトで生まれた。ヵサブランヵにあるリャゥテイ高校を卒業した後、バーモントのビュトネイ・スクールへ進み、バリ大学で法学博士号を取得。氏の外交官としての進路はモロツコ在外公館勤務に始まり、後に外務省顧問となる。一九六一年、ユネスコに入り、現在その「事前計画」係副事務局長である。
あなたが、『国連機構 - 一つの分析』(一九七三)といぅ本の中てなさったほど国連の運営を批判的かつ徹底的に分析したものは誰もいません。あなたは、現在の国連が現実に運営されているやリ方に満足されていますか。
一般に諸制度が完全化に向かい得ることを信じている人で、現在の国連に完全に满足できる人はいないと思います。疑いもなく国連には大改革の余地がありますが、しかし、それは、各国の国際機構に対する態度に重要な変更をもたらさずには実現不可能です。けだし、国連機構とは、各国の意向によって左右される国際関係における支配的傾向の反映にすぎません。国連の主要な価値の一つは、それが一つの世界的なフォーラムを体現していることであって、そこでは種々の見解の交換が行なわれるわけですが、それは、対話を通じて大危機を阻 止すると共に、国連憲章の普遍的諸目標に捧げられた「国際世論」の形成に資するといぅ希望の下に行なわれるわけです。
しかし、例えば、フアリ・ブーメディエン・アルジエリア大統領によって召集された一九七四年四月の自然资源問題に関する特別総会をとってみましょぅ。八十八か国の政府指導者がニューョークに親しく集まってきて、演說を行ない、去リました。こうしたやリ方 | |
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は、有害きわまリなく、それは会議の目的や意図に反したものだと考えているものもいます。
この国連の臨時総会については、僅か二週間の討論で、国際システム全体に奇跡的転換が起こることを期待した人はいませんでした。しかし、そもそもこのような特別総会が持たれたという事実自体が、最も重要なのです。この会議を通して、先進国および開発途上国双方が、現在の世界システムの構造の深刻な危機についての認識を持っていることが明らかになりました。私逹は、これら八十八の演説の内容を、充分時間をかけて検討しなければならないでしようが、他方 - これは充分強調されていないことですが - 非公式な場では、非常に有益な接 触が数多くもたれたことは疑いを容れません。私が思うには、この特別総会を通して、多くの人々が,これまでと違った新しい枠組の中で物事をみることを強いられましたし、これからもそうでしよう。
あなたは、「根回し外交」Ga naar margenoot+の重要性を強調なさっているようでナね。
先進国の若干の代表者達の演説の中にさえ反映されていたように、私は、現在の世界経済システムや、より特殊的には未だ支配的な国際関係のタィプに一定の変革が必要であるということを、より多くの人々が受け容れていると信じています。
これまで、私は、ジャーナリストとして、十二回ほど国連総会を傍聽しました。その間、あの謹厳な建物内のホールにこだました言葉の数は十億をもって数えるでしょう。諸事万端、もっと早急に処理できる方法はないものでしょうか。世界は急いでおりますが、人類の直面している問題は拡大するばかりです。
そうした問題については、いろいろ考慮がめぐらされてきました。しかしながら、国際会議は、しばしば、ある国の見解を自国の世論や国際世論に向けてアビールするよい垛所だ、と考えられています。国会議員が選挙区を横目でみながら国会で演説するようなものですよ。にもかかわらず、これらは種々の意思決定のための基盤を提供しているのです。こうした決定のあるものは総会附属の事務処理のための委員会において決定されることもあれば、前に述べたような「根回し外交」によって、よい解決策が出されることもあります。しかし、私は、一 | |
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九七四年四月のニューョーク資源問題会議は、これまでの国際関係のタィプの一大転換であると、断言する用意があります。
一九七二年のストックホルム環境会議、一九七四年の他の二つの世界会議、すなわち、ブカレストの世界人口会議、ローマの食糧会議も同じ範疇に厲するとお考えなわけですね。
私逹は今、「諸問題の全世界化(グロバリゼーション)」と呼ばれるものを目撃しているのだと私は確信しています。換言すれば、ますます多くの問題が今日全世界的広がりを得ているということです。このような問題は、国際的協力があって初めて効果的に対処、解決されるのです。環境、世界人口、海洋、食糧、ェネルギー問題、あるいは、今日人間の定住(セツルメント)と呼ばれている問題さえ含めてこれらの重要な問題は、国家レベルではいくら巨額の資金を費したところで解決は困難でしょう。今や、誰もがこのことをよく理解してい るようです纟転換は、国家主権という概念自体に生じてきています。人々は、新しい形態の国際的統御に依存しなければならないことを認めつつあります。 アゥレリオ・ベッチエィ氏〔本書第一卷対談70および本書対談49参照〕は、これを全世界的相互依存性に関連した主権国家の新しい概念と呼んでおられます。
ローマ・クラブやアゥレリオ・ベッチェィ氏が雄弁に表現している相互依存性の新しい概念は、誤解されていることがあまりにしばしばあります。ある人々は、それは直接的な世界連邦への急進的転換のゴー・サィンを意味するものだと解しています。これは、全く誤解です。相互依存が真に意味するものは、ただ、国家レベルで次のような意識と理解が生まれているということだけです。すなわち、ある種の問題については、国際的な協力の強化が必要であり、それゆえ、こうした問題は、たとえ部分的にであれ、意志決定の国際的形態に委 ねることも可能であろうということです。このことは、実際上、各民族国家の存続のためにさえ不可避になりました。国家主権も、こうした国際レべルでの一定の権力への委託とその受容なしには、遂には有名無実になってしまうのではないでしょうか。 こう言ってもいいでしょう。私達は今や、国家主権の概念自体に一種の突然変異が生じているのを目撃してい | |
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るのである、と、その際、つい数年前までは不可欠なものを考えられていた国家主権のある種の属性も、もはや、それほど本質的だとは考えられなくなっています。いかなる国も、自国のみで現在の全地球的規模の問題を解決することは困難だということがわかってきたからです。どの問題をとってもわかります。ィンフレ問題がよい例です。どの国にも、現在進行しているィンフレを自分達だけで解決することはできないということが、身にしみて理解されていると思います、国際的、全地球的な協力のもとに対処して行かねばならない重大な 問題が多くあります。その対処策については、まだ誰も正確な解答を出すに至っていませんが、ますます多くの問題が国際的レべルで研究する必要があるという認識だけは少なくとも得られています。そして、その解決策は、全世界の人々が納得のいく国際的性格のものであるべきです。
しかし、それなら、次のようなことがなぜ起こるのでしょうか。つまリ、一九七三年十月の西アジアでのように、世界が軍事衝突に直面する時には、国連は、旬日を出でずして、危険地域に国連軍部隊を急派します。しかし、アフリカのサー匕ル地域で、数十万人の人々が餓死寸前に追いやられるような「戦争状態」に対しては世界の人々は有効な援助の手をさしのべることはできません。それは、「輪送の問題」である、とアデケ・H・ベルマ氏〔本書対談48参照〕は私に說明します。しかし私は、南ベトナム全土の三分の一を化 学薬品で汚染するに充分なだけの航空機を持ち、北べトナムのどんなちっぼけな村落を破壊するにも何百という飛行機を飛ばす、ある空軍が存在することを知っているのですが...... 私は、サーヒル問題を軽視しているわけではありません。しかし、この件についても、やはりそうした問題の全世界的相互依存性という問題が出てきます。これらアフリ力諸国の食糧問題対策には非常に困難な面があります。なぜなら、輸送に関連する下部構造が非常に不充分だからです。 私がユネスコに閱係しているから提起するというのではありませんが、もう一つの同様に重要な問題視角があります。それは、もし、アフリヵのサーヒルのような地域の国々でより高水準の教育が行なわれていたなら、援助のための効果的方法も得られただろうということで | |
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す。なぜなら、外から運ばれてきた食糧を配給するために地域住民をょり大規模に動員することも容易になるからです。更に、もしも科学がもっと発達していれば、もっと信頼できる天気予報が得られ、ひいては、大災害を未然に防ぐことも可能なのです。こういう意味でも、私が前に述べたょうに、全ての事柄が相互に密接に関連しているので、どの一国と言えども単独で諸問題を解決して行くのはもはや不可能なのです。
あなたは、これまでの演說の中で、「諸学問分野のナショナリズム」とあなたが呼んでおられる事実を強調しておられましたね。科学のナショナリズムも、こうした時代には馬鹿げたものにみえますね。
私が科学への「ナショナリスティック」なアブローチと呼んで注意を喚起した問題は、私逹は特定の学問分野のみに視野を限るべきでないということなのです。私は、かつての諸学問分野の間の境界線は次第に消滅しつつあるという見解をとっています。今日の諸問題の全面的相互関連性のもとでは、広範囲にわたる多数の専門家や技術者の協力がなければ問題は解決しません。最も広範な科学の諸分野の知識投入が互いに相補的であるという認識の必要性が緊急のものになっています。こういうわけで、私は学際(inter-disciplinarity)へ向けて研究を積まねば ならないと主張しているのです。もちろん一人の科学者が、科学の全分野のェキスバートになれるはずはありません。しかし、ここで決定的に重要なことは、それぞれの科学者が、自分の研究が他の学問分野と密接に関連しているということを充分認識することなのです。この認識自体が、すでに飛躍的前進でしょう。実際、ほとんどの研究所では、この学際的アブローチに基づいてほとんどの研究を進めています。
技術的先進国がその特許やノゥハゥを自分達だけで占有している。その恥知らずなやリ方が開発途上国のよリ急速な発展を妨げるもう一つの障碍だと強調するのは、本書に登場するアルジェリアのアブデルカル・チャンデルリ氏〔本書対談3参照〕です。
全くそのとおりです。技術の移転は、発展に大きな役割を果たします。UNCTAD〔国連貿易開発会議)は、このような問題を取りあげています。実際また、多くの先進国は自分の技術のいくらかを分かち与え、共有することには強い難色を示してきました。これは、次の二つ | |
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の理由で特に不幸なことです。第一に、経済発展の面から言っても不幸なことです。それは、チャンデルリ氏があなたに遂一お話ししたとおりです。しかし、特にユネスコに関わりのある、第二の障害があります。それは知識の自由な流れの問題です。知識の自由な流れも同じ原理に基づくべきだというのは、容易に主張し得ます。ユネスコ憲章の主要な原理の一つは、知識の向上です。知 識はいかなる制限も課さずに世界中の全ての人々に共有されるべきものです。しかし、このことは必ずしも、知識の共有によって、諸々の特許や、技術 を開発してきた人達の権利までも無視してしまう、ということは意味しません。それは再分配の問題です。技術を開発し発展させてきた人々の努力が充分補償される方法を考えること はできるでしょう。しかし、現状はどうかと言えば、このような特許は想像もできない程高価で理不尽なものです。それは、一種の独占になっています。種々の分野に全くの独占があります。いかなるものであれ独占は、国家的にも国際的にも、人類の発展や福祉の障害となっています。特に、これは第三世界の発展の「問題複合体」 の重要な課題です。開発 途上国は、公正な条件のもとで先進国の技術ノウハウに接近する完全な権利を与えられるべきです。
コミュニケーションの分野に関連した教育についてはどうお考えですか。
コミュニケーションに関しては、三つの側面が考えられます。第一に、コミュニケーションの自由と称し得る分野です。世界人権宣言や、ユネスコ憲章に述べられているような、敢小限の自由な思想の流れが必要です。第二の問題は、情報の流れの公正な分配です。政治、経済、社会面でバヮーの分配に一定の不公平と不均衡があるように、コミュニケーションの分野でも同じことがあります。つまり、コミュニケーションの流れ自体が均衡していないのです。この件について、くどくど話す必要はないでしょう。というのは、多くの研究が 示すように、例えばある発展途上諸国においては、テレビ番組の最高八十バーセントまでが、ある限られた国々で製作されたものだということです。情報の自由な流れの概念もそれが一方通行的に堕してしまうと、その意味を失ってしまいます。思想の流れは、もっとバランスのとれたものでなければなりません。 第三に指摘したいことは、倫理に関するもので、コミ | |
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ニケーションに密接に関連しています。それは、责任と、専門家としての自覚の問題です。もし、最大限の情報の自由、すなわち自由な情報の流れを保障したいのであれば、悄報をつくり出す者は、ょり責任観念を明確にして、マス・メディアを特定の目的のために利用するのをやめなければならないでしょう。ここにもちろん、自由と責任との永遠のジレンマがあるのです。このジレンマは、何もコミュニヶーションだけに限られた問題ではなく、民主主義の理念にも密接に関わる問題です。民主国家においては、全ての国民は自由です 。しかし、彼等の自由も、定義からして、他の人々の自由を侵すことは許されません。それゆえに、私達は、情報の自由な流れそのものの過程を論じる際に、もう一つのかなり複雑な錯綜した現象に直面してしまうのです。
おそらく、私達のコミュニケーション・システムを威厳あるものにするという観念に照らしてみても、全人類の相互依存関係の增大、アゥレリオ・へッチェイ氏の首う「人類の統一」についてもう一度考え直し、今日の世界社会は新しい型の全地球的結束を痛切に要求しているということを認識すべきなのでしようね。 おっしゃるように、全地球的結束という考え方は最も基礎的なことです。国際機構の栄光も存在意義もまさにそこにあるのです。なぜなら、人類は互いに何か共通性を持っており、ある種の問題については、全人類の結束と協力の精神で対処しなければならないという自覚があると考えられるからです。ここに、教育の決定的かつ重要な役割があるのです。ただし狭義の教育、ないし古典的意味においてでなく、システムとしての学校教育全体についてそう言えるのです。新しい教育学的アブローチが創造されるべきであり、それはあらゆる 教育制度に、所いかんを問わず、各国レベルでも、国際的にも、反映されるべきです。ある種の世界的諸問題が生じて、その緊急性のゆえに、諸国家も個人もこのより全世界的アブローチを発展させることを余儀なくさせられています。このアブローチは、定義により、最低限度の団結は保持されることを要求します。
MITの「成長の限界」の研究と、それが国際世論に与えた影響の例にみられるような、何か巨大な世界的PR事業のようなものが必要なように思われますね。 | |
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まあ、そういうことです。マス・メディアやテレビによる、PR只活動、情報提供、協力が実際必要です。
それは、一種の教育関連活動なのですね。
人々に、彼等の生存が他者との関連の中で営まれていること、しかも、問題が全世界的広がりを持っていると共に全人類の利益もまた相互に関係しているという意味でそうなのだということを理解してもらうための教育がもっともっと要求されています。このような教育なしには、全ての努力は水泡に帰してしまうでしょう。しか も、現存する問題を解決するどころではなく、人間関係の複雑さのため、われわれはむしろ、いろいろな新しい問題を生み出しているかもしれないのです。ですから、全地球的協同作業とか、相互依存、国際シ ステム全体といった世界的問題を考えつつも、同時に、スベタトルの他の端の方にも注目し、ずっと小規模で、ミクロ・レべルで、時には村落とか小集団にさえ起こっている諸問題にも、考慮を払わなければなりません。ここにあるのもまた一種の相互依存性であって、それは、マクロ的アブローチないし国際的アブローチ、全地球的アブローチとでも称すべきものと、ミクロ的アブローチとの間の相互依存性なのです。このミクロ的アブローチは、私逹が取り扱う問題は、結局のところ人間自身のための生活の質 - ないしは人間個人 - なのだとい う事実を等閑視したり、ないしは過少評価したりしないものです。
さしあたって、ユネスコがなすべきことは、中国人も含めた地球上の全ての個人が生きて行くための指針に基づいた赤い小冊子 - 『語録』 - を出版することですね。
そのような手引書は、百三十か国余の国連全加盟国によって企画されるべきでしょう。あなたがお考えになっているような単一の指令に全世界が同意するような日がくるとすれば、私達が抱えているあらゆる問題は一举に解決されるかもしれませんね。冗談はそれくらいにしても、今日各国で人類の直面している問題解決のための結束と、人類の窮極的相互依存性に関する認識が深まっていることは、勇気づけられる材料です。人間は、他の全ての人々と同じ船に乘り合わせていることを悟りつつあります。
しかし、現実は希望を出し抜ぃてぃるとは思ゎれま | |
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せんか。
そぅは思いません。なぜなら、希望もまた紛れもなく現実の一部分だと考えるからです。 (仲里一彦) |
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