Asu no chikyû sedai no tameni
(1975)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
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45 ティサ・ウィジェイェラトネスリランカの外務長官、ティサ・ウィジェイェラトネ(Tissa Wijeyeratne)氏は、一九二三年二月一七日に、セイロンに生まれた。コロンボにあるロイヤル・カレッジに学び、後にケンブリッジ大学に留学。青年期の十年間にわたるヨーロッバ滞在中、氏は学生運動に積極的に身を投じ、帰国後弁護士を開業したがすぐ共産党青年運動に参加した。一九六四年、現スリランカ首相シリマボ・バンダラナイケ女史の結成した社会主義政党である自由党に入党、後に同党の中央委員となる。一九七〇年の選举で革新連合戦線が勝利して後、氏はフランスおよびスイ ス大使として派遣され、一九七四年に帰国し、スリランカ外務長官として現在に至る。
先ず、あなたの経歴についてお尋ねしたいと思います。あなたは裕福な家庭に生まれ、父君のサー・エドウィン・ウィジェイェラトネ氏はスリラン力有数の保守的政治家だというのは、ほんとうでしょうか。 父は、もともとは弁護士でしたが、政界入りし、当時のセィロン国民会議のメンバーでした。その後、同会議の総裁となり、国会議員にもなりました。一度、上院議員として、内務おょび地方開発庁の長官を務めたことがあります。しばらくして、上院の実力者となり、更に、ロンドン駐在のセィロン高等弁務官になったこともあります。最後にニュー・デリ駐在の弁務官になりました。ですから、幼少の頃から、私は割合楽な - 経済的にも - 生活をしたと思います。しかし、ある面では、こういう生活環境がいくらか災いしたとも言えます。と 言うのは、今にして思えばもっと必要だった勉強に興味はありませんでした。ところが、ロンドンに着いた時、一団のィンド入学生グループに出会いましたが、彼等は皆反帝国主義運動に強い関心を抱いていました。私は、彼等を通じてマルクス主義文献に親しむょうになったのです。しばらくの熟考の後、インド人の友人達と一緒に英国共 | |
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産党の学生組織に加わりました。その間に、東ョーロッパのほとんどの国々を訪問し、ソ連に行く機会も得ました。中国へも二度行きましたが、最初の訪問は、私のものの考え方や、生活に巨大な影響を与えました。
ロンドンへ行ったのは、本来、勉強するためだったのでは......
そうです。妙な話ですが、わが国の裕福な家庭 - もちろん、「大農場Ga naar margenoot+」経営に依存していました - では、ィギリスで子弟を勉強させるのが普通でした。正しいアクセントで英語を話し、英国人の洗楝と価値を身につけ、熱带の本国に帰国してからは、自国の支配階級の価値に可能な限り則ってふるまうように努める人が紳士になるというのが、受け容れられた規範の一つでした。そこで、奇妙な逆説ですが、スリランヵでは、ほとんど馬がいないにもかかわらず、私は乗馬を教えられたのです。私自身、ほぼ完璧な英語を修得しま した。しかし、英語は、住民の九十パーセントには通じもしないのです。私は、あるレベルのィギリスの社交界に仲間入りさせられましたが、彼等は私をスリランヵの支配階級の有力メンバーにしようと努めました。それは、ちようどイギリス人が、自国の子弟を自国の支配階級の指導者にしようとするのと同じことでした。私達は、茶色の皮膚をした小公子フォントルロィ(注1)になることを期待されていたのです。私が十二年間もョーロッパで学生生活を送ったにもかかわらず、こうした画策が烏有に帰したということは、私達がその理想と展望を 支持することを学んだ反帝国主義運動の成功に対する、つましいながらも一つの捧げ物だと言えるわけです。
ョーロッパ滞在は、あなたに、心理的にはどのような影響を与えたとお考えですか。
自分の心の中では、常に奇妙な撞着が繰り返されています。時として人生を非常に安易に考えたり、また、絶望感を感じとることもあります。時たまボ0の試合を観戦している時などのことです。私には動き回っている馬のこの上もない優美さを鑑赏するだけの眼は充分あります。しかし、それに続いて、突然恐怖が私の心に兆すのです。つまり、その週だけでも家族を養うだけの食糧もなく、三、四人の子供を抱え、馬の動きの鑑賞どころではないというァジァの農夫の姿が脳裹に浮かんできて、そのジレンマに啞然とするのです。それはほとんど罪悪 | |
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感ですが、私の中で、永遠の闘いを演じるのです。ョーロツパに長期間滞在しアジアやアフリカの国々で政治活動をしている私の仲間のほとんどが、私と同じ状態にあるということを私は知つています。その仲間達と会う時は、しばしば、こうした全く個人の内なる生活現象を話し合ったものですし、また、私達の忠誠と義務は私達がそれぞれの国で背後にした九十五パーセントを占める農民達に対してであることを、どれほど絶えず努めて自分に言い聞かせなければならなかったかも、こもごも話し合ったものでした。こうした農民達の生 活と好一対のソフトな生活に、私達はョーロツバで接触するわけです。
ケ・ドルセィ(注2)駐在大使になられた時のように。
ここでは私は生活を二分しています。第一に、大使としての政治生活があり、第二に、経済の分野での馬鹿にならない仕事があります。それは、非常に刺激的な知的挑戦です。パリは、奇しくも、窓です。しかも、ョーロツパだけでなくほとんど全世界へ向かって開いた窓です。このバリにいると、全ヨーロツパがわかります。ここから西洋コミュニテイが理解できます。ヨーロブバのために全地中海沿岸諸国にかわって語るのもバリです。ソビエト内部を窺Ga naar margenoot+うのもこの窓を通してです。ョーロツパ人が入手する極東や毛沢東につ いての情報を得るのも、パリからです。パリは、ある意味で、依然として政治活動の神経中枢です。
こちらでの、あなたの社交生活についてお聞かせください。
職業がら、ここ二、三年のうちに素晴らしい経験をしたと思っています。例えば、黄鎮氏(中国大使。現在米国大使)、チ・ビン女史(彼女の優雅な美しさは磁器の如く、その政治的発言内容は花崗岩の如し、です)、それに実に万知にたけたデビ・スヵルノ大統領夫人といった政治亡命者と話し合えたことです。しかし、いつもこういけう楽しい出会いだけではなく、外交上の退屈なしんどい職務もあります。ここでは、絶え間もなくやってくる人々と、休みなく、仕事とは何の関係もないありとあらゆる話題について無意味な会話をするよう期 待されます。それでも、初めの三か月くらいは結構楽しいと思っていました。というのは、私にとっては全てが初めて会う人人でしたし、あたかも『タィム』誌や『ソビエト・ニユーズ』誌や『北京レヴェー』誌の記事と隣り合わせで生 | |
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活しているような感じがしました。期せずして、ド・ゴール大統領の葬儀に参列したニクソン氏や、その後では、ハィレ・セラシエ皇帝や、ガンジー夫人、オランダ女王、それにファィサル国王や日本の天皇陛下と面と向かっている自分を発見したりするのです。しかし、大使としてでなかったらこのような機会には恵まれなかったでしよう。しかし、こうしたただ中にあってさえ、常に、私は、私の島国の農村で職業政治家として暮す生活にあこがれていたのです。そのため、ここでは心に平安がなかったのです。
アジアにもどりますが、毛沢東思想は永続的革命の深い推進力として、社会的铕矛盾を強調していますね。 人間は、絶えず自己の過ちや、社会的関係を正しながら生きて行きます。社会主義者と名のる人々は、絶えず中産階級的、非労働者階級的、非農民階級的理想や観念から身を清めていなければなりません。彼等は、厳しい規律のもとでの試練を通して自分の思想を絶えず磨きあげなければなりません。ソピエトでは、こういうことは革命の初期の段階でなされたことと思います。しかし、その頃ソビエトで起こつたのは、どちらかというと、革命というよりは、急速な反乱といった方がいいようです。ロシアでは、非常に短期 間で権力の交代がなされたわけです。その結果、真のソビユト共産党は革命後に生まれたと私は考えます。
中国の場合はどうでしようか。
中国では、紅軍 - これは共産主義的でした - が革命を起こし、現在も共産主義社会を建設しつつあります。しかし先の理由により、ソビユトでは官僚主義が根強く残り、その結果指導者達の腐敗を招いたのだと言えます。北京では、毛沢東がニクソン氏からスーパー・キャデラックス・デラックスをプレゼントされたとかいう話は聞いたことがないでしよう(注3)。私達アジアにとっては、これらは特定国の支配的ェリートの価値を反映する社会的シンボルです。もしあなたが共産主義者なら、あなたはブロレタリア的、農民的社会に根を下します。も し、共産主義者でなければ、それは取りも直さず他の利害を代表することになるのです。ソビェトでは革命の事業が完全に裹切られた、と断言することは憚Ga naar margenoot+られます。しかし、現在ソビエトでは、批判や、自己批判に晒されることもなく権力を思うがままにしている腐敗堕落 | |
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した官僚主義がいくぶん存在することは明らかです。
このような事態は、中国についても言えますか。
そうは思いません。毛沢東は、一方では共産党の幹部を浄化するために、この継続的革命を押し進めていると思います。しかし、中国共産党でさえも、同じ人々が無期限に共産党中央委員や政治局員に選出されているので、終にはむずかしい問題が生じてくるでしょう。こうして一種の貴族階級をつくってしまう結果になると思います。そうなったとたんに、この特権的サークル外の人人は、批判を敢えてするのはちょっと恐ろしいということになってくるでしょう。 ニキタ・フルシチョフが非スターリン化報告をソ党大会に提出した時のことを記憶していらっしゃると思います。その時、聴衆の中から、「もし、スターリンがそういうことをやっていたとしたら、その頃、あなた方はいったい何をしていたのですか」というャジがあがりました。場内には水を打ったょうな沈黙が流れました。フルシチョフは立ちあがり、「今の質問をしたのは誰ですか」と問い返しましたが、返事はありません。すると、フルシチョフはこう言ったのです。「私達がやったのも、今、あなた方がやっているのと同じことでした」、と。
あなたご自身の解決方法は?
もし、長さはどうでもいいのですが - 例えば五年でも七年でも - 、一定期間以上共産党中央委員にとどまることが許されないような状況がないとしたら、必要な若い血の導入が阻害され、これらの国々の中央委員の心理や慣習に徐々に腐敗が浸透することになるでしょう。一方においては、献身的にィデオロギーを遂行しているかと思うと、他方では、権力の無制限の濫用という現実に直面しています。この二つの間のどこか中間に社会主義的立場から一定の解決が見出されなければなりません。なぜなら、私に言わ せれば、今や、マルキシズムはけ汎神論になっているのです。
どういう意味でしょうか。
そもそもの初めに、私達が学生の頃は、マルクスとレーニンを実際に解釈することができたのはスターリンただ独りと、「母なる」共産党だけでした。それから、ローマ・ヵトリック教会におけると同様分裂が起こりました。毛沢東の解釈するマルクス主義は、絶対的に正しい | |
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のです - ただし、中国にとってのみです。チトーの解釈は絶対的に正しい - ただしユーゴにとってのみ。カストロのマルクス主義解釈は正しい - ただし、キューバ内に限ります。そして、これと同様、ブレジネフのマルクス解釈は正しい - ただし、ソ連向け、というわけです。つまりトリアッティの多中心主義テーゼです。まるで、大勢の天使が、バイブルの解釈の不過謬性を主張し合っているようなものです。
ちょうど、世界中にいろいろな「デモクラシー」の形態があるのと同じですね。ところで、あなたは特定政党の一派閥の僅かな人々が半永久的に政権を担当する中央委に比べて、全国民が、例えば、四年ごとに選举によって、一組の政権担当者を選ぶ - と首っても、もちろんタテマエ上ですが - 方がよリ健全な状態だと思いますか。
あなたも私も、ョーロッパの知的環境の揺籃で育った者は、民主主義と言えば、即議会制民主主義や個人個人に与えられた選举權を考えがちです。これは、もちろん低開発国の手に余る贅沢品です。これは、アジアにおいては、民主主義の表現形態では絶対あり得ません。なぜかと言いますと、支配的ェリートが、簡単に選举運動を金力をバックにして操作してしまうからです。そして遂ぬには、民主主義の要請に他ならない大衆の政治参加というものは画餅に終わるでしょう。民主主義とは、デモス(民衆)およびクラトス(支配)、つ まり、大衆の権力なのですが、それはアジアでは無理だと思います。
ィンドでもそうでしょうか。
支配的エリートが投票箱を腐らせています。国民の大半は参加していません。これは、畢竟、スゥューデン、デンマーク、ノルゥェ|、オランダ、スィスのような社会民主主義的な小国におけるとは、全く違った民主主義の概念なのです。例えばエジブトのような低経済開発国においては、クアラゥク大王の時代の腐敗したいわゆる多数党制に比べれば、現在の一党制のもとでさえ、まだしもより高度な民主政治が行なわれています。そこで、もし、私の言うことが正しいとお考えなら、新しい政治体制の下では、つまらない無竞味なたわ言を述べ る演説に時間を浪費している議会制民主主義なるものよりももつと多くの参加が得られると思います。 | |
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つまリ、故スカルノ大統領の言う「指導された民主主義」という、自由主義的民主主義と、一党制との中間の概念に当たるものでしょうか。彼は自国の主要勢力の民族主義、宗教、共産主義をひっくるめたNASAKOMを信奉していたようですが。
故スカルノ大統領は、インドネシアの近代史を飾る唯一の真の英雄です。彼は、何千もの小さな島々を統一し、一つの堅固な単一の国家、単一の国民をつくりあげました。彼の業績は、インドネシアだけでなく、全アジアの人々への最大の貢献です。スカルノは、単にインドネシアの指導者だけではありませんでした。バンダラナイヶ、アジェンデ、ナセル、ネルー、あるいはホー・チ・ミンなどと同じように、第三世界の誇り高きシンボルでもありました。「指導された民主主義」は、インドネシアにとっては、一解決案だったとは思います。 しかし、私はいくつかの基本的な点については同意しかねることもあります。以前バリで、スカルノ夫人とも何度も討議しましたが、やはり同意できなかったのです。彼女は、スカルノはもうちょっとゆっくりやってもよかったのではなかったか、という意見をお持ちのようだと私には思われます。私はスカルノに同意できません。私は別の表現を用います。
例えば、どういった......
一度、目標を設定した以上、スカルノは、国民を全体として、かつ完全に自分の信念の側に引き入れるために国民を武装させて、彼等のために設定した展望を守らせるべきだったのです。しかし、スカルノはそうしませんでした。それが彼の敗因だと思います。
スカルノは流血を忌み嫌っていました。彼は、平和的手段によってィンドネシア革命を達成しようと必死の努力をしていたのです。
確かにそうです。しかし、その結果をごらんなさい。彼は、チリのサルバドル・アジュンデとほとんど同じ運命をたどったじやないですか。ァジェンデは、政治の方向を定め、その目標に向けて改革に着手した以上、敵と味方を明確にすべきだったのです。スカルノが、ィンドネシァの将来の発展に対しての明確な見通しを持っていたなら、なぜ彼は、一時点を画して、人民に権力を完全に譲渡して、彼と彼の政治理念を権力の座に保たせるよ | |
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うにしなかったのでしょうか。このようなことをみるにつけても、「政治権力は銃口から語る」という毛沢東の言葉はほとんど正鹄を得ているように思います。スヵルノも、これを知って欲しかったと思います。スヵルノ思想が難破したのは、まさに、身を守るために武器を使用しなかったためです。逆に、それらの武器は、彼の失脚を企む自国のファシストに利用されたのです。私が言いたいことは、自己防衛のための武器を使用しなかったため、アジェンデも結局は殺されてしまったということです。彼自身が使うべきはずの武器に よって、逆に虐殺されたわけです。もちろん、ブルジョア民主主義をいじくり回して、選挙を御生大事にする行き方もあります。二つに一つです。それは、政治のリーダーシップいかんにかかっているのです。ブルジョア民主主義か、ブロレタリア民主主義かのいずれかを選ぶ必要があります。言葉をかえて言えば、「謙論の武器か、武器の議論か」のいずれかの選択を迫られているのです。前者では、権力を持っているのは依然としてブルジョアジーであり、後者では、人民に権力が渡されるのです。
それでは、現在、中国とインドの両体制間で戦わされているレースをどうごらんになリまナか。
率直に申し上けて、「レース」など存在しないと思います。私がみた限りでは、インドは政治的、経済的に停滞しています。中国はどんどん発展していますが、インドはスタートラインにとどまつています。インドは、われわれの言う「投票箱民主主義」の実験に没頭しています。しかし、誰一人として、このような表現がインドに適用可能かどうかということを分析しようともしません。インドは、世界最大の民主主義国だと人は言います。しかし、どれほど多くのしがない、貧しい、教育も受けていないアジアの有権者が、簡単に買収さ れるかを知っている人は少ないのです。僅か、二、三ルピーでもって、飢えに苦しむ惨めな人々の票を買収できるのです。アジア諸国で選挙に使われる金は莫大なもので、その結果は実に目に余るものがあります。インドで行なわれたある選举の際には、実に百万ルピーもの金がある一選挙区で投入されたそうです。このような状況の中で、いったい何が民主主義で、議会制民主主義でしょうか。それは、自分達の雲の高みから政治を思うがままにしている支配階級が自分達のために、商品を買っているよう | |
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なものです。ェリート達は、この五年間といぅもの、当の大衆を政治に参加させないために大衆から票の買収をしてきました。 ですから、中国とィンドを比較することは、前提が誤まっています。比較自体がまちがっています。
つまリ、ぁなたは中国のこれまでの実験に感銘を受けておられるわけですね。
中国は、全くィンスビレーションの源泉です。余談ですが、西洋や日本の帝国主義者達は、中国民族ブルジョアジーを衰微させることにょって、期せずして中国革命をかえって促進させる結果をもたらしたと思います。最初は、この民族ブルジョア階級 - 大部分がアメリヵやョーロッバの大学で教育を受けた人達です - は反帝国主義運動の中心になっていました。しかし、その結果、個々人としての彼等にとって悲劇的なことには、彼等は西洋人や日本人の目につき、壊減させられてしまいました。その結果、中国共産党の活動母体は、主として労 働者と農民に移って行ったのです。
今日、活躍しているアジアの民族主義運動の指導者についてどうお考えですか。
今世紀に入ってからアジアの政治的指導者として浮かびあがつた上流階級のほとんどは、ョーロブバの大学を出た人々だということを想起してみてください。私の先輩のアジアの学生リーダー達の大多数は、社会主義思想に感銘して帰国し、それぞれの国の共産党や社会党に入党したものです。ある程度までは、私達が、労働者や農民達を恐れを知らぬ戦いに立ちあがらせてやったと言えます。彼等は自分達の利益を擁護してくれる政党や、確信を持ち学問のある指導者を探し求めていたからです。しかし、東南アジアの共産党、社会党に は、私達の階級出身者が多くい過ぎるょうです。
確かにあなたのおっしゃるエリート出身のマルキシストが、アジアの革命政党の指導部に依然として多くの地位を占めていますね。
このょうな革新運動のリーダーシッブが、富裕な職業活動家達や、ヵクテル・グラス片手に革命をもてあそび、革命を大言壮語する冒険主義者の手に握られているのは、反動のためにしかなりません。アジアの共産党、社 | |
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会党のリーダーの多くは、未だに、行住座臥のみならず、夢の中でさえ、英語やフランス語ないし、ひょっとするとオランダ語を常用しているのですよ。真の民族解放と社会主義運動を妨げているのは、彼等指導者とアジアの大衆との間の、このような驚くべき文化的、経済的ギャップなのです。アジアの進歩的運動は、終には自らをこのできものGa naar margenoot+から解き放つ必要があります。私が指摘したいのは、いかにわれわれがマルクスやマルクス主義者の本を深く読み、学んだと言っても、それだけでは革命家ではない、という ことです。ただラディカルであるにすぎません。メーデーで革命的スローガンを掲げて叫んでみても、それだけで革命家にはなれません。真の革命家になるには、長征の紅軍のように長期にわたる経験が必要です。ですから、結局のところ、私達はインテリゲンチャに属する知識人にすぎなかったのです。アジアにおける革命家は、自分達の経済条件を改善するために革命を欲する人達の中から生まれるでしょう。その人々にとっては、革命は深い個人的意味とリアリティを持ったものです。これら階級グルーブの局外に立つ私達知識人は革 命運動の保護者にはならないでしょう。そのような遗産は、革命によって、最も利益を得る人に与えられなければなりません。私の属する階級は、革命によって精神的、知的に、解放されるかもしれません。しかし、リーダーシップは、その闘争によって経済的および全面的に解放される人々がとらなければなりません。経験をねることによって、彼等のパーツナリティーも開花し、農民も、遂には自分の運動にふさわしい知識人を自らの内から生み出して行くでしょう。
それでは、アジアの政治の中で、エリートに残される役割はどんなものになるとお考えですか。
私の国の例をとってお答えしたいと思います。スリランヵは、読み書きの能力においては、アジア諸国の中でも最髙の識字率です。一九七七年までに、わが国の人口の三十パーセントは三十歳未満の人々で占められるようになるでしょう。そのほとんどは、農民の子供達で、信じられないような貧困生活にもかかわらず、村々の小さな小屋の中で、ココナッ油のランプのちらつく灯火で勉強して大学に通っています。こういう人々の中からこそきっと明日の第三世界を率いる素睛らしい指導者が生まれてくるのです。私達のような西洋帰りの 社会主義者は、アジアの植民地主義の直接的名残りで、好事的で、 | |
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正常でもなく、過渡的な現象にすぎません。現在の私達に課された任務は、アジア社会の一階級としての自己を消去して、その過程で、農民の解放闘争 - 農民自身と私達を共に解放する - の知恵や体験を学びとるょぅ努力することです。これは高貴な目標だと思います。真に高貴な展望です。ただし、私達が達成できる限りにおいてですが。これは忍耐のいる仕亊です。だからこそ、これまで私を含めて、私達の多くが失敗してきたのです。
(注1) パーネットの同名の小说『小公子』(一八八六年)の主人公。 (注2) パリの市街名。仏外務省がある。 (注3) 編者の考えでは、国速本部には得てしてありがちな話であるが、中華人民共和国が国連加盟を認められるや否や、中国の主席代表はェアコンつきのキヤディラックを購入した。これは、ニューヨークの常駐代表者達の古典的なステータス・シンボルであって、最も貧しく、最も豊かでない国の代表でさえも、自国政府に要求して、少なくともホヮイトハウスで使われるのに匹敵するょぅなアメリカ最大のリムジンのための予算を出させるのである。 (仲里一彦) |