Asu no chikyû sedai no tameni
(1975)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
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44 ロメシ・タパールロメシ・タパール(Romesh Thapar)氏は、一九二一年ィンドに生まれた。彼は過去二十五年間、ジャーナリストとして活躍した。ニュー・デリーのィンド国際センター所長をしながら、国際問題を扱った月刊シンボジューム誌『セミナー』の編集長兼発行人でもある。一九六六年から一九七二年にかけて、ユネスコ会議へのィンド派遣団の団長を務めた。編者の同業者タパール氏は、ローマ・クラブの有能なメンバーでもある。
ローマ・クラブの批判家達のぅち、発展途上国の人人は、ローマ・クラブは、あまリにも金持ち速のクラブになっていると非難します。あなたの言動の一端を拝見していますと、あなたももしかして、そのよぅな立場に立っておられる一人ではないかと推察するのでナすが。
私はローマ・クラブの活動を軽視しようとは思いません。将来、生起しそうな問題について、世界の人々に関心を持つてもらおうとまじめに取り組んでいる人ならば、誰でも激励されるべきだと思います。われわれは皆、二千年もの長い間の条件づけの産物です。それゆえ、私達は、古い慣例に従って物事を考えようとする傾向があります。 このような歴史的背景に対する抵抗をェリートは『成長の限界』に読み込むのです。私が属する世界には現に人類の三分の二が住んでいますが、ここでローマ・クラブの研究の反響から受ける感じでは、先進国の知識層のひと塊の連中が、私達を現状のままに停止させておこうとしたがっているようだ、と受け取られるのです。私達はこの姿勢を新植民地主義的だとみるのです。いたるところ成長に次ぐ成長です。この状態で、もし、私達が第二のアメリカを目指して歩み出したとしたら、いつたいぜんたいこの遅れた三分の二の人類に何が起こるでしよ | |
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うか。 このアメリカとは何でしようか。ョーロクバとは何でしょうか。豊かな世界とは何でしょうか。それは、表面的には非常に安楽で豪奢ですが、その底の底には幾重もの危機が存在するのがわかります。豊かな世界にはいつも緊張状態があります。もし、豊かさ、開発が、こうした問題、例えば、麻薬やヒッピーの出現などに導くとしたら、それはほんとうに深刻な事態です。 世界の偉大な文明を繙Ga naar margenoot+いてみますと、いずれも、素朴、謹厳、規律、創造性などを有している時が、最も健全な時期だったということがわかります。逆に、あまりにも過剰な洗練を求める時には......
行き詰まってしまう。
そうです。低俗で、特別の目的も定めずに、あるいは全く無目的に、夥しい資源を浪费するという状態になります。これは、アジアから豊かな世界を訪問したときに目につき、びっくりさせられる状況と同じものです。 問題の要点は、私達が、世界的存在になったということです。もはや、長期間にわたって、孤立して生存することはできなくなつています。中国は自ら孤立をはかるべき必要がありました。それは、毛沢東にはソ連の二の舞いをする余裕がないからです。毛沢東は中国が「ブルジョア化」するのを許せなかったのです。そんなことになったら、中国での社会主義の実験が瓦解してしまうからです。ロシアはこれと違います。ソ連は無辺際な領土に、比較的少ない人口を抱えているのです。その点、 ロシアは、将来、アメリカよりも住みよくなるかもしれない、と語れるのです。 しかし、このことが社会主義の夢ではありません。社会主義の夢は、新しい人間の創造です。機械の奴隸になるような人間ではありません。機械を支配する人間であり、公益のために機械をうまく利用する人間なのです。 このような問題を、世界の豊かな半分は、真剣に理解しようとはしていないことに気がつきます。今になって、急に「もうこれ以上の成長はごめんだ」なんて、豊かな世界は言い出していますが、いったいぜんたい、そうなると発展途上国はどうすればいいのでしょうか。貧しい世界の有力なェリート達は、豊かな国に向かって言います。「われわれも彼等のようになりたいものだ。目動車を持ち、豪奢な生活がしたいものだ。豪華な雑誌の写真にあるような生活をしてみたいものだ。私達も同じ | |
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道を踏み出したいものだ。」と。このようなものの見方は発展途上国に共通してみられるものです。中国でさえも同じです。他から聞いた話ですが、その人が過日上海を訪問した時、出迎えの中国要人に、「なんて素晴らしいことでしょう。上海って、自動車の数が少なくって」、と言つたところ、その中国人はむつとして黙つていたというのです。おそらく彼も上海が自動車で埋まってしまう日を夢みているのではないでしょうか。 私達は自分達の社会、すなわち世界社会のうちでも特に最も豊かな地域を規律正しいものにして行く必要があると思います。それは、ちょうど、国や部族や家族においても健全な平等主義を建設するためには、先ず、より豊かな分子、より浪費的分子を矯正して行くのと同じです。世界の再組織のためにも、同じ手法が必要です。ローマ・クラブが将来の新しい世界秩序の確立に真に貢献しようとするならば、先ず初めに、豊かな社会に対して消費にも限度があって、それを超えれば全ては浪費にすぎないということを、教えてやることだと思 います。ローマ・クラブは、実際にそう言つていると思います。しかし、私達がある上限を設定しようとしますと、とたんに、人々はなんとなく圧迫され、一定の枠にはめられてしまって、どんどん成長するのが許されないように感ずるのです。でもそう感ずるのはナンセンスです。なぜなら、安定した社会では、この安定の枠内で生活の質的向上が続くからです。資源を消費するのも結構ですし、努力をするのも結構です。しかし、そうするのは全て質の改善のためであって、量の創造のためにすべきではありません。 私はローマ・クラブの次の課題は『浪费の限界』であるべきだと思います。それは、不況を煽るのではなく、豊かな国も発展途上国も合わせて、あらゆる人々に、私達の日常生活にこれほど密着している全ての浪費に目を向けるよう啓発して行くべきです。ちょっと並べただけでも、空間の浪費あり、食糧の浪費あり、水や衣類の浪費があります。しかし、出産に伴う浪費だってあるのですからね。ローマ・クラブの新しい活動方向たる「浪費の限界」は、このクラブの活動の第二局面として有望です。どうしてかと言いますと、そうしたブロ グラムは世界の両方 - 豊かな世界と途上国 - に跨Ga naar margenoot+ゲているからです。ローマ・クラブはこれを是非とも完遂すべきです。そうでないと、元の木阿弥 - つまりコンビュータと一編のレポート - になつてしまうのがおちでしよ | |
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う。
ローマ・クラブの最大の問題は、実験室で発見したものをどのようにして実践行動に結びつけて行くかということだと思いますが。
「浪费の限界」は実践の問題でしょう。それは、おもしろいことに、東京でのローマ・クラブのシンポジユームで、日本チームが求めていたものに他なりません。ポーランド、南米諸国、アフリヵ諸国の代表も、全てこの点を強調しておりました。今や、「成長の限界」から「浪費の限界」へ移行し、そして、究極的には「欲求、欲望の限界」に到達するでしょう。その時こそ、私達は、其に文化的になったと言えましょう。なぜなら、その時、現在のような富裕讃美の上部構造がもたらした、とてつもない不適当な身の回りの品々に 煩わされることもなくなるからです。その時、満足した生活を営み、個人は自由になれるのです。人間は、ほんとうに必要ではないものを求めて毎日汲々とすることはなくなります。このことは、各自の中で行なわねばならないでしょう。これが自由意思によつて行なわれないとなると......
世界は、問題の解決を権威主義に委ねてしまうでしょう。
インドにしたところで、浪費に満ちた世界のただ中で開かれた社会であり続けるのはむずかしい - しかも、行動の伴わない「豊かな」おしゃべりだけの世界でもむずかしい - ことを忘れるべきではありません。インドが、人々に民主主義社会を動機づけるのに成功するのは、ただ、ょり豊かな他の国々が展望を持ち、それに基づいて行動している時に限ります。さもないと、外国の浪費的な生活水準から国民を隔絶するために、遅かれ早かれ、国境を閉ざさざるを得ないことになるでしょう。それ以外に、インド国民が生きて行く手立てがあるでし ょうか。インドと中国の人口を合わせると、紀元二千年までには、二十億にも逹するのです。このことを常に忘れずに覚えておく必要があります。
そうです。でも、一方は、厳しい統制の下で画一化されているのに反し、こちらはぼぼ完全な自由を謳歌して暮しているようですが。
どの社会も、それにふさわしい特徴を有しているもの | |
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ですよ。例えば、中国は、集団的良心を持っているというように。
ほんとうでしょうか。
ほんとうです。中国人は、いつもそれを持っていました。中国人社会は、一種の集団的性格の社会だと思います。ですから、彼等は、一緒になって働くことができるのです。それに反して、インド人は、常に個人的にふるまう傾向がありました。いつでもそうでした。ヒンズー教も、個人の救済は説いてきましたけれども、決して集団的救済を説くようなことはいたしませんでした。次いで、植民地支配の百五十年が、この姿勢にいっそう拍車をかけたわけです。と言いますのは、イギリス人は、たまたまはなはだしく階級意識的だったから です。要するに、ヵースト制とその個人中心的救済思想に加えて、イギリス人がインドに階級的自覚をもたらしたということです。日本人は、今でもインド人をアジアのイギリス人だと考えています。そして、いろいろな意味で、实際私達はアジアのイギリス人なのです。 中国は、どちらかというと、単一民族社会です。それに、文化もほとんど単一的です。ところが、インドは多種文化的社会です。共産主義者連は、それを多民族的だと言っておりますが、それも当を得た表現だと思います。インド連邦政府には、今後の十年間に、更に多くの州が誕生する可能性があります。インド連邦は裕福ですが、今以上に健全な国にするためには、多くの単位に分かれる必要があります。私の考えに賛成する人は少ないでしょうが、私はその必要を強く感じています。『セミナー』誌最近号でも、インドは五十八州から なる連邦政府にすべきだと提案しました。私達は、分權化すべきだと思います。それが、人に尊厳を与えることになるのです。インドは、他の地域での経験に先がけて、連邦制の政治形態の実験をすでにしているのです。私達は、将来、他の地域で発展するかもしれない、いわば政治的挑戦の真只中にいるようなものです。インドは、本来ョーロッパなのです。全地域を支配している唯一人の指導者、つまり首相、と単一の内閣を有しています。 こういう意味で、中国とインドとでは、非常に違った経験をしているわけです。しかし、そうではありますが、インドは、諸問題の取り扱いにおいて今まで以上の規律と集団的行動原理を採用して行くべきだと思います。他方、中国は、これからは個人主義にょりカ点を置 | |
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く必要があると思います。そうでないと、中国の豊かな伝統は、例の赤い本の重さに耐えきれず、崩壊してしまうでしょう。
あなたはかつて - 一九六六年のユネスコ会議て - 将来の人類の生活と行動を研究しているモデルのぼとんどが、われわれが慣れ親しんできた生活諸規範を保持しようとする欲望を捨て去っていない恨みがある、と主張されましたね。このことは、発展途上国にはあまり当てはまらないのではないでしょうか。
世界の裕福な地域で当たり前になっている生活水準が、マスコミを通じて広く宣伝されてきたので、あたかもそれが文明の生活と同義語になっています。換言しますと、浪費生活やほんとうは必要でもないものを追い求める飽くなき食欲が、あたかも神の如く玉座に据えられてきたということです。発展途上国のェリート達は、それを模倣して、国民から遊離しています。それで当然の結果として、発展途上国の国民も、資源が充分ないにもかかわらず、高い生活水準を要求するようになっています。ですから私達は、このような生活のモデル に世界的規模で対決し、反古Ga naar margenoot+にしてしまわなければなりません。そこで、先ず第一の仕事は、富裕国を諫めることです。このよぅな諫言なくしては、玉座に構えている虚偽の生活水準を瓦解させることはできないでしょう。これは、いろいろと心理的に複雑な問題が絡んでいるむずかしい仕事です。この点を無視することは、身の危険をもたらすでしょぅ。
あなたはまた、ローマ・クラブより数年前に、「今のように成長が進行すると、世界は明らかに二分されてしま、フだろう」と警告を発しておられます。要するに、あなたのおっしゃることは、富裕国と貧乏国との格差は、ますます拡大してどうしようもなくなってしまうということだと思います。更に、あなたは「もし、これを解決する手段がとられないならば、アジアやアフリ力人がこれに気づいた時の心理的衝撃は大きく、そのことを思うと身振いしてしまう」ともおっしゃっていますね。
いわゆる石油危機の背後に、どのよぅな駆引きがあったのか知りませんが、富裕諸国の踏み台になっていた差別価格体系が意識されるようになりました。世界は、豊かな国と貧しい国とに鋭く二分されてきました。貧しい | |
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方が、常に多数を占めていますが、その不満は募るばかりです。製品や原料資源について、双方に満足の行くような価格体系が考え出されなければ、人類の三分の二の搾取は、多方面にわたって続けられることになります。石油情勢は、主要資源の多くを手中に握っている貧しい国々に、富裕な有力諸国を一敗地に塗Ga naar margenoot+れさせる気を起こさせるかもしれません。しかし、もし、豊かな国と貧しい国との格差が、拡大し続けて行き、受け容れられないものになってしまったら、そして、もし国際的な経済の不均衡が改められないので あれば、他の武器が当然のこととしてとられることになるでしょう。人々が、不満を持っている地域に入ってみますと、どんな事が起こるのか、予測もつきません。しかし、これは非常に大事なことですが、科学技術革命は、「組み込Ga naar margenoot+まれた飛躍効果」を持つということです。言葉をかえて言いますと、すでに科学技術が進んでいる国々は、ますます速く前に進んで行くということです。私達の世界に対する挑軟は、豊かな国と貧しい国との格差のこうした特質をよく理解すること、そして、豊かさから浪費を追放すること によって、その格差を縮めて行くことから始めなければなりません。 (中村哲雄) |