Seicho no genkai o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
(1973)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
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19 ウイリアム·ノードハウスウイリアム·D·ノードハウス (William D. Nordhaus) は一九四一年にニユーメキシコのアルビケア力で生まれた。イエール大学で経済学を学び、マサチユーセブツ工科大学 (MIT) で博士号を得た。現在はイエール大学の経済学助教授で、コゥルズ経済学研究財団の研究員であり、また全米経済研究協会の一員でもある。 ノードハウス助教授は Invention, Growth and Welfare: A Theoretical Treatment of Technological Change, 1969 (『発明·成長·福祉-技術変化の理論的解明-』) を出版した。
アメリ力の経済学者たちは、例えばオランダのティンべルへンGa naar eind〔註1〕教授なんかとちがゥて、『成長の限界』をどうしてあんなに激しくこきおろすのでしようか。
私の思うにはMITチーム (フォレスターGa naar eind〔註2〕·メドゥズ等) の貢献は、これまで大方の心の中に印象的に質的にあったものを、明示的に,そして里的にした点にある。実際グローバルなモデル『ヮールド·ダィナミクス 』Ga naar eind〔註3〕をつくって量的な予測をしたのは、この人々が最初です。そして、二〇五〇年までには生活水準は現在よりも低くなるだろうと予言しました。二〇七〇年までに、われわれは汚染による大破局におちいるか、あるいは皆が飢えてしまうだろうともいつた。人々にショックをあたえ、また当惑させるのはなによりも、このような具体性なのです。 まさにこの点で、経済学者たちは狂暴なアレルギー反応を示したのです。が、人口、汚染、および資源問題の重要性自体を否定してぃるゎけではなぃ。こういつた問 | |
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題は政治経済学の理論および政策の最も難しい問題に属 する。それは明らかなことで、むしろこれまで批判されているのは『成長の限界』の取扱った主題ではなくて、そのアブローチなんです。あのモデルを詳しく検討してみた多数の有能な独立の分析者たちは、モデルの背景にある仮定は、まったく幻想にもとづいているという結論に導びかれました。例えば『ヮールド·ダィナミクス』のモデルは既存の科学的研究にはただの一つも言及していません。それは、どちらかといえば、二〇五〇年には世界が終末に至ると予言するコンビュータです。このコ ンビユータは、どういうものか、ただコンピユータであるという理由で、権威を得ています。もしだれかが、百年後にはわれわれはみな死滅するだろうといったとします。その予言は権威を持つでしようか。いや、ばか者に耳を傾ける者はいないでしよう。ところが、われわれはばかなコンビュー夕をまつった寺院になら、祈りを捧げるのです。例えて申しましよう。わが国には、ガンという深刻な医学上の問題があり、だれでも、それがきわめて深刻な医学上の問題だということを承認しています。 私は『成長の限界』のグルーブを、ガンの治療法を発見したと突然宣言する人々にたとえたい。「ガンが治療できるとどうしてわかったのですか」と彼らにたずねてみる。こんな答がかえってくるでしよう。「私どもは、今、ある研究を続けています。その結果をお救えしましよう。私どものところにはコンビュータがあるんですが、これに病気のモデルを入れてやる。そうすると、五〇年後にはガンと心臓病は根絶されるだろうという答が出てきたんです。ごらん下さい。これがそのアゥトブットで す」もっと詳しい情報が欲しいといったら、「データの持ち合わせはありません。あまり研究はしなかったのです。ただ理論モデルがあるだけです」とくる。「じゃその理論モデルはどこで手に入れたんですか、」「私どもはこの問題について考えただけです。」 これが、『ヮールド·ダィナミグス』と『成長の限界』の基礎にある‘科学的’アブローチなんですが、それは西洋の伝統的な科学的研究とはまったく異なります。MITチームの用いた方法というのは、評価しなければならない状況があった場合、常識の救える以上のことはこの情況についてまったく知らずに、ただひじかけいすに座って待つというものです。その基本的な例を、フォレスターとメドゥズの著書の両方から示しましよう。一人当り所得ないし一人当り消費が增加するにつれて、人口增 | |
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加率が上昇すると仮定されています。こうして次のような鉄則がえられます。つまり、長期的に持続する唯一の状態は、皆が飢餓線上にあるという状態だということです。この鉄則はマルサスGa naar eind〔註4〕の時代以来くりかえし再発見されてきたものです。そして、これが『限界』のグルーブによってまた再発見されたわけです。彼らが新マルサス主義と呼ばれるのも、もっともなことです。要点は、これまで行われたほとんどすベての経験的研究は、まさにその正反対のこと、すなわち、現実には人口增加率は豊かさとともに減少することが知られたということです。さて、もし現実には人口増加率が減少するのであって、その逆ではないとすれば、フォレスターおよびメドゥズのモデルは、どちら もまったく見当ちがいということになると思います。人口の安定化ないし滅少-いまァメリ力がそれに近づきつつありま-は、『限界』モデルのあらゆる成長の苦痛をやわらげるでしょう。不幸にし、てフォレスターの仮説的モデルは、他の諸分野で行なわれた経験的研究に、事実上、依存していませんでした。その結果、モデルの結論は経験的証拠によっては支持されません。 要点は、過去数百年にわたって、科学的研究の方法論が発展してきたということです。医学研究では、実験をします。ある病気の治療法が発見されたと宣言するまえに、ふつう動物に対して対照実験をします。社会科学でも、ある理論が実際社会に当てはまると宣言するまえに、事柄を議論します。何らかのデータを参照し、当該諸国の経験を参照するのが慣例です。フォレスターはこのことを自分の研究ではやっていないのです。それを実証しようとするいかなる試みもなされていない。その結果 、このモデルは何を問題にしているのか、いっこうに明瞭でない。それは蟻の群落も対照にできます。火星上の生命も問題にでき、アマゾンのハエだって問題にできます。しかし、これらのものが実証ないし反証されない限り、このモデルは実は何物も問題にしていないのです。 次に、このモデルの特定の欠陥をいくつかとりあげましよう。主に『ヮールド·ダィナミクス』の方を問題にします。なぜなら、これが、そのモデルが一般に知られるようになった唯一のものだからです。三つの基本的問題があります。最初のものはすでにまえに述べたことですが、人口の問題です。フォレスターは人口増加率が豊かさとともに增大すると仮定していますが、事実は滅少 | |
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するのです。彼のモデルで、もしこの仮定だけでも変えれば、結果は完全に異なります。
ほんとうに完全に異なりますか。
絶対的にちがいます。例えば、彼の著作を批評したある論文の中で、私は彼のモデルを簡单にしたものを用いました。彼のモデルは非常に複雑なのです。それは事実上理解不可能です。この点については第二点でとりあげます。私はより簡単なモデルを用いて、ある感度分析をしてみました。モデルにおけるいくつかの仮定をもっと現実的なものにする (人口増加の場合のように) と、結果が変わるかどうかを見るためです。その結果、次のことがまったくはっきりとでてきました。つまり、人口増加がきわめて高率だとする代わりに、増加率ゼロ、あるいは増加率の若干の低下を仮定した場合、結果はこれまで経験したことのないほどの豊かさと、これまでまったく不可能であったような経済成長だったのです。 フォレスターのモデルの第二の仮定は、技術変化がないというものです。
技術の指数的成長はない...... フォレスターは技術進歩をまったく考えていません。投入物は、労働、資本、土地および自然資源です。ジョン·ケンドリックおよびエドワード·デニソンのこれまでの研究によれば、だいたい次のよぅになっています。過去百年間に、投入物一単位当りに対して得られる産出物の量は年率一·五~三%の間で増加しているのです。フォレスターおよびメドゥズの研究では、もし投入物が同じならば、産出物を増す方法はまったくないと仮定されているのです。つまり、発明が行なわれないのです。だ れもコンビユータを発明しないのです。だれも核分裂反応を工夫してエネルギーを求めたりしないのです。より効率的なエンジンを発明しないのです。太陽エネルギーもないのです。ジエット機もないのです。テーブレコーダーもないのです。
しかし、技術は人口あるいは経済の成長よりもゆっくりとしか增加していないことが証明されていますね。
実際、このシステムを存続させ統けるために必要な技術進歩率の臨界値がどれだけであるかをいぅことはできないのです。これが第一点です。もう一つの問題は、技 | |
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術変化にはよい側面とともに悪い側面があるということを認めなければならないということです。多くの人々は、例えば、今日の多くの環境問題はある種の技術変化のせいだと考えています。特に、化学工業におこった変化、例えば無機肥料の增加などがそうです。技術はまじりけのない天恵ではないのです。大部分の人々は利益から純費用を差し引けば、技術変化はブラスであると感じています。私の考えるには、今しなければならないのは、世界旅行をしてみて、高い技術と低い技術との差を み、これまでに生じた物質的利益および^用はどのくらいであったのかを調べることだと思います。 私が特に関心を寄せる第三の領域がありますが、それは、人間社会は完成に機械的であり、人々と諸制度はいかなる適応行勤もしないというフォレスターの見解です。経済学者が適応行動について語るときは、価格休系の利用のことを考えます。例えば、フォレスターのモデルでは、自然资源が枯渴します。そのとき自然资源の利用に何がおきるでしょうか。何も生じません。価格は上昇せず、人々は動転せず、企業は節約もせず、また資源を再循環もしないのです。人々はあたかも物言わぬネズミ のように、考ぇもなしに断崖のふちに次から次へと歩み続けてゆくのです。このモデルにはまた、価格が入ってないのと同様、政治システムもないのです。価格はたしかにわれわれの期待を裹切ることがあります。例えばこれまでも大気中の諸資源に関してはそうでした。たぶん、この点については政治システムを賴ることができるでしよう。しかし『限界』の中には役に立ちそうな政治システムは存在しないのです。
ソビエトも同じ問題をかかえています。
きれいな空気ときれいな水の問題は長年にわたって知られているのです。これを価格機構が解いてくれるとは期待できません。なぜなら、公共財の問題があるからです。他方では、もし資源が所有可能ならば-社会主義社会では国家により、あるいは私有制社会では個人によって-問題はもっと少なくなると思います。所有可能な資源、例えば石炭、鉱石、石油などについては、希少性の增加を示す警報は価格上昇という形で現われます。この種の警報は、今日、自然资源について見られるところですが 、非常に大きな価格上昇があるわけです。経済システムおよび政治システムにおける適応行動の全要点は、それによって、一部面に生ずる希少性に対して、豊 | |
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富な原材料、豊富な资源への代替による対処が可能とされる、ということです。 このことがおそろしく重要だという理由は、『限界』モデルのもう一つの仮定からもでてきます。つまり、世界には自然資源の固定したブールがあるという仮定です。フォレスターのモデルでは、現在の消費率でいえば四〇〇年分の自然資源があることになっています。しかし、実際にはある種の資源については、四〇〇年はもちません。天然ガスは、現在でもきわめて希少なものです。石油は、もし現在の率で使用しつづけるならば、四〇〇年よりもはるか以前に消費しつくされるでしょう。しか し他方では、事実上無限の供給が可能な原材料もあります。たとえば核融合反応のためのいくつかの基本的原料がそうですし、ある種のブラスチック原料もそうです。もし核融合反応が灾現すれば、エネルギーが消費しつくされるよりもずっと以前に、何か他の物がなくなってしまうことでしょう。これは『成長の限界』の誤まった具体性の一例です。
あなたのような経済学者がMITチームといっしょにやゥてゆき、これらの傾向について共同研究する余地はないものでしょうか。フォレスターのモデルは、ティンべルヘンのいゥているような、いゥそう立ち入つた研究の基礎になリうるのではないでしょうか。それとも、この種のモテルなしでも研究は遂行できるものなのでしょうか。
ずいぶんたくさん問題を出されましたね。もし、経済学者と生態学者が、科学者と技術者が、協働する余地があるかというおたずねならば、それはまちがいなくあると私は考えます。これまでにも多くの協働がなされてきましたからね。もしあなたの質問が、フォレスター·モデルあるいはメドゥズ·モデルを私なら世界経済の分析に用いようと思うか、ということであれば、答は断然「否 」Ga naar margenoot+です。第一次接近用にさえなりません。私がシスゥテム分析を正しい方法だと考えるかというご質問もありましたが、もしシステム分析とは定量的、経済的、社会的、政治的、人口学的モデルを作ることだという意味なら、それこそまさにわれわれがずつとやつてきたことです。しかし、もしもご質問の意味が、データを見ることなしに仮定をたてるような種類のモデル、知識のある専門家と語り合うことなしにいろいろな閲係をうちたてる | |
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ようなモデル、どれ一つとして経験的な研究によって確かめられたことのない一〇〇木の方程式をもつモデル、一〇〇年あるいは二〇〇年のちに何がおこるかをまじめに予測しようとするようなモデルを、私が作ろうとするかということならば、私の、これらすべての贸問に対する答は「否」Ga naar margenoot+だと思います。
では、あなたご自身はこの種の問題を、どんなふうに研究してこられたのですか。
実は、しばらく前に、ジェームズ·トーピ ンGa naar eind〔註5〕と私は、人口、天然資源、および経済福祉の問題が犬そう気になったので、二、三のモデルを作って、人口増加の要因、希少資源の役割、技術進歩率の低下の重要性などを、すべてアメリヵについてですが、分析してみました。ほんの手はじめとしてですが、モデルのほとんどは、一本か二本の方程式のモデルでした。私たちはアメリヵに関するデ-タをもっており、それらのデータに方程式を当てはめてみて、適当な関数形を知ろうとして、大量の感 度分析もやってみました。 しかし、メドウズたちとの間の基本的な相違点は、これらはきわめて小さなモデルであつたということです。なにしろ、モデルを作ってみて学ぶことはいろいろありますけれども、その一つは、フォレスターみたいに四三本もの非線形の方程式や、その他多数の変数をもつようなモデルを作ろうものなら、いったい何を作ったのやらまったく見当もつかなくなるということです。 経済学の経験によれば、大きなモデルは、すばらしく見え、人々に感銘を与えるものの、そもそもきわめて作るのが難しく、調整も非常に大変で、おまけに予測力も高くないものなのです。だから、私は方法論上の原則としては単純なモデルに固執して、自分が何をしているのかを理解していたいと思います。私がおそろしく重要だと考える第二の点は、伝統的な経済学や生態学で行なわれてきている仕事の一部を全地球的な視野の問題に適用し続けてゆくということです。MITチームに対する私の反対 の一つは、彼らが過去の科学を完全に無視したことです。新マルサス主義者たちは、地球と環境を現代の技術の惨害から守ると公言し、より伝統的な生活様式にもどることを望んでいます。伝統的な経済状態にもどるにあたって、過去四世紀にわたって注意深くうちたてられてきた貴重な科ネ的伝統を彼らが投げ捨てたのは皮肉なことです。 |