Seicho no genkai o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
(1973)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
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2 クーラド.ウオデイントンウオデイントン教授 (Courad H. Waddington) は、一九四七年以来、イギリス、エデインバラ大学の動物遺伝学の教授である。当代イギリスの最も偉大な知性の一人であると考えられており、活発にローマ.クラブの会合に参加している。一九〇五年に南インド、コイムバトールに生れた。 クリフトン.カレツジ、シドニー.サセックス.カレツジに学び、ケンブリッジ大学の自然科学部を卒業した。ケンブリッジ大学のストレンジゥェイズ研究室で動物学と発生学を講義し、一九三二年と一九三八年にはロブクフラフー財団の移動研究員になり、ニユーヨーク州バッファローのニユーヨーク州立大学にアインシユタイン教授を訪れた。一九六九年以来、国際生物学会の会長をつとめている。 刊行著書:『近代遺伝学入門』‘Introduction to Modern Genetics’ (1939) 『オルガナイザーと遺伝子』‘Organisers and Genes’ (1940) 、『島類の後成論』‘Epigenetics of Birds’ (1952) 、『生命の本質』‘The Nature of Life’ (1961) 、『発成と分化の原理 ‘Principles of Development and Differentiation’ (1966) 、『理論生物学序說』‘Towards a Theoretical Biology’ Vol. I (1968) 、 Vol. II、 III (1969) 、 Vol. IV (1972) 。 次の点について、何ほどかの理解をもっていることが大切です。すなわち、現在の技術水準のもとで、複雑な状況に関するコンビユータ.シミユレーションは、何ができ何ができないかということ、また、MITチームや最近ローマ.クラブと提携した他のチームが、今日までに現実に達成した範囲はどこまでなのか、ということがそれです。 ある複雑なシステムについてコンピユータ.モデルを組み立てる手順は、次のょうなものです。まず始めに常識に基づいて、重要だと思われるシステムの主要な構成要素を一定数選びます。丁の研究では、五つの主要な変数、すなわち人口、資本支出、天然資源、汚染、おょび農業における資本投資が選ばれました。さらに、そのおのおのがより低次元の活性因子に分割されます。例 | |
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えば、人口に関しては出生率と死亡率、あるいは他の部門についていえば利用可能な可耕地の量や新しい土地を耕作可能にするための資本コスト、等々がそれです。次いで、それらの諸因子間の相互作用の強さに関する量的な推定値をモデルに入れてやるようにしなければなりません。例えば、汚染は人口にどんな影饗を及ぼすのか、というような。今の所、これらの相互作用の効果 (システム作成家の通用語でいえば「乗数」) の大きさは、通常、推測してみるしかしかたがありません。というのは、推定値を与える基礎としうる事実がほんの少ししかえられないからです。とはいつても、コンビュータもけっこう融通のきく面がありまして相互に作用しあつているニつの量の実際の値が変化した場合、その変化に応じてそれ自身の値も変化するような乗数をとり扱うこともできます。例えば、MITチームが示唆したように、汚染は死亡率にいつでも比例的な影響を及ぼすわけではなくて、かなり高い水準に達するまではあまり影 響がないが、それ以上に汚染の水準がますと急速に殺人力を強めるという風なモデルの作り方もできるのです。それは、例えば、三〇〇〇人の人々の死を突然引きおこしたと見られている、一九五二年の冬のロンドンの大スモッグのような現象に基づいてなされた推測によるものです。この種の推測の妥当性を現実に検証するための唯一の方法-かなりなさけない方法でしかないのですが-は、過去の一定期間-例えば一九〇〇年から一九六〇年までの間-に関して実際の観測値が得られるような変数のすベて について、全体としてのシステムが、それらの動きをかなり正確に描き出せるのだ、ということを示すことです。 いうまでもないことですが、過去へのあてはめすらうまくいかないような推定値を、モデルの中に組みこまれている相互作用に対して与えることは、とうてい許されません。もっとも、既存のデータにかなりよくあてはまるような推定値は、一組だけとはかぎりません。恐らく、たくさんあることでしよう。というのは、特に将来非常に重要になりそうだと思われるいくつかの要因、たとえば高水準の汚染だとか、いくつかの天然资源の枯渴とかいった要因は、ごく最近までなんら重要な影響を他に は及ぼしていなかったからです。 モデルが作られ、少くともそれが過去に対してはあてはまることが明らかにされたならば、今度はコンビュータが、同じ値をもつ相互作用が将来も持続したばあいに | |
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はどんなことがおこるか、を明らかにしてくれるでしよう。 MITモデルによって得られた結果は、今世紀の終りまでには世界の天然資源がなくなり始め、もはや大規模な人口は維持されえなくなり、人口は劇的に、全く破局的に、減少する、ということです。 それからMITチームは、彼等がモデルに組み入れた政策変数の値のいくつかが変ったばあい、モデルの举動はどんな影響を蒙むるかを調べてみました。始めのままの構造が維持されるとすれば、天然資源の枯渴が生じますので、第一に考えられる対策は、天然資源の採掘率の減少だと思われるでしよう。ところが、その新たな政策に対応するようにモデルの中の政策変数の値を変化させた時、出て来た結果は汚染の上昇であり、それは再び人口の破局をもたらしたのです。それでは、天然資源の採掘率を 減少させ、しかも汚染を伴う工嶪生産の効率を向上させた場合にはどうなったでしようか。この場合には破局の到来は少しばかり延期されましたが、結局、前と同じ種類の結果が得られました。事実、MITモデルを適当に変更して、人口が急激に増加もしなければ減少もしないような根本的に安定した状況をもたらすためには、資本投资率、資源採掘率、さらに食料生産率まで厳しく制限するしかなかったのです。しかし、全てのものがたえず大きくなり改善されることに慣れっこになっている人々の眼 には、そんなことは全く不可能なことのように思えるでしよう。
それらの計算結果は、どのくらい真面目に受けとるべきでしようか。
予測としてなら、真面目に取り上げる必要は全くありません。それらの結果は、将来おこることの予測であるかのように見せかけられているわけでもなければ、予測をするという意図から出されたものでもありません。それらの重要性は-真に重要なのですが-別の点に、あるいはむしろ次の三つの点にあるのです。 まず第一に、世界が多少ともありそうだとみなしてよいシステムに従って動き続けた場合に、どんな型の破局的な災難が発生しそうかを、それは示しています。破局が決して考えられないものではないという事を人類が銘記しておくことは賢明なことでしよう。 第二は、それは、人が複雑なシステムに何かをする。つまり、変更を加える-場合に、システムの反応は、 | |
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予期されたものや意図されたものとは全然違うかもしれない、ということを教えてくれます。これは、人々がたえず繰り返し学ばなければならない教訓です。複雑なシステムは、チ一ムが「意外的」 (counter-intuitive) と名付けた行動をよくとります。つまりこいつは、それが当然なす「べき」ことをちっともしないことがよくあるのです。 MITの同じ研究者グルーブが行なったもうひとつ前の研究は、都市における成長過程に関するものでした。当局が善意をもってスラム街を一掃する計画を実行し、新しい非常に高級な住宅をたくさん建てると、もとのスラム地域はニ~三年の中に貧民で以前より一層過密にすらなっているというのが、特にアメリカではありふれた経験です。恐らく、このような意外な举動が生ずる主要な要因のひとつは、次のようなものでしょう。つまり、新しい建物は非常に多くの人々をその地域に惹きよせるけれども 、職が十分なければそれらの人々は貧乏なままにとどまり、その居住地は以前に比べて一層過密なものにさえなるのです。結局、複雑なシステムのモデルを作る主目的は、なぜそれが期待されるような挙動を示さないかを理解するためなのです。 MITの世界モデルの第三の重要性は、次の点にあります。つまり、それは世界自体が動くのと同じ動きを示すモデルが実際に作れるものかどうかを検討するために種々のモデルを開発してみる過程の第一歩だということ です。
教授、もし生命の宝、生命の豊かさが、遺伝子や生物の多様性の中に蓄えられているものであるとするとそして、多様性は絶対に必要なものだとすると、人類の行動は、この必要とされる豊かさを破壊していることになるのでしょうか。
確かにわれわれは、自然界の多様性を破壊しています。われわれは、多くの種を減ぼしています。地球のさまざまの部分で動物群や植物群の種類を减少させており、こうしたことを止めるのが非常に重要なのです。榖物の品種を改良したり、病気から保護したりするのに必要とされる多くの遺伝子は、野生の種の中に存在しています。もしこれらの全ての野生種を絶滅してしまうならば、それらの遺伝子をなくしてしまうことになり、再びそれらを取り戻すのは非常にむずかしいことになるでしよう 。ところで、人類という種の内部でわれわれがしてい | |
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ることは、全体としては、遺伝子に影響を及ぼすようなことではなくて、むしろ文化的な影響をもたらす面がはるかに強いのです。事実、人々は昔よりずっと多様化できるようになっていると思います。というのも、富や余暇などが一層多くなったからです。人々がただ生きて行くだけのことに加えられる圧力は、少なくなっています。全体として、人々はたがいにもっと違ったものになることもできるでしょう。こうしたことは、確かに世界の中の発展途上にある部分にはあてはまります。これら の諸国では、今までは、誰でもただ生きて行くだけのために、昼間の時間中働かざるをえなかったのです。世界の中でもョーロッバのように富裕な国々では、富裕階級は昔の方が今よりももっと多様化しえていたと言えるでしょう。今日では、画一化への圧力が相当みられますが、中世の小農的文明には画一化への圧力といったものは何もなかったと思います。当時彼らは昼間の時間中野良仕事をして過ごさなければならなかったので、他の事をする時間があまりなかったからです。
スキナーGa naar eind〔註1〕流のアブローチを採用すれば、一種の権戚主義的な (世界) 管理が生じるでしよう。 そうかもしれませんが、スキナーは勿論そうならないことを切望しています。われわれがお互いに影響を及ぼし合うことがどれほど多いか、また、育ち等々によってブログラムされることがどれほど多いか、をスキナーは強調していますが、それはまことにもっともなことだと思います。しかし、最適な種類の人間を作り出すためのブログラミング.システムを設計できると考えるのは、あまりに時期尚早だと思います。このような実験は、徐々にしていかなければなりません。お互いに影響を及ぼし 合うことや、またある程度までブログラムされることは、避けようがありません。けれども、スキナーは境遇の貢献度の価値を強調しすぎていると思います。他方チョムスキ ーGa naar eind〔註2〕は反対の側面、つまり全てのものは完全に自発的であって他の人々や他の物の影響なしに精神の深部から湧き出てくるということを、強調しすぎていると思います。二人とも自分の特定の観点を強調しすぎているきらいはありますが、どちらも一面の真実をついていると思います。
真実は中間にあると考えるわけですね。
中間のどこかです。 | |
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無免許での生化学の実践だといわれているあの分子生物学に対する教授の御意見はどうですか。
そうですね。遺伝工学や高級な生物学的操作についての話が、たくさんきかれますが、そういう話をする人々は、ずっと将来のことをいっているのです。もっとも、そうした事が実行可能になる一〇年も二〇年も前から、入々がそれについておしゃべりをし始めるのもある意味では当然のことといえます。とはいえ、その種のことのなかの多くは、実行可能にすらならないでしょう。改良された遺伝子を多数発明したり、DNAを合成したり、さらにそれを注入したりすることができるようになるとは思え ません。人問の遺伝子に変更を加えるという急進的な計画を立てることができるとは思いません。しかし、人間の卵子と精子を操作することははるかに容易です。例えば、まったく同じ双子を二人でなしに多数作ることは、全然できないというわけではありません。事実、それは既に蛙については行なわれています。哺乳動物について同じことをするのはずっとむずかしいでしょうが、家畜、つまり肉牛や豚等々については、十分可能でしよう。もし大規模な研究計画が立てられれば、一〇年以內に実 現可能となるだろうと申し上げておきましょう。人間について同じことをするには、さらに大規模な開発計画が必要となるでしょう。人間に何かをするためには少くとも九九.九バーセントの-それ以上とはいわないまでも-信頼度が達成されていなければならないでしょう。農場の動物に対して行なう場合には、その中一バーセントが死んだり失敗したりしたとしても気にはならないでしょう。しかし人間に対して行なうにはとてつもなく高い信頼度が必要とされるでしょう。そのためには、ものすごく 巨大な研究計画が必要です。 ビエラッシという人物の書いた記事をごらんになったことがおありかどうか知りませんが、彼は、避妊用錠剤に使用されるステロィドを作る源を発見したシンテックス.コーポレーションの所長です。彼は新しい型の避妊薬に一大前進をもたらすためにはどんなことが必要になるかを論じています。その指摘によると、アメリカの法律は、人間の被験者に対して実験をする前に、避妊薬の毒性や胎児への影響を広範にテストし、いろんな種の動物についてテストしなければならないと規定しているそう です。この種のテストには最低一五年間かかり、また最低何千万ドルかの費用がかかります。彼によれば、そ | |
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うした努力に費すお金が回収される確率はあまり大きくはないのです。ですから、そうしたことは行なわれないだろう、と彼は主張しました。一九八四年-これは使 うのが流行になっている年ですがIになっても、避妊薬は現在のものと本質的に変っていないだろう、本当に新しいものを開発することは誰にもできないだろう、というのです。
ベトナムでの戦争が停止されないかぎり、ということですね。
ベトナム戦争を止めたとしても、この種のテストのための費用を削減しうることにはならないでしょう。しかしィンドやブラジル、あるいは人口が非常に多く、かつ安全性についてあまりうるさい法律がない国でなら、それをやってみることも可能でしょう。しかし、私がこんなことを申し上げている理由は、避妊薬のテストがどうこうというのではなくて、遺伝工学とか、まったく同一の双子を作るとか等々のおかしな処置を考える場合には、それらの技術を人間に応用する前に、避妊薬の場合と 同じ程度のテストや規制が課されるだろうと思うからです。したがつて、実現されそうなことといえば、たつた一つ、二人目の赤ん坊の性別を決定することだけだと思います。 二人目の赤ん坊の性別を決めることは、農業にも多少の影響を及ぼすことになるかもしれませんが、大したことはないでしよう。しかし、人間にとってはとても重要な意味をもっています。人々が二人だけの子供しか持たないとした場合に、その子供たちの性別が親の願いどおりにしうるというのでないかぎり、人口制限が本当に地球上どこででも受け容れられるようになるかどうか、かなり疑わしいと思います。男の子が欲しい人々に、最初に女の子が生れたとしたら、次の子は確かに男の子にな ゥてもらいたいと思うでしよう。次の子が男の子でなければ、男の子を得るまで子供を生むことになるでしよう。人々が赤ん坊の性別を選択することができ、次の赤ん坊の性別がはっきりしていれば、人口制限にとって有利になるでしよう。現在でもそうすることは不可能ではありませんが、どちらかというと不愉快なやり方でしかできません。つまり、胎児の性別を診断して、嫌なら中絶することはできます。ですが、今の所では、かなり胎児が大きくならないと、性別は決定できないのです。 しかも中絶は不愉快ですし、その頃には母親は胎児に愛情を感じるょぅになってぃて、胎児を失いたくなくな | |
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っています。ですから、中絶にょって子供の性別を選択するのは愉快なやり方ではないのです。
その点に関する作業は、なにか進められていますか。
そう、ごく僅かですね。つまり、いまのところ世界全体でたぶん一ダースばかりの科学者が-いや、ひょっとすると半ダースを越えないていどかもしれませんが-この問題にとりくんでいるにすぎません。超音速機の開発に向けられている努力にくらべれば、これはお話にならないほど微々たるものです。
このような計画は、ある種の世界団体、つまリ国際連合とかWHO(世界保健機構) とかの監督下に置かれることが必要だ、とお思いではないですか。 ええ、そうすべきだと思います。既に国家がそうした計画を管理していなければならないはずなのです。というのも、そうした計画に要する資金は多額にのぼるので、議会や国の何らかの行政組織の管理下にある国家的団体が、基本的には納税者の金である国家的資金を使つて、はじめてできることなのです。だから、私は私的個人にそうしたことができるとは思わないのです。やはり、ある種の公的管理の下で行なわれなければならないと思います。今ではもう、世界 的Ga naar margenoot+な規模での公的管理が 行なわれなければならないでしょう。
国境を越えて社会主義国-例えばソビエト連邦との共同-との管理に賛成なさるのですね。
ええ、賛成です。しかし、こうしたことを行なうのに現在の国際社会が本当に適切であるのかどうかは問題です。一例を挙げれば、ォリンビック大会の経験が示唆しているょうに、現在の国際団体はあまり世界指向的ではないのです。 |
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