Asu no chikyû sedai no tameni
(1975)–Willem Oltmans– Auteursrechtelijk beschermd
[pagina 179]
| |
20 南博南博教授は一九一四東京に生まれ、東京大学と京都大学で心理学を学んだ。一九四〇年から四七年までアメリヵ合衆国に在住し、ューネル大学で博士号を得た。コーネル大学では、その行動研究所で研究を行なった(一九四三 - 一九四六)。一九四八年以来、南教授は一橋大学で社会心理学を講義して現在に至っている。一九五〇年には、南教授は日本社会心理学研究所長にもなり、また一九六二年には京都大学から文学博士号を受けた。一九六四年には、社会行動研究所の所長に就任した。教授は、日本心理学会常任理事、日本社会 心理学会会長、国際応用心理学会理事、日本精神・神経学会会員、などの他、さまざまな国内おょび国際的な組織の役員でもある。南教授はまた、多数の著作や論文を出版しているが、その中で英文のものとしては ‘Psychology of the Japanese People,’ University of Tokyo Press (1971), and Toronto University Press (1972) があげられよう。
日本人はさまざまの伝統的な価値を背後に持ってぃますが、それらは民主主義にっいての近代的な諸概念とどのよぅに共存しているのでしょぅか。衝突はあリますか、それとも日本は工生の達人なのでしょうか。
日本は、天皇制を廃止しない限り民主化され得ないと思います。
封建時代の遺物だからですか。
日本の支配階級は依然として天皇制を利用しており、これが日本人民の民主化を阻害しております。天皇制を民主化する試みが行なわれてはいます。ある人々の見解にょれば、われわれは大衆社会の中で一種の大衆天皇制を依然として持っています。ですから、日本の一般大衆が天皇制を廃止することは、非常に困難です。天皇制は | |
[pagina 180]
| |
日本人の心の中に深く根づいているからです。 第二次大戦が勃発した時、私はアメリヵにいました。当時私が学んでいたコーネル大学で、アメリヵ政府の役人から接触を受けました。ヮシントンは、戦争末期の米軍あるいは連合軍の上陸に対する日本人民の抵抗の可能性を知りたがつていました。 その時、日本人は根の深い天皇崇拝心を持っているのだろうと言われました。私はこう答えました。日本の人民は非常に厳しい戦時統制下に暮している。彼等は天皇を崇拝するよう強制されている。しかし、連合軍が天皇制の廃止を決定したとしても、日本人民が天皇を失って真に悲しむとは思えない、と。それにもかかわらず、アメリ力人は、日本が最後の一人になるまで戦うものと信じていました。
天皇を守るためにですか。
天皇を守るためにです。 戦争が終わった時、米軍はソ連軍に先んじて日本に上陸しました。米軍は、ソ連軍が日本に到着する機会を得る前に、戦争を終わらせようとして、広岛と長畸に原爆を投ドする決定を行なつたのだと思います。それは、論理上きわめて当然であり、またあり得べきことです。 戦争中、米国政府の中では、天皇制の廃止を促進すベきかすべきでないかをめぐって、激しい論議が岡わされました。明らかに政府は、戦後の社会本命を阻止するために、天皇制を維持することを決めたのです。アメリカ占領軍の政策は、天皇制の「民主化」に成功しました。そのために、天皇家をさまざまな機会に公衆の面前に登場させたり、テレビで彼等を写し出したりするょうな、マスコミ利用の方法が用いられました。例えば、一つの手段としては、「相撲」つまり国技の「天覽」をテレビ放映させました。皇太子の「 ラブ・ロマンス」でさえ、天皇家の人間化のために利用され、大々的に宣伝されました。 戦争の末期にアメリカ政府は、毛沢東が蔣介石に勝つだろう、つまり中国が社会主義国になるだろう、ということを知っていました。彼等はそれを知っており、日本を中国大陸との均衡をとるための拠点にしなければならないと感じました。ヮシントンが戦後天皇制を維持すると決定した理由はここにあります。多数の部内の専門家は、アメリカが天皇制を廃止する気にならせるべく努力しました。それなしには日本を真に民主化することは不 | |
[pagina 181]
| |
可能だと考えたからです。しかしながら、アジア問題についてのこれらの專門家は、明らかに議論に負けてしまいました。私は、第二次大戦の一年目か二年目のことでしたが、母校コーネル大学があるィタ力の町で、三枚のポスターをみたことを覚えています。そのポスターには、三人の人物、天皇ヒロヒトとヒットラーとムッソリー二の絵が描いてありました。三人全部の顔の上に,赤いバッテンが描いてありました。ボスターの説明文は、「ヒットラーを絞首刑に」、「ムッソリー二を絞首刑に」、「ヒロヒトを絞首刑に 」となっていました。私はそのボスターを決して忘れません。ヒロヒトの顔の上のあのバッ印を。
ところが今日てはアメリカ人は天皇に訪米してもらいたいと思っています。
日本人が、天皇が戦争犯罪人であったこと、あるいは第一の戦争犯罪人であったことを決して認めないだろうということはきわめて明らかなように思われます。少なくともそれが私の意見です。日本人は依然として、天皇は第二次世界大戦に责任はなかったと考えています。 何年か前匕ロ匕トがオランダにきた時、新聞には天皇は戦争をやめさせよぅと試みた、と書いてあリましたよ。
天皇は最高指令官、大元帥でした。彼が真に戦争をとめるための努力をしたとは思えません。それはともかく、天皇に関するあらゆる情報は今日でさえ統制されています。ですから、日本では誰もその点については確かなことが言えません。推測し得るだけです。しかしながら、ディヴィッド・バーガミニが『天皇の陰謀』(一九七一)で行なった天皇の戦時の活動の詳細な分折によれば、天皇は一九四一年から四五年にかけての戦争を計画し実施する上で稹極的な役割を果たしました。この本は一九七三年に日本語に翻訳されまし たが、その挑発的な内容にかかわらず、あまり読まれもしなかったし議論されもしませんでした。そのことは、天皇家に対する批判が公衆の間では依然としてタブーであることの、一つの左証になるかもしれません。
しかし、これらの封建的な遺物が残っている限リ、日本の真の民主化は決して行なわれないでしょうね。 | |
[pagina 182]
| |
それが私の意見です。天皇や天皇制の影響力は、日本では増大こそすれ、決して減少してはいません。天皇家あるいは天皇制のいわゆる民主化にもかかわらず、社会的な統制はますます強まる一方です。日本の支配階級は、地球の最後の日まで、天皇制を維持しようと固く決心しています。
欧米で今日非常に明らかにみられる、あの物質的な価值を求める競争は、日本の新しい世代にどのような影響を及ぼしていますか。
例えばあのジーバンの流行にお気づきになりましたか。日本の若者は欧米の生活に非常に敏感ですからジーバンは一種の魅力を持っているように思われます。 とはいえそれは、むしろ模倣であり、ごく表面的なものにすぎません。例えば、アメリヵでは、長髮やアクセサリーなどはニクソン政榷の軍国主義に対する間接的な抵抗もしくは抗議の象徴です。
ニクソン政権の犯罪的軍国主義と言ってよいでしょう。ニクソンは今日の第一の戰争犯罪者です。 そのとおりです。長髮は兵士のGI刈りに対する抗議ですし、アメリカの若者が身につけているありとあらゆるヶバヶバしいものは、制服に対する抗議であるように思われます。それゆえ、アメリカの若者に関する限り、この種の風俗はよく理解できます。ところがわが国の若者ときたらその圧倒的多数は政治的に言えば全く無関心あるいは無気力であるにもかかわらず、同時にアメリカの生活スタイルを採用することには非常に敏感です。
日本の若者はどうしてシステムを問題にしないのてしょうか。彼等はなぜシステムの機能を研究しないのでしょうか。
彼等は政治には非常に悲観的あるいはむしろ無関心です。なぜならば、彼等は日本の政治が体制によって支配されていることを知っているからです。彼等は日本の政治状況についてあまり情報を持っていませんが、それはわが国の新聞やニュース・メディアが、依然として強く統制されているためです。わが国の学生運動は、政府によっても、また大学当局によっても弾圧されました。その結果、現在でも依然として活動しているのは「新左翼」の学生逹だけです。しかし彼等は分派をつくって同士打ちをしています。より穏健 な学生逹は共産党やその他の | |
[pagina 183]
| |
政治組織に加入していますが、大学当局に対して直接的な暴力的反対行動はとりません。
地下新聞はぁリますか。
そうですね、私の知っている唯一の例は、天皇制に批判的な名古屋の一無名市民が発行しているごく小さなバンフレットです。その他には、天皇を戦争犯罪者として非難しているさまざまな書物もあります。その中の一冊は元日本軍人によって書かれました。彼は一度、天皇を狙撃しようと試みたことがあります。
ほんとうに天皇を撃ったのですか。
ほんとうの銃ではなく手製のバチンコを使いました。それは一種の諷刺もしくは冗談とでも言うべきものでした。彼は、天皇は撃つに値しないと考えたのです。ところで、ヒロヒトは一九二四年に共産主義者難波大助にほんとうに撃たれました。まだ皇太子だった頃の話です。銃弾は逸れ、狙撃者は絞首刑に処せられました。
ところで、若い学生達が身のまわリや、日本の外で起こっていること、中国の傾向ゃ西欧の事情などにっいてそれほど自覚していないのはなぜですか。現体制の変革にそんなに悲観的なのはどうしてでしょうか。この封建的権威はそれほど根深いものなのですか。
そうですねえ、日本の権威もしくは古い支配階級がその力を失いつつあることはもちろんです。失いつつはありますが、ただごく緩やかなのです。日本の青年は、古い世代を信用していません。政党には多くの腐敗があります。多数の日本の青年は、年配者は信用できないと言っています。にもかかわらず、彼等は戦おうとしません。彼等は日本の一般的な情況に疲れている、あるいは退屈しているようにみえます。そこで、そのはけロを音楽やセックスや麻薬に求めるのです。日本での統制には非常に厳しいものがあります。 警察はたいへん手厳しいのです。 私自身は大学で教えていますが、私の大学だけではなくあらゆる大学で、非常に積極的に政治活動を行なう学生達の小さなグルーブがあります。とりわけ、共産党は若者を組織しています。共産党は非常に大きくなりました。
一九七〇年に私が日本にきた時、いわゆる安保条約 | |
[pagina 184]
| |
に反対する青年達のデモを目撃しました。驚いたことに、旗を持ち叫びながら東京の目抜き通りを下ってきた数千のデモ隊は、交通信号が赤になると止まゥてしまいました。ョーロッバであれば、デモ隊は交通信号機など引き抜いてしまうでしよう。
それはグルーブによると思います。さっき申し上げたように、共産党の指導する青年運動は、公的な秩序をたいへんおとなしく守ります。彼等はいつでも、非常に秩序立った仕方で行進します。そのため、新左翼の学生達は、日本共産党に批判的です。彼等はあらゆるものを否定します。彼等は共産党とは非常に違っています。しかし、彼等はまた少数派でもあります。新左翼の学生の中には「赤軍」に属している者もいます。赤軍は、テル・アビブ空港の事件やその他一連のハィジャック事件などのような、アラブ・ゲリラ運 動に何度か加わりました。明らかに、彼等は活動を日本国内だけに限定することに満足していません。そして世界中いたるところでの「同時的革命運動」に加わろうと努めています。例えばもと学生だった重信房子は、赤軍の有名な指導者で、ョーロツバのどこかに住み、これらの国際的活動に積極的に参加していると言われています。
日本では、世代間の対立は今や真盛リだとお考えですか。
年長者と若者の間の対立の意味ですか。
そうです、ほんとうの衝突です。
わが国の青年の最も急進的な部分を別にすれば、この種の衝突は政治的というょりはむしろ文化的あるいは社会的なものです。例えば若者逹は、新しい音楽を非常に好んでいます。同じ家族の中の年長者、父親や母親は、全くそれについて行けないばかりか、若い娘や息子逹が「騒音」を出すのを、がまんできません。彼等はみんなそのことで不満を言っています。だが若者達は、親の不満を一顧だにしません。
それは日本での家族関係における一つの新しい兆侯のようにみえますね。
そう、もちろん第二次大戦以来のことですがね。それは文化的な対立なのです。年上の世代は、若者の行儀作法や生活様式について、絶えず不満を洩しています。も | |
[pagina 185]
| |
っともこれは日本の親だけに限りません。世界の全ての親逹は、同じよぅな不満を抱いています。この種のことは、古代以来みられます。ソクラテスはギリシアの若者について不満を述べました。また子供達は、父親のことを家庭教育の面で冷淡であるか能力がないとみなしています。多くの若者達は、父親が、子供を叱ったり批判してくれないことを、不満に思っています。彼等は、年長者によって指導してもらいたいと思っているのです。年上の世代の側にみられるこの種の指導性の欠如は、日本における世代間ギャッ プの主要な原因となっています。その他にも、年長者の行動については、さまざまな悪い例がみられます。例えば賄賂や脱税であるとか、「私の分も」といった追随値上げだとか、最近デッチ上げられたいわゆる「石油危機」などがそれです。
日本の伝統や文化の中に古くからあるさまざまな考え方や、また自然に対する愛情などは、今どぅなっているのでしょぅか。
日本人は、自然を愛し崇拝する国民だと思われています。しかし、私の信ずるところでは大多数の日本人は自然に深い関心を持っていません。日本はありとあらゆる稀類の環境汚染によって苦しんでいるのです。つまりここには、大きな矛盾があります。私の考えでは、それは外国人あるいは西洋人の側での、誤解に基づいています。もちろん、仏教の教えによれば、われわれは自分を自然ないし宇宙と合体させるべきです。しかしたぶんあなたもすでに気づいていらっしゃるように、日本人は仏教の教えや考え方に、全く無 関心なのです。
ても、公式には、七十パーセントの人々が伝統的に仏教徒だというではあリませんか。
それは宗教に対する一種の制度的なアブローチにすぎません。大多数の日本人は精神的な面で宗教的に深いものを持っているわけでなく、また仏教徒的でさえ全くありません。日本人はありとあらゆる樣式が大好きですが、これはどちらかといえば表面的なもの、社会的な伝統にすぎません。私はいつも申していますが、日本人は宗教上の機能主義者なのです。つまり、日本の神々は,さまざまの異なった機能を持っています。それは日本の神々、八百万Ga naar margenoot+の神々が行なう、一種の分業なのです。家の中には 多数の神々がいます。台所の神や、火の神等々です。皮膚病にさぇ、それが治せると思われている特別 | |
[pagina 186]
| |
の神があります。その神を信ずる人々は、単に仏像に触ればよい。そういうわけで、日本には、ありとあらゆる種類の機能的な神々がいます。日本人は、宗教に関する限り、極端に機能主義的なのです。そこでは物質的な利益に重点が直かれています。日本に、多数の神々や仏像、またありとあらゆる種類の宗教施設がある真の理由はこの点にあります。更に、日本の三大宗教の問には、一種の「分業」がみられます。誕生や結婚、また成人式のような人生の中でのその他の「通過儀礼」は、土着の神道が分担します。こ れに対し、仏教の僧侶は、葬式やその他死に関すること - 祖先崇拝とか、亡くなった家族を記念するための勤行とか - などを扱います。なお、若い人々の中には、自分がキリスト教徒でない場合でさえ、キリスト教の教会で結婚式を举げるのを好む人人もたくさんいます。中には、結婚式を举げてもらうだけのために、ョーロッバのキリスト教教会に行く人さえいます。そんなことが、「カッコいい」ことだと考えられてさえいるのです。
あなたのご本 (Psychology of the Japanese People) を読んでいると、日本には、今のお話とは逆に、物的な所有物を後に残すべきではないとか、所有物には何の意味もない、といったことを教えている古い伝統がたくさんあるように思われましたが。
実際は、それは矛盾ではありません。われわれは依然として、あの世ではなしにこの世をずっと重視しており、そこに、われわれがいつでもあの世つまり天国について説いたり語ったりせねばならない真の理由があるのです。もちろん、この種の教えはもともと支配階級がつくり出したものです。なぜならば、支配階級は日本の大衆に、非常に質素な暮しを送るのがよいことだと、信じ込ませようとしたからです。お金や物を無駄使いするなというわけです。けれども、私の本をお読みになってもうお気づきになられたかも しれませんが、現在の日本人は変化しつつあります。今や彼等は - とりわけ若者達がそうですが - 余暇を持とうと努めています。若者逹は、お金を重視します。なぜならば、彼等の言うところでは、お金がなければ女友逹も持てないし、アメリヵ服を着て楽しむこともできないし、自動車も買えないからです。若者逹は非常に率直にお金が欲しいと言います。人間同士には裹切りがあるけれどもお金は人間を裹切る | |
[pagina 187]
| |
ことはあり得ないと考えているのです。それにはそれなりの理由があります。若者達は年上の世代に対する希望を失った一方、常に何か非常に確実なものを捜し求めているからです。彼等は、お金にはお金としての実際的な価値があるために、お金が自分達を裹切ることはあり得ない、ということを知ったのです。
お金を持てば、力を持っているという感じがするわけですね。
力や安全や、それからいうまでもなく現実の物的利益があるわけです。それゆえ若者達は、いわゆる貨幣崇拝の方向に変わりつつあります。お金は、若者にとっての新たな神です。私は彼等を非難いたしません。そういうわけで、日本の若者逹は、一面ではお金を重視します。他方、もう一方の極端には、もちろん若いラディヵル逹がいます。ラディヵル達は、政治的な信念つまりイデオロギーを持っています。彼等は、自分の命を犧牲にしょうとさえしています。そういうわけで、日本の若者の中には、二つの極端がある ということができましょう。そして大多数は、私的生活あるいは個人的利益を重視します。ですからそのような人々はますます利己主義的になっています。そのことはまた、このような人々が政治的な状況には何の関心も払わない理由でもあります。彼等は,それは自分には関係のないことだ、と考えているのです。お金は、どのようなイデオロギーよりももっと重要なのです。おそらく最近の「石油危機」がくるまでは、急速な経済成長は、「消費は美徳である」というモットーを伴っていました。疑いもなく、こういゥ た考え方は、老若いかんを問わず多くの人々によって歓迎されていました。しかし、「石油危機」以来、日本の政府は「儉約は美徳である」という新しいスローガンを導入しました。しかし、政治に無関心な若者達はそれに何ら耳を貸していないように思います。一方、政治意識のある青年逹は、この「危機」は主として大企業の操縦によって引き起こされたと確信しているからです。この点については、若い世代自身の内部に対照的な態度がみられます。世代間の対立ばかりか、同一の世代の内部にも対立があるのです。
政治に関心の強い少数派のラディカル連と大衆との間の対立てすか。
そうです。私が言いたいのは、世代ギャップはそれほ | |
[pagina 188]
| |
ど深刻なものではないということです。世代ギャッブは歴史上常にみられました。だが今日の深刻な問題は、青年達自身の間に対立があることです。それははるかに悲劇的です。若いラディヵル逹は、お互いを殺し合おうとしています。
血を流してですか。
そう血を流してです。
私は、スキナ - 教授 「本書第一巻対淡7参照〕に、中国の青年を政治的および社会的に組織しようとしている毛沢東の方法をどう思うか、とたずねたことがあリます。教授は、それはおそらく、人類の歴史上、最も革命的な実験であろう、と申しました。中国のあの多数の若い世代の人々がこの種の新たな社会的自覚を受け容れる用意ができているという点について、あなたのご意見はいかがですか。そしてその隣リには、ほとんど物的なものにしか関心のない日本がありますが。
私は中国を最初に訪問した日本人学者です。一九五二年のことでしたが。その時たちまち、私は政府の非難を受けました。 そうでしょう、そうでしょう。もちろんあなたは共産主義者だと言われたでしょう。
吉田首相の政府は特別に私に手紙をよこして,私を叱りました。大学からは首にはなりませんでしたが、多くの人々が私を非難しました。その時、私は中国に関する本を一冊書きました。その中で、私は曰本の読者に、中国にはハエがいない、一匹もいない、と語りました。酔っばらいもいなければ、麻雀もなく阿片もない、と書きました。読者の一般的な反応は、南教授の書いているようなことはあり得ない、というものでした。第二次大戦前に中国にいた多数の日本人にとって、革命が人々をそれほど完全に変えてしま い得るとはとうてい信じがたく思われたのです。それも単に物的にではなく、何よりも精神的に変えてしまったというのですから。しかし、私の思うに、人々を解放するには二つの仕方があります。その一つは、先ず物的な本命を行ない、その後で精神革命を行なうことです。今一つの方法は、先ず精神革命を行ない、その後で物的革命を行なうことです。たぶん第三の仕方は、物的革命と精神的革命を同時にまたは並行的に行なうことでしょう。ソ連では、物的な革命が最初 | |
[pagina 189]
| |
にそして急速に行なわれました。それが起こったのは第一次大戦の後であったためです。その時代には、彼等はそれに成功しました。しかし精神的な面での革命はずっと後にしかきませんでした。たぶんくるのが遅過ぎたのです。その結果が今日みられるような状態です。しかし中国で毛沢東は反動勢力と非常に長期間、おそらく二十年間ほどにわたって、戦いました。彼とその革命軍は、自分達が中国全土で国民党や反動努力と戦っている理由を、中国の大衆に教えようと試みました。彼等はどこへでも行って戦いま した。彼等は先ず最初に大衆を教育しようと試みました。国民党の兵士を捕虜にした場合でさえ、それを試みたのです。その二十年の間に、彼等は物的・社会的な革命を、精神的な革命と結合しようと試みました。それは非常に手取早いやり方でもなければ、容易な洗脳でもありませんでした。それは、長期間にわたる緩やかなそして非常によく計画された政治教育でした。毛沢東が成功した理由はその点にあります。中国の大衆は、非常に容易に社会的自覚を持つようになりました。彼等は行義がよくなり、阿片の吸引や その他の下劣な行動のような悪徳をやめられるようになりました。私は、いわゆる同時的ないし並行的解放、すなわち社会・政治革命と精神革命の結合を行なうのが理想的だと思います。毛沢東が二十年かかって成功した唯一の理由は、この点にあります。中国人民がそのょうな短期間、つまり、例えば二十年間に、変わることなんか不可能だ、と思った人も多くいました。しかしそれはたいへんなまちがいでした。毛沢東とその同志達は非常に忍耐強い試みを行ない、また実際長い期間をかけたのです。 私が一九五二年に中国を訪問した時、その当時でさえ中国人達が余裕を持っていることに感銘を受けました。彼等は、年上の世代に対して礼儀正しくかつ従順であれと教えられていたのです。というのは、毛沢東とその同志達は若い人々に対して常に、とりわけ政治理論やィデォロギーの面で、若者は父親達や一般の他人と異なった見解を持つことが許されている、と教えてきたからです。それはきわめて自然なことです。しかし人間としては、若者逹は古い世代の持っている経験を尊重しなければならないとされていま した。役に立つ経験は短期問で得られるものではないからです。父親や老人というものは、おそらく政治ィデォロギーの面では反動的であるか、ないしは新しい制度の承認をきわめて頑固に拒否するでしよう。しかしながら、それでもなお彼等は、例え | |
[pagina 190]
| |
ばさまざまな技能やある種の知識の面では経験を稂んでいます。それゆえ若者逹は年上の世代に対して非常に謙虚な態度をとり、彼等の経験から学ぶようにと教えられたのです。 中国の若者達が従順な理由はこの点にあります。盲目的に従順というのではなくて、謙虚に振舞い、年長の者の経験にいつでも耳を傾ける用意があるのです。
精神医学者の土居健郎博士は、個人の精神病理の観点から、文化と環境の問題に対する接近を拭みています。あなたのご意見では、毛沢東が彼の特有の革命方式を優先した理由は、個人の自党を高めて、革命のための戦いが行なわれている理由を理解し得るようにする、という基本的な方式がとられた点に求めることができるのですか。
先に申し上げましたように、毛沢東の革命軍は、全国各地で非常に長期間戦いました。そして、戦争地区での村人逹との接触に関しては、きわめて厳格な軍の規則と規律が定められていました。そのために、蔣介石の国民党の腐敗した兵士とは対照的に、毛沢東の革命軍には、非常な好感が持たれました。 毛沢東は、一九二〇年代の著作の中ですでに、女性の解放、宗教や迷信からの解放、教育、また賭事や阿片の廃止などはブロレタリア独裁のもとでのみ実現し得ると述べていました。したがって、彼は精神革命に対する政治革命の優位を強調しました。しかしながら、毛沢東はこれらの二種の革命を内戦の期間中においてさえ、可能な限り同時に遂行しようと努めたのです。例えば彼は、新しい演劇運動を奨励しましたし、文学活動にも深い関心を示しました。「文化大革命」は、政治・経済的な革命と楮神革命とを結 びつけようとする努力を表わしており、「文化」という言葉は人間生活のあらゆる側面を含む意味で用いられています。例えば、孔子の教えは反動的なィデオロギーではないかという問題は、一九七四年現在では、政府や軍隊や農村や工業などの部門の人のサークルの間で、中国に住むあらゆる人々の生活や思想に影響を及ぼす決定的に重要な問題として、突っ込んだ討議が行なわれている最中です。
ところて、これまでのお話は、現代の日本の若者にみられる落着きのなさとどう関係があるのでしょうか。日本の若者には、毛沢東が中国を変革するのにか | |
[pagina 191]
| |
けた二十年ほどの時間はないでしょう。中国は今や八億人という大きな規模で、この種の発展において日本の先に出ています。日本は将来、どのようにすれば追いつくことができるでしょうか。
あなたもお気づきになったように、日中両国の若者の間には、大量の文化交換がなされています。日本政府は最近日本の若者が中国を訪問するのを許可するように決めたからです。
それも二クソンが北京を訪問した後のことにすぎませんね。そうしますと、決定するのは誰かということが、わかるというものです。
そうです。それはヒロヒトと日本の支配階級ですが、彼等は真の権力は全く何も持っていないのです。
実際は、最終的な指令をワシントンからもらうにすぎない。
そうです。彼等は常にアメリヵの声を聞き、ヮシントンを訪問してアメリカ政府から指令をもらわない限り、何ら決定することができません。ですから、彼等には全く力がないのです。もちろん、彼等の力は日本人民の上に及んではいますが、その源泉はほんとうはヮシントンにあるのです。
しかしそれは長期的には、北京の利益と衝突することにはならないてしょうか。
そうですねえ、もしもアメリヵ政府が対中国政策を変更するならば、日本の支配階級もその後に続くでしょう。私は将来に関してはそれほど楽観的ではありません。例えば、韓国で起きていることをとつてみましょう。ここでもまた、日本政府はヮシントンからの命令を受けることなしには、何の動きもとれません。そこで私が思うには、日本で社会主義国家を建設するには非常に長期間かかるでしょう。将来の選举で、現在の政府与党が多数党でなくなる時がくるかもしれません。もし、そうなれば、日本政治の最も 重要な転换となるでしょう。
その場合には、日本はより現実主義的な進路をとることになリそうでしょうか。
ええ、もしも社会党、共産党、およびその他の諸党が連合して多数を占めることができれば、多少の変化が起 | |
[pagina 192]
| |
こるかもしれません。しかしその場合ですら確言はできません。われわれは非常に忍耐強くなければならないと思います。私は、八十歳かそのくらいになるまで生きていたいと思っています。ですから健康には非常に注意しております。これが私の最終的な結論です。
あなたは未来については悲観主義者だとおっしャいましたね。それでも八十歳になるまて生きていたいとおっしゃる。言いかえれば、日本最後の日を見逃したくないといぅことてすか。
一人の人間として、私は人類に関する全てのことについて、好奇心でいっぱいなのです。 (公文俊平) |
|